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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ワタミ過労自殺裁判について(5)

2013-12-15 22:45:57 | 時間・生死・人生

 真剣に過労自殺の原因なるものを求めるならば、法律的な「因果関係の有無の解明」では不正確であり、文学的な「伏線を辿る」作業を経なければ的を射ることはできないはずだと思います。両者は、時間の流れの方向が正反対です。裁判は勝ち負けですので、つべこべ言わずに勝たなければなりませんが、ここでは証拠の残し方の巧拙が結論を左右し、必ず最初と話がずれてきます。

 他者のある行動に至る内心を別の者が描写するならば、それは「前兆を見落とした」「まさかこんなことになるとは思わなかった」という形を採らざるを得ないものと思います。そして、その時点においてはそれをそれと認識することは困難です。人の内心の動きや人格が崩れ落ちる過程は外からは見えず、人間ドラマの伏線を回収する方法によらなければ、線は一本につながりません。

 これに対し、法律的な因果関係の判定において、死者における過去の内面の葛藤は無意味です。これは、死の原因を論じつつ死の原因を論じないものであり、結果として論理の筋は強引にならざるを得ないものと思います。すなわち、「仕事で死ぬくらいなら死ぬ前に仕事を辞めているはずである」、「仕事が好きならば好きな仕事が原因で死ぬはずがない」という非常に乱暴な正論です。

 若者が簡単に会社を辞める時代状況において、我慢の足りなさは非難の対象であり、他方で忍耐力や責任感の強さは正当な道徳として評価されるものと思います。ところが、その道徳に忠実であるがゆえに命を断った者に対しては、逆に仕事の投げ出しや会社からの逃避の選択肢に価値を置き、因果関係を否定しようとするのが、経済社会の矛盾した論理のあり方なのだと思います。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(4)

2013-12-14 22:41:50 | 時間・生死・人生

 あくまでも私の経験からの実感ですが、ここでの「因果関係」なる単語は、真剣に自死の原因を追求するものではなく、経済活動としての労働の論理に限定された範囲内でのみ意味を持つものだと思います。言語はそこに存在しないものを実体化させますが、そもそも因果関係という関係性の設定が1つの虚構であり、さらにはその関係の有無も恣意的だからです。

 また、過労自殺の裁判を起こす側において「因果関係を証明したい」という形で提訴の動機が強要されるのは、極めて不自然なことだと思います。関係性を論じるということは、結果からの逆算を強いられることであり、自死という動かぬゴールをスタートに置く結果論となるからです。これでは、蟻地獄に落ちてしまう肝心の真相を再現することができません。

 もとより生きている人間には死を逆説的にしか語れませんので、死者の真意を理屈で捉えることは不可能です。動物のうちで人間のみが言語を持ち、ゆえに死の観念を持ち、「自分で命を断ちたい」という契機を有することが可能である以上、自死を生じるのは言語の力です。そうだとすれば、この言語の錯乱による思考停止を正確に捉える以外に方法はないと思います。

 「自分で自分の人生を終わらせる」という決断は、間違いなく全ての人間の一生における最大の決断となるものです。これは、「生きたい」「死にたくない」という自分自身の欲求を乗り越えなければなりません。従って、人間の生きる気力が内側から蝕まれる瞬間、すなわち「死にたくない」という意志が弱められる瞬間を捉えることなしに話は進まないはずです。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(3)

2013-12-13 22:30:55 | 時間・生死・人生

 業務と自死との間の因果関係が証明できないとなれば、「自殺の原因は不明であると言わざるを得ない」との敗訴判決が言い渡されるのみです。そして、「それでは自死の原因は何なのか」という問いは、ここでのシステムからは外されることになります。もっとも、この思考の枠組みは1つの政治的選択による仮説であり、学問的探究の成果としての唯一の結論ではありません。

 その亡くなった社員の業務日誌には、意欲的な言葉が記されていました。また、同僚や家族にも前向きな言葉を語っていました。この事実は、裁判ゲームにおいては非常に不利になります。そして、「自殺の動機が見当たらない」、「他の理由であると言わざるを得ない」、「残念ながら本人には話を聞けない」と大真面目に攻められれば、虚しい反論を強いられることになります。

 亡くなった方のプラス思考の日誌は、普通に読めば、肉体と精神の限界において自身を鼓舞する悲鳴が記されていることがわかります。また、肩書きのある社会人としてこのような言語化を遂行していたために、その悲鳴が行間のみに閉じ込められていたこともわかります。本来の日記に自分の言葉を書いて頭の中を整理し、自分を客観的に見る気力が奪われている状態だからです。

