カンムリワシ、ワシは名ばかり、言うばかり

20年前探せばカンムリワシがいて、10年前そこにはカラスがいて、いま両方ともいません。よって最近ではそれ以外の話題に。

原始共産制と階級社会

2015年04月28日 05時45分54秒 | 生き方

世界各地に、「様々(さまざま)」な民族が「様々」に暮らしていますが、どう「様々」なのかについて考えることは、あまりなさそうです。


沖縄本島の国頭村(くにがみそん)ではつい最近まで、土地は個入所有でなく村の共有だったため、地主・小作関係も貧富の差もなかった。そういうところでは、集団の歌はあっても個人で歌う歌がなかった。

一方同じ沖縄でもかなり占くから地主・小作関係ができ支配階層ができていたところでは、集団の歌と並行して個人の歌う歌がかならずある。原始共産制のようなところから社会階層分化が起こるあたりで、だれかえらい人が一人歌をうたえばみんなかそれに耳を傾けなければならないというシチュエーションが、集団のなかに生じてくるのですね。

インドネシアでも同じことかあるのです。バリ島では農地は個人の所有ではなく村の共同所有になっている。したがって村人は、多少の階級制度はあるけれども平等です。お金がどこかから人ってもみんな村のものになるわけです。たとえば出演料を払ってケチャを演奏してもらっても、払ったお金はケチャの先生に入るのではなくて村に入るのです。・・・・こういうのは地主・小作関係のある社会ではできない芸能なんです。

同じインドネシアでもジャワ島のほうに行くと階層分化が進んでいて、人間にはすべて貧富の差、家柄の軽重の差、年齢の長幼の序が明確にあって、言葉づかいも礼儀作法も、そういう人間関係で変わってくる。だれは家のなかのどこまで入れるかということも、こまかく決まっている。そういう社会でガムラン音楽が生まれている。(小泉文夫:P.188 團伊玖磨+小泉文夫「日本音楽の再発見」講談社現代新書 


少し古い書物から引用した小泉文夫(こいずみ ふみお 1927-1983)の言葉なので、現在の国頭村ではどうなっているか分りませんが、共に「細かくてうるさいほどの約束事」のもと

  • 比較的平等に暮らす原始共産制集団が生む音楽
  • 地主小作関係が生まれ貧富や家柄や年齢などの差が厳格になりはじめた階級社会が生む音楽

とでは音楽の内容がが大きく異なる、と小泉が主張しています。

その例としてあげたのが、

  • 沖縄本島〔北部の国頭村/南の地域〕
  • インドネシア〔バリ島/西にあるジャワ島〕

それぞれの音楽。GoogleMapの地図で場所をご確認下さい。

この説に対して私たちが納得するかどうかは別として

私たちは一般の旅人として、何かの個人的な目的をもってどこかを訪問するのですが、専門家はまた別の視点で各地を比較する目的をもっていることがわかります。

もちろんどちらが「上等か」などは問題ではなく、それぞれの宿命なのでしょう。

専門家が仕事としての宿命の他に個人的な楽しみをもつことがあるとすると、私たちもまた、個人的な楽しみをもちながらも、違った視点で訪問先を見る余裕があってもよさそうに思うのです。

500年後くらいには、

旅人こそ、専門家を大いに刺激する情報源だ、と変質しているかもしれませんね(笑)。

あらゆる人の旅には、各種専門家にとって貴重な資料が埋もれており、これを各種の専門家が活用できる何らかの手法が生まれている時代になっているのではないか、という見通しです。