「食卓の向こう側」動物福祉 4月19日

異常プリオンに脳細胞が侵される、遅発性かつ悪性の中枢神経系疾患であるBSEが、ウシやシカあるいはヒトに発生する原因は、いまだ科学的解明がなされていない。しかし、BSEにしても、家禽類に大量発生の兆しのある鳥インフルエンザにしても、根っこは同じだ。人間が食するために飼育されてきたウシやニワトリは、肉や卵を量産するための単なる道具としかみなされず、そこに動物に対する配慮や愛情は微塵もない。「動物福祉」という観点をおざなりにして、人間の都合でウシやニワトリを扱ったつけが、BSEや鳥インフルエンザという形で世界を席巻しているのだ。

日本でも、江戸時代まではウシや豚の肉を食べる文化はなかった。ところが明治以降の近代化によって食事も欧米化し、急速に肉の需要が増え、それまでは広々とした土地で放牧されていたウシが急に牛舎に閉じ込められ、極めて閉鎖的な環境で管理され、食肉になるためだけに飼育されるようになった。それまで伸び伸びと野原を闊歩していたウシが、大変なストレスを被ることになったのは明らかだ。

また、農家の庭先をチョロチョロしていたニワトリが、卵を大量生産するために、いつしか身動きもとれないような極端に狭いケージに押し込められ、昼夜を問わずただひたすら卵を産むためだけに生かされるようになった。産卵効率を上げるために、ニワトリは1週間の絶食・絶水の「強制換羽」を強いられることがあるそうだ。その間のニワトリのストレスはあまりにも甚大で、それが原因でサルモネラ菌の保菌量が一気に高まるのだという。本来、ニワトリの寿命は10年以上であるはずなのに、狭小のバタリーケージ(通常3.3m2に80羽収容)で産卵を強制されるニワトリは、せいぜい長くて2年しか生きられないのだ。

世界各地で鳥インフルエンザの大量発生が報告され、農水省は2004年3月、ウインドレス鶏舎の新設を推進し始めた。ウインドレス、即ち、鶏舎に窓が一切ないのだ。日の光が完全に遮断された窓なし鶏舎は、ニワトリにとって本当に健康的な環境か。確かに、外界からの飛沫感染を防ぐ確率は高まるだろうが、結局はそれだけでしかない。前後左右に動くこともできず、羽を伸ばすことさえもできない環境で、ストレスのため頭を上下に動かしたり振ったりする異常行動を長期間繰り返すニワトリが、更に日の光までも遮断されてしまったら、いったいどうなってしまうだろう。益々、おかしくなることは目に見えている。鳥インフルエンザの飛沫感染は防御できても、ニワトリの健康は加速度的に害されていくのだ。

ウインドレス鶏舎は、健康卵の常識である「平飼い(放し飼い)」を単純に否定するものだ。主題を鳥インフルエンザだけに置けば、農水省の見解も一理あるかもしれないが、その代償があまりにも大きすぎる。日光に当たらない不健康なニワトリの産んだ卵なんて、健康卵であるはずがない。

環境への配慮や動物利用への倫理観の高いEUでは、バタリーケージを2012年までに段階的に廃止することを決定している。「バタリーケージシステムは、ニワトリにとって無味乾燥な環境である。その狭さと無味乾燥な環境ゆえに、このケージの雌鶏の福祉に対していくつかの固有な不利益を深刻に与えるものである。」これがEUの認識だ。

2004年OIE(国際獣疫事務局)総会で採択された「動物福祉のための指針原則」には、次のような興味深い記述がある。

①動物の健康と福祉の間には重大な関連性がある。

②飢え・渇き・栄養不足からの自由、恐怖と苦悶からの自由、身体的・温熱的不快感からの自由、痛み・障害・疾病からの自由、正常な行動を示す自由(5Freedoms)は、動物福祉における有益な手引きである。

⑥動物の利用には、これらの動物の福祉を実行可能な範囲で最大限保証する倫理責任が伴う。

⑦農用動物の福祉の向上は、しばしば生産性と食の安全の向上につながることがあり、よって経済的利益をもたらす可能性もある。

EUのような具体的な基準のない日本は、OIEの基準を参考にして、より質の高い公衆衛生を目指し、動物福祉への配慮を怠らない努力をしなければならないのだ。

日本は、タイから多くの鶏肉加工品を輸入している。現地の安い労働力のおかげで価格は非常に安価だが、実は今、タイのブロイラー加工輸出協会では、動物福祉に対する配慮を、ビジネス上の重要なコンセプトとして捉えている。EUへも輸出するタイでは、EUの基準を可能な限り遵守することが求められるからだ。タイは、EUへは、動物福祉に配慮しながら生産した有機的な鶏肉(オーガニックミート)を輸出する。しかし、消費者がそれを求めない日本に対しては、オーガニックミートは輸出していないのだ。日本人の食への意識がいかに低く、人間の独善に満ちたものであるかがうかがえる。

タイ駐在の、ある日本政府職員の言葉が胸に突き刺さる(西日新聞社刊「食卓こう側」シリーズに紹介)。「法律は、国民の意識を超えたものにはなり得ない。」一国民として、恥ずかしくなる言葉だ。日本はもっと、「食」への意識を高めていかなければならない。便利食の追及は、健康阻害と表裏一体だ。地球上の全ての生き物が健康であることが、持続可能な社会をつくる。ウシやニワトリとの向き合い方を、日本も再確認する時に来ているのだ。

