※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その2)(288-290頁)
(70)「啓蒙」は、①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」を、「信仰」に対して主張する!「啓蒙」の①「理神論」は、「絶対実在」は「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張する!
★「啓蒙」が「信仰」に対して何を主張するかというと、それは①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」の3つに帰する。ただしこれら①②③は、いずれも実質的には「信仰」にもあることだ。(288頁)
★「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は「絶対実在」は、そんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここにそれの①「理神論」がある。(288頁)
☆しかし「信仰」だってこんな「感覚物」(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)をもって「絶対実在」と考えているのではなく、「信仰」は(※①「理神論」の立場にあり)「絶対精神」に対して「信頼」しているのだ。(288頁)
(70)-2 「啓蒙」は ②「感覚論」あるいは「唯物論」をも主張する!
★ところで「啓蒙」のいう「至高存在」は、ただ「即自存在」であるにとどまって、それ以上なんらの「限定」をも「内容」をももたぬものだから、その「理神論」に安住することはできず、それとは全然反対に、「啓蒙」は「ただ『感覚』できる『個々のもの』のみが『実在』である」とも主張するが、ここに②「感覚論」・「唯物論」が唱えられることになる。(288頁)
☆だがこれ(②「感覚論」・「唯物論」)とても、「葡萄酒」と「パン」とを「クリストの血肉」と信じ、「聖像」を「クリストの御姿」としてあがめるところの「信仰」にもあることだ。(288頁)
(70)-3 「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を非難する!
★さらに「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、この見地から「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を「馬鹿げたこと」と非難する。(288頁)
★だが「啓蒙」は、この③「相対論」・「功利主義」が、①「理神論」および②「感覚論」とどういう関係にあるか自覚していない。(288頁)
★「啓蒙」が③「功利主義」を唱えざるを得ない理由は明らかだ。(※①「啓蒙」の「理神論」において)「至高存在」は「即自存在」であるにとどまり、その他の(※「至高存在」であるという「規定」以外の)いかなる「規定」をも「内容」をも持たぬものであるからこそ、「啓蒙」はそれにとどまりえず、(※②「感覚論」あるいは「唯物論」の立場をとり)「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」であると唱える。(288-289頁)
☆またこの「至高存在」と全然正反対のごとく見える「感覚物」も、そのいちいちを、それぞれを「それ自体」としてみれば、やはり「至高存在」の「自体性・即自性」にあずかり、それを分かちもっている。(289頁)
★また(※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身として」のみあるものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
☆そうして(※「啓蒙」における)③「相対論」はおのずからまた③「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)
☆しかし「啓蒙」の③「功利主義」とても、やはり「信仰」にもあるものだ。けだし「信仰」は「最大のご利益」を目ざすものだからだ。(289頁)
(70)-4 「啓蒙」は、「信仰」に反対するが、「自己矛盾の虚偽」をおかしている!
★「啓蒙」は、すでに「信仰」も認めていることをもって、「信仰」に反対し、しかも反対にさいして、いつも「自己矛盾の虚偽」をおかしている。(289頁)
★即ち「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)
★だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)
(70)-5 「啓蒙」は、①「理神論」から②「感覚論」・「唯物論」に移らざるをえないことを自覚しない!
★「ただ『理性』によってのみとらえられうる『至高存在』」を高調する①「理神論」から、「ただ『感覚』せられうる『個物』のみをもって『実在』とする」という②「感覚論」・「唯物論」に、「啓蒙」が移らざるをえなかったのは、「即自存在」が「即自存在」にのみとどまりうるものではなく、「対他存在」に移行せざるをえぬからだが、「啓蒙」はこの当然のことを自覚しない。(290頁)
Cf. (※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
(70)-5-2 「啓蒙」は、②「感覚論」・「唯物論」から③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないことを自覚しない!
★さらには「『即自存在』と『対他存在』とを結合すべきである」にもかかわらず、このことをも「啓蒙」は知らない。(290頁)
☆結合すれば「感覚的な個々物」自身についても、「即自存在」と「対他存在」とが不離のものであるから、「個々物」がいずれも「『それ自体』として存在する」と同時に「『他者との関係』において存在する」ことになるから、②「感覚論」・「唯物論」は、当然③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないのに、「啓蒙」はこのことをも自覚しない。(290頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」
Ⅱ本論(四)「精神の史的叙述」2「中世から近代へ(あるいは道徳)」ニ「啓蒙」(その2)(288-290頁)
(70)「啓蒙」は、①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」を、「信仰」に対して主張する!「啓蒙」の①「理神論」は、「絶対実在」は「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張する!
