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犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

尼崎市連続殺人・行方不明事件 角田美代子容疑者の自殺

2012-12-12 22:26:36 | 時間・生死・人生

 尼崎の事件については、犯罪心理学の権威からお茶の間に至るまで、日本人は多くを語れなかったように思います。次々と明るみに出る事実を前にして、自分の意見など持ちようがなく、何らの教訓も見出せないからです。人間が持っているはずの一線を軽々と越えられ、突き抜けられてしまっては、唖然とするしかないと思います。そして、角田容疑者のような人間の前では誰しも蟻地獄に引き込まれ、逃げようがないことを知るとき、その恐怖を通じて死者への哀悼の念が辛うじて呼び起こされるように感じます。

 今回の件に接し、法律家が激しい衝撃を受けるべき点が、法というものがここまで徹底的に無視されていたという事実だと思います。「人を殺してはいけない」「生命は地球より重い」という規範には何の権威も力もなかったということです。ここでは、死刑に伴う抑止力の議論も無意味です。また、このような殺人犯には更生の余地もなく、死刑存廃論自体が無意味になります。刑事政策学の論壇も、想定外で手に負えない事件は見なかったことにして、自分の研究課題に勤しむしかないものと思います。

 大事件や大事故にショックを受けて絶句する日本人の感性が、年々鈍くなっているのは確かだと思います。角田容疑者の一連の行為は、人間の本性そのものであり、古今東西の歴史の残虐さの続きであるとも言えます。しかしながら、情報化社会における感性の緩さは、当然このような洞察の結果ではなく、血で血を洗う戦国時代の残虐さよりも角田容疑者のほうに迫真性が生じています。匿名のネットで自我が肥大した状況下では、人間は一種の無法地帯に身を置いており、殺意に関する考察が浅くなっている点も大きいと思います。

 あらゆる点が想定外であったこの事件の報道が、国民の善悪の観念の深い部分に衝撃を与えたことは疑いないと感じます。そして、動機がわからない、手口が想像を超える、公権力を有していない、豪邸に住んでいる、長期間発覚しなかったといった現実が、仮説と検証、理論と実践を旨とする刑事法学に与えた破壊力も大きいと思われます。最初に顔写真の取り違えが責められ、最後に県警の落ち度が責められ、わかりやすい論点に飛びつかれたのも、情報化社会における規範意識の変質を示すものだと思います。

中央道・笹子トンネル崩落事故 (2)

2012-12-03 23:03:53 | 時間・生死・人生

(1)から続きます。


 第4にビジネスマンの関心が向かうのが、物流への影響の点だと思います。中央自動車道は東京・名古屋・関西圏を結ぶ物流ルートの大動脈であり、かつ年末でお歳暮などの物流が急増する時期にもあたっています。通行止めが長期に及べば、代替ルートの大規模な渋滞などの影響が避けられないことに加え、トンネルの開通時期が不明のままでは物流各社の運行計画の見直しにも混乱が生じるものと思います。事故は一瞬ですが、「経済のグローバル化・高度情報化・規制緩和による厳しい競争の時代」は長く続き、しかも日々激しく流動しているからです。

 流れの速い現代社会では、他者に対する繊細な共感力を有していては身が持たず、取り残されるだろうと思います。「尊い命が失われた」という恐るべき現実を表わす言葉は、年々軽くなるどころか、稚拙な論理であるとして嘲笑の対象にもなっていると感じます。人の生死に対して何らの敬意もない言葉から身を守るためには、殻を作って閉じこもるしかなく、これは沈黙に通じます。また、事故現場のその瞬間に身を置き、言葉の消失点に絶句することは、やはり沈黙に通じます。かくして、語られる言葉は語られ、語られない言葉は語られないのだと思います。

