福岡市長選挙と西日本新聞 8月29日

オリンピックより職員の飲酒運転撲滅!
福岡市の現市長は、おかしい。今村大容疑者は、飲酒運転をある意味、市職員の絶対禁止事項と認識していなかった感がある。職員の飲酒運転も止めさせられず、無理なオリンピック誘致に狂奔する現市長のリーダーシップと資質を、どう考えても疑わざるを得ない状況だ。

そもそも、オリンピック誘致による過剰な公共事業の行く末は、火を見るよりも明らかなように、福岡市民に大きな負の遺産を残すことに間違いはない。3人の子どもたちの命を奪い、家族に一生消し去ることのできない大きな悲しみを与えた今村容疑者を雇用し、飲酒運転をさせていた福岡市の責任の取り方を、今、全国の人々が注目している。東京がふさわしいとも思わないが、速やかに福岡市は、オリンピック誘致合戦から身を引くべきではないか。

期せずして、11月には、福岡では市長選挙が行われる。3人の子どもたちと家族に悲劇をもたらした飲酒運転による大惨事は、市民の多くを、とても現市長に投票する気分にはさせないのではないだろうか。現市長の甘さが、今回の悲惨な事故を招く元凶であったと、十分に考えられるからだ。

この市長選挙で民主党は、議論の結果、新人の吉田宏氏の推薦を決定した。吉田氏の人となりについてはさまざまな評価があるが、個人的に私は、吉田氏が西日本新聞の編集委員であったことに大きな期待を寄せている。かねてよりこのブログで取り上げているように、西日本新聞社は、「食の安心・安全」の観点から、全国(世界)をリードする形でキャンペーンを進めている。西日本新聞社は、定期的に「食の安心・安全」に関するシンポジウムを開催し、本当に健康に良い食べ物とは何か、子どもたちの成長にとっていかに「食卓」が重要か、市民とともに考え、価値あるメッセージを発信し、連載「食卓の向こう側」は、この程第8刊を刊行するまでに及んでいる。

以前このブログで紹介したように、売れ残ったコンビニ弁当を飼料とした豚に死産が相次いだ「豚体実験」も、「食卓の向こう側」シリーズで取り上げた現代社会への大きなアンチテーゼだった。家族で食卓を囲む家庭に育つ子どもは、心も体も健康になり得る。お母さんやお父さんの手料理が、特に無添加の新鮮な食材で作られていれば、それを頬張る子どもの健康は、間違いなく保証される。地産地消を心がけ、生産者と給食を作る優しい笑顔の職員の顔が見える給食の自校方式を推奨するのも、西日本新聞社だ。大手の食品メーカーからの謗りを恐れず、正々堂々と「食の安心・安全」を追及する西日本新聞社の姿勢は、全国紙の質の低下が著しいこんにち、目を見張るほど冴えわたっていると私は感じている。

民主党推薦の吉田氏が見事当選を果たし、西日本新聞社のキャンペーンと同じ方向の政策を実行するならば、それは非常に意義深く、市職員の悪しき慣行の改善のためにも、必ず役立つことと私は信じている。西日本新聞社の「食の安心・安全」への取り組みによって、福岡から、日本の食育の機軸が徐々に大転換を果たそうと、いよいよ動き始めている。そんな賢い福岡市民にふさわしいスマートな市長が、福岡市には必要なのだ。吉田氏の健闘を、私は心から期待する。
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安倍総理で良いのか!! 8月24日

安部晋三官房長官の事実上の後援会「安晋会」の後援会長は、アリコなど米国資本の保険会社を傘下におさめるAIGグループの日本のトップである吉村文吾氏だ。民営化された郵便保険会社が、今後米国資本に取り込まれると現段階で断言することはできないが、少なくとも、郵政民営化自体は、米国から寄せられた年次改革要望書に沿ったものであったことを、もはや誰も否定することはできない。

