犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その35

2013-09-02 23:52:57 | 国家・政治・刑罰

 例えば、「厳罰よりも遺族の心のケアこそが大切である」「加害者に対する恨みや憎しみから解放されたときに初めて遺族は救われる」といった意見を述べる者は、現実がその通りにならなかったとしても、被害者の家族らに対して直接責任を負わない。これは、責任を負わされない場面においてのみ、このような意見は表明されるということである。

 弁護士が一般論としてではなく、自身が刑事弁護を担当している件の被害者に向かって、上記のような見解を語ることはない。これは職務倫理にも至る常識論であり、もはや巧妙さの要素は希薄である。人は、自らが仕事を任されて責任を負わされる可能性があるときには、何よりも「問題発言」に敏感になり、混乱を避けようとするものだ。

 刑事弁護の理念は、もとより観念的である。例えば、性犯罪の前科がある者のプライバシーは何にも増して保護されなければならず、1人の無辜を罰しないためには99人の凶悪犯人を釈放しなければならない。そして、その結果として生じる可能性のある混沌や修羅場に対しては、誰も責任を負わない。このような観念的な主張は、もとより「責任の所在」とは無縁である。

 自己の発言に対して責任を負うとは、それに従った結果として生じた損害を償うべき立場に置かれ、神経をすり減らし、人生全般が病弊するということである。それは組織人であれば給与カット、戒告、左遷、懲戒免職による退職金の不支給などを意味し、自営業者であれば築き上げてきた財産の供出及び積み上げてきた実績の全否定を意味する。すなわち、生存の破壊、人生の破壊である。

(フィクションです。続きます。)