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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

余命3ヶ月の連帯保証人の話 (1)

2014-01-22 22:16:29 | 時間・生死・人生

 「本当に3ヶ月なんだろうな」と所長が厳しい口調で問う。その冷徹な視線には、疑念と苛立ち、そして呆れ以外の感情が全く含まれていない。私は、例によって直立不動で全身を固くする。しかし、その心の奥底を見てみれば、今回ばかりは恐怖感よりも脱力した哀しみのほうが大きい。「はい、本当に3ヶ月です」と私は答える。所長は相変わらず不機嫌な顔で押し黙り、そんなに話が上手く行くはずがないと言いたげであった。

 3ヶ月というのは、ある男性が医師に宣告された余命の長さである。話の始まりは、その妻から法律事務所への一本の相談の電話であった。夫の債務整理について頼みたいのだと言う。私はいつものように、聞くべき情報について順番に質問しようとしたが、どうも勝手が違う。夫の年齢が33歳で、親戚の連帯保証人になって500万円の請求を受けているという入口のところからは、その後に展開する話の予想などつくはずもない。

 彼女の夫に脳腫瘍が発見されたのは、約半年前のことであった。趣味で入っているフットサルクラブの試合中に頭を打ち、念のため近所の病院でCT検査を受けたところ、たまたま頭頂部の後ろに腫瘍が発見されたのだった。健康そのものであった彼にとって、まさに青天の霹靂であり、腫瘍ができた原因も全くわからない。医師の診断では恐らく良性だとのことであり、夫婦で検討した末、大事を取って摘出手術をすることとした。

 ところが、事態は短期間のうちに予想外の方向に進んだ。実際に開頭してみると、腫瘍は悪性かつ進行が速い種類のものであり、しかも根を張っていることも判明し、全摘出できなかったのである。彼女と夫は医師に呼ばれ、あくまで現代医学の最善を尽くすものの、病状の進行に伴って水が溜まり、脳全体が浮腫で圧迫されるだろうとの厳しい見通しを示された。その後は、化学療法などに望みを託してきたとのことである。

(フィクションです。続きます。)

阪神・淡路大震災 19年

2014-01-17 23:11:18 | 時間・生死・人生

 「震災を語り伝える」ということが、震災に際しての具体的な出来事を詳細に語り継ぐということであれば、これには自ずと限界があると思います。例えば、日本人が関東大震災(大正12年)をそのような意味で語り継ぐことに成功しているとは思えず、私にとっては生まれる前の歴史上の出来事に過ぎません。これは、古今東西の無数の災害の歴史において同じような事情だと思います。ここは諸行無常ということを感じます。

 関東大震災の当時に比べれば、阪神・淡路大震災や東日本大震災の画像やニュース映像は無数に記録されており、それらが風化を食い止める力にはなっていると思います。それにもかかわらず、人が体験を語り伝えなければならないのは、映像には心の中が絶対に写らないからです。ここだけは客観性の入り込む余地がなく、主観から主観に対して、直に言葉によって伝えられなければならない種類のものだと思います。

 天災を支配できない人間が「震災を語り伝える」という行為を続けなければならないのは、防災の教訓という点も勿論ですが、「自分が明日生きていることは確実でない」という当たり前の真実が存在するからです。大震災の直後、被災地以外の多くの者がテレビの映像を見て受けた最大の衝撃は、確かにこの真実であったことと思います。そして、時間の経過とともに忘れてしまったのも、この真実であったと思います。

 目を疑うような震災のニュースの映像は、繰り返し見ているうちに、人間の感覚を麻痺させます。これに対し、震災を語り伝える言葉は時間がその時で止められており、常に驚きを保ち続けているものと思います。人間の行為において、風化なる現象の受け入れが辛うじて受け入れられるのは、震災で亡くなった方がもし生きていたとしても寿命が来て、人生を生き切ったと推測されるような、遠い将来の時点なのだろうと感じます。

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阪神・淡路大震災 18年
阪神・淡路大震災 17年

ワタミ過労自殺裁判について(13)

2013-12-28 21:24:24 | 時間・生死・人生

 このストレス社会において、上手く精神衛生を保つことを個々の自己管理義務とする思考は、明らかな現実逃避だろうと思います。病理を生理と言い替える苦肉の策はある種の洗脳だとわかっていても、人はあえて洗脳されていないと潰れてしまいます。ここでの批判的精神は人を病弊に向かわせますが、逆に批判的精神を殺すことは人を自死に向かわせることと思います。