★「啓蒙」が「信仰」に対して何を主張するかというと、それは①「理神論」、②「感覚論」あるいは「唯物論」、そして③「功利主義」の3つに帰する。ただしこれら①②③は、いずれも実質的には「信仰」にもあることだ。(288頁)
★「信仰」が「『パン』はクリストの肉」、「『葡萄酒』はクリストの血」、「『聖像』はクリストの御姿」だとするのに対して、「啓蒙」は「絶対実在」は、そんなもの(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)でなく、「見ることも聞くこともできず、ただ『思惟』されうるにすぎぬ『至高存在』」だと主張するが、ここにそれの①「理神論」がある。(288頁)
☆しかし「信仰」だってこんな「感覚物」(「パン」、「葡萄酒」、「聖像」)をもって「絶対実在」と考えているのではなく、「信仰」は(※①「理神論」の立場にあり)「絶対精神」に対して「信頼」しているのだ。(288頁)
(70)-2 「啓蒙」は ②「感覚論」あるいは「唯物論」をも主張する!
★ところで「啓蒙」のいう「至高存在」は、ただ「即自存在」であるにとどまって、それ以上なんらの「限定」をも「内容」をももたぬものだから、その「理神論」に安住することはできず、それとは全然反対に、「啓蒙」は「ただ『感覚』できる『個々のもの』のみが『実在』である」とも主張するが、ここに②「感覚論」・「唯物論」が唱えられることになる。(288頁)
☆だがこれ(②「感覚論」・「唯物論」)とても、「葡萄酒」と「パン」とを「クリストの血肉」と信じ、「聖像」を「クリストの御姿」としてあがめるところの「信仰」にもあることだ。(288頁)
(70)-3 「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を非難する!
★さらに「啓蒙」は、③「相対論」・「功利主義」を唱え、この見地から「信仰」の尊ぶ「苦行」・「断食」・「喜捨」を「馬鹿げたこと」と非難する。(288頁)
★だが「啓蒙」は、この③「相対論」・「功利主義」が、①「理神論」および②「感覚論」とどういう関係にあるか自覚していない。(288頁)
★「啓蒙」が③「功利主義」を唱えざるを得ない理由は明らかだ。(※①「啓蒙」の「理神論」において)「至高存在」は「即自存在」であるにとどまり、その他の(※「至高存在」であるという「規定」以外の)いかなる「規定」をも「内容」をも持たぬものであるからこそ、「啓蒙」はそれにとどまりえず、(※②「感覚論」あるいは「唯物論」の立場をとり)「感覚」できる「個々の物」こそ「実在」であると唱える。(288-289頁)
☆またこの「至高存在」と全然正反対のごとく見える「感覚物」も、そのいちいちを、それぞれを「それ自体」としてみれば、やはり「至高存在」の「自体性・即自性」にあずかり、それを分かちもっている。(289頁)
★また(※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身として」のみあるものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
☆そうして(※「啓蒙」における)③「相対論」はおのずからまた③「功利論」だ。なぜなら、それぞれの「個物」が、一方では「それ自身」としてありながら、他方では「『他物との関係』において、『他物』に対してある」というのは、「個物」が「『他物』のために『有用』なるもの」としてあるということだからだ。(289頁)
☆しかし「啓蒙」の③「功利主義」とても、やはり「信仰」にもあるものだ。けだし「信仰」は「最大のご利益」を目ざすものだからだ。(289頁)
(70)-4 「啓蒙」は、「信仰」に反対するが、「自己矛盾の虚偽」をおかしている!