 この事故の報道では、「行方不明者は7人に上るとみられる」「県警はワゴン車から複数の焼死体を発見した」「乗用車内に人数不明の焼死体らしきものがあると発表」などといった表現が多く、生と死の境界が不明になる感じがします。今の今まで生きていた者が一瞬にして死者となるとき、主観と客観の境界も不明にならざるを得ないと思います。トンネルに入るまでは全員が他人の死体を数える側だったのが、ある者は間一髪で難を逃れて事故の惨状を語りながら全身を震わせ、別の者は「人数不明の焼死体らしきもの」と報道されるとき、科学的に語られる評論の虚しさを感じます。

中央道・笹子トンネル崩落事故 (1)

2012-12-03 22:51:09 | 時間・生死・人生

 このような事故の一報に接した場合、一般的なビジネスマンはどのように反射的に頭が動くかと言えば、まずに損害賠償の点だろうと思います。一般的に想定されている交通事故においては、加害者側が対人賠償保険に加入しているのかが最初のチェック事項です。ところが、今回のような場合、保険はどうなるのか、誰がどのように賠償するシステムなのか良くわかりません。いかなる問題に直面しても、まずは落としどころであるゴール地点を設定し、それを経済的に処理する問題解決の手法を心得た者は、まずこの点に頭が動くだろうと思います。

 次に関心が向かうのが、中日本高速道路株式会社の経営陣の立場だろうと思います。旧日本道路公団は天下り・談合などの利権の温床であると批判され、特殊法人改革により民営化されたのは記憶に新しいところです。現在の社長は、官僚OBを排除するとの国土交通省の意向により、2年前に就任したばかりだと聞きます。組織の力学に精通した者にとっては、突然の事故により出処進退や法的責任が問題とされるトップの立場への複雑な心情が先に立ち、「運が悪い」という感想が強く生じるだろうと思います。

 第3に関心が向かうのが、このような事故が起きた場合に対するリスク管理の点だと思います。企業の中で生きる者において、組織の危機管理体制の構築や適切な初期対応の技術は死活問題だからです。正確な情報を収集することを前提に、適切な時期に記者会見を開き、被害者や世間に対して謝罪しつつ、今後の対応方針についての適切な説明が行われなければ、事態は悪化します。起こってしまった事実に対してどのように対応するのか、その巧拙を傍観して他山の石とするのが、企業戦士の一般的な思考の形だろうと思います。

(2)に続きます。

兵庫県川西市いじめ自殺事件

2012-09-23 23:56:50 | 時間・生死・人生

9月22日 読売新聞ニュースより

 兵庫・川西市でいじめを受けていた高校生が自殺した問題で、この高校の教諭が20日の授業中に、生徒に対して「遺族は学校を潰そうとしている」などと発言していたことがわかった。

 関係者の話によると、2年の男子生徒が自殺した川西市内の県立高校で、生徒指導部長を務める男性教諭が20日の授業中、生徒に対して、「遺族は学校を潰そうとしている」「体育祭や修学旅行があるが、それもどうなるかわからない」「遺族には申し訳ないが、同情する気はない」といった発言をしたという。

 男性教諭はNNNの取材に対し、この発言をしたことを認めており、「生徒が動揺しているので、通常の学校生活に戻したいという思いで話した」と答えている。


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 「遺族が学校を潰そうとしている」のは、人としてごく当たり前のことだと思います。我が子が存在せず、我が子を死に追いやった人々だけが所属している学校は、遺族にとってそのような意味しか持たないからです。実際のところ、我が子をこのような形で突然失った両親にとって潰れて欲しいものは、学校どころか人類や地球でなければならないと思います。人間の絶望のエネルギーは、物理的な形にはなりませんが、言語で形容すれば確かにこのようになるはずです。

 人が社会に出て働き、組織に属し、「現実」に向き合うようになるという点では、会社員も自営業者も学校教師も同様だと思います。そこでは、現実の力が全身に浸み込んで、その現実が常識になり、子供の頃に不思議に思っていたことが忘れられます。その最大のものが「死」です。社会の現実を前にし、なお純粋な死の疑問を提示するならば、それは単に人生経験が足りない空想論であり、社会に通用しないものとして捨て置かれるものと思います。教師において、命を預かっていた生徒を死なせてしまった敗北感が前面に出ないのは、このような「現実」の力が大きいのだと思います。