 また、利害関係が複雑に対立したこの社会において、働く者の心を決定的に折るものは、組織外のクレーマーからの攻撃的な言葉だと思います。ここにおいて、人は利他的であろうとすることの報われなさ、自己中心的な思考の首尾一貫性を知らされるとともに、自分の労苦が社会につながっていない現実を知らされます。そして、社外の人間は「労働問題」とは全く無関係です。

 他の現代社会の事件と同じように、人間の飽くなき欲望による倫理観の欠如、生死に関する畏怖の感覚の欠如という基本を抜きにはこの議論は始まらないと思います。しかしながら、私の印象では、「労働問題に造詣の深い弁護士」の多くがこのような意見を保守的であるとし、道徳的なものの強制を嫌悪し、より政治的な立場から好戦的に物事を捉えているように思います。

 このワタミの裁判に関する部外者の無責任な願望ですが、原告代理人には国家政策論を広げ過ぎて収拾がつかなくなる陥穽には落ちないでほしいと思います。また、事務方の雑用は長期間かつ膨大になると思いますが、弁護士は「雑用なんか簡単だ」「単純作業は弁護士の仕事ではない」という偉そうな態度に染まらず、縁の下のスタッフへの敬意を忘れないでほしいと願います。

(終わりです。)

ワタミ過労自殺裁判について(12)

2013-12-27 22:14:48 | 時間・生死・人生

 「弁護士が労働問題を争う」となると、そこには必然的に血生臭い空気が生じてきます。そして、個々の人生を賭けた発狂寸前の沈黙は、全て「大企業優遇の国の政策が悪い」という総論の下に位置づけられることになり、イデオロギーの色彩を帯びるような印象を受けます。この大正義同士の抽象的な争いの構造は、この国の厳しい労働環境の実態にとって不幸なことだと思います。

 労働問題の各論においては、長時間労働、パワハラ、セクハラ、名ばかり管理職、サービス残業、賃金引下げ、不当解雇といった縦割りの論点主義を前提に、それぞれに適切な争い方のマニュアルも確立しています。従って、多くの場合、相談者が必死に頭の中を整理して弁護士に切々に訴える話と、弁護士から示される理路整然とした法律的アドバイスは噛み合わないと感じています。

 人に死を決意させるほどの限界的な心情は、他者に対する辛さや苦しさのアピールではなく、自己に対する惨めさや情けなさの攻撃です。そして、法律事務所にとって必要なのは、その心情の掘り下げではなく、医師の診断書やカルテの写しです。これは、請求権を法律的に通すための技巧・戦略であり、「労働問題」の唯一の形です。ここでは、攻撃は全て他者に向かうことになります。

 例えば、「ブラック企業」という新語により、人はそれまで言語化できなかった多くのモヤモヤを語ることができるようになったものと思います。他方で、抽象概念はものの見方を固定化させ、「企業」や「ブラック企業」が実体ではないことを忘却させます。ここには、「ブラック企業を撲滅する」という党派的な利益が生じますが、個々の現場の悲鳴の内実は誰にも届かなくなります。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(11)

2013-12-25 22:57:12 | 時間・生死・人生

 仕事に対する強い責任感を有する者は、誰しも勤める場所を間違えれば過労自殺に至る危険があるものと思います。仕事に対する純粋な高い志を持ち、会社のために役立とうと献身的になっている社員が、世間や組織の汚い部分に包囲され、しかもそれが「社会の厳しさ」であるとされ、「自分自身の甘さ」「社会人失格」の論理に抗えなくなるという世知辛い構造は絶望的です。

 このような環境に置かれた人間の混乱は、その体力や精神力を一気に落とすものだと思います。そして、その混乱に拍車をかけるのが、綺麗事としての「仕事に対する純粋な高い志」を経営者側が独占して握っており、しかも論理が一回転している点だと思います。人を使う立場にある者は、「自分は人に使われる側に立つのは絶対に嫌だ」という哲学をも示すことになります。

 ところが、裁判で問題とされる「因果関係」は、上記の構造とは全く接点がないものです。自死者がうつ状態に陥っていたという精神疾患の生物学的事実こそが求められるのであり、生きる気力を奪われた過程なるものは、死者に聞かなければわからないからです。同じように、ここでは労働時間の長さの数字だけが重要であり、「心地よい疲れ」と「徒労感」の区別もありません。