★「啓蒙」は、すでに「信仰」も認めていることをもって、「信仰」に反対し、しかも反対にさいして、いつも「自己矛盾の虚偽」をおかしている。(289頁)
★即ち「啓蒙」は(※①「理神論」の立場から)、「信仰」が「聖像」をあがめるときに、そんなことは「迷信」で、「『至高存在』は見ることも聞くこともできぬ『超越的なもの』である」と言う。(289頁)
☆しかし「信仰」が「あがめているのは『御霊(ミタマ)』であって『感覚物』ではない」と言うときには、「啓蒙」は今度は(※②「感覚論」・「唯物論」の立場から)逆に「『感覚物』こそは『実体』である」と言う。(289頁)
☆そうして「信仰」が「『現世の利益』を求めぬ」というときには、「啓蒙」はそれに③「功利主義」・「相対論」を対抗させ、「『断食』や『苦行』や『喜捨』などは馬鹿げたことだ」と罵倒する。(289-290頁)
★だから「啓蒙」は、「信仰」の主張に応じて、その都度、その反対をもって応酬しているだけだ。「信仰」がA と言えば「啓蒙」はB と言い、「信仰」がBと言えば「啓蒙」はAと言うようなものだ。(290頁)
☆かくてヘーゲルによれば、「啓蒙」はいつもその自らの主張を裏切り、自己矛盾におちいり、虚偽をおかしている。「啓蒙」は自分の主張に関して、無自覚も甚だしいというほかない。(290頁)
(70)-5 「啓蒙」は、①「理神論」から②「感覚論」・「唯物論」に移らざるをえないことを自覚しない!
★「ただ『理性』によってのみとらえられうる『至高存在』」を高調する①「理神論」から、「ただ『感覚』せられうる『個物』のみをもって『実在』とする」という②「感覚論」・「唯物論」に、「啓蒙」が移らざるをえなかったのは、「即自存在」が「即自存在」にのみとどまりうるものではなく、「対他存在」に移行せざるをえぬからだが、「啓蒙」はこの当然のことを自覚しない。(290頁)
Cf. (※「啓蒙」においては)③「相対論」が唱えられざるをえない。「感覚物」は、もとより「唯一」でなく「数多」だが、この点からすれば「一物」は「即自的にそれ自身としてのみある」ものでなく、「他物」との具体的な「関係」において「対他的に」のみ存在している。(289頁)
(70)-5-2 「啓蒙」は、②「感覚論」・「唯物論」から③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないことを自覚しない!
★さらには「『即自存在』と『対他存在』とを結合すべきである」にもかかわらず、このことをも「啓蒙」は知らない。(290頁)
☆結合すれば「感覚的な個々物」自身についても、「即自存在」と「対他存在」とが不離のものであるから、「個々物」がいずれも「『それ自体』として存在する」と同時に「『他者との関係』において存在する」ことになるから、②「感覚論」・「唯物論」は、当然③「相対論」・「功利主義」に移行せざるをえないのに、「啓蒙」はこのことをも自覚しない。(290頁)
Cf. ヘーゲル『精神現象学』の目次!
(A)「意識」(「対象意識」):Ⅰ感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」A「自己意識の自立性と非自立性、主と奴」、B「自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」
(C)(AA)「理性」:Ⅴ「理性の確信と真理」A「観察的理性」、B「理性的自己意識の自己自身による実現」(a「快楽ケラクと必然性サダメ」b「心胸ムネの法則、自負の狂気」c「徳と世路」)、C「それ自身において実在的であることを自覚せる個人」(a「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」b「立法的理性」c「査法的理性」)、
(BB)「精神」:Ⅵ「精神」A「真実なる精神、人倫」(a「人倫的世界、人間のおきてと神々のおきて、男性と女性」b「人倫的行為、人知と神知、罪責と運命」c「法的状態」)、B「自己疎外的精神、教養」Ⅰ「自己疎外的精神の世界」(a「教養と現実の国」b「信仰と純粋透見」)・Ⅱ「啓蒙」(a「啓蒙と迷信との戦い」b「啓蒙の真理」)・Ⅲ「絶対自由と恐怖」、C「自己確信的精神、道徳性」(a「道徳的世界観」b「ずらかし」c「良心、美魂、悪とその赦し」)、
(CC)「宗教」:Ⅶ「宗教」A「自然宗教」(a「光」b「植物と動物」c「工作者」)、B「芸術宗教」(a「抽象的芸術品」b「生ける芸術品」c「精神的芸術品」)、C「啓示宗教」、
(DD)「絶対知」:Ⅷ「絶対知」
Cf. 金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次!
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」1「古代(あるいは宗教)」イ「東方的時代」ロ「ギリシャ時代」ハ「ローマ時代」ニ「原始キリスト教」、2「中世から近代へ(あるいは道徳)」イ「教養」ロ「信仰」ハ「透見」ニ「啓蒙」ホ「フランス革命」へ「ロマンティスィズム」、3「現代(あるいは絶対知)」