食糧自給率40%と食品大量廃棄の実態 4月13日

ダグラス・ラミス著「世界がもし100人の村だったら(たべもの編)」には、「1kgの牛肉をつくるには20tの水がいる。しかし、一方で、料理に使う綺麗な水さえない村人が、16人いる。」というくだりがある。食糧自給率が40%の日本にあって、ホテルや宴会場・レストランでは、手付かずの料理や賞味期限の切れていない食品が大量に捨てられていく。コンビニでは、売上の2~3%の食品が毎日廃棄処分されている。「売れ筋」しか置かないコンビニでは、「死に筋」商品は、情け容赦なく在庫も含めて大量処分される。それは、自宅の冷蔵庫も例外ではない。買っても結局食べない食品が、大量に廃棄されている現実がある。

1999年、科学技術庁は、日本で食べずに捨てられている食品を金額に直すと、年間11兆円に達すると報告した。日本の農業と水産業とを合わせた生産額とほぼ同等のこの数字は、食糧自給率の低さをよそに、つくった食べ物を丸ごと捨てて、金任せに食品を輸入し続ける日本人の、食への意識の低さとそれがもたらす悪循環とを如実に物語っている。地球上の約半数の人々が、十分な栄養を摂ることができない一方で、私たちは「飽食」を「放食」と履き違えている。廃棄物学者で“ごみ博士”と呼ばれる高月紘氏は、「リサイクルより前に、膨大な食べ残しを減らすことが先決だ」と主張する。

これが教育かと思うくらい、現代の学校給食は異常だ。「学校給食衛生管理の基準」では、パン・牛乳・おかずなどの残り物は、すべてその日のうちに廃棄処分するよう求めている。勿論、O-157の食中毒事件がきっかけだ。手付かずの余ったパンの袋を破いて、生ゴミ入れに惜しげもなくパンを捨てるのが、現代の教師の姿だ。「給食費を払っているのだから、残そうが食べようが本人の自由」と言い放つ教師もいるそうだ。そんな教育を受けた子どもたちは、いったいどんな大人に成長するのだろうかと、心底心配になる。

過酸化脂質の塊である牛乳が給食にふさわしいかどうかは再考の余地があるが、牛乳パックでさえ、リサイクルせず可燃物処理している学校は多い。「瓶入り牛乳を用いないのは、割れたら危険」、「コップに分注しないのは、コップを使えば洗い忘れもあり不衛生」と主張するのは、ある町の教育委員会だ。心身の健全な成長を育むはずの給食が、衛生管理にばかり目が行き、本来なされるべき教育と大きく乖離してしまった現実がある。

食べ残しを減らすことが、「食」への意識改革の第一歩だ。そして、どうしても残った生ゴミは、焼却処理するのではなく土に返すのが、次なる一歩だ。

家庭の生ゴミに「ぼかし」と言われる有用微生物の粉をまぶして土に返すと、その土は極上の土へと生まれ変わる。そこに育つ野菜は甘くて美味しく非常に元気。フィットンチッドという成分が害虫を寄せ付けない臭いを発し、元気野菜には虫は寄り付かないそうだ。本当に健康的な野菜には、虫はいないものなのだ。しかし、私たちが、生ゴミを土に返すことがどんなに有効なことだと理解できても、特に都会に暮らす人々にとっては、絵に描いた餅でしかない。広い庭や畑を持たない人々にとっては、実際問題難しい話だ。そこには、行政の発想の転換が求められる。地域社会のシステムとして、生ゴミを土に返す仕組みを作ることが重要なのだ。

生ゴミは、焼却処分するものではない。焼却は、酸性雨の原因となる窒素酸化物や地球温暖化ガスを発生させる。江戸時代のように生ゴミを土に返し、その元気な土壌で元気な野菜を収穫する、この好循環を取り戻すことが、私たちに健康で豊かな暮しをもたらしてくれるのだ。例えば、大量退職する団塊の世代が、都市の生ゴミを周辺の田舎の土へと返し、その熟成された極上の土を耕し野菜を育て、収穫物を再び都市へと還元する、そんな理想のサイクルを社会全体で構築していくことはできないだろうか。一人一人の取り組みが社会を動かす原動力であることは間違いないが、食べ物が大量廃棄される「放食」ニッポンは、少々のことでは追いつかないところまできているのだ。

教師も含めて、食べ物を大切にし、ゴミを減量していくことを否定する人はいないと思う。しかし、今尚、政府は巨大なゴミ焼却場の建設を進めている。焼却場を稼動させるには、実際一定量のゴミが必要なのだ。焼却ありきの日本のゴミ行政では、ゴミ減量よりも焼却場の建設がメインストリームだ。「チームマイナス6%」や「クールビズ」が、政府のパフォーマンスに終わらぬよう、食育の観点からも食べ残した生ゴミの土への帰還を、積極的に推進していくべきだ。

食糧自給率40%にもかかわらず、24時間いつでもどこでも食べ物にありつける現代社会に、矛盾を感じないか。大量の輸入食品が入る一方で、しかしそれらは、大量に廃棄処分されていることを忘れてはならない。本当の意味で私たちが求めなければならない「食」の姿を、もう一度考え直してみる必要がある。全国津々浦々、郵便局の倍近く存在するコンビニの恩恵を、私たちは否定できない。しかしコンビニは、確実に社会に弊害をもたらしている。大量の食品廃棄・大量の添加物、そして味気ない食卓が招く子どもや大人の異常行動、全ては便利さと引き換えに社会が被った悲劇だ。

西日本新聞社刊「食卓の向こう側」シリーズは、「1人の100歩より、200人の半歩。踏み出すその足が、未来へと続く道となる。」と明言する。半歩踏み出す一人一人の背中を押して、社会全体に自信と勇気、そして次世代に確実に明るい未来をもたらすことが、政治の責任だと私は思う。

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