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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

三浦博史著 『あなたも今日から選挙の達人』より

2012-12-14 21:10:35 | 読書感想文

p.62~
 通勤ラッシュのときに駅頭で辻立ちをしたり、候補者が目立つ格好をし、運動員のボランティアがノボリを持って商店街を練り歩くといった運動(桃太郎)をすることも一法ですが、ドブ板選挙の中心は何といっても「個別訪問」です。候補者は、普段ベンツに乗っていても、立候補表明と同時に大衆車に乗り換えるのは常識でしょう。

p.67~
 一般的に、教育、高齢者福祉、医療問題、犯罪防止、青少年問題、環境問題など、どの陣営でも通用しそうなグローバルインタレストの政策だけを並べるというだけでは勝てません。候補者のこれまでの人生のなかで、自分が経験した仕事、スポーツ、趣味などから発想したエキスパートイシューを1つでも打ち出すことは効果的でしょう。

p.90~
 ポスター等の広報物をつくる際の重要なポイントとしてカラーがあります。私が常に勧めている「勝ちカラー」とはその人に最も合ったカラーのことで、このカラーリングは欧米の選挙では常識となっています。この手法は広告代理店やデザイナーが候補者の持つイメージ等から選ぶのではなく、世界的に多く採用されている本人の生年月日から勝ちカラーを割り出すカラーリング手法です。

p.193~
 ウグイス嬢が乗っているとウグイス嬢にマイクを任せることが多いのですが、候補者本人が乗っているときは、マイクはなるべく候補者が自ら握りましょう。たとえば、交差点の信号で止まったとき、横の赤いライトバンから人が手を振ってくれた場合、候補者がマイクを取って「赤いライトバンの中から、熱いご声援ありがとうございます。山田太郎です。頑張っています」というわけです。

p.242~
 選挙においてマスコミ的な建前では、有権者はその候補の政策から判断して投票することになっています。けれども、これはあくまでマスコミおよび有権者の建前であって、本当に政策で選ぶ人など、私は5パーセントもいないと思います。有権者が山田太郎という候補者に投票したとすれば、「対抗馬の政党が嫌い!」「山田さんって感じがいい」「駅前で山田さんが街頭演説しているところを見たから」「山田さんは近所だから」といった理由が本心でしょう。


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 18世紀の思想家ジャン=ジャック・ルソーは、「選挙民が自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるや、否や選挙民は奴隷となり無に帰してしまう」と述べました。しかし、候補者を当選させるための戦略・戦術が高度化し、専門的な選挙プランナーの手に国民がかかっている状況下では、事態は逆になっていると思います。私自身の実感としては、議員を選挙する間のほうが奴隷であるような気分です。

 三浦氏によれば、選挙プランナーの仕事は、選挙が終わった次の日から再び始まるそうです。すなわち、次回の選挙での再選に向けて、休む暇もないということです。政治家としてのイメージアップ、支持者への後援会報やネット戦略など、プランナーの仕事は長期にわたっているようです。「国民のレベル以上の政治家は生まれない」との格言もありますが、国民が選挙の間まで奴隷となる状況では仕方がないと思います。

川上徹也著 『あの演説はなぜ人を動かしたのか』

2012-12-10 00:03:47 | 読書感想文

p.6~

 すぐれた演説・スピーチには、人々の心を大きく動かす力があるのです。バラク・オバマに限らず、数多くの政治家や活動家が、演説の力で人々の心を動かし、その後の歴史を大きく変えてきました。こうした彼らの演説を分析すると、必ずと言っていいほど使われている手法があります。それは「ストーリー」を語ると言うことです。人間はストーリーが大好きな動物です。