安倍氏は更に、現憲法下での集団的自衛権の行使を認める解釈の変更も表明している。起訴はされなかったもののA級戦犯容疑者として逮捕された岸信介氏を尊敬する安倍氏の体には、戦争を賛美する軍国主義の血潮がみなぎっている。軍需産業の役員が数多く要職を務めるペンタゴンにとって、世界のどこかで戦争が行われることが必要であることは火を見るよりも明らかであるにもかかわらず、米国との同盟関係を更に強化することを建前に集団的自衛権の行使を認めようとする安倍氏は、21世紀の軍国主義者になりかねない。

安倍氏は、小泉総理以上のアメポチ総理になるだろう。戦後生まれの安倍氏は、実際に戦争の悲惨さを知らないのではないか。日本は、世界唯一の被爆国であると同時に、大陸や朝鮮半島に対しては、侵略や植民地支配を平然と行った加害者でもある。戦争の何たるかを知り尽くしているはずの日本が、戦争をいまや生きる糧としているような米国に追従することは、あまりにも愚かで恥ずべき行為ではないか。戦争は人間を狂わせる。沖縄では、日本軍の兵士が、日本国民を銃撃し自決を促していた。日本国民は、心の底から不戦の誓いを立てなければならないのに、次期総理を狙う安倍氏の本音は軍国主義への回帰なのだから、安倍氏を総理にすることが、いかに危険で浅薄であるかがわかる。戦火の火の粉は、いずれは私たちにも降りかかってくる。そのとき、私たち一般の国民の安全が保障されないことは、今から十分に予測できる。

日本にとって、軍事的に警戒すべき相手は北朝鮮だ。大国である中国とは、日中共同声明の原則のもとアジアで共存していくしかない。北朝鮮の暴走を阻止する軍事的手段を日本が持つことは、確かに必要なことだ。自衛隊が現在保有する戦闘機では、北朝鮮のミサイル攻撃には太刀打ちできない。北朝鮮のミサイルの第一弾が日本に着弾した瞬間から、自衛隊による防衛出動は認められるはずだ。足の長い戦闘機や空中給油機、あるいはイージス艦などへのトマホークの配備は、その点不可欠だ。米軍再編のために3兆円も提供する資金があるのなら、日米安保だけに頼らない自主独立のための軍備に投資したほうが、よほど賢明ではないか。日本に向けられたミサイルを打ち落とすために、必ず米軍が出動するとは思えない。途端に在韓米軍や韓国全土に攻撃の矛先が向けられるからだ。ソウルを火の海に化す状況を、韓国が許すはずがない。米軍は、日本を北朝鮮のミサイルの脅威から、完全に守ることはできないのだ。

安倍氏が総理になれば、米軍への依存度が益々高まり、結果的に日本の防衛力は低下する。安倍氏の政権構想は、自主独立型ではない。小泉総理以上に米国属国主義をひた走る。世界各地で米国が仕掛ける戦争は、米国兵士も含めて多くの尊い命を奪う。戦争の最前線に立つ兵士の精神は尋常ではない。味方をも惨殺してしまう戦場は、現実に在る地獄だ。たとえ後方支援だとしても、日本が米国の仕掛ける戦争の片棒をかつぐことは、先の大戦を反省しているはずの日本が掲げる不戦の誓いに、明らかに反するものだ。

安倍氏のような戦争の何たるかを知らない軍国主義肯定論者に、21世紀の日本のリーダーを、本当に任せても良いのか。AIGグループの日本のトップを後援会長に持つ安倍氏が、330兆円もの日本国民の郵貯・簡保市場を、AIGをはじめとする米国資本に明け渡すことは必至の状況だ。マスメディアも含めて、日本国民は、21世紀の日本の姿をもう一度真剣に考えてみる必要がある。自民党総裁選で安倍氏独走を許していては、日本は必ず方向を誤る。このままではいけない。
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離島訪問「私は忘れない」 8月20日

トカラ列島の三島村を訪問した。本土から遠く離れ、週3回の定期便があるだけの島の人々の暮らしは、同じ日本国民でありながら、あらゆるインフラが不十分で、生活は極めて不便だ。しかし、島の人々は、なんとかして島の振興をはかろうと、必死に知恵をしぼっている。