 このような読解力の発動は社会生活において不可欠であり、我々が日常的に行っている作業だと思います。現に、仕事の現場では「お客様の意志を汲んで先に動く」「上司に指示される前に察する」といった高度な技術が履行されています。ところが、死者の自死直前の言葉に向き合う場面になると、この技術はなぜか封印され、経済社会の論理は全くの無知を装うことになります。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(2)

2013-12-11 22:32:45 | 時間・生死・人生

 亡くなった当の本人が不在の場面において、本人と一面識もない代理人が難解な心理学や医学の論理を駆使して科学的立証に熱を上げる姿は、やはり「我々は一体何をやっているのか」という直感的な疑問を呼び起こさざるを得ないものです。この疑問は、原告であるご両親の疑問とも一致しており、「我々はこんな裁判を起こしたのではない」という指摘は図星でした。

 過労と自死との因果関係が争われる場面では、「うつ病などの疾病の発病」「長時間労働に従事していた客観的事実」「業務による強い心理的負荷の存在」等の具体的な立証が必要になります。そしてこの場面では、社会的に称賛される価値観、すなわち「精神的に強い」「弱音を吐かない」「責任感が強い」といった評価が180度転換し、死者自身に牙を剥くことになります。

 亡くなった社員の遺書がなく、あるいは内容が一義的でなく、証言に協力してもらえる元同僚もいないとなれば、裁判は苦戦続きとなります。あらん限りの過去を書き集めても、「人は疲弊が極限まで至ると明確な遺書など書く気力すら起こせない」という命題は、証拠裁判主義の論理と噛み合うことがありません。最初から不可能な論理に挑み、当然の帰結を思い知らされるだけです。

 勝ち負けの争いを託された代理人としては、訴訟が劣勢になってくると、「もう少し証拠を残してほしかった」という死者への不平が避け難く生じてきます。これは、生身の人間を法律の要件のほうに当てはめる思考ですので、次の瞬間には「自分は何を考えているのか」という疑問がやはり生じます。入口を間違え、最後まで間違った道を進んでいるという感覚ばかりが残ります。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(1)

2013-12-10 22:26:56 | 時間・生死・人生

平成25年12月9日 毎日新聞ニュースより

 居酒屋大手「和民」で働いていた森美菜さん(当時26歳)が過労自殺した問題で、森さんの両親が9日、和民を経営する「ワタミフードサービス」、親会社「ワタミ」、ワタミの社長だった渡辺美樹参院議員などを相手取り、約1億5300万円の損害賠償を求め東京地裁に提訴した。

 訴状などによると、美菜さんは入社3カ月後の2008年6月12日、神奈川県横須賀市のマンションから墜落して死亡した。当時、同市の「和民・京急久里浜駅前店」で働いており、残業は月約141時間と国の定めた「過労死ライン」(月80時間)を超えていた。残されたノートには「どうか助けてください」などと記されていたという。


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 上のニュースを聞いて、私自身の経験から考えたことを書きます。

 私が以前に法律事務所で担当していたある過労自殺の裁判は、法治国家や経済社会への深い絶望を感じさせられる結果に終わりました。もっとも、このように過去形で書くと、その後も現在進行形の生を生きられて来たであろうご両親(元原告)や、仕事への使命感ゆえに職場を投げ出せなかった本人に対して、他人事として驕り高ぶっているような罪悪感が生じます。

 他方で、過去に起きた歴史的な事実が勝ち負けの論理で確定される裁判の現場では、悔しさを感じる負けには救いがあるのに対し、絶望を感じる負けには救いがないことも思い知らされています。代理人として原告から勝訴を託されたにもかかわらず、敗訴に対して虚しさという姿勢で向き合うことは、自分の力不足に対する弁解と責任逃れでしかありません。

 その訴訟における最大の争点は、この種の裁判での決まりごとである「因果関係の有無」でした。過労と自死との因果関係が存在しなければ、まさに過労自殺というテーマが間違っていることになり、入口がここに設定されることは理屈では納得できました。同時に、科学的客観性の外形において、実際の争点は政治論や損得勘定であることも疑いのない事実でした。

(続きます。)

