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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (5)

2013-01-08 23:35:54 | 読書感想文

名古屋地方裁判所への意見陳述より

 弁護士からの手紙などは、和解を急ぐためのものとしか受け取れませんでした。事故後8ヶ月もたってから、紙切れ一枚に何事もないように、娘の命の値段を並べていたのです。誠意のかけらもありません。切なくて苦しくて思わず、クシャクシャに丸めていました。それら、今までの行動、言動を踏まえて、私達は被告のどこに、真の誠意、謝罪を感じる事が出来るのでしょうか。全ては自分の罪を軽くするための行為なのです。

 子供を思う親の気持ちは一緒だと思います。娘を守りたいという、被告の両親の思いが理解できないわけではありません。しかし、どんな理由であれ、一人の大切な命を奪った事実は変わりません。であるならば、「青だと思った」と言う、青の部分に固執するのではなく、だと思ったという不安定な部分を掘り下げ、現実を真摯に受け止め、今もっともすべき事は何であるかを、同じ親として適切な助言、指導するべきではなかったかと思います。

 保険会社や弁護士のうがった助言により、被告が真の謝罪を述べずに来たとしたら、まったく愚かな行為と言えます。被告の大人になりきれない思考に加え、被告の周りに、的確な助言が出来る大人がいなかったと理解しなければならないことが残念です。前回の公判でも、情状酌量を求める嘆願書を提出していた驚愕の事実を知りました。虚偽を働きつづけ、月命日に線香の一本をあげることなく過ごし、何をどのように捕らえての情状酌量なのでしょうか。

 いつまでたっても、真摯に現実を受け止める事は無く、まったく人事で、運が悪かったと言う思いなのです。永久に同じことの繰り返しです。たとえ過失という言葉で片付けたとしても、ひとつの尊い命を奪った事実は罪です。罪を犯した、犯罪には変わりありません。事故に居合わせた全ての人、その人を取り巻く人々の人生を狂わせた罪もあるのです。現実から逃げるのではなく、事実を捻じ曲げるのではなく、真摯に受け止めて欲しいと思います。


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 私が裁判の現場で経験してきた「表と裏」の二元論のベクトルは、私が日々感じている「世の中の表と裏」とは全く逆であり、被害者は一貫して裏側、マイナスの側に置かれていました。「明と暗」「前進と後退」という二元論の構造において、能動的である加害者と受動的である被害者の位置づけは決定的であったと思います。

 罪を犯した後でも保身に走ってしまう人間の弱さや悲しさを前提として、謝罪して立ち直ろうしている加害者については、未来への希望が前提とされています。これに対し、被害者については、憎しみと恨みに捕らわれ、自身の心も醜くしているとの固定観念が圧倒的です。世の中の「裏」の真実が「表」の真実を力でねじ伏せる場面だと思います。

 誤判を防ぐための証拠裁判主義は、人間の「裏」の真実を前提としています。人は自己弁護と保身のためには、あらゆる手を使って証拠を隠滅し、屁理屈を考え、他人を陥れ、罰から逃れようとするものだからです。そして、人間のかような欲望と、これを取り締まらなければならない法制度が対立する限り、誤判は論理的になくならないと思います。

 人間の本性が露わになる場面では、献身的な人物は腹黒い人物に上手く利用され、心を折られて精神を病みます。そして、裁判という究極の場面は、人間の本性が最も端的に現れる以上、このような裏の真実に支配されることになるのだと思います。「裁判制度は被害者のためにあるのではない」という原則は、この人間の汚い部分を端的に体現しているように感じます。

(続きます。)

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (4)

2013-01-07 22:57:29 | 読書感想文

p.104~

 私は有希との別れから、ずっと求めていたことがありました。母親として、有希を1人で逝かせてしまったことは、長い間、どうしても自分を許せないこととして、心の中でくすぶっていました。ですから、最期の望みとして、ほんの数時間で良いから、温かく脈打つ手を握り締め、有希の名前を呼びながら「さよなら」を言いたかったとの思いがいつまでもあったのです。

 有希を喪って1年ほどは、過去ばかりを見て泣き暮らす自分や、どうしようもない悲しみ、何もしたくない無気力に襲われることを、いけないことと位置づけていました。そして、それらはエゴであり、エゴを持つことはいけないことだと否定していたのです。エゴを持つ自分、だめな自分と必死に戦っていたのです。