 社会である程度揉まれた者であれば、「教師はこのようなことを内心でも思ってはいけない」という非難の念は起きにくいものと思います。教師の偽らざる本音としては、学校そのものが悪者扱いされ、通っている無関係な生徒にまで多大な影響が及んでいる状況は、いかにも理不尽であるはずです。「通常の学校生活に戻したい」というのは、現場の悲鳴を端的に示した言葉でしょうし、いきなり乗り込んできたマスコミや無関係な人々が正義を振りかざし、それまで積み上げてきた全てを否定することに伴う現場の疲弊は、それこそ1人の人間を死に追いやるだけの力を持つものと思います。

 人の集まりに過ぎない抽象名詞である「社会」や「組織」がこのような動きを示す中で、ある言葉を語ることが許されるか否かを決める1つの要素が、捨て置かれた「死」の問題が人間の意識の片隅に生じた場合の倫理ではないかと思います。教師の発言をマスコミに流した生徒の品格が疑われるべきことは当然ですが、このような本音を内心に留められるか否かが、教師の社会性の有無を示しているように感じます。この社会とは、どんなに理不尽でも黙って耐えなければならない時がある場所であり、いかに偽りの演技を強いられようと、「その場面では言ってはいけない言葉」があるものと思います。

 法治国家とは、つまるところ証拠によって過去の事実を認定し、訴訟で勝ち負けを決めるというルールしか認められない場所です。裁判は生産性のない争いであり、怒りや恨みの持続は疲労と消耗をもたらし、死者は帰りません。そして、人間の作る制度は相対的ですが、「死」は絶対的です。「遺族には申し訳ないが同情する気はない」といった発言は、言葉尻を捉えているきらいがあるにせよ、社会内で非難されなければなりませんし、これが支持されるような社会における人間の倫理観は、本来の場所から変質してしまっているように感じます。

東日本大震災から1年半

2012-09-11 23:52:39 | 時間・生死・人生

平成23年5月17日 東京新聞夕刊
中島義道「震災への『なぜ』今こそ ―― 美談が覆う真実もある」より

 被災地の少女がローマ法王ベネディクト16世に「なぜ子どもたちはこんなに苦しまなくてはならないのですか」と問い掛けたのに対し、「私も自問していますが、答えは出ないかもしれない」と答えた。こうした生の意味を問う「なぜ」が、あまりにも少ないことが気になる。震災に対して「なぜ?」という問いや絶望の言葉があっていいのではないでしょうか。死者が何万人に上ろうと、わが子を失った人にとってはその子1人の死が重要です。その人にとっては将来の「日本」などどうでもいいのです。

 今は「頑張ろう」のメッセージばかりが目立ちます。この言葉自体に反対はしませんが、テレビCMで有名人が「頑張ろう」と言い続け、マスメディアで何度も繰り返されるほど、言葉の意味が退化し、空疎になっていく。津波にのまれ、目前で自分の肉親を失った人は、頑張りたくなく、頑張ろうにも頑張れず、場合によったら自分も死にたいかもしれない。

 泥だらけのランドセルが回収されたという出来事が美談として報道されましたが、学校が大嫌いな子も級友からいじめに遭っている子もいるはず。それなのに、すべての子は学校や勉強や友だちが大好きだという「神話」が真実を覆ってしまいます。目下メディアをにぎわしているのは“心温まる家族間の話”であり、そこに登場してくるのは、原発の作業員と妻、妻を失った被災者の夫、祖母と声を掛け合って助かった孫など法的に認められた家族だけです。不倫相手を失った愛人とか、同性愛の恋人を亡くした人などは全く抹殺され、天涯孤独な人も、家族を激しく憎んでいる人も切り捨てられた「健全な」家族の美談だけです。