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小池環境大臣 4月17日

「永田町では、女性は男性の10倍働かないと認められないところもあり、頑張りすぎた」との小池百合子環境大臣の発言に、私はとても違和感を覚える。ひねくれものと言われそうだが、小池大臣は、何か勘違いをしているのではないだろうか。小池大臣の勘違いではないとしたら、永田町というところは、いまだにとんでもなく封建的で女性蔑視の社会ということになる。

小池大臣の理解に苦しむ発言は、退院のときにも見られた。病気になったことについて、「私はロハスを心がけているのに、こんなことになってしまって・・・」と、「ロハス」という言葉を誇らしげに口にしていた。この人は「ロハス」の意味がわかっているのだろうかと、心底疑問に思った。

小池大臣のいう「10倍働く」とは、どういう意味なのだろう。環境大臣として本当に頑張っているのなら、何故、環境破壊につながる新石垣空港建設に待ったをかけなかったのか。発表された「環境大臣意見」は、沖縄県への再調査を要求するものの、それさえクリアすれば着工にGOサインを出すものだった。国交省と肩を並べて、地元の土建業界の完全に言いなりになってしまっていた。そんな環境大臣なら、いないほうがましだ。

中古電気用品を事実上ゴミにしてしまう電気用品安全法についても、次の政局を見据えてか二階経産大臣の前に、見事に陥落。環境的配慮に立った見識は示されることなく、こんな人が環境大臣なのかと、マータイ女史に対して恥ずかしさが募った。開いた口がふさがらないとはこのことだ。健康で持続可能なライフスタイル「ロハス」とは、まるで正反対の小池大臣の言動ではないか。そもそもロハスな生活を送っていれば、健康を害して入院することなんてあり得ない。

小池大臣が人の10倍も働いてどんな仕事をしていたのかというと、国交省や経産省の利権を保護するための片棒をかついでいたにすぎないのだ。環境大臣としての本来の役割よりも、自身の永田町でのポジションをいかに上昇させていくか、ひたすらそれだけを考えた結果が、新石垣空港建設問題や電気用品安全法での小池大臣の挙動なのだ。

出産あり育児あり介護あり、男女を問わず家族が協力しあって生きていくことに理解を示す企業が増えつつある現代に、小池大臣の「10倍発言」は全く馴染まない。健康を早く取り戻していただきたいと思う気持ちに嘘はないが、環境大臣としての小池氏には、そろそろ引退を願いたい。
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小沢民主党と小泉自公政権との対立軸 4月16日

小沢民主党新代表が、代表選挙立候補にあたり示した「改革八策」の第一項には、「年金・介護・高齢者医療の基礎的部分は消費税でまかない、公正で安定した社会保障制度を確立する」とある。消費税の使途が非常に明確で、医療福祉の基礎的部分が保障されるという意味でも、私たち庶民にとって受け入れやすい内容だ。歳出削減もままならず、ムダ遣いの財政赤字の穴埋めのための増税路線を強調する政府与党とは目線の違いが明らかだ。

基礎年金は、一定程度の水準を保ち、誰もが享受できる仕組みが必要だ。現行制度のままだと、基礎年金額は先細り。独居老人では、まともな生活ができないくらい小額になってしまう。しかし、小沢代表が言うように、消費税を基礎年金に充てるということになれば、社会全体で制度を支える本来の趣旨に近づき、殆ど買い物をしない人でも、最低限の年金を受け取ることができるわけで、限定的ではあるが貧富の格差がある意味是正されることとなる。

年金一元化を考える時、消費税を基礎年金の財源にあてることは、非常にわかりやすい話だ。共済年金や企業年金などの2階建ての部分については、国民年金基金に一元化すれば、話はより明快になる。全ての人々が、掛け金に応じて受給額が決まる仕組みだ。必要ならば、職域年金を上乗せすればよいだけのことだ。

年金制度は、全ての人々が公正に享受できるように、一律のシステムで、わかりやすいことが必要だ。1/3の税負担分を1/2に引き上げるという政府与党の方針では、まったく不十分だ。残りの1/2を未納率40%の年金保険料で賄えるはずがないし、賄うというのなら、基礎年金額は、益々削減の一途をたどる運命だ。基礎年金には消費税をあてることが、一番公正だ。ここに明らかに、小沢民主党の小泉自公内閣に対する対立軸がある。小泉総理の言葉巧みのパフォーマンスに、もうこれ以上騙されてはならない。
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成長ホルモン入り牛乳が巨乳をもたらした! 4月15日

近年、米国のティーンエイジャーのバストが、異常に巨大化している。それは、成長ホルモン入りの牛乳の影響だとする認識が、米国でも徐々に浸透し始めている。その成長ホルモンとは、牛ソマトトロピン(rBST:米国での商品名ポジラック)という物質だ。rBSTは、泌乳量を増加させる目的で搾乳牛に投与される。rBSTは、牛が乳を出すときに分泌するホルモンから人工的に分離した遺伝子でつくられる成長ホルモンで、牛に注射すると、4倍量の乳が出るといわれている。

米国も日本と同様、牛乳の生産者価格はここ数年安値のまま。rBSTを投与して、1頭あたりの搾乳量を増やすしかなく、米国の乳牛の30%以上がrBSTを投与されていると言われている。乳業者は、人気アイドルを起用し「Got Milk?(牛乳飲んだ?)」という大々的なキャンペーンをはり、子どもたちに成長ホルモン入りの牛乳を、半ば強制的に飲ませてきたのだ。そしてそれこそが、女子の乳房がホルスタインのように巨大化した原因だと言われているのだ。

rBSTを投与された牛の中には、異常に膨れ上がった乳房をズルズル引きずりながら歩くものもいるという。そこまでいくと、奇形と区別がつかないではないか。更に、女性ホルモン「エストラジオール」が、乳がんの誘発因子であることと同様に、rBSTの大量投与も、乳がんの発生のリスクを高めている可能性が高い。米食品医薬品局FDAは、「rBSTは人体に一切影響はない」との公式見解を発表しているが、米国富裕層は、牛肉同様にホルモン不使用のオーガニック牛乳を選んでいるという。