 私が担当していた裁判は、「業務と自殺との因果関係」を巡る重箱の隅の議論に長時間を費やしただけで終わりました。他の多くの裁判と同じように、概して訴訟というものは、当事者にとって最も重要なポイントは裁判所には関心がないことで、当事者は「こんな話を議論しに来たのではなかったはずだ」「何かが違うような気がする」と言っているうちに終わってしまうものです。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(10)

2013-12-23 22:54:13 | 時間・生死・人生

 過労自殺に追い詰められないためのメンタルの強さとは、現場で鍛えられて成長して身につける種類のものではなく、もっと質の悪い処世術の一つだと感じます。また、現代の複雑な社会を生き抜くためのストレス耐性とは、「人間が生きて働いて生活する」という基本の論理とは方向性がかなり違っており、それ自体の価値を深く追求することは無意味であると思います。

 社会は不条理なことばかりであり、組織というものは理不尽が正論を凌駕する場所です。そして、生身の人間は、これを正面から受け止めてしまえば潰れます。ここにおける打たれ強さとは、労働の喜びとは無縁であり、社会貢献とも全くつながりません。組織においてタフな人材を育てるという目的の下では、戦力になるか否かの思考だけが重要になるものと思います。

 組織の論理に追われて多忙な日常を生かされている者にとって、去った者は邪魔であり、現実問題として相手にしている暇はありません。すなわち、辞めた人、倒れた人、そして死者です。組織の論理の下では、人間の心を持ち続けていれば心を病み、逆に人間の心を失っても心を病みます。この人心の荒廃と「メンタルの強さ」とは、同じ物事の裏表だと思います。

 この社会の全ての事物を吹き飛ばすものが「死」です。死によって、あらゆる会社も組織も消滅させられます。そして、生命の重さを説く理論であっても、過労死や過労自殺という人間の死に方に対する驚きを失った場所では、死の重さは容易に捉え損なわれているものと思います。「生存競争に負けた者が弱いのだ」という命題を巡る左右の政治論に収まるだけです。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(9)

2013-12-22 23:51:15 | 時間・生死・人生

 私が以前に担当していた裁判は、原告側の全面敗訴に終わりました。段の上の偉そうな裁判官から、死者に向かって「あなたの死因はわかりません。私が不明だと言えば不明なのです」と一方的に言われるのは、大真面目な芝居にしては払う犠牲が大き過ぎるものです。このワタミの裁判についても、勝訴か和解かはともかく、敗訴という結果だけは絶対に聞きたくないと感じます。

 敗訴判決後の代理人弁護士は、「日本の裁判所は間違っている」「社員をモノ扱いする会社は腐っている」と激怒します。この感情を実際に支配するものは、依頼者の前でメンツを潰されたことへの憤慨です。あるいは、「弁護士の腕が悪いから負けたのだ」と依頼者に思わせないための保身です。死者が不在の空間で、代理人は死者との委任契約をしていないというだけの話です。

 民事訴訟は法律に則ったゲームであり、訴訟に勝つには技術が必要であり、最大のポイントは重要な証拠を確保することです。裁判に勝って賠償金を得るという目的が正義なのであれば、「上手く証拠を残しつつ死ぬ」ことが何よりに価値が置かれ、生命そのものの重さには価値がなくなります。裁判で勝ち負けを争うということは、制度の側は、人の死を認めることを前提とします。

 国民の法治国家への信頼は、裁判所が正義を実現する機関であることが大前提ですが、ここは専門家との認識がずれているところだと思います。民事訴訟の弁論主義は、「勝手に死んだ子供のために無関係の会社を訴えた親」と、「言いがかりへの対応に苦慮させられる会社」の構造を強要します。また、代理人にとって助かるのは、「しっかりと遺書や日記を残してから死んだ社員」です。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(8)

2013-12-20 23:08:54 | 時間・生死・人生

 これはあくまでも私の個人的な感想ですが、労働問題専門の弁護士が訴訟を遂行すると、企業を悪者とする大上段の正義を前提に「弱者救済」「労働者の人権」「社会を変える」という価値が自己目的化し、原告である家族の真意とのずれが生じることがあるように思います。「私は何のためにここまで息子(娘)を育ててきたのか」という問いは、容易に政治的な主張に転化するものではないからです。

 現代の過労自殺の問題を根本から考えれば、ワーキングプア・二極化・格差社会といった社会問題にまで対象が広がり、複雑な社会の構造全体を論じざるを得なくなります。この理論は、脱原発や特定秘密保護法への反対、憲法9条を守るといった政治的な主義主張ともつながってきます。しかしながら、これらの思想は、原告である家族が裁判に託したものとは全く関連がないはずだと思います。

