犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その37

2013-09-05 21:55:34 | 国家・政治・刑罰

 世間であまり知られていないこと、すなわち多数派に馴染みがないことは、世の中の固定観念によって形作られている。このステレオタイプの観念は、マスコミの断片的な報道を前提として、実感の沸かない者が想像した虚構の集積である。従って、実際にその現場を生きている者にとっては、外部の雑多な情報によって無意味に思考を乱され、思わぬ影響を受けることがある。

 「加害者」「被害者」という名称は、「会社員」「主婦」などと同じく、その個々の人間の人格について何も語ってはいない。普通の人間は、追い詰められれば追い詰められるほど、驚くほどの自己中心的な理屈で自身を正当化し、理路整然と我が儘を通し、生命の危機を防ぐ。そのためには、当たり前のように嘘をつく。これは人間の異常な状態ではなく、正常な状態である。

 人間社会は、いつも棘のある言葉を用いる人、悉く言質を取る人、細かいことばかり指摘する人、相手方の事情を全く考えない人、高圧的で嫌みったらしい人、その他個性の強い人々が容赦なくぶつかり合い、主導権争いを繰り広げる場である。そして、抽象的な人権論が生身の刑事弁護人にもたらすダメージは、「呆れ」「怯え」「燃え尽き」など様々な形をとって表れることになる。

 加害者は反省して自責の念に苛まれているというのも、加害者は開き直って堂々としているというのも、いずれも誤った固定観念である。他方、被害者は可哀想な人達であり、救済されるべきだという憐憫の視線は、間違いなく現実との軋轢をもたらす。地位や権威が価値を失う場において、「刑事弁護人」も単なる肩書きである。法律家も自分をしっかり持っていなければ、あらぬ観念に束縛されてしまう。

(フィクションです。続きます。)