 今こそ「なぜ人間はこんなに不幸なのか」「人生は生きている価値があるのか」という問いがもっとあっていいと思います。パスカルのいう「繊細な精神」であり、物事を一般的、客観的、論理的に割り切ろうとする「幾何学的精神」と対立するものであって、限りない矛盾に満ちた個々のものをそのままとらえようとする精神です。なぜ、あの人が津波に流されて私は生き残っているのか、くたくたになるまで考えることです。もちろん答えはないでしょう。でも、それをごまかすことなく問い続けることこそ、人間として最も必要なこと、何よりも価値あることなのです。


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 震災後、中島氏のような言葉がもっと報道されるかと思いましたが、実際にはほとんど聞かれなかったと思います。現実に問題となっていた問いを言語化すれば、それは「なぜ人間はこんなに不幸なのか」「人生は生きている価値があるのか」であらざるを得ません。ところが、最初の半年程度は躁状態であり、その後に鬱状態が来る間もなく、風化の力が上回ってきました。この点は、原発事故が起ころうと起こるまいと同じであったと思います。皮肉にも、今は中島氏が指摘したいじめの問題が注目を浴びています。

 答えがない問題について問い続けることは、経済や復興という点からは完全にマイナスであり、為政者にとっては国力を削ぐ害悪なのだと思います。「なぜあの人が津波に流されて私は生き残っているのか」という問いを考え続けることの価値の高さは、恐らく多くの人によって理解されていたはずです。すなわち、いかなる経済活動よりも、人間として必要な行為だということです。それだけに、「頑張ろう日本」や「絆」を前面に押し出し、この問いを潰すような、見えない力が生じたのだという気がします。

七十七銀行女川支店 銀行員遺族らが同行提訴へ

2012-09-09 23:31:35 | 時間・生死・人生

朝日新聞 9月9日朝刊 「七十七銀行員遺族らが同行提訴へ」

 東日本大震災で七十七銀行女川支店(宮城県女川町)の行員らが犠牲になったのは、同行が安全配慮義務を怠ったためとして、行員やスタッフ3人の遺族らが総額約2億3千万円の損害賠償を求めて提訴することを決めた。震災から1年半の11日、仙台地裁へ訴状を提出する。

 支店は海まで約100メートルで、屋上は高さ10メートル。「指定避難場所」は支店から徒歩約3分の標高約16.5メートルの高台で、高台にある4階建ての旧町立病院は2階以上で津波を免れた。七十七銀行は遺族らへの説明会で、同行の災害用マニュアルに「指定避難場所または支店屋上等の安全な場所へ避難」と記されており、屋上への避難は「やむを得ないものであった」と伝えている。


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 被災地での避難行動をめぐる雇用主の責任を問う訴訟が相次いでいることにつき、「千年に一度の天災を人のせいにしても仕方がない」「訴訟で責任を認めていたらキリがなくなる」「裁判沙汰をしても亡くなった人のためにならない」といった意見を聞きます。これらの意見は、「家族を失った悲しみは理解できるが……」との留保を付けるのが通常と思いますが、経験したことのない者にそれを理解できることはあり得ず、意見をする権利がないことに対する意見は得てして大上段からの残酷なものになりがちだと感じます。

 私はあの震災の日のあの瞬間、東京にあるビル内の事務所でお金の計算をしていました。紙幣や貨幣で構成される経済とは、紙切れや金属のことではなく、社会が生産活動を調整するシステムのことです。すなわち、人間の生活に必要な財貨の分配に関する活動や、それを通じて形成される仕組みです。私は、自身の脳内にある抽象名詞の束を唯一の拠り所とし、目の前の紙切れや金属に価値を認めることによって、極めて観念的・構造的な頭の使い方をしていました。そこに襲ってきた大地震は、目の前の仕事とは対極的な位置にありました。

 私は外に飛び出して揺れが収まるのを待つ間も、事務所の机の上に放置してきたお金の存在が常時頭にありました。もちろん、このような時に泥棒が入るわけがないと思いつつも、それとは別のところで、仕事に対する義務、職業倫理、責任の所在といった問題が頭を占領していたからです。平時と有事の観念的な区別が無意味となった現実を目の当たりにして、私は「命とお金のどちらが大事か」という問いもまた無意味であることを知りました。私は、足元から全身を揺さぶられても、なお脳内にある経済の仕組みに支配され続けていました。