 私が感じているのは、そのような自死を契機とした正義の実現ではなく、あくまでも自死の生じなかった状態が正義であるという点であり、それは業務と自死との間の因果関係を証明する作業とは逆方向であるという点です。自死に至る具体的な経緯を辿ると、生死は上司や同僚の一言二言によって逆になっていたことが窺われ、殺伐とした空気の中での言葉は簡単に人を殺すのだという現実が明らかになります。

 過労自殺が過労死と大きく異なるのは、健康障害リスクの基準である「過労死ライン」の数値の判定よりも、具体的な個々のストレスが問題になるという点です。そして、人に死を迫るほどの最大のストレス要因は、仕事の内容の話ではなく、社内の人間関係です。ところが、業務と自死との因果関係を証明するとなると、その最大のストレス要因とは微妙にポイントがずれてしまうというのが私の印象です。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(7)

2013-12-18 23:26:01 | 時間・生死・人生

 本来の労働の契機は「世のため人のため」であり、収入は後からくっ付いてくるものだと思います。ところが、今やこの哲学を持ち続けることは精神的な疲労が大きすぎ、私利私欲に徹しなければ自分の身が守れません。経済力を持たない雇われ人の立場の者が、社会貢献への高い志を有したところで、いわゆる社畜として自分の会社の経営陣に貢献するのが精一杯だと思います。

 労働環境が劣悪になればなるほど、「社会の厳しさを知る」「社会の荒波に揉まれる」といった表向きの価値は、倫理ではなく経済力によって意味が決定されてきます。いつの世も、食べて生活することに関する支配の場には絶対的な権力が生じますし、この権力を握るには金銭欲や虚栄心の強さが必要です。他方で、賃金を得て食べていくには、精神的な立ち位置の確保が必要です。

 過労自殺の裁判において、死者の内心にまで立ち入って因果関係を探究している代理人は、実際には別のことを悔いています。勤務先の選択を誤ったこと、必死に順応しようとしてストレスばかり溜めたこと、引き時を逃がしたこと等に対するもどかしさです。職場の合う・合わないは必ずあり、特に体育会系気質の組織に合わないのであれば、早目に辞める以外に解決方法はありません。

 「死ぬくらいならなぜ仕事を辞めなかったのか」という問いに正確に答えようとすれば、「どのような仕事であろうと与えられた役割を真摯に全うする高い志を有していたから」と言うしかないと思います。ところが、この労働の喜び、社会貢献としての労働の価値は、経営者のみが理想論として握っています。権力を持たない者には、労働の喜びと苦痛とを決定する権限が与えられていません。

(続きます。)

ワタミ過労自殺裁判について(6)

2013-12-16 23:56:46 | 時間・生死・人生

 人間は強い生き物ではありませんし、職場の巡り合わせは運・不運に左右されると言うしかなく、本人の努力ではどうすることもできない領域だと思います。また、仕事上のことで自ら命を絶たざるを得なくなるか否かは、実に紙一重のところであると感じます。これは、会社の規模や当人の地位にかかわらず、組織人である限り避けられない種類のものであると思います。

 とにかく目の前の仕事を回さなければいけない、つべこべ言わずに業務を処理しなければ流れが止まってしまう現場の真っ只中では、組織内外の殺伐とした空気に囲まれて、何も考えずに与えられた役割をこなさなければ大変なことになります。人は、このような状況において「何でこんな思いをしなければならないのか」と考えてしまえば、恐らく精神が破壊されます。

 人が多忙な組織の中で精神を病まずに役割を全うするということは、物事を深く考えずに黙って耐え、ロボットのように思考停止することだと思います。死なないためには逆に自分を殺し、死にたくないなら誰が誰の人生を生きているのかを考えてはいけないということです。そして、この思考は短期的には精神の破壊を防止しますが、中長期的には生きる意志を弱めるものです。

 ブラック企業がブラックである所以は、長時間労働と低賃金の並列による人間の精神への破壊力の大きさだと思います。現場の悲鳴を個々の心の中に押し込んで黙々と働くとき、この仕事は「世のため人のため」だと思っていては耐えられませんが、「お金のため」だと思っていれば耐えられます。この構造において、個人の努力のみで精神衛生を維持するのは不可能です。

(続きます。)