今日は、島民の皆様の様々なご意見を聴いた。現地に行かなければ知り得ない情報や生活上の問題点は、自分の不勉強さが身にしみる、目から鱗が落ちるほど衝撃的なものばかりだった。

最も印象的だったのは、「航路は島民の国道だ」という一言だ。島民の暮らしは、週に3度の定期便に左右される。本土の人々はいつ何時でも国道を利用できるのに、同じ日本国民でありながら、なぜ島の人々は、せめて1日1回の定期便さえも確保できないのか。経済効率を理由にする前に、忘れてはならないことがある。それは、島の人々はまさに、紛れもなく日本の領土・領海とEEZ(排他的経済水域)を守っているという厳然とした事実だ。

当然の結果として、郵政民営化をはじめ「改革」と称する小泉政権の5年間は、島の人々の暮らしを追い詰めるものばかりだった。同じ日本国民なのだから平等に扱って欲しいという島民の思いは、小泉政権が拡大させた格差社会の現実を如実に表すものだ。本土で救急車を呼べば5分以内にとんで来るのに、島から救急ヘリの要請を出しても、早くて1時間半、場合によっては3時間かかることもある。天候によっては、1日以上かかることさえある。「同じ日本国民なのに、何故こんなに・・・助かる命も助からない」胸に迫る言葉だ。

島の診療所には、月3回ほどしか医師は来ない。人口の4割以上を70歳以上の高齢者が占める島には、一般内科の医師は派遣されても、小児科や整形外科・耳鼻科などの専門医が来ることはなく、特に島の宝である子どもを持つ母親の心は、常に不安にあふれている。診療所に胃カメラの設備はあっても、心電図モニターはない。デコボコで二輪車がまともに走行できない危険な道路(県道)がある一方で、山を切り開き幅8mもの道路を走らせている区域もある。島に住まない村役場の職員(村役場は、船で3時間以上かかる鹿児島市内にある)や県庁の役人のつくった「消波堤」は、逆に大きな波が立ち漁船を停泊することができない。島民にとって本当に必要なインフラは何なのか、本土の役人では理解できない実態がそこにはあり、それらは島に行かなければ絶対に知り得ない。

しかし三島村は、悲嘆にくれるばかりではなかった。多くの可能性が内在していた。都会で集団生活に馴染めない小・中学生を留学生として受け入れ、立派に社会へと巣立たせている。ある島民は、それを「命の洗濯制度」と呼ぶ。都会では悲願の芝生のグラウンドも、島の学校には完備されている。必要に迫られて急斜面に放牧される黒毛和牛は、肉質が良く島の最大の基幹産業だ。ブランド化に成功すれば、全国そして世界へと販路は拡大されるはずだ。

作家・有吉佐和子氏は、三島村黒島を訪れ、離島の人々の秘める雄大な自然が育む魂に触れ、「私は忘れない」という小説をのこした。「島を忘れないで欲しい」、それは孤立した生活を余儀なくされる島の人々の叫びだ。島の人々と一緒に政治が知恵をしぼり、日本の領土・領海とEEZを守り発展させていかなければならないのだ。

知覧から飛び立った少年飛行兵が、激戦の沖縄へ向かうために旋回したまさに「生との別れ」の地点が、三島村黒島の上空だった。生まれて初めてのヘリによるフライトは、まったく無駄のない飛行に大きな感動を味わったが、眼下で強いられる明らかに孤立した島の人々の生活や、ほんの61年前、絶望のうちに旋回していった少年飛行兵への思いとが交錯し、思わず背筋がピンと伸びた。離島振興法の改正と充実によって、日本の領土・領海とEEZを守る島の人々の暮らしが、少しでも改善されるように、政治が動かなければならないとあらためて痛感した。小泉改革では、「日本の領土・領海とEEZ」は、決して守れないのだ。
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政治テロ「加藤紘一氏宅放火事件」 8月16日

加藤紘一代議士の自宅が放火炎上した事件は、明らかに政治テロだ。犯人は、都内在住の右翼団体幹部。すなわち、右翼団体は、テロ団体またはテロ支援団体とみなされることになるのだ。仮に組織犯罪を防止するために「共謀罪」ではなく「参加罪」が法制化されていたならば、今回の犯人が所属する右翼団体も処罰の対象となり得るのだ。