 安全配慮義務、予見可能性といった法律用語で語られる議論は、人間が法律や裁判制度を作り上げたという法治国家の成立の一面のみを語っているに過ぎないとの印象を受けます。ある人間がその人である必然により他の誰でもあり得たという哲学的洞察を経れば、誰しも死者や遺族との差はなく、家族を失った悲しみが理解できないことと引き換えに、「何かをやって走り続けていないと死んでしまう」という胸中は当然理解できるはずだと思います。「訴訟は怒りをぶつけるためにあるのではない」「心に空いた穴を埋めるために裁判を利用するな」といった論評からは、社会科学の奢りのようなものを感じます。

シリア 日本人 ジャーナリスト殺害事件

2012-08-28 23:45:46 | 時間・生死・人生

8月22日 日本テレビニュースより
「シリア:日本人記者死亡 ジャーナリスト・山本美香さん」

 シリアで取材中に死亡した山本美香さん(45)の遺族が、遺体の安置されているトルコへ向け、22日正午の便で出発した。出発を前に、山本さんの姉・品川留美さんは、声を詰まらせながら山本さんへの思いを語った。

 「しっかり現実を受け止めて、しっかり妹を引き取って、早く両親の元に帰して、ゆっくり眠らせてあげたいです。本人も言っていましたけれど、『誰かが実際の目で見て、誰かが伝えていかないと、本当の現実が知らせられない』。それは私たちもそう思っていますので、妹ながら、ジャーナリスト魂に長けた、素晴らしい人間だったと思っています。『よく頑張ったね。もうそんなに気を張らなくていいから、一緒に帰ろう』と言ってあげたいです」。


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 この事件については、他のニュースとの比較でみても、かなり詳細に報じられていると思います。そして、私はこの自己言及的な「報道現場での殉職に関する報道」につき、上手く言えませんが、何とも言えない違和感を覚え続けています。戦場カメラマンによる取材は、現場のその瞬間だけの声なき声を唯一掬い上げるものであり、人類社会に必要不可欠な究極の尊敬に値する職業だと思います。それだけに、世界中から寄せられた哀悼の声は、あまりに解りやすいストーリーであると感じます。

 シリアでは内戦が泥沼化しており、25日にはシリア全土で370人が死亡し、26日の死者数は少なくとも180人と報じられています。シリアの100人の死は統計であり、日本で生きている私には何の実感も湧きません。そして、私の感じている違和感は、この統計である死の中に、悲劇である死が1人だけ持ち込まれた点にあるのかも知れないと思います。1つしかない命の重さや儚さを語るのであれば、100人以上のシリア国民の死を統計と捉えるのは欺瞞であり、ここには人の死を美化する余地が残されているからです。

 私がこれまで仕事で接してきた多くの死は、日本国内で普通に歩道を歩いていて、あるいは横断歩道で信号待ちしていたというだけで、暴走車に轢かれて亡くなったというものでした。戦地で自らの命を危険にさらした山本さんの功績や偉業という価値観を出されてしまうと、私が接してきた死はあまりに惨めであり、無意味であると位置づけられているようで、亡くなった人も残された人も救われないと感じます。この直観が、「ジャーナリスト魂」「名誉の死」といった単語に対する私の何とも言えない違和感に結びついています。

 命の重さと軽さ、あるいは死の重さと軽さは、残された者の切羽詰まった自責の念において表われるものと思います。「何があっても生きていて欲しかった」「あと一度でいいから会いたい」という願いは、人類が持ち得る極限の願いだと思います。そして、その願いを持つ者であれば、敢えて戦場に乗り込んだ者の死に直面して、「仕事などいいから何が何でも危険な場所から連れ戻しておけばよかった」と自らを責めるのではないかと思います。私が「ジャーナリスト魂」との解釈や意味づけが可能な死に嫉妬のようなものを感じるのは、このような理由からです。