 ストーリーは世の中にあふれ返っているのです。しかも、その構造はどれも驚くほど似ています。なぜなら、人はある特定のストーリーのパターンに出合うと、思わず心が動いてしまう性質を持っているからです。以下の3つの要素が含まれていることが「ストーリーの黄金律」です。
 (1)何かが欠落した、もしくは欠落された主人公
 (2)主人公がなんとしてもやり遂げようとする遠く険しい目標・ゴール
 (3)乗り越えなければならない数多くの葛藤・障害・敵対するもの


p.51~

 『人を動かす』『道は開ける』などの世界的なベストセラーを持つ、デール・カーネギーは、その著書の中で、人を動かすには以下の3つの欲求に訴えかけるのがいいと語っています。
 (1)金銭欲
 (2)自己保存(健康でいたい)欲
 (3)プライド


p.86~

 ビジネスにおいて、会社や商品や個人に3つの異なるレベルのストーリーがあり、それが矛盾なく1本に合わさっていると、ファンが集まり、周りから応援してもらいやすくなるというものです。それは演説にも応用がききます。3つの異なるレベルのストーリーとは、以下の3つです。
 (1)志のストーリー
 (2)ブランド化のストーリー
 (3)エピソードのストーリー


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 情報化社会において国民に発信される言葉は、どれも非常に練られていて、プロの参謀役であるコンサルタントによる用意周到な分析を経ていると感じます。言葉の専門家にも色々ありますが、自問自答して心の奥底を掘り下げる専門家の言葉には値段がつきにくいと思います。これに対し、間髪を入れずに機関銃のように繰り出される言葉を前提に、マスコミ対策どころかこれを利用してしまう技術を授ける専門家の言葉には値段がつきやすいと思います。

 「言葉が人の心を動かす」と言われますが、人の心が動くところは目で見えませんので、これは事実を述べた嘘だと思います。すなわち、「言葉が」という言葉が嘘なのではなくて、「心を動かす」という言葉が嘘なのだと思います。「人を動かす」というのも、その対象となる人を意のままに操るということであり、心底からの腹黒さを感じます。優れたコンサルティングは詐欺に等しいと思いますが、上手い言葉に騙されていると、それと解っていても逆らえない部分があり、言語の騙りは避けがたいと思います。

山内和彦著 『自民党で選挙と議員をやりました』より

2012-12-08 23:42:36 | 読書感想文

p.131~ (ある地方議会の新人議員と交通局の担当者とのやりとりです。)

 僕が一般質問に立つ前も、やはり事前折衝は細かく行いました。初めて質問した内容は「バス路線の渋滞緩和について」。そのときの事前のやりとりを書くとこんな具合になります。

山内議員: とにかくものすごい渋滞なので、例えば道を広げられないものかと。

交通局の担当者: おっしゃる通りですが山内先生、これは交通局の管轄ではないのではっきりとは言えませんが、道路を広げるというのは難しいと思います。

山内議員: 部分的でもいいんです。

担当者: 予算が必要になりますから。

山内議員: 例えば、渋滞する交差点に右折レーンだけ設けるとかはどうでしょう?

担当者: この道路は、既に整備が終了していますから、新たに整備するのはやはり難しいでしょうね。

山内議員: 停留所にバスベイだけ造って、後続車がつっかえないようにするのも難しいですか?

担当者: 同じですね。先生、この問題は、もう少し別の角度から考えたほうがいいと思います。何ができるのか、時間をかけていろいろと検討を重ねてみてはどうでしょうか?

 とまあ、こんな感じです。新人議員が予算などお構いなしに道路拡充を訴えてもお話にならないわけです。もちろんこんなやり取りを本会議でやっても時間がもったいないので、事前折衝は必要になるのでしょう。

 バス渋滞についてはその後、バスナビの導入による運行システムの見直しなど、形を換えて一般質問になりました。最後は役所側が答えられるような格好に丸く収まったわけですが、これは議員に対する役所側の配慮もあったと思います。いつまでも道路拡充を唱えていても、状況を理解できないアホ議員になってしまいますから。


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 「交通安全は世界の願い」という標語が仮に空想なお題目なのであれば、そもそも政治という行為の意義も変わりますし、政治家という職業の意義も変わってくると思います。交通事故がそれぞれ別々であっても、そこから絞り出される願いがどれも「二度と悲惨な事故で同じような思いをする人がいなくなるように」という言葉に収斂するのであれば、これを具体的に聞けるのは政治家のみです。形而上的な生命の問題には無力であることを前提に、形而下の部分の施策を進めること、すなわち歩道やガードレールの整備、信号機や歩道橋の設置、危険運転の取り締まりなどにつき、理念でだけでなく実際に行動できるのは政治家のみです。