このまま、坊ちゃん右翼の安倍晋三氏が自民党総裁ひいては日本の総理大臣になれば、それだけで日本は急激に軍国主義に回帰することになる。安倍晋三氏が最も尊敬する人は、母方の祖父・岸信介氏だ。岸信介氏は、東条内閣に商工大臣として入閣したが、日本軍劣勢の中、軍需省軍需次官を務めることとなり、結果としてA級戦犯として起訴はされなかったものの、A級戦犯容疑者として逮捕され、巣鴨拘置所に収監された経緯のある、れっきとした軍国主義者だ。岸信介氏を尊敬する安倍氏の魂は、紛れもなく軍国主義に通じている。

加藤紘一氏の自宅に放火した犯人の所属する右翼団体は、厳然と捜査の対象とされなければならない。安倍政権成立と同時に、軍国主義の犯罪者が再び台頭しないよう、心して取締りを強化しなければならない。鳩山由紀夫民主党幹事長は、幹事長としてあらゆる場面でそれなりに強力な政治的メッセージを発信している。加藤紘一氏がテロのターゲットになったことを勘案すると、鳩山由紀夫邸の警備の強化は必須だ。

小泉総理の靖国神社参拝を考えていくと、結局、突き詰めるところは、日本が軍国主義に回帰するのか否かというところに凝縮されることに気付く。靖国神社を肯定することは、戦前の軍国主義を受け入れることに他ならない。再び、戦前のような政治テロが横行することのないよう、法律がしっかりと国民を守らなければならないが、坊ちゃん右翼たる安倍晋三氏の息のかかった右翼たちが、今まさに水を得ているのであれば、問題の本質は非常に厄介だ。

安倍晋三氏が仮にポスト小泉に選ばれたとしても、二度の補欠選挙と統一地方選挙、更には来夏の参議院選挙で黒星を重ね、結果的に責任をとって安倍氏は辞任するとの公算がささやかれているが、その間も政治テロは続出するかもしれないのだ。97歳になる加藤紘一氏の母堂が外出していたことは僥倖だが、人を人とも思わぬ残虐な行為に打って出るのがテロリストだ。一般市民がその巻き添えとなることも、想像に難くなく、今回の放火事件のように、安倍晋三氏の存在が軍国主義への回帰となることが否定できない以上、安倍氏が次期総理に本当にふさわしいのかどうか、今一度冷静に考える必要があるのではないか。

もとより、自民党には、組織犯罪防止法に抵触する右翼や暴力団などと関係の深い議員が目白押しだ。一部の政治テロリストたちが台頭しないよう、健全な二大政党制を実現するために、名実ともに足腰の強い政党へと民主党が成長していくことが何より必要なのだ。政治テロが再び芽吹き、日本を軍国主義に回帰させようとする勢力が台頭することを阻止するには、民主党が強力な民主主義政党となることが急務だ。小手先の八方美人的な政策は、必ず見透かされる。強い決心・覚悟を持って、何事にもぶれない芯の通った骨太の政策と方針を打ち立てることのできる民主党でなければ、真に日本国民を守ることはできないのだ。

小沢一郎・菅直人・鳩山由紀夫と、かつてない強力な布陣のもと、民主党がいよいよエンジン全開で、次期政権に向かって猛進していくことを、心から期待せずにはいられないのだ。
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靖国参拝「小泉総理の憲法違反」 8月15日

小泉総理は、「伊勢神宮を参拝しても誰も文句を言わないのに、靖国神社に参拝すると騒ぎ立てるのはおかしい。」と述べたが、これは、小泉総理が靖国神社の本質というものをまったく無視している証拠だ。伊勢神宮には、天皇の祖先であるとされる天照坐皇大御神が祀られ、天皇陛下も参拝を続けておられる。伊勢神宮は、軍国主義とはまったく無縁の存在だが、一方の靖国神社は、戦前は陸軍省と海軍省とによって共同管理された、まさに政教一体となった軍国主義の象徴といえる存在なのだ。靖国神社の比較に伊勢神宮を持ち出す小泉総理の見識に、中国や韓国が批判をすることは、ある意味当然のことなのだ。明らかに小泉総理は、靖国参拝によって日本の国益を損ねている。