岩手 被災地派遣の男性職員が自殺

2012-08-26 23:36:35 | 時間・生死・人生

8月24日 NHKニュースより
「岩手 被災地派遣の男性職員が自殺」

 東日本大震災の津波で大きな被害を受けた岩手県陸前高田市に派遣された盛岡市の男性職員が7月下旬、自殺していたことがわかりました。男性は「被災地で役に立てず申し訳ない」という内容の遺書を残していて、岩手県は派遣職員の心や体の健康管理を徹底するよう自治体に通知しました。

 自殺したのは、ことし4月に盛岡市の道路管理課から陸前高田市の水産課に派遣された35歳の男性職員です。陸前高田市によりますと、男性職員は主に被災した漁港の復旧工事を担当していましたが、先月22日、車の中で首をつって死亡しているのが見つかり、「希望して被災地に行ったが、役に立てず申し訳ない」という内容の遺書が残されていたということです。

 被災地への職員の派遣は岩手県が調整していて、ことし6月に県の担当者が男性職員と面談した際には、特に悩みは聞かれなかったということです。岩手県は職員の派遣を受けている沿岸の10市町村に対して派遣職員の心や体の健康管理を徹底するよう通知しました。


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 昨年3月11日を境に日本人の価値観は変わり、助け合いの精神、人との絆の大切さ、命の重さを思い出すに至ったという評論をかなり目にしました。いずれも地に足が着いていない抽象論であり、拙速な結論であるとの感を持ちます。ちなみに、大津市の中学生が毎日自殺の練習をさせられ、自宅を荒らされて財布を盗まれ、自ら命を絶つしかなくなったのは、震災から約半年後のことでした。こちらの事件の詳細な事実のほうに、震災の前後を通じた日本人の価値観が現れていると思います。

 被災地の外部においては、原発に関する認識を除き、日本人の価値観は震災の前後ではほとんど変わっていないと思います。相次ぐ児童虐待や殺傷事件も変わりませんし、現代社会があまりにも慌しすぎ、情報が多すぎる点も変わっていません。あらゆる欲望に溢れた現代社会は、個々の人間の欲望をお金に変えて存在しており、これは企業側の欲望の刺激と消費者側の欲望の放流との依存関係であると感じます。そして、この関係の強さは、震災などでは全く変わらなかったのだと思います。

 このような社会において、真に献身的かつ他人を理解し共感する力を持つ者は、非常に生きにくく苦しいと思います。利己的な欲望を追求する幸せと利他的な善を追及する幸せとを比べれば、精神的な高さの次元が違います。ところが、目の前の事態が上手く行かない場合、我欲の果ての苦しみは自業自得であるのに対し、献身の果ての苦しさは完全な破滅をもたらします。「他人の役に立ちたい」という純粋な思いが本当であればあるほど、人は心が折れ、足元が崩れるのだと感じます。

 震災の直後によく聞かれ、いつの間にか聞かれなくなった言葉も多くあります。例えば、「……は被災地の復興にならない」、「被災地に勇気を与えるために……」、「こういう時だからこそ元気を出して……」といったものです。今にしてみれば、欲望の追求を止める術を失った社会が、単に自粛期間に息を潜めていただけではないかと思います。震災が起ころうと起こるまいと、現代人はかつての規範意識を捨て、一線を越えたまま情報に追われているということです。

大津市いじめ自殺問題(5)

2012-07-22 22:44:15 | 時間・生死・人生

 いじめを主語として「いじめは存在したのか否か」と問うことと、人間を主語として「いじめを認識していたのか否か」と問うことは、似て非なるものです。これを哲学的に問い詰めれば存在論と認識論にまで至りますが、世間的に論じられるのは別のところだと思います。現代社会では科学的客観性への信頼が前提とされており、通常の思考の中で登場する問いは、「いじめは存在したのか否か」のみです。ここにおいて、あえて認識のほうを問題にすることは、俗世間を渡るための1つの能力の表明だと思います。