一方我が国では、使用申請がこれまで一度も挙がったことがないために、牛ソマトトロピン(rBST)が承認された経緯はなく、国内の乳牛に投与されたデータはない。しかし、承認されていないということは残留基準がないことを意味し、米国から輸入される牛乳にrBSTが使用されていたとしても、まったくチェックのしようがないというのが実情なのだ。食品添加物に関するFAO/WHO合同専門家委員会は、rBSTは消費者に無害であると一旦は報告しているが、EUは、1990年来、正式にrBSTを使用禁止とし、rBSTが残留する米国産牛乳をシャットアウトしている。もっとも、EUの場合、域内酪農家の保護の観点が強く、建前では「rBSTは牛に乳房炎や四肢障害をもたらすため、動物の健康・愛護のために禁止する」とは言うものの、実際には貿易調整の意味合いが強いのだ。

rBSTにかかわらず、日本ではエストラジオールなど天然型のホルモンに関する使用規制はない。米国では天然型3種類(エストラジオール・プロゲステロン・テストステロン)合成型3種類(ゼラノール・トレンボロンアセテート・メレンゲステロール)合計6種類の成長ホルモンの使用が認められており、これまで天然型成長ホルモンは、税関でノーチェックだったわけである。EUでは成長ホルモンの一切の使用を禁止しており、1989年からは成長ホルモンを投与した牛から生まれた牛の肉の輸入についても禁止したために、とうとうWTOまで巻き込む貿易戦争となった。結局、衛生植物検疫措置の適用に関する協定(SPS協定)違反との裁決が下されたが、その後もEUは、健康被害の恐れがあるとして禁輸措置を継続している。

徹底的にリスクを排除しようとするEUの姿勢には、人間と併せて動物の健康をも勘案した、持続可能な社会への配慮がうかがえる。自然の摂理に満足せず、成長ホルモンを投与して人工的に乳量を増やす米国の酪農は、工業主義で、人体や牛への影響を無視した酪農家の傲慢なビジネスでしかない。

欧米の1/6~1/5でしかなかった日本女性の乳ガン発生率が、近年急増している。1996年には、女性が罹患するガンの第1位が乳ガンとなり、2005年の罹患者数41,500人に対し、なんと2004年の死亡者数は10,542人にものぼる。日本女性にとって、乳ガンが重大な疾病となった今日、日本政府は、やっと今年5月29日に、天然型の成長ホルモンへの残留基準を設ける措置を講ずる。国内で承認されていない農薬については、残留基準もなく、まったくノーチェックで流通していた現状を改善するために、承認されていない物質について0.01というゼロに近い残留基準値を設定し、基準を上回る食品の流通を阻止する狙いで定められる「ポジティブリスト制度」の一環で、天然型成長ホルモンについても基準値が設けられることになるのだ。

食品安全委員会が「ポジティブリスト制度」の審議を始めて以来3年もの月日を費やし、やっと来月この制度はスタートする。審議委員は、会議に出席する度に3万円の報酬を得る。食品安全委員会常勤委員については、なんと年収2,000万円とささやかれている。そんな人たちが米国産牛肉輸入再開のお先棒をかついでいたのだ。この国の食品安全行政はいったいどうなっているのだろうかと、疑問を抱くのは私だけではないはずだ。食品関係業者の利益確保が目的なのか、「食の安全」を実現することが目的なのか、さっぱりわからないのが日本の食品安全委員会の実態なのだ。

牛ソマトトロピン入りの牛乳を飲まされた結果、乳房がホルスタインのように巨大化した米国女性の実態は、他山の石ではない。BSE問題で判明したように、米国畜産業界の飼料規制はあまりにも杜撰だ。米国の言いなりになり米国産牛肉や乳製品を日本が再輸入することになれば、間違いなく日本人の健康は阻害される。日本は主権国家として、世界の公衆衛生のためにも、断固として米国の食品衛生管理の質の向上に寄与する必要がある。そのためにも、まずは日本国内の衛生管理システムの徹底構築が急がれる。

昨日の内閣委員会での川内博史議員に対する食品安全委員会の見上氏の答弁で、食品安全委員会は、BSEが発生した米国から、牛肉の輸入を再開するために活動していた委員会であったことが露呈した。「食品安全」の名のもとに国民を欺くことが目的の委員会なら、即刻解散したほうがマシだ。何よりも、私たち消費者が食の安全に関心を高めていくことが必要だ。見て見ぬふりをするのをやめ、鋭い眼差しで食品の裏側に潜む様々な利権に目を凝らすことが重要だ。日々口にする食材について、私たちが「健康を阻害する食品は受け付けない」という強い姿勢で臨むことが、国を動かす原動力になるのだ。
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千葉7区補欠選挙「福田康夫登場」 4月14日

小沢民主党新代表就任直後の選挙ということで、千葉7区の衆議院補欠選挙が一気に盛り上がりを見せてきた。民主党の26歳の若い女性候補は、連日パワー全開で奮闘中。対する自民党候補は、官僚出身で埼玉県副知事からの転身、当選すればまさしく霞ヶ関迎合型の議員になること間違いなし。どちらが国民にとって身近な存在か、火を見るよりも明らかだが、そうは問屋が卸さないのが選挙の常道だ。