 ところが、上記のようなことを考えると恥ずかしくなるほどに、現実の議員という職業は、その反対方向から言葉を聞かないと務まらない職業だと思います。「二度と悲惨な事故で同じような思いをする人がいなくなるように」という言葉の意味を理解できなければ議員たる資格はなく、かつ理解できていては議員たる資格はないというのが現実なのだと思います。山内氏の「お話にならない」「状況を理解できないアホ議員」という言い回しは強烈です。青雲の志が現実の前に挫折し、立ち上がってみたらいつの間にか狡猾な世渡り上手になっていたという世の習いの好例だと思います。

 人間の生き様として、「志の高さ」と「世間擦れ」は対になっており、「本音」と「建前」も対になっています。政治的に何事かを成し遂げようとする際には、本音と建前の使い分けが不可欠だと思いますが、このどちらを「志の高さ」に結びつけるかによって、その仕事ぶりも変ってくるものと思います。また、その候補に投票した人々の生き様も変わってくるものと思います。

三浦博史著 『勝率90%超の選挙プランナーが初めて明かす~心をつかむ力』

2012-12-07 00:03:16 | 読書感想文

p.192~

 「ドブ板選挙」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? 英語で言うと「ドア・ツー・ドア」です。こうしたドブ板選挙のことを私たちは最近では「地上戦」と呼んでいます。地上戦では、ドア・ツー・ドアで候補者がそれぞれの有権者と会って、握手をし、話をします。そうすることで前回の選挙でその候補者に投票した有権者もさらに親近感を深めて、今回の選挙でもまた入れてくれるようになるのです。

 ただし、一度取った票を逃さないという意味では選挙と選挙の間も非常に大事で、その間、候補者は有権者あるいは支持者にできるだけ働きかけを行わなければなりません、でないと、支持者から「自分がせっかく1票を入れてやって当選したのに、その後1年以上もウンともスンとも言ってこないし、姿を見たこともない」というクレームが出てきます。

 その程度ならまだしも、「何だ、あいつは。選挙中は何度も電話を寄こしたのに! 選挙後は何も言ってこなくなった」というふうに怒らせてしまうと、もう票は二度と戻ってきません。次の選挙のときに「またよろしく」と頼んでも、その支持者からはソッポを向かれてしまいます。地上戦は、選挙期間以外の取り組みも含んでいるのです。


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 有権者が選挙のたびに思い当たって脱力することは、「政治屋は次の選挙を考え、政治家は次の世代を考える」という点だと思います。他方で、「自分がせっかく1票を入れてやって当選したのに」「選挙後は何も言ってこなくなった」という思いも、多くの有権者の記憶にあるだろうと思います。私にも「自分がせっかく1票を入れてやったのに」という不満は思い当たる節があり、自分が1人の人間ではなく1票という数にされたことに憤慨してしまい、次はその候補者に投票しませんでした。

 「議員は選挙と選挙の間くらいは次の選挙のことを忘れて、次の世代のことを考えてほしい」という有権者の率直な思いは、これだけ専業のプランナーが分析を重ね、マーケティングの手法が発達した現代では、もはや望むべくもないのだろうと思います。「次の世代を考えているところを有権者は見てくれているだろう」という素人考えでは、戦略マネジメントの前に惨敗を喫するからです。結局、「次の選挙のために『次の世代を考えています』というところを見せておく」という政治屋が勝利に近付くのだと思います。