JR横浜線踏切事故

2013-10-07 00:12:48 | 時間・生死・人生

神奈川新聞 10月7日0時0分配信より

 横浜市緑区のJR横浜線踏切で倒れていた男性(74)を助け、電車にはねられて亡くなった会社員村田奈津恵さん(40)の通夜が6日、同区の斎場で営まれた。親族や友人らが斎場の外まで長い列をつくり、死を悼んだ。参列者らによると、祭壇には村田さんがほほ笑む遺影が飾られていたという。

 菅義偉官房長官が安倍晋三首相名の書状を贈り、黒岩祐治知事、林文子横浜市長、県警からも感謝状などが渡された。政府関係者によると、菅氏は焼香後、「人命を重んずる真に勇気ある行為を心からたたえる」と首相の言葉を代読した。

 村田さんの両親は「通夜の席で、奈津恵に向かって、褒章や感謝状を頂いたことを伝え、奈っちゃんは偉かったよと伝えました。毎日一緒だった娘が突然いなくなり、日ごとに実感として悲しみが込みあげて参りますが、私たちも奈津恵の行動を誇りにして、一生懸命頑張って生きていきたいと思っております」とのコメントを出した。


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 その日、人身事故で電車が不通になっているとのニュースを聞いたとき、私は例によって飛び込み自殺の言い替えだろうと嫌な気分がした。「自殺」を「事故」と婉曲的に表現するようになった頃から、人間の存在価値が下がり、日本人の語る言葉が刺々しくなり、日本人は他者に無関心になったと感じていたからである。そして、通勤客は自殺者に哀悼の念ではなく不快感を覚えるようになってきたからである。

 それだけに、ニュースで詳細を知るにつれ、私は自身の軽率さを恥じるとともに、「生きていることの後ろめたさ」の感覚に襲われてきた。これが人間の正当な倫理のあり方なのだと思わされた。世の中が間違っているとの憤慨が、自分以外の全員が腐っているとの独善に置き替わってしまえば、それはただの自己中心である。すなわち、他者への無関心にほかならない。

 この出来事がこの時代に大きく取り上げられたのは、恐らく多くの人が「生き残った者の罪悪感」を覚え、この感覚が現代に残っていたことの奇跡に驚いたことの結果なのだろうと思う。しかしながら、世の中捨てたものではないとの希望は、そのような世の中を造っている人が先に逝くという絶望をも示してしまったことになる。この不条理は到底割り切れるものではなく、説明がつかない。

 この事故は、単なる悲劇として片付けてはならず、あるいは美談としてありきたりの称賛で誤魔化してはならず、再発防止の教訓の話にすり替えてはならず、かつ結果論で原因や責任を分析してはならないものだと思う。人の命の価値が下落したこの時代に、私はただ絶句し、同じ国で同じ時代に生きた者として、村田さんの命に恥じない生き方をしなければと感じるのみである。

地下鉄サリン事件を語り伝えることについて

2013-08-14 23:17:47 | 時間・生死・人生

高橋シズヱ著 『ここにいること 地下鉄サリン事件の遺族として』のコメントに対する回答です。)

 自分が生まれる前の出来事は、3年前も300年前も同じ時間軸の上にあり、その出来事を知らないことに対しては特権的な地位が保障されるものと思います。それにもかかわらず、自身がその場に居合わせていたように物事を捉え、ありありとした感覚を持つことは、歴史的な存在である人間の知性の究極的な形態ではないかとの感を持ちます。この地点においては、歴史認識をめぐる正義と不正義の争いも生じることがないはずだと思います。

 私は地下鉄サリン事件の現場にいたわけではなく、当日のニュースを見て驚いただけですので、正確には「事件を知らない」のほうに入ります。しかしながら、年を重ねるに従い、事件の時にはこの世に生まれていなかった方々の数が増えるにつれ、私自身が「事件を知らない」から「事件を知っている」のほうに分類されているように感じるようになりました。この妙な感覚は、ある出来事を後世まで語り伝えることの意義や、その難しさと関連しているようにも思います。

 抽象的な社会という視点から見ると、地下鉄サリン事件の当時に各界の識者が激しく議論し、日本社会の将来のために解決を目指した問題の多くは、解決を見ないままに解消してしまったとの感を持ちます。当時はスマートフォンどころか携帯電話も流布しておらず、ネットを巡る現代の様々な問題は影も形もありませんでした。また、当時は現在ほどグローバル化の弊害も実感されていない頃であり、その時点での問題提起と議論自体が、当時の未来(現在の現在)と合っていなかったのだと思います。