 そして、母親として有希に出来ることだと思い、心血を注いで努力してきた1審の刑事裁判を見届けた日。私はこれ以上ない苦しみを抱えてしまいました。結果だけを求めて行ってきた私は、耐え切れない苦しみを背負ってしまったのです。自分を責め続け、悶絶するような苦しみが数日続いた後、私は、自分の人生にピリオドを打つという、究極の選択で終結させようとしていました。

 些細なことを、過去の記憶から引っ張り出し、自分のいたらなさばかりを並べ立て、狂ったように泣いていました。そして、究極の自己否定へと落ちて行ったのです。私に生きる資格はない。償いのために有希の下へ行かなければならない。強迫観念にも似たその想いに支配されると、気持ちが楽になっている自分がいたのです。


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 世の中には表と裏があります。そして、言葉巧みに言い逃れをしたり、何でも他人のせいにしているほうが世の中を上手く渡れますし、犯した罪を認めるよりも認めない方が楽です。心の底から反省して謝罪を続けるのは非常に苦しいですが、保身のために上手く謝るポーズを会得していれば、精神衛生の平穏を保つことができます。

 これらは「裏」のほうの真実であり、人はこの真実を用いるとき、いくらでも頭の中から言葉が出てきて、理路整然と屁理屈を語ることができるものと思います。これは、他人の行動を見ているときよりも、私自身の行動を振り返ったときに、より強く感じることです。世間の常識に従って生きる人間は、楽なほうに流れるものです。

 これらの裏の真実に対し、「愛娘の生きた証を軌跡として形に残したい」という母親の思いは、「表」のほうの真実であるしかないと思います。そして、これは絶望的な苦難の連続であらざるを得ず、世渡りの技術としての立場の使い分けとは無縁であり、ましてやタヌキとキツネの化かし合いとも無縁であり、自分の人生に嘘がつけない事態だと思います。

 世の中の汚い部分では争いが絶えないですが、世の中の「表」の真実は、その外部での闘いを強いられるものと思います。世間の常識などに意味はないということです。そして、「嘘も方便」として世の中に妥協している者は、自分の人生に嘘をつかない者の言葉を恐れ、敬意を払いつつも遠ざけざるを得ないのだと思います。

(続きます。)

三浦しをん著 『風が強く吹いている』より

2013-01-03 22:08:04 | 読書感想文

(箱根駅伝を題材にした小説です。)
p.280~

 長距離は、爆発的な瞬発力がいるわけでも、試合中に極度に集中して技を繰り出すものでもない。両脚を交互にまえに出して、淡々と進むだけだ。大多数のひとが経験したことのある、「走る」という単純な行為を、決められた距離のあいだ持続すればいいだけだ。持続するための体力は、日々の練習で培っている。

 それにもかかわらず、いままで何度も、試合中に、試合直前に、調子を崩す選手を目にしてきた。最初は順調に走っていたのに、突如としてペースを乱す。体はうまく仕上がっていたのに、レースの3日前になって急に練習時のタイムが失速する。すごく気をつけていたはずなのに風邪を引き、試合当日にメンバーから外されたものもいた。

 なぜ自滅してしまうのか。自身も、高校時代に最後に出場したインターハイでは、下痢になった。冷えたわけでも、腐ったものを食べたわけでもないのに、なぜか突然、腹具合が悪くなったのだ。それでも走れたから問題はないが、「どうして、よりによってレース前に腹なんか下したんだろう」と、ずっと引っかかっていた。

 いまならばわかる。「調整の失敗」と言い表されるもの。それらの原因のほとんどが、プレッシャーなのだ。どれだけ練習を積んでも、「これで充分なのか」とふいを突いて浮上してくる不安。充分だと確信したとたんに、「それでも失敗したら」と湧きあがる恐れ。肉体と精神は研げば研ぐほど、脆くもなっていく。精密機械が、ちょっとの埃であっけなく壊れてしまうように。


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 あらゆるスポーツの大会に共通することですが、勝者のコメントはどれも似たようなものであるのに対し、敗者のコメントは様々であると思います。箱根駅伝においても、栄光を掴んだ大学の関係者の喜びの声はどれも似通ったものですが、惨敗を喫した大学の関係者の敗戦の弁はそれぞれに違っていると感じます。

 駅伝を実際に走った選手、控え選手、監督、コーチ、マネージャー、その他の裏方の人々、OBによる後援会、入試の志願者数が気になる経営陣など、立場はそれぞれに違っていると思います。そして、不本意に終わった大学の内部における立場の違い方は、「悔しい」「申し訳ない」「情けない」「やり切れない」「身の置き所がない」など、それぞれに感情の表現が難しく、論理の混迷は免れないと感じます。