全国町村議会議長会編 『問答式・選挙運動早わかり』

2012-12-06 22:04:17 | 読書感想文

p.28~
問: 事前運動と立候補の準備はどう違うか。
答: その限界はなかなか微妙で、事実についての判定による場合が多いが、要するに投票依頼の意思がなく、純粋に準備行為として行われるものならばよいということになる。後援会の結成にしても、その目的が当人を当選させることにあることが明らかな場合、その組織の結成方法や活動内容のいかんによっては選挙運動と認められる。


p.32~
問: ふつうの政治運動は事前運動にならないか。
答: いわゆる党勢拡大を目的とする政党活動のような一般の政治活動は、選挙運動に似ているが選挙運動ではない。ただ、これらの政治活動でも、単にそれに名を借りるだけで、実は投票を得るのが目的である場合は、選挙運動となり、事前運動の禁止規定にふれてくる。


p.95~
問: 明るく正しい選挙をとなえて立候補している者があるとき、「明るく正しい選挙推進のため」の署名運動を行う場合は署名運動の禁止規定に反しないか。
答: その特定候補者のためにしているものであるかどうか、その他の事実関係で判断するほかはない。


p.113~
問: 演説会場では、その演説会の開催中に、どんな文書・図画でも使用できるか。
答: 使用するポスター、立札、看板の類の大きさは縦273センチ、横73センチを超えることはできない。ちょうちんの大きさは高さ85センチ、直径45センチ以内である。ちょうちんは会場内外を通じて1個しか掲示できないが、ポスター、立札、看板の類は会場外で通じて2個以内であるが、会場内では数に制限がない。


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 選挙が行われると、必ず公職選挙法違反による検挙があり、裁判所も法律事務所も急な対応に追われます。法律を作る人間を選ぶための選挙に精通しているということは、法律の抜け穴を測る技術にも長けているということであり、穴の存在自体は問題にならなくなるのが普通です。現場でこの点に疑問を呈しても、「そんな抽象論を言って暇があったら、ポスターや看板の大きさをしっかり測れ」と怒られるということです。

 個々の選挙違反行為に細かく入り込んでいると、選挙における争点がどれも無意味に思われ、地に足が着かない寝言のように感じられることがあります。景気・経済対策も、医療・年金などの社会保障の問題も、原発・エネルギー政策も、TPPの問題も、どこか遠い国の無関係な話のように思われてきます。その反面、「他のことはどうでもいいからとにかく当選したい」という人間の本性が切実感を持って迫ってきます。

高野悦子著 『二十歳の原点 序章』 (2)

2012-12-01 23:55:05 | 読書感想文

1968年(昭和43年)9月15日
 私は非常に欲のない人間である。欲望をもたぬということが一番の欠点なのかもしれない。欲望がなければ行動が起こらないし、やりとげるという喜びも知らない。みにくい存在として、人間を憎み愛することも出来ない。とはいっても全く欲のないということではない。いろいろおさえつけられ、あきらめさせられているだけなのである。


1968年9月16日
 下宿から一歩ふみ出すと意識はかたばる。電車の中にもホームにもキャンパスにも、人、人、人だらけであるから。私は人がこわい。会う人会う人が、私の弱点を見すえているようなのである。私の心はこのごろではいつでも沈んでいる。往来を歩いていて、私と同じようなおどおどした臆病なまなざしをいくつか見つけて安心した。私のような人間が他にもおるんだと。生きることに強い欲望をもたず、かといって自殺する気もなく、波にゆられて小さな手をバチャバチャとさせて生きていく人間が。


1968年11月11日
 この世の中は、あの手この手を用いて買わせようとして、やっきになっている。けれども私が自分で働いて得た報酬は、デパートに一歩足を踏み入れたときに感じる、あの何か迎えられているといった幻想とはほど遠い。7時間働いて得る賃金。働いて得た報酬の重さよ。けれどその7時間の没個性的なこと。その空虚さよ。


1968年12月21日
 「これが事実だ!」といっていくつもの事実が出される。唾を吐き散らしながら、「我々に対する誹謗と中傷は許されない」と血気盛んにいう。しかしそれよりも、ほほのやせこけた疲労困ぱいした、静かな面もちで、怒りを抑えた声で言う方が何倍も真実味があるのです。私は否定することで、自己を確認していこうと思う。反乱でもいい。反抗ならなおいい。


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 『二十歳の原点』に書かれた言葉に向き合ってみると、ブログを利用して恩恵を受けている者として、情報化社会によって人間のある種の知性が退化してしまったことを思い知らされます。政治的な主義主張というものは、国家や社会が人間の集まりの別名であり、その個人の中の1人が「自分」である以上、無数の「自分」の中のこの「自分」の人生に関連づけて自問自答しなければ、単なる無責任な不満の発散に過ぎなくなると思います。