一足先に名乗りを挙げた民主党候補は、当初は全く勝負にならない様子だったが、小沢一郎新代表の誕生で、一躍勢いに乗った。今も情勢に変わりはないと思うが、金曜日の今日は、なかなか大変な1日となった。自民党候補の応援に入った福田康夫氏が、予想以上に良い味を出したのだ。このところのふさぎ込み寡黙な印象を一気に払拭するような爽快なパフォーマンスに、驚いた人は多いはずだ。何より、千葉7区の人々には、新鮮に映ったに違いない。本来の福田氏は、意外に明るい人物なのだろうか。

続いて夕刻には、谷垣・安倍の二人の総理大臣候補が応援演説。ポスト小泉の面々が、次々と目の前に現れると、見る人の気持ちをいやがおうにも掻き立てる。裏方で票固めをする小沢氏をよそに、今日のところは、自民党のパフォーマンスにしてやられた!?

しかし、肝心なのは候補者本人の人となりだ。応援弁士が豪華絢爛であっても、有権者の心を打つのは候補者本人の言動だ。地元意識の強いこの地では、民主党女性候補の方が明らかに有利だ。何よりもはじける若さが、人々の期待を一身に浴びる。26歳なんて、羨ましいくらい若くて瑞々しい。未来を切り開き前進するパワーを持つ候補は、どっちなのか。答えを出すのに、そう時間はかからないはずだ。
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食糧自給率40%と食品大量廃棄の実態 4月13日

ダグラス・ラミス著「世界がもし100人の村だったら(たべもの編)」には、「1kgの牛肉をつくるには20tの水がいる。しかし、一方で、料理に使う綺麗な水さえない村人が、16人いる。」というくだりがある。食糧自給率が40%の日本にあって、ホテルや宴会場・レストランでは、手付かずの料理や賞味期限の切れていない食品が大量に捨てられていく。コンビニでは、売上の2~3%の食品が毎日廃棄処分されている。「売れ筋」しか置かないコンビニでは、「死に筋」商品は、情け容赦なく在庫も含めて大量処分される。それは、自宅の冷蔵庫も例外ではない。買っても結局食べない食品が、大量に廃棄されている現実がある。

1999年、科学技術庁は、日本で食べずに捨てられている食品を金額に直すと、年間11兆円に達すると報告した。日本の農業と水産業とを合わせた生産額とほぼ同等のこの数字は、食糧自給率の低さをよそに、つくった食べ物を丸ごと捨てて、金任せに食品を輸入し続ける日本人の、食への意識の低さとそれがもたらす悪循環とを如実に物語っている。地球上の約半数の人々が、十分な栄養を摂ることができない一方で、私たちは「飽食」を「放食」と履き違えている。廃棄物学者で“ごみ博士”と呼ばれる高月紘氏は、「リサイクルより前に、膨大な食べ残しを減らすことが先決だ」と主張する。

これが教育かと思うくらい、現代の学校給食は異常だ。「学校給食衛生管理の基準」では、パン・牛乳・おかずなどの残り物は、すべてその日のうちに廃棄処分するよう求めている。勿論、O-157の食中毒事件がきっかけだ。手付かずの余ったパンの袋を破いて、生ゴミ入れに惜しげもなくパンを捨てるのが、現代の教師の姿だ。「給食費を払っているのだから、残そうが食べようが本人の自由」と言い放つ教師もいるそうだ。そんな教育を受けた子どもたちは、いったいどんな大人に成長するのだろうかと、心底心配になる。

過酸化脂質の塊である牛乳が給食にふさわしいかどうかは再考の余地があるが、牛乳パックでさえ、リサイクルせず可燃物処理している学校は多い。「瓶入り牛乳を用いないのは、割れたら危険」、「コップに分注しないのは、コップを使えば洗い忘れもあり不衛生」と主張するのは、ある町の教育委員会だ。心身の健全な成長を育むはずの給食が、衛生管理にばかり目が行き、本来なされるべき教育と大きく乖離してしまった現実がある。

食べ残しを減らすことが、「食」への意識改革の第一歩だ。そして、どうしても残った生ゴミは、焼却処理するのではなく土に返すのが、次なる一歩だ。

家庭の生ゴミに「ぼかし」と言われる有用微生物の粉をまぶして土に返すと、その土は極上の土へと生まれ変わる。そこに育つ野菜は甘くて美味しく非常に元気。フィットンチッドという成分が害虫を寄せ付けない臭いを発し、元気野菜には虫は寄り付かないそうだ。本当に健康的な野菜には、虫はいないものなのだ。しかし、私たちが、生ゴミを土に返すことがどんなに有効なことだと理解できても、特に都会に暮らす人々にとっては、絵に描いた餅でしかない。広い庭や畑を持たない人々にとっては、実際問題難しい話だ。そこには、行政の発想の転換が求められる。地域社会のシステムとして、生ゴミを土に返す仕組みを作ることが重要なのだ。

生ゴミは、焼却処分するものではない。焼却は、酸性雨の原因となる窒素酸化物や地球温暖化ガスを発生させる。江戸時代のように生ゴミを土に返し、その元気な土壌で元気な野菜を収穫する、この好循環を取り戻すことが、私たちに健康で豊かな暮しをもたらしてくれるのだ。例えば、大量退職する団塊の世代が、都市の生ゴミを周辺の田舎の土へと返し、その熟成された極上の土を耕し野菜を育て、収穫物を再び都市へと還元する、そんな理想のサイクルを社会全体で構築していくことはできないだろうか。一人一人の取り組みが社会を動かす原動力であることは間違いないが、食べ物が大量廃棄される「放食」ニッポンは、少々のことでは追いつかないところまできているのだ。