 これに対し、勝者の内部でも喜びの種類はそれぞれに違うはずですが、めでたさに紛れて「細かいことはどうでもいい」という結論が許され、衝突が起こる余地はないように思います。スポーツの大会における勝者が、いつも見る者に元気を与え、見る者が勇気をもらうという決まり事も、改めて疑われることはないと思います。

河野裕子著 『うたの歳時記』 その2

2012-12-30 22:33:40 | 読書感想文

p.53~ 「年の暮」より


 風をもて天頂の時計巻き戻す 大つごもりの空が明るし (永井陽子『ふしぎな楽器』)

 人事は複雑多岐にうち過ぎてゆくが、四季の廻りは正しく同じ歩みと周期をくり返す。だから、1年の終わりに、天頂の時計を巻き戻すのである。天頂の時計とは、四季の廻りに統べられて運行する時間を測る時計のことであろう。名称はどのようであれ、その時計は必ず存在する。天頂の時計の巻き戻し可能なのは、大つごもりの日のみ。知的に傾きがちな発想を、詩情ゆたかに明晰な構図の中に歌い、他の大つごもりの歌とはひと味のちがいを見せる。


 しづかなる旋回ののち倒れたる 大つごもりの独楽を見て立つ (岡井隆『蒼穹の蜜』)

 広辞苑閉づれば一千万の文字 しづまる音す大年の夜を (高野公彦『天泣』)

 大晦日のことを、大つごもりとも大年ともいうが、右の2首は、1年最後の日を、いずれも「しづかなる」、「しづまる」と静かな感慨のもとに詠んでいる。1年間、独楽も広辞苑をそれぞれに奮闘をして来たのである。独楽と広辞苑に重なって作者のその1年の身の処し方が見えてくる。1年の最後の日に、ひとまずはそれに区切りをつけるのだ。2首共に、「大つごもり」や「大年の夜」を他のことばに置きかえることも可能だろう。しかし、「大つごもり」や「大年の夜」であることによって、これらの歌の示すニュアンスは全く変わったものになる筈である。


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 「大晦日」「大つごもり」「大年」という言葉はそれぞれ語感が異なり、クオリアという次元でしか説明できないような感慨を生じるものと思います。そして、それは自分の人生に対する感慨にも通じるものだと思います。但し、社会のグローバル化に対応して小学校から英語が必修化され、コミュニケーション能力を高める必要性が広く報じられている社会で生きていると、このような日本語の美しさへの感性そのものが無意味になっていると感じる瞬間がよくあります。

 今年1年間を振り返ってみると、人間としての規範や道徳のような形のないものは、誰かが破り始めると次々と堰を切ったように破られるという点が改めて思い浮かびます。しかも、今の時代は各々が自分自身のことで手一杯であり、上記の点について真剣に考える時間的・精神的余裕もないという現実にも直面します。弱肉強食の世知辛い社会の状況の下で、「大つごもり」「大年」の日本語の語感は、もう日本には必要ないものになってしまったとの感も持ちます。

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (3)

2012-12-28 00:04:15 | 読書感想文

名古屋地方裁判所への意見陳述より

 真実を知ることが親に出来る最後の役割だと思っても、被告からの連絡もなく、事故の経緯や情報を得る手段はありませんでした。辛く苦しく、悶々とした時間を過ごさなければなりませんでした。結局、被告の行動は、自分の不確定な想いには目を向けることなく、自分が『青』であるという偽りを、自己保身のためだけに、惜しまず努力しつづけたと言わざるを得ません。その行為に私達は耐えがたい苦悩の日々を過ごしているのです。

 人はいくら取り繕った言葉を発しようと、思いは伝わるものです。真の謝罪は何度も言葉にしなくとも伝わるものだと思っています。残念ながら被告からは、運が悪かった、私も被害者だという思いが、相変わらず伝わってきます。私達は、被告に対して、交通事故を起こした加害者への感情と言うよりも、事故後に起こしているさまざまな行動を、人の道として許す事が出来なくなったのです。

 人を憎んだり恨んだりしても、そこからは何も生まれてはきません。気持ちの優しかった有希が、望む事でもない。私達は事故自体をそのように捕らえていたのです。実際、警察の遺族聴取も一度目は、私達も運転する身ですのでといった寛容な内容の発言をしました。しかし、被告のあまりに不誠実な数々の行動に、私達の気持ちは変わり、厳罰に処して欲しいといった内容に調書を作成しなおしてもらったのです。