 世界で自分1人しか読めない日記と、世界中の全ての人間が読める可能性があるブログとでは、その文字の置かれた差は圧倒的です。そして、その差に対する驚きが失われた先には、言葉の価値の下落があるのみと思います。自分と社会の距離を測りながらの自問自答は、かなりの体力を消耗するものであり、人は色々な意味で余裕がないとこの種の言葉を捉えるのは難しいと思います。他方で、人は余裕が生じると堕落に陥りがちなため、やはりこの種の言葉を捉えるのは難しいと思います。私自身に対する自戒です。

高野悦子著 『二十歳の原点 序章』 (1)

2012-12-01 23:02:15 | 読書感想文

1967年(昭和42年)8月20日
 自治委員の選挙のときであったか、ベトナム人民支援かアメリカ帝国主義孤立化かで論争したことがある。あれなどまるで内容のない言葉だけの論議であった。お互い相手に負けまいとして意地をはっていた。まったくの党派主義であった。何もわからずに対立のうずの中に入りこみ、コチコチの党派主義になっていた。全く違った環境に入ってまごついたわけだが、あまりにも自主性、独立性なしにおし流された。何にか? 学生運動の潮流にである。


1967年10月7日
 差別とは基本的人権が侵されることである。基本的人権には教育をうける権利、生存権、勤労権がある。これはわかる。しかし私の生活の中からその内容を考えると、ちっとも具体的な内容を持っていない。今まで私は外にばかり声をはりあげていた。ある人はいう。「自由の最大の敵は自己自身である」。今まで「動くこと」を「創造すること」をしなかった私が、権利を主張するのは土台無理な話である。生きようとしないものには「権利」などない。


1967年11月18日
 「生」と「死」という2つの状態がある。死ぬことは「生きる」ことよりむずかしい。死ぬ、すなわち自らを殺す、自殺することだからだ。「生」に対して積極的な姿勢がなければ自殺は出来ない。私は自殺する勇気さえない。そして生きている。人は住まいと衣服があれば生きられる。私はただ時をすごすために何かをやっている。行動には一貫した目的がない。けれども何かをやっていなくては自殺しなくてはならないから何かをやる。


1968年4月23日
 話の中心でありたい。行動の中心でありたい。みんなよりも優れた存在でありたい。みんなからほめそやされたい。私は19歳!(私の精神は未発達のまま19歳になってしまった)。気が小さくて臆病ものの私は、ジンセイケイケンがタリナカッタのかしら。卑屈になって優越感を感じ、皮肉でもって相手を見下し、にせもののほほえみをなげかけ(偽善者め!)、世界の中心にいるんだという19歳のムジャキサをもち……


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 私自身、ブログを書いていて思うことですが、ブログというウェブサイトの発明によって最も変わったことは、「人が日記を書く」という行為の意味だと思います。日記を書く際に、他者に読まれる可能性を意識する否かは、その出てくるところの言葉の質の変化をもたらすからです。原稿用紙やノートに筆記用具で書くという行為から、ワープロにキーボードで入力するという行為の間には、さほど距離がないように思います。しかし、パソコンがネットを通じて他者に開かれる段階に至ると、そこにはかなりの距離が生じていると感じます。

 日記もブログも、人間が言葉を文字にして綴る以上、人の内面が書かれざるを得ないものです。しかしながら、単に内面を書いた文字は、話し言葉と変わらない喜怒哀楽にすぎず、もう一度内面を通過しなければ内省的な言葉にはならないのだと思います。他方で、ブログというウェブサイトにおいては、内省的であることは同時に内向的であり、「面白くない」「暗い」という評価が飛んできます。ブログやツイッターを知ってしまった日本人からは、20歳であって20歳でないような20歳の日記はまず出て来ないのだと思います。

河野裕子著 『桜花の記憶』 その2

2012-11-29 00:02:45 | 読書感想文

p.233~

 歌を読むことは、歌を作ることよりももっと難しい。そして、読むことよりも、肉声で批評することはもっと難しくおもしろい。このことに気がついている人は案外少ないように思う。歌会で批評があたり、待っていましたとばかりに滔々と正論めいた持論を展開する人があるが、あれはちょっと違うなあ。