 人が社会常識に従って日常生活を送り、平均的な推論を働かせて行動を選択しているのであれば、今回の自殺の原因についての認識は明白だと思います。いじめは全国の学校に蔓延しており、その中でも死を選ばなければならない程のいじめは執拗かつ陰湿であり、人間の生きる希望を奪うものです。そして、自殺の練習までさせられ、命の軽さを心底まで認識させられた者が、その強制させられた認識に従って当然の如く死を選んだ場合、人間の言語は「彼はいじめを受けて自殺した」「彼はいじめによって自殺した」と語ります。

 利害関係のない第三者としては事実を認識していても、組織の一員としては事実を認識していないという状態は、いわゆる二重思考の技術だと思います。責任を負う側の組織としては、とりあえず「自殺といじめの因果関係がわからない」ということにしておくのが唯一の正解であり、これに従うことが組織人の能力だということです。これは、あらゆる階層的な組織における病理として飽きるほど指摘され、分析されていますが、人命よりも形式的な規則が重視され、人命よりも上意下達の指揮命令系統が大切にされます。

 官僚的な組織におけて最も重要な約束事は、自由主義でもなく、民主主義でもなく、事なかれ主義だと思います。ここでは、いじめは存在していると同時に存在しておらず、自殺との因果関係は存在していると同時に存在しておらず、これらの事実は矛盾しておらず、しかも矛盾していないことを信じなければならないはずです。ここに個人レベルでの自己保身と責任回避が絡んで来れば、事態はより複雑になってくるものと思います。死者はそれぞれの思惑によって利用されるだけです。

 この病理を解きうる論理を保有するのは、哲学のみ(講壇哲学ではない)だと思います。私自身は、食べて寝て生きる身体性の制約のもと、給料を得て生活するために組織人の義務を忠実に果たしており、「自殺といじめの因果関係がわからない」と主張する仕事に浸かり切っています。

大津市いじめ自殺問題(4)

2012-07-21 23:57:41 | 時間・生死・人生

 人は日常生活において単語を定義しながら使用しているわけではない以上、いじめの定義から問題に入ることは、観念論の知的遊戯に堕するものと思います。縦割りの論点主義によっていじめが主題となる場合、そこでは責任の所在が問われ、定義から問題に入ることによる利益が生じます。これに対し、例えば「原発事故で福島県から避難した子供がいじめに遭っている」、「あまりに珍奇な名前(キラキラネーム)を付けると将来いじめに遭う」と語られるとき、いじめの定義は自明だと思います。

 「いじめは朝起きた瞬間から始まっている」という表現を聞き、深く納得したことがあります。「いじめは家でご飯を食べている間も続いている」という表現も同様です。これらは、いじめられている側のみに成立している論理であり、いじめている側には無関係であることによって、「いじめとは何か」という残酷な真実を示しているように思います。人はなぜいじめを受けると自分で自分の命を絶たなければならなくなるのかという問いに対する解答の入口は、ここにあると感じます。

 ところが、このような表現は、得てして文学的です。強制的であれ、限界まで突き詰められてしまった言葉は、文学的にならざるを得ないということだと思います。「学校でいじめられていない間もいじめは続いているのだ」という文学的な表現が、いじめと自殺の因果関係を示す論理として把握されるためには、かなりの読解力の発動を要するはずです。ところが、実務的にいじめと自殺の因果関係を議論する場では、このような論理の入る余地はありません。単なる比喩として捨て置かれるものと思います。

 生徒の人生を預かっている教育現場において、その生徒が死を選んだということは、教育者としては何よりも先ず敗北感に打ちひしがれるはずです。ここにおいて、いじめの定義を論じ、いじめの存在の有無を論じ、いじめの確認の有無を論じ、自殺との因果関係の有無を論じることは、閉塞感の打開という意義を与えられるものと思います。「有る・無し」の究極は生と死であり、いじめの有無ではない以上、人の死を前にした実務的な議論は、当初から的を外すことが前提になっているのだと思います。