 もし、被告が、始めから真実を語っていてくれたならば、もし始めから自己保身ではなく、被害者、被害者家族にたいしての思いからの行動であったならば、そう思うと本当に残念でなりません。被告の父親は、私達に何度も言いました。「娘は4年間安全運転でした」と。それが何だと言うのでしょうか? 実際には、たった4年で一つの命を奪い、一人の少女に心と身体に大きな傷を与え、多くの被害者を生み出した事実があります。


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 新風舎の本を初めて手に取った日から、私も法律実務の世界でさらに揉まれ、人間の汚い部分を見せつけられてきました。この汚い部分は、他人の中に明確に見える時には自分の中にも漠然と存在し、逆もまた同じでした。私は多くの罵詈雑言を浴び、自分からも暴言を吐いてきました。

 世の中には表と裏があり、本音と建前があり、綺麗事の底には権謀が張り巡らされています。人間は保身のために長いものに巻かれ、自己弁護のために口裏を合わせます。そして、罪を免れて罰から逃れるためならば、人は可能な限りの屁理屈を使い、汚い手を使い、自分自身にも嘘をつきます。

 これらの人間の行動は、人間存在の弱さや悲しさの必然的な表れだと思います。そして、法制度は人間が弱い存在であることを前提として、人間が嘘をつくことを認め、犯した罪を否認する権利を認めています。また、法は、この弱さに基づく保身としての嘘を述べる行為に対し、正義の地位を保障します。

 しかしながら、娘を失った母親の側にある語り得ぬ沈黙の深さ、そしてそれが言葉にならないゆえに「それ」が「それ」である言葉の真実を前にすれば、法が人為的に認める正義の論理は太刀打ちできないものと思います。この沈黙の中から示される論理には、嘘が絶対に入り込まないからです。

(続きます。)

S・逸代著 『ある交通事故死の真実』より (2)

2012-12-27 23:51:46 | 読書感想文

p.35~

 もっとたくさん、あんなこともしてあげたかった。こんなところへも連れて行きたかった。決して取り戻すことの出来ないこれから先の長い将来を、ただ悔やむことしか出来ない母。

 前向きに歩いていくことが、何よりも残されている私達のするべきことだと分かっていても、頭で分かっていても、娘が突然に逝ってしまったことは、あまりに理不尽で、どう思いあぐねても納得いくことができません。ただ深い悲しみとともに、心の中でぽっかりと空いてしまった穴を埋めることが出来ずにいるだけです。

 人は、何をもって人の死とするのだろうか? 呼吸をしなくなった有希の肉体とお別れをしなければならなかった3日間。気が狂いそうになり、何度も奇声をあげて暴れまわりたい衝動に駆られました。棺を霊柩車に乗せようとするときには、「やめてー」と叫んで阻止したかった。

 有希の横たわる身体は、もう二度と動くこともなく、呼吸をすることもない。全ての機能が停止してしまった肉体は、葬らなければいけないのか。いっそこのまま、一緒にいれたらいいのに。呼吸をしてなくとも、動かなくとも、ずっとずっと目の前に存在していて欲しい。この世に現象として存在して欲しい。本気でそう思っていました。

 ひと言それを、口に出せば、きっと気がおかしくなっていると思われるか、子供を亡くしているから、そう思っていたかもしれないと思われたでしょうか。人になんと思われようと、物言わなくなった有希と3日間一緒にいた私は、その肉体さえも、奪われることがどうしても納得がいかなかったのです。最大限に抵抗していたかった。阻止出来なかったこと、棺から手を放した自分のことを許せないでいました。


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 法律事務所の仕事で、自費出版をめぐるトラブルの案件を扱っており、現在の日本の出版業界の構造を色々と知らされています。私が持っている『ある交通事故死の真実』は新風舎のものですが、同社は平成20年1月に倒産し、現在は文芸社からの出版になっています。

 一般の書店ではいかにも軽薄な本が平積みにされ、「これ1冊で幸せになる本」や「これ1冊で夢が叶う本」が何百冊と並んでいる中で、これほどの渾身の手記を自費出版でなければ世に出せない出版業界は、人間の言葉を消耗品として扱っているのだという感を強くします。

 私は、自動車運転過失致死罪の裁判に数多く携わり、多数の公文書(公務所の作成)や公用文書(公務所の使用)を読んできました。検察官の論告要旨では「遺族の処罰感情は激烈である」という定型句が、弁護人の弁論要旨では「被告人は心から反省している」という定型句が、それぞれ使い回されています。