 地下鉄サリン事件の当時に地球上に生きていた多くの人が去り、事件を契機として激しく悩んだり考えを深めた人々の多くもこの世を去りました。入れ替わりにこの日本に誕生した者は、ゼロの状態からスタートすることになります。これは、ある日本人が一生を賭けて深めた頭脳が消滅し、またゼロからやり直しということですから、これは絶望的に虚しいことだと思います。私は少なくとも、「社会の変化」「人類は学んだ」など、社会や人類を主語にして語ることには慎重でなければならないと思いますし、「変化」や「未来」といった単語を簡単に希望の側に結び付けてはならないと感じています。

 この事件が現在では取り上げられないことの理由について、平成7年頃と現在を比較した私の個人的な実感ですが、社会がより明るさや楽しさを切望し、重さや暗さを拒絶する方向が顕在化したことが大きいように思います。もちろん、私の年齢が上がったことも影響しているのだと思いますが、社会問題に対して熱が冷める速さや、ニュースとしての旬が過ぎ去る早さなど、当時の比ではないと感じます。この軽い明るさは、物事を深く考えても答えが出ないことを知ってしまった多くの人々が、考えても仕方がないことは深く考えず、面白くないものには公然と不快感を表明するようになったことの表れだと思います。

 社会問題がますます複雑に絡み合い、解決されないままに問題が山積している現在の日本社会は、恐らく当時のような真剣さで地下鉄サリン事件に向き合うだけの体力を持たないと思います。これは、経済的な格差というよりも、社会の矛盾に目をつぶることのできない人間が競争社会の中で弱者となり、ますます住みにくい世の中になっている状況だと感じます。考えること自体の価値が軽視されればされるほど、実体のない形式としての「未来」が絶対的な正義の地位を得て、「過去」の価値が下がるのだとも感じます。

阪神・淡路大震災 18年

2013-01-17 00:02:58 | 時間・生死・人生

 災害の経験を人々が語り継がなければならないのは、それ自体の論理の必然性だと思います。阪神・淡路大震災で語られた体験談が、その後の災害の際に役に立ったのかという科学的な分析は、真に語るべきところの人間の心の奥底の部分を消してしまうように感じます。人は天災の発生を防ぐことができず、新たに起こった震災が以前の震災の記憶を風化させる作用を有する中で、人は共通の部分である必然的な論理を語るしかないのだと思います。

 阪神・淡路大震災の際も、中越地震の際も同じだったと記憶していますが、東日本大震災に際しても、新年を迎えると「今年は復興が進むことを願う」という言い回しが聞かれます。しかしながら、復興という概念を正確に用いるならば、年単位の区切りは不可能であり、「来年も、再来年も、それ以降も恐ろしく長い年月をかけて復興が進む途中である」と言うしかないと思います。年初の定型句からは、震災を過去のものにしたいという意味での前向きさがどうしても出てしまうように感じます。

 18年の時の経過は、一般的には、「時が悲しみを癒してくれる」「時間が一番の薬である」という社会通念で語れることが多いと思います。しかし、他の人間が代わることができない個人的な経験において、社会通念は全く無意味だと感じます。時薬が効くか効かないかは人間の感情の面の話ですが、論理の面では理不尽なものが理不尽でなくなることはあり得ないはずです。これは、例えば1+1が2であり、2×3が6であることは、18年経っても変わらないのと同じことだと思います。

大阪市立桜宮高校 体罰自殺問題 その2

2013-01-12 23:47:29 | 時間・生死・人生

 体罰の是非が論点として据えられると、論争は極端に陥りがちだと思います。そして、論敵の犯す誤りについて心底から怒り、相手を力ずくで屈服ようとして吐かれる言葉は、かなり暴力的かつ破壊的であり、語るに落ちていると感じます。私も自分の経験から語るしかありませんが、「感情が抑えきれなって思わず手が出る」「暴力の余勢を駆って言葉で畳み掛ける快感は病み付きになる」といった人間の心情はコントロールできませんし、人が他者の人格を否定し尽くした際には、もはや暴力の行使は不要になっていると思います。

 権力を伴う暴力の問題は、今や学校現場の体罰のみではなく、大人社会のパワハラや夫婦間のDVの問題が非常に厳しいと思います。言葉の暴力と身体的な暴力の組み合わせが加速度的に破壊力を増すことや、立場の強弱に伴う受動性において投げつけられる不快感の暴力性や、それを受ける人間の一瞬における精神の凝縮された限界点は、年齢によってそう変わるものではないと思います。例えば、ブラック企業における社員の過労自殺は、長時間労働による疲労と暴言による虚脱感の複合の限界点に生じるように感じます。