 言い淀んだり、しばらく沈黙したり、ことばに詰まってしまって、どうしようと言ったりする。或いは発言しているあいだに自分の読み方の誤りに気がついて軌道修正する人もいる。批評があたった瞬間、一時的に発声不能になる人もあって、やっと何とかボソボソ一言だけ言う人もあるかと思えば、隣りの席にいる人に助け船をたのむ人もあったりして、これが歌会というものの、生のおもしろさなのだし、これが自然というものである。


p.242~

 わたしたちには、現実がしんどいから歌を作っているという側面が必ずあるはずだ。天気明朗、仕事は楽しい、飯はうまい、よく眠れる、家族とはうまくいっている人は歌など作る必要はない。現実に自足しているならば、文語定型のこんな詩型に苦労する事はない。好きなように人生を楽しめばいいのである。誰にも何にも強制されることなく。

 しかし、現実がどうにもならないものであり、自分自身が途方に暮れたときに、歌を作り、それを読んでくれる仲間たちが居てくれることが何よりも替えがたい慰謝であり生きる力である事に気づいた時、私たちにとって人生の意味は変わってくる。


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 社会科学において、定義されて厳密に使われる言葉の重さは人を殺します。契約書をよく読まずにサインしたばかりに、人は給料を差し押えられて失職し、定期預金を差押えられて全財産を失い、競売で自宅を失います。そこでは、個人的な事情は全く考慮されることがありません。誰が語っても同じ言葉であり、同じように重いものとされ、万人に互換性があります。

 このような一言一句の緊張の中で精神をすり減らしていると、文学で行われている言語の使用は、気楽な「言葉遊び」に見えがちだと思います。しかしながら、善悪や生死の問題に直面すれば、人は互換性のある言葉の限界に突き当たります。ここを社会科学の定義された言語で乗り切ろうとするとき、人は軽い言葉の重さを装わざるを得なくなるのだと思います。

河野裕子著 『桜花の記憶』 その1

2012-11-28 22:57:16 | 読書感想文

p.43~ (津島佑子さんに対する手紙)

 自分自身の内面だとか、ある特定の事実を書く、ということは、本来できないものなのだろう、と私はあなたのエッセイを読みながら改めて思いました。見たこと、聞いたことの生活のひとつひとつの小さな断片を、ことばに変えて、書き寄せてゆきながら、書き手は書き手自身の内側を確かめてゆく。その作業のみちのりを、筆者自身と共に辿るような思いで読むよろこび。このことが、多分、この手紙の初めに書きましたように、津島佑子さんという「私」に、溶けこんでいけたひとつの理由なのでしょう。


p.100~

 歌の常道を踏むべく、死者への鎮魂を装った、如何にも挽歌らしい挽歌を作った一時期もあった。それは自分にとって正直でない愚かなやり方だった。死者の為に、涙くさい歌を作ったとしてそれが自分にとって何の力になろうか。もはやどのように問い、打とうとも、応え返すことのない、打ち返すことのない、絶対的な沈黙の中に入ってしまった存在に向かって、何かを聴く為の耳を持つなど、欺瞞と醜悪の他のものではない。

 なま暖かく湿った情緒でもって、死者を欺いたり忘れたりすることは、その場限りの自慰でしかない。残された者は、おのれという生者の本音を常に吐かせ、それに突き動かされ、揺りあげられて、生き、駆けるしかない。本音を吐かない歌は弱い。恥ずかしい。


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 言葉の本来的な性質が最も強く発揮される場は、「書きながら考える」、そして「書きながら考えが広がる」という点にあると感じます。従って、決まりごとや定義に従って文書を書くということは、無理をして人間が言葉を操っている状態だと思います。但し、社会を動かしている99パーセント以上の文書は、企画書・稟議書・報告書などの実用的な文書であり、言葉のある種の機能のみが用いられている状態だと思います。