教師も含めて、食べ物を大切にし、ゴミを減量していくことを否定する人はいないと思う。しかし、今尚、政府は巨大なゴミ焼却場の建設を進めている。焼却場を稼動させるには、実際一定量のゴミが必要なのだ。焼却ありきの日本のゴミ行政では、ゴミ減量よりも焼却場の建設がメインストリームだ。「チームマイナス6%」や「クールビズ」が、政府のパフォーマンスに終わらぬよう、食育の観点からも食べ残した生ゴミの土への帰還を、積極的に推進していくべきだ。

食糧自給率40%にもかかわらず、24時間いつでもどこでも食べ物にありつける現代社会に、矛盾を感じないか。大量の輸入食品が入る一方で、しかしそれらは、大量に廃棄処分されていることを忘れてはならない。本当の意味で私たちが求めなければならない「食」の姿を、もう一度考え直してみる必要がある。全国津々浦々、郵便局の倍近く存在するコンビニの恩恵を、私たちは否定できない。しかしコンビニは、確実に社会に弊害をもたらしている。大量の食品廃棄・大量の添加物、そして味気ない食卓が招く子どもや大人の異常行動、全ては便利さと引き換えに社会が被った悲劇だ。

西日本新聞社刊「食卓の向こう側」シリーズは、「1人の100歩より、200人の半歩。踏み出すその足が、未来へと続く道となる。」と明言する。半歩踏み出す一人一人の背中を押して、社会全体に自信と勇気、そして次世代に確実に明るい未来をもたらすことが、政治の責任だと私は思う。

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「食卓の向こう側」発達障害と化学物質 4月12日

コンビニ弁当ばかりを食べた豚に、死産や奇形が相次いだ事実。山中を逃げ回る最中、仲間をリンチ虐待した連合赤軍の一団が、まったく青野菜を食べていなかった事実。便利食を止め、お母さんの手作り食に変えた途端に、アトピーや喘息が治る子どもがいる事実。動物性タンパクや刺激物・酸化の進んだ脂肪を止め、無添加野菜中心の食事に変えたところ、二度とガンを再発しなかった事実。これらを、すべて偶然の結果とするほど、人類の叡智は未熟ではないはずだ。

2002年の文部科学省の調査によると、学習障害(LD)や注意欠陥多動性障害(ADHD)などの軽い発達障害の可能性のある子どもが、小中学生のなんと6.3%にものぼる。意外に高い数字だ。2003年、東京都神経科学研究所の黒田洋一郎氏は、ごく微量の塩化ビフェニール(PCB)が脳の機能発達を阻害する仕組みを、世界に先駆けて解明した。それは、即ち、PCBなどの有害物質が、発達障害などの行動異常や知能低下の一因になり得ることを示すものだ。黒田氏は、科学実証主義が根強い中、水俣病と同様の問題が水面下で起きているのではないかと、危惧する人の1人だ。

発達障害やアトピーなどアレルギーの原因は、現在も、科学的には解明されていない。専門の医師の中には、それらを食事の影響であるとする見解に否定的な人もいる。ある小児科医が「食事で自閉症や学習障害・行動障害が治せるという研究報告があるが、国際学会や論文にそのようなエビデンス(科学的証拠)の報告はない。食事の重要性はわかるが、食事で治せるという誤解を招く表現はよくない。一部の報告を取り上げて、それが一般論であるかのような報道はやめてほしい。アトピービジネスのような食事療法がはびこっては困る。」と述べている。

この医師の言葉を、そのまま受け止めることはできない。過去に食事を遠因とするエビデンスがないことが、食事と健康障害とを切り離す理由になるだろうか。エビデンスがないのは、今まではむしろ、その点をあえて忌避してきた結果ではないか。食事の重要性は、何も無添加が良いということばかりではない。今まさに問われているのは、家族で食卓を囲み育まれる心身の豊かさだ。食を通してどう生きるかが問われているとき、アトピービジネスとしての食事療法など、出てくる余地はない。そもそも、無添加食品のほうが体に良いに決まっている。

また、ある精神科医は、「発達障害と環境ホルモンの因果関係について、現在の精神医学界では、極めて不確かで憶測の域を出ないと考えられている。」と明言する。先の小児科医やこの精神科医に代表される発言からは、食事の影響であると決め付けたくないという医師の姿勢が明らかに見てとれる。それこそビジネスとしての医療の領域を、侵されてしまうことになりかねないからだ。

水俣病公式確認50年の節目を迎える今、母親の胎内で被爆した胎児性水俣病患者たちは、誕生の日から今日まで、不自由な体で大変な苦労のもと生きてこられた。胎児のとき、へその緒から取り込んだメチル水銀化合物は、脳の神経細胞をおかし身体に様々な影響をもたらした。健常者ならもっと高齢で現れる機能障害が、40代の彼らには現れている。