 これらの文書に比し、自費出版本は私用文書(権利・義務に関する文書)ですらなく、文書の法的価値は低く位置づけられています。しかし、「愛娘の生きてきた証を軌跡として形に残したい」という母親の言葉は、公務書の定型句の欺瞞性とは対照的に、言葉が本来語るべきところのもののみを語っているのは明らかだと感じます。

(続きます。)

河野裕子著 『うたの歳時記』より

2012-12-24 00:10:30 | 読書感想文

p.175~ 「冬至」より

 秋が過ぎ、いよいよ冬が近いと思われるのは日暮れが早くなっていくのを日々感じる頃からである。11月の半ば過ぎから日脚が短くなり、4時をすぎるとあたりが薄暗くなってくるのはもの寂しいものである。真夏なら5時でも日差しが強かったことなども思われ、季節の移りの早さの不思議のなかに暮らしているのだなあと思うのは毎年のことである。

 12月の22、3日頃が冬至にあたり、北半球にある日本では、この日は昼が1年中でもっとも短く、従って夜はもっとも長い。冬至の歌や俳句には日差しを詠んだものがやはり多い。冬に傾いていく日差しを私たちがいかに大切に思い、それを実感しているかを如実に反映している。


 病床の母を目守るは十二月 二十三日の日差しと我と (高野公彦 『雨月』)

 携帯の時刻表示にたしかむる 十六時三十三分太陽没す (小池光 『時のめぐりに』)

 日没の刹那の光はどぶ川の みづのおもてを照らしつくせり (同)


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 地球温暖化の影響で日本も亜熱帯化し、以前のような季節感がなくなったと言われます。私自身はむしろ、商業主義によって季節感が人工的に先取りされ、時間の流れがおかしくなっていると感じます。そして、河野氏が「冬に傾いていく日差しを私たちがいかに大切に思い、それを実感しているか」と述べているような部分は、季節感を繊細に綴る日本語力の衰退と連動しているように思います。

 以前、ある会合で「11月上旬からクリスマス商戦が始まるのは早すぎる」との感想を私がうっかり述べたところ、ビジネスの最前線にいる方々から、「クリスマス商戦は8月から準備が始まっているのだ」「出遅れたら取り返しがつかない」「業界の厳しさを知らない」との集中砲火を浴びました。これに懲りて、人前ではこのような本音を言わないことにしました。

橋本治著 『その未来はどうなの?』より

2012-12-19 23:10:45 | 読書感想文

p.191~

 言うまでもなく当たり前のことですが、民主主義はズルをします。どうしてかと言えば、「なんでも話し合いで決める」ということになっていて、話し合いで決められないことなんかいくらでもあるからです。考えてみれば、「なんでも話し合いで決める、話し合いで決められる」という前提自体がズルの温床です。

 話し合いで決める民主主義の世界でどうしてズルが横行するのかと言えば、話し合いをする人達が、その結論を「自分の有利になる方向」へ導こうとするからです。誰も「自分が損をするための議論」なんかしたいとは思いません。力による決着を封じはしても、民主主義は「言葉の戦いによって決着をつけるもの」であって、その「戦い」は「自分の有利になる方向を目指す」です。この目指し方だけは、凶悪な独裁者と変わりません。

 私がなぜ、「民主主義は民主主義のままで変わらないだろう――変わりようがないから」と言うのかといえば、「力で押さえ込む独裁者がいなくなった代わりに、国民の全部が王様や独裁者の性格を獲得して、自分の利益ばかりを追求するようになったから、収拾がつかなくなったため」です。民主主義が当たり前になって、どこからでも「民主主義は正しい」の支援の声が飛んで来るようになってしまったら、自分の利益を主張するさまざまな人間を「黙らせる」ということが出来ません。


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 私が結構偉い(と思っていた)学者から教え込まれた「正しい民主主義」とは、少数派の意見も尊重しつつ、とことんまで議論を尽くした民主主義であり、数の横暴は許されず、強行採決などもってのほかだというものでした。このような理論は非常にスッキリしており、民主主義の本質について自分が頭を悩ませることがない代わりに、現実の社会に対する不満が激しいという特徴を備えていたように思います。

 思い起こしてみれば、このような学者は全て強固な思想を持っており、議論の中身の「賛成・反対論」とシステムの「多数・少数論」が一体となっていたように記憶しています。そして、その学者の支持政党はいつも少数派であり、常に数の論理で押し切られるという憂き目を見ていたようです。このような思想が仮に多数派ともなれば、数の論理に変節することは容易に想像できますが、そのような機会もないため、理論はスッキリし続けていたのだと思います。