 法律の仕事に就いていると、「考えられている文章」を前にすると目が文字の上を滑ってしまうのが悩みです。他方で、考える必要のない文章がスラスラ書けてしまうのも悩みです。例えば、「被告人は今後は二度とこのような犯罪を行わないことは当然として、いかなる反社会的行為も行わないよう自らを戒めることを心より誓っており、また、責任ある社会人としての立場をわきまえ、人生を立て直すことを決意しており、よって、再犯の恐れは皆無である」などといった文章です。

谷川俊太郎詩集 『これが私の優しさです』 より

2012-11-26 00:02:16 | 読書感想文

p.73~ 「もし言葉が」

  黙っていた方がいいのだ 
  もし言葉が 一つの小石の沈黙を忘れている位なら
  その沈黙の 友情と敵意とを 
  慣れた舌で ごたまぜにする位なら

  黙っていた方がいいのだ 
  一つの言葉の中に 戦いを見ぬ位なら
  祭りとそして 死を聞かぬ位なら

  黙っていた方がいいのだ 
  もし言葉が 言葉を超えたものに 自らを捧げぬ位なら
  常により深い静けさのために 歌おうとせぬ位なら


p.95~ 「カベと叫び」

  ワルソーのカベをこわしたひとが ベルリンにカベをつくり
  ワルソーにカベをつくった人が ベルリンのカベをこわそうとし

  ヒトラーと叫んだ人が ケネディと叫び
  ヒトラーと叫ばなかった人も ケネディと叫び
  ケネディと叫ばなかった人は フルシチョフと叫び

  どこにもカベをつくらず 何も叫ばなかった人は
  カベに閉じこめられて 助けを叫ぶよりないのか


p.164~ 「空に小鳥がいなくなった日」

  森にけものがいなくなった日 森はひっそり息をこらした
  森にけものがいなくなった日 ヒトは道路をつくりつづけた

  海に魚がいなくなった日 海はうつろにうねりうめいた
  海に魚がいなくなった日 ヒトは港をつくりつづけた

  街に子どもがいなくなった日 街はなおさらにぎやかだった
  街に子どもがいなくなった日 ヒトは公園をつくりつづけた

  ヒトに自分がいなくなった日 ヒトはたがいにとても似ていた
  ヒトに自分がいなくなった日 ヒトは未来を信じつづけた


p.137~ 「大きなクリスマスツリーが立った」

  キラキラ光っていて この世じゃないみたいにきれいだけど
  これも人間がつくったものだよ
  夜のあいだに大いそぎで ビニールテープを巻いたりして
  時々ビリッと感電したりして
  つくった人は寒くて寒くて きれいかどうかも分らなかったよ

  キラキラ光っていて 永久に消えないみたいにまぶしいけど 
  いつかはこわしてしまうんだよ
  すぐに新しい年がやってきて これもあっという間に古くなる 
  きれいなもののいのちは短いのさ
  ほんのちょっとにぎやかな気分になって あとは夢のように忘れてしまうんだ

  キラキラ光っているものは どうしてもどこかに影をつくる
  影しか見えない人だっているんだよ 影のほうがいいとすねてる人だっているんだ
  そんな人にかぎってほんとうは もっともっとキラキラと明るいものに
  それが何かはよく分らないくせに もう泣きたくなるほどこがれているのさ


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 谷川さんは昭和60年5月の著作の中で、「これだけ情報があふれ、危機にみち、人間のエゴイズムが複雑にからみあった現代の地球上の人間社会に、ひとつの全体的なヴィジョンを回復するなんてことは至難のわざだ」と語っています。詩が主観を通した万人に当てはまる言葉を獲得しようとするとき、情報と欲望の増大に伴う大量の言葉に飲み込まれれば、これは言葉そのものの危機に他ならないと思います。

 この世には「詩」という名称があり、「詩」という形式があるがゆえに、詩ではないものが詩のような顔をしていることも多いようです。このことから、詩人の夢想というものが、現実から離れた夢想の意に捉えられがちだとも思います。しかしながら、形而上において詩的な言葉でしか説明できないような「そのもの」を語る行為が、形而下において真理を示す言葉でないわけがないですし、世の中を正しくする活動でないわけがないと思います。