環境生命学の森千里博士が検査したへその緒からは、日本では既に製造や使用が中止されているはずのPCB(ポリ塩化ビフェニール:カネミ油症が原因で1972年製造中止)やDDE(1971年まで使用されていた農薬DDTが変化した物質)、トリブチルスズ(1997年に製造中止された船底塗料)、クロルデン(1986年に禁止されたシロアリ駆除剤)、そしてダイオキシン類など、環境ホルモン作用が疑われるこれらの物質が100%検出され、その他限られた調査でも、20種類以上の化学物質が胎児を汚染していたという。森博士は、「化学物質の複合汚染と健康との因果関係の解明は不可能に近い。ただ、『先天異常の原因の大半が不明』という事実と『胎児のへその緒から複数の化学物質が検出される』という事実が『まったく無関係とは言い切れない』」と強調する。もっともではないか。

科学的に証明することが困難であることを理由に、化学物質の健康への影響を無視することは、もはやできない状況に現実は直面している。二度と公害を起こさないという政府の決意も大切だが、化学物質が人間の体を蝕む事実から目をそらさず、国策として正面から添加物や環境ホルモンの問題に斬りこみ、本当に意味のある食育に取り組んでいくことが重要だ。もう、言葉を濁している余裕などないのだ。

ルソーの「エミール」には、教育の原点は「自己を守る知恵を身に付けること、何をどのように食べれば良いかを知ること。」とある。「国と郷土を愛する」との文言ばかりを強調するのではなく、是非この言葉も教育基本法に盛り込むべきだ。「自己保存する知恵と生き抜く知恵を身に付けることが、現在問題となる多くの課題を解決する糸口になるのではないか」と、西日本新聞社刊「食卓の向こう側」シリーズは訴えている。それこそまさに、食育の原点と言える。

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憂うべき食糧自給率 4月11日

我が国の食糧自給率は、現在、カロリーベースで約40%。即ち、残りの60%を輸入食品に頼っているわけで、他国への依存度が非常に高いことがわかる。他の先進諸国を見ると、フランス132%・アメリカ125%・ドイツ96%・イギリス74%と、日本とは比較にならないくらい高く、仮に輸入がストップしても、これらの国々は自国で十分にやっていけるだけの生産能力を確保しているのだ。

現代の日本人の食を支える輸入食品は、全国に点在する検疫所でチェックを受けて、日本の基準に照らして安全とみなされたものだけが流通することが建前となっている。現在、輸入食品監視業務に携わる厚生労働省検疫所は、国内に31ヶ所ある。しかし、日本より輸入食糧の少ない米国に比して、検査にあたる職員の数は1/20以下、たったの295名という少なさだ。

西日本新聞社刊「食卓こう側」によると、横浜港には、何年もの間、ポリタンクに塩漬けされたままの中国産ワラビが野ざらしに置かれていたという。さすがにテントを張った場所もあるが、風雨にさらされ、温度管理もなされぬまま、暑さでポリタンクが割れ塩を吹いている状態のものもあったようだ。信じられないのは、何年たっても、どういう状態にあろうとも、ワラビの形を維持している限り、これらはいずれワラビの水煮として販売されるという事実だ。しかも、田舎の農産物直売所で、産直野菜と並んで、いかにも特産物の顔をして販売されるというのだから驚くばかりだ。食品衛生法では、塩蔵品は何年野積みしても法的には問題なく、最終商品である水煮パックが衛生基準を満たしてさえいれば良いということなのだ。山菜うどんや山菜そば、もう口にする気には、私はならない。

港湾労働組合書記長の奥村芳明氏は、O-157もBSEも、日本の検疫体制の不備が招いた、起こるべくして起こった問題だと指摘する。中国産ホウレンソウに流通過程で残留農薬が検出された例をみるまでもなく、殆どの輸入食品が現物審査がなされぬまま、書類の提出のみで検査をパスしてしまう実態を、このまま放置するわけにはいかない。問題なのは、食品衛生にあまりにも無頓着な、国の姿勢だ。体裁だけ「食育基本法」を制定しても、輸入食品の検疫体制を不十分なまま放置していては、国民の食の安全や健康は守られない。

検疫所では、更に恐ろしいことが行われている。陸あげした輸入食品は、害虫処理のため燻蒸処理されるが、驚くべきことに、お馴染みのバナナは、なんと猛毒の青酸ガスで処理されているという。米や麦は臭化メチルが使用され、いずれの場合も、薬品の一部が食品に残存することは今や常識。淡路島モンキーセンターで90年代後半に相次いだ、四肢に障害のあるニホンザルの誕生は、農薬で汚染された小麦などの輸入食品を餌として与え続けたことが原因であると言われている。水俣病は猫、カネミ油症は鶏が、人体への影響の予兆だった。このまま日本人が輸入食品を食べ続ければ、将来の人体への影響は推して知るべしだ。

「限られた予算内で、一定の栄養価を得るには、輸入冷凍野菜を使わざるを得ない。」ある病院の栄養士の言葉だ。病気を治すはずの病院で、健康を蝕む可能性のある輸入冷凍野菜が使用されている矛盾を、国は1日も早く解消しなければならない。過去には、給食のパンやベビーフード、「有機無農薬大豆」と標榜する米国産大豆や漢方薬までもから、残留農薬が検出された例がある。このような実態を十分に踏まえた上で、私たちは食材を選択していかなければならないのだ。私たち消費者の行動が、政治を動かす原動力になる。質が悪くても安価な食品を選択する人が多ければ、それに見合った施策しか講じないのが政治というものだ。逆に、少々高くても、安心安全な地域が育んだ身土不二の食材を選択する人が増えれば、それにふさわしく政治はレベルアップされていくのだ。