若林亜紀著 『国会議員に立候補する』より

2012-12-17 22:06:02 | 読書感想文

p.250~

「選挙うつでひきこもりに」より
 落選のショックはじわじわと後から襲ってきた。当選者の喜びの様子や初仕事の報道は、まぶしすぎて見るのが嫌になった。やがて政治ニュース全般を避けるようになり、ついにはテレビをつけたり新聞を開いたりすること自体が億劫になった。内にこもって頭に浮かぶのは、あの時こうしておけばよかったという、選挙の反省であり、自省であった。何をする気力も起きなくなり、身だしなみにもかまわなくなり、鬱々とした気分の日々が続いた。

「落選者の会が行われる」より
 元キャスターの真山氏も打ち明けた。「選挙に落ちたということは、自分が認めてもらえなかったということ。だから、家を一歩出ると、まわりの人が敵のように見えてしまい、外に出られなくなりました。もう引越したいほどです」。ほとんどの出席者が同調した。渡辺代表は、「それは選挙うつといいます。落選者は皆かかるんです。ですが、うつになる人はまともです。選挙躁というものあります。選挙の興奮状態が延々と続くんです。こちらのほうがやばい」と言った。


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 裁判において法の不備が問題となると、必ず「司法権は立法に踏み込むことができない」、「投票箱を通じて反映される民意に委ねられている」との論理で話が打ち切られます。例えば、危険運転致死傷罪の条文の抜け穴は大事故のたびに現前化しており、「制御が難しい高速度の運転」の文言が大まかすぎる点や、現場から逃げたほうが罪が軽くなる点の問題は明らかですが、長らく無策のままです。無免許、暴走行為、病気の無申告などによる事故についても、立法府が動いておらず先に進んでいません。

 法学的に「投票箱と民主政」「選挙を通じた主権者の意思」と言われるとき、その投票箱は抽象的であり、主権者も得体の知れない人々の集団です。この議論は、常に頭だけで考えられた原理原則論であり、生きた人間の息遣いは全く聞こえない種類のものです。他方で、実際に投票箱を通じて主権者の審判を仰いだ若林氏の「選挙うつ」の体験談は、このような机上の空論を拒んでいます。立法府の法改正が遅々として進まないことの苦悩は、こちらの意味の投票箱において捉えられなければならないと思います。

三浦博史著 『あなたも今日から選挙の達人』より (2)

2012-12-16 23:08:24 | 読書感想文

p.108~

 選挙区の有権者や後援会員の名簿管理をするソフトも存在します。選挙ソフト先進国のアメリカの場合、イシュー(課題)調査を頻繁に行います。これは「あなたは原発に賛成ですか、反対ですか」「妊娠中絶には賛成ですか、反対ですか」といった課題別(イシュー)調査で、行政機関等が実施し、PRコンサルタント会社等が、投票所ごとの調査結果のデータを入手し、地図上にその調査結果の賛否のパーセンテージ等をカラーで表示するのです。たとえば、51%以上賛成の地域は赤、30%~50%は黄、30%未満は青などのカラーで地図上に表示します。

 立候補者がそのような情報を入手すれば、ある課題について自分が賛成なら、赤色の地域に行けば賛成が51%以上いるので、そこでは強く賛成だと発言する。しかし、30%未満の青地域に行けば、その問題はほどほどにして、別の問題を強く主張する。アメリカではこのような形の選挙戦術が一般的に行われています。つまり、本来人海戦術で処理すべき膨大な選挙情報を、コンピュータで処理してしまうわけで、わが国でも主に後援会員の様々な情報を管理するための選挙ソフトがいくつか販売されています。


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 18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「選挙民が自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや、否や選挙民は奴隷となり無に帰してしまう」と述べました。しかし、候補者を当選させるための戦略・戦術が高度化し、専門的な選挙プランナーの手に国民がかかっている状況下では、事態は逆になっていると思います。私自身の実感としては、議員を選挙する間のほうが奴隷であるような気分です。

 三浦氏によれば、選挙プランナーの仕事は、選挙が終わった次の日から再び始まるそうです。すなわち、次回の選挙での再選に向けて、休む暇もないということです。政治家としてのイメージアップ、支持者への後援会報やネット戦略など、プランナーの仕事は長期にわたっているようです。「国民のレベル以上の政治家は生まれない」との格言もありますが、国民が選挙の間まで奴隷となる状況では仕方がないと思います。