 人はかなり簡単に「生きたくもないが死にたくもない」という心境に達し、それが「生きていたくない」という心境にまで至るものと思います。これは、「死にたい」という積極的な意志ではなく、単に「死にたくない」が「生きていたくもない」を上回っただけという話であり、主題は本人の人生ではなく、世の中のほうに委ねられている状況だと思います。すなわち、「この世界は生きるに値する場所か」という問いに対する答えです。さらには、生身の人間にとってのこの世界は、自分の周りに広がっているしかないものだと思います。

 本来は恐怖であるはずの死が望まれる状況を捉える際には、その原因が社会的にいかなる理由によるものであっても、「生きていたくない」と思う側に視座を移さない限り、煩瑣な分析と類型化がなされるのみだと思います。「この世界は生きるに値する場所である」と言うとき、世界は単に人間の集まりの別名であり、その人間のうちの1人が自分であり、自分が消えればこの世界は消えます。ところが、自分の存在を手段として扱う他人の権力が絶対的であるときには、自分が消えても、この世界は消えないのだと思います。

(続きます。)

大阪市立桜宮高校 体罰自殺問題 その1

2013-01-11 22:53:07 | 時間・生死・人生

時事通信 1月10日 配信記事より

 大阪市立桜宮高校2年のバスケットボール部主将の男子生徒(17)が顧問の男性教諭(47)から体罰を受けた翌日に自殺した問題で、男子生徒が自殺前日、家族に対し「顧問から30~40回殴られた」と明かしていたことが10日、市教委への取材で分かった。

 市教委は体罰の具体的な回数について、家族から聞いて把握していたが、これまで「数回たたいた」とする顧問の説明だけを公表していた。市教委は今月8日以降、顧問の説明のほか、「いっぱい殴られた」と男子生徒が語ったことは明らかにしていたが、両親から聞き取った具体的な回数などについては一切言及していなかった。 


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 私が以前に担当した裁判で、体罰の件ではないですが、自殺の前日に殴られた回数が細かく問題になっていた件がありました。「二十数回殴られた」という部分は一致していましたが、それが21回なのか29回なのかが判明せず、結論を左右する大問題だとして法廷で激しい言い争いになっており、私は組織人の義務に従って粛々と職務をこなしていました。その後も、精緻な医学の知識と法律の論理は、重箱の隅にはまると抜けられず、議論はあらぬ方向に行き、政治的な立場の争いに落ちることを思い知らされています。

 死者自身がいない場所で繰り広げられる「証拠による過去の客観的事実の確定」は、生き残った者同士の争いである以上、死者の意志は徐々に無視されることになるものと思います。人は物理的暴力ではない言葉の暴力のみで死を求めるものであり、他方で物理的暴力があっても言葉によって死を求めなくなるものであり、その暴力と言葉の組み合わせによる破壊力は、その人の心の中でしか起き得ないものです。暴力の内容を細かく問題とし、他方で言葉の「言った言わない」を別に問題とすることは、死者の側から見れば無意味な作業に尽きるものと思います。

 ある人の自殺という事実を捉える際に、本人以外の者を主体に捉える限り、本来的に「死人に口なし」以外の結論には至らないだろうと思います。「死にたくない」という本能が自分の身を守ろうとし、その本能によって自分自身を殺し、その結果として死に追い込まれたという事実の解明は、その本人が存在しない以上、世間の常識における実益がありません。他方で、生きている人間であっても、その時のその気持ちはその時限りであり、「死にたいと思った」という気持ちについても、文字にして残そうとすればするほど嘘しか書けなくなるものと思います。

 行き場のない議論は、正義感の強い者によって、マスコミでもネットでも悪者探しが行われるのが通常だと思います。体罰が問題の核心であるとなれば、正義によるバッシングは鬼の首を取ったように高揚感を帯びたものとなりますが、その怒りはあまり上品なものではないと感じます。そのような怒りは、例えば電車が人身事故で遅延したとなれば、「死ぬときくらい人に迷惑を掛けないで家で勝手に首を吊ってろ」という怒りを生みがちであり、人の死がその都度恣意的に利用されていると思うからです。

(続きます。)