現在、日本の農家の人口は、わずか3%。日本の農業をここまで衰退させてしまった責任は、間違いなく政治にある。国民が高度成長に浮き立つ頃、1961年、農業基本法の制定で、飼料用穀物の耕作を止めた。1969年、第二次資本自由化により、外資のファーストフード参入が盛んになった。1985年、プラザ合意で円高貿易市場が確立され、日本企業は食品の輸入に走った。1995年、「製造年月日」表示が、「賞味期限」表示に変更された。外国産の輸入食品の製造年月日は、当然、国内産のそれより古くなるからだ。

こうした日本の食糧事情の足元をつく形で、大量に押し寄せる輸入食品は、検疫官の人数にかかわらず、日本の力量ではどうすることもできない伏魔殿と化してしまっているのかもしれない。中途半端な検疫システムでは、食品の安全は確保できない。今や食糧輸入は、政治の道具なのだ。米国は明らかに、穀物を武器に日本の政治をコントロールしようとしている。牛肉問題でも米国は、政治的圧力によって強硬に輸入再開を推し進めようとしている。日本政府の責任は、本当に大きい。21世紀、日本人の健康の確保のためには、医療の充実もさることながら、まずは食糧自給率の向上を追求することが何よりも重要であることを、国民全体の共通認識にする必要がある。

給食のキャベツに虫がついていることは、不衛生ではなく安全の証であることを、子どもたちが理解する食育が必要だ。生産者の顔や育む大地が見える食材を、私たちは求めたい。「食」は、人を良くすると書く。たとえ便利であっても、農薬にまみれた食品によって、良い子は育たない。西日本新聞社刊「食卓の向こう側」シリーズは、日本の食糧自給率の低さをして、「食べ物の選択すら不自由な国に、『国家の独立』という言葉はどう響くのか。」と、謙虚にしかし力強く、日本人の生き方の確かさを、社会に問いかけている。

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食育基本法のあまさ 4月10日

政治の責任で現代の「食」を見直すと言っても、具体的に何から手を付けていくかは非常に難しい問題だ。言うは易く行うは難しだ。昨年7月15日に施行された食育基本法も、抽象的な文言が多く、食品衛生法が示す衛生管理と照らし合わせると、具体的な取り組みへの政府の責務という意味では、不十分な点が多い。例えば学校給食現場で食育を推進しようとしても、食品衛生法や既存の条例が足かせになり、行政指導がなされるケースは多分に想定される。

1996年、学童3名が死亡したO-157による集団食中毒事件が、全ての背景にある。この事件を境に、学校給食や外食産業あるいは家庭など、あらゆる場で、食中毒に対する衛生管理の徹底が強調されるようになった。その結果、学童の食事の1/3を占める給食が、極端に無機的で味気ないものへと変貌していった。教育委員会や学校が、食材の滅菌・殺菌にプライオリティを置くあまり、生野菜は徹底的に給食から排除された。キューリが、熱湯で1分間加熱処理されていることに、愕然とする。キャベツの千切りも同様で、1分間の熱湯処理を経なければ子どもたちに食べさせてはならない。衛生管理の徹底と言われても、これらの行為は明らかに不自然だ。

クッキング保育に取り組むある保育園が、園児にマイ包丁を持たせ調理の体験をさせていたところ、「食材を切るのも洗うのも子どもたちに体験させて良い。しかし、それを食卓に出してはいけません。『おままごと』ですから。」と、行政指導されたそうだ。食育の一環であるクッキング保育に対して、行政は、「子どもが調理したものは食べずに捨てる」よう指導しているのだ。理由は、勿論「不衛生だから」。保育園が独自に漬物や梅干し・味噌などを作り園児に与えることも禁止され、死者を出したO-157事件は、事実上、食育と逆行する方向で行政を動かしているのだ。

衛生管理のみに主体を置くあまり、キューリや千切りキャベツを熱処理させ、子どもの調理はおままごとと決め付けるやり方は、やはりあまりにも不自然だ。行政の怠慢としか思えない。新たに基本法を制定し、食育の重要性を政府が本当の意味で認識するのならば、具体的に栄養士や調理師など専門家の人数を増やし、子どもたちに生野菜を提供できる環境を整えることが必要だ。マイ包丁でつくる野菜たっぷりカレーを、ニコニコ笑いながら園児たちが食べることのできる環境こそが、食育の原点ではないか。

食材にO-157が付着し集団感染した原因は、生ものにあったわけではない。生ものの取り扱い方に問題があったのだ。新鮮な食材を使用し、病原菌を取り除く手間が困難なら、それを可能にするための人員を確保すればよい。地域のシルバー世代の方々を、こういう時こそ活用すべきなのだ。西日本新聞社刊「食卓の向こう側」シリーズは、学校給食の現場では「O-157の悲劇が喜劇になってしまっている。」と指摘する。もっともだ。生のキューリを食べるとき、1分間も熱湯で処理する家庭があるだろうか。あまりにもナンセンスだ。

政治がまず着手すべきは、学校給食の見直しだ。子どもたちの「食」への認識を転換させることが、家庭での「食」への意識改革につながる。学校給食は、地産地消の第一線であるべきだ。給食に中国産野菜などを導入しないよう指導することは、重点的に取り組まなければならない課題だ。給食の向こう側に、生産者の流した汗が見えるとき、子どもたちは嫌いな野菜も残さず食べるようになり、循環型社会の仕組みを理解し、その一員となっていくのだ。「食」は、人間の生き方そのものであり、日本の再建には、「食」の見直しが重要な鍵となるのだ。

食育基本法には、食育を国際貢献につなげるとの文言がある。BSE問題で判明した米畜産業界の杜撰な飼料規制や成長ホルモンの使用、あるいは穀物や野菜などへの農薬の乱用など、米国や中国の食糧への間違った衛生管理に対する警鐘を、日本が積極的に鳴らしていくと解釈したいところだ。しかし、一方で、都市と農山漁村との共生・対流を図り食糧自給率を向上させるとしながらも、最後まで「地産地消」という言葉が本法には一度も出てこない。この先も、米国産や中国産の輸入食糧に大きく依存していくことを大前提にしているとしか考えられず、政府の姿勢に大きな矛盾を感じるのだ。

食育基本法では、各自治体に食育推進計画の作成を促している。しかし、本法施行の平成17年7月以降、実際に計画を立て直した都道府県及び政令市は、全国で3団体にとどまっている。計画倒れを危惧する前に、計画さえ立てられない自治体が大半であることが、食育への認識の甘さを物語っている。「食」の見直しは、待ったなしだ。どういう「食」を選択するかを考えるとき、どういう社会にしていくかが見えてくる。このことを忘れず、私たちは「食」と向き合っていかなければならないのだ。

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「食卓の向こう側」恐るべき豚体実験 4月9日

2002年、図らずも、驚愕の人体実験ならぬ豚体実験が行われた。

コンビニ弁当の回収業者が、廃棄すると処理料がかかるが、豚が食べてくれれば廃棄料がかからないとの理由で、福岡県のある養豚場に賞味期限切れの弁当やおにぎりを持ち込んだ。養豚場も、月々の飼料代を少しでも浮かせようと、賞味期限切れとはいえ腐っているわけではないコンビニの弁当やおにぎりを、母豚の餌にすることにした。

自分でもつまもうかと思うくらい、特に痛んだところは見当たらない弁当やおにぎりだったと語る農場主は、25頭の母豚に、1日3kgずつのコンビニ食を与え続けた。ところが、約4ヵ月後、事態は急変する。母豚のお産で、死産が相次いだのだ。やっと生まれても、奇形だったり虚弱体質ですぐに死んだりと、正常に生まれるべき250頭の子豚が、このとき全滅したのだ。

原因は、明らかだった。人間で言えば3度の食事すべてを、コンビニ弁当やおにぎりでまかなったせいだ。農場主によると、兆しはあったそうだ。コンビニ弁当を与え始めて間もなく、母豚がブクブク太り始めたのだ。栄養のバランスが悪く、高脂質で濃い味付け、ほんのなぐさめ程度の野菜、更には調味料・保存料・膨張剤・酸化防止剤・増粘多糖類・香辛料・着色料・酸味料・pH調整剤・・・数え切れないくらいの添加物、ストレスに弱い豚が、体調を崩すのは当然だった。出産時、本来透明なはずの羊水は、コーヒー色に濁っていた。

この豚体実験に、私たちは正面から向き合う必要がある。「4ヶ月間毎日3食コンビニ弁当」と、そこまで極端な偏食はしなくとも、それに近い食生活を送っている現代人は多いはずだ。合計特殊出生率1.29と最悪の数字を更新する少子化問題は、女性の社会進出や晩婚化だけが大きな要因ではないのだ。現在7組に1組のカップルが不妊症に悩んでいる。産まないのではなく、実は、産めないことが少子化の大きな要因であることを認識し、その原因を正確に分析する必要がある。

「私は一つだけ書けなかったことがある。それは30年後、子どもが生まれなくなるだろうということです。」と、1975年、「複合汚染」の著者である作家・有吉佐和子氏は述べている。有吉氏の予感は、見事に的中した。コンビニ弁当に代表される添加物や農薬にまみれた食品を大量に摂取する現代人の体は、日に日に内分泌かく乱物質(環境ホルモン)に汚染されていく。その結果、精子数減少・子宮内膜症・性同一性障害・免疫異常・知能低下というように、目に見えないところで人体は障害を負っていく。少子化は、コンビニ食やお惣菜など中食に頼る、現代人の偏食がもたらした、言わば必然の現象なのだ。

西日本新聞社刊「食卓の向こう側」シリーズは、テレビでは絶対言えない真実を、警告を持って消費者に知らしめている。スポンサーに平伏するテレビは、スポンサーの不利益になることは絶対に言わない。カリスマ司会者と呼ばれる人ほど、スポンサーの利益が最優先だ。例えば、クノールカップスープのCMがじゃんじゃん流れる一方で、「クノールカップスープの野菜は、中国産です。危険ですよ。」と、呼びかけるテレビ番組なんて有り得ないのだ。私たちには、情報の取捨選択と同時に、情報ソースを賢く選択することも求められるのだ。

外食やコンビニ弁当・お惣菜などの中食は、確かに便利。しかし、それらは、着実に私たちの体を蝕んでいく。親が便利食をやめれば、子どものアトピーや小児喘息が快方に向かうことからも、いかに便利食が人体にとって「毒」であるかがわかる。幸福を求めてバリバリ働いても、それに反比例して、便利食が家族の健康を阻害してしまっては身も蓋もない。このまま便利食が氾濫すれば、間違いなく日本は滅びる。医療費が追いつかなくなり、米国のように、貧富の差による医療の二極化が進行することは避けられない事態となる。

21世紀の日本をどういう国にしていくかは、私たちがどういう「食」を選択するか、というところから始まるのだということを、政治は社会に知らしめる責任がある。ニートやフリーターがあふれ、ガン患者が急増し、機械によって生かされる高齢者が増える社会を、私たちは幸福と呼べるだろうか。そんな近代化に矛盾するような社会の歪みを改善するため、まずは日々の食事を見直すことに、政治は目を向けなければならないのだ。

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