小泉総理は事前に献花料3万円を靖国神社に奉納していたため、今朝の参拝の際には、本殿に「献花・内閣総理大臣小泉純一郎」の看板と献花が飾られていた。これは明らかに、内閣総理大臣の権力をもって、戦争を正当化し美化する一宗教法人たる靖国神社を擁護していることを誇示するものであって、「総理大臣である人間小泉純一郎が参拝した」と表現しあえて正式参拝であることを強調したことと併せると、明白な憲法違反ではないか。

小泉総理は、中国や韓国の批判に対して、憲法19条の思想及び良心の自由を侵すことはできないと主張するが、であるならば、自身の行動そのものが「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」とある憲法20条に抵触していることを、いったいどう説明するのだろうか。小泉総理こそ、戦争を正当化し美化する靖国神社に、完全に利用されているのだ。

総理の靖国参拝の是非は、A級戦犯を分祀するとかしないとかの問題で片付けられるものではない。仮に、A級戦犯を分祀したとしても、先の大戦で日本が行った植民地支配や侵略を正当化し、軍国主義を肯定する靖国神社への総理大臣の参拝は、大戦への反省と不戦の誓いとに、まったく相反する行動であることを否定できないからだ。靖国神社自身の大戦に対する独善的な解釈が変えられない限り、靖国神社は国家の政治指導者が参拝するには、極めて不適切な場所なのだ。

総理大臣はもとより天皇陛下が戦没者への哀悼の誠を捧げられるにふさわしい場所は、広島・長崎の慰霊の碑や沖縄の平和の礎など、全国に幾つも存在している。東京を訪れる海外の要人が参拝しやすいようにどうしても東京に追悼施設をつくるのならば、いまや、千鳥ケ淵墓苑の拡充がベストの選択だ。無名戦士の遺骨が眠る千鳥ケ淵墓苑は、無宗教施設であって、参拝の際には、参拝者がそれぞれの方法で哀悼と尊崇の誠を捧げればよい。靖国神社と違って、クリスチャンであろうが仏教徒であろうが、何の違和感もなく参拝できるのが千鳥ケ淵墓苑なのだ。

先の大戦で、大切な家族を失った遺族の方々の戦争への嫌悪感は痛烈であり、平和への願いは切実だ。出征した家族の死はもとより、目の前で戦火に倒れ飢餓に苦しみながら死んでいった家族を思うとき、今を生きる遺族の方々の反戦感情は、筆舌に尽くしがたいほど強く激しい。軍国主義の戦争を賛美する靖国神社もまた、そんな遺族にとっては、理解し難い存在なのだ。

戦争は、世界中のどこであっても、二度とあってはならない。どんなに大義名分の立つ戦争であっても、そこには多くの人々の惨死がある。戦争を指揮するブッシュ大統領は無傷でも、イラクに赴いた米兵たちが負った身体と心の傷は、想像以上に重い。戦場で戦う兵士たちは、勝っても負けても大きな十字架を背負うのだ。人類最大の愚行が戦争であり、それを賛美する靖国神社を堂々と参拝する小泉総理大臣は、日本が再び軍国主義に回帰するかもしれないと、世界にアピールしていることに他ならないのだ。
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千鳥ケ淵墓苑参拝 8月13日

終戦記念日を前に、千鳥ケ淵戦没者墓苑を参拝した。いまだ遺骨収集がなされていない方々も含めて、海外で戦死した240万柱の犠牲になられた方々を追悼するには、やはり千鳥ケ淵がふさわしい。厚労省による遺骨収集のあり方に疑問はあっても、国家のためにはるか遠い島々で玉砕させられた無名戦士の方々に哀悼の誠を捧げるためには、千鳥ケ淵墓苑はなくてはならない存在だ。

千鳥ケ淵墓苑と靖国神社との決定的な違いは、靖国神社には遺骨が納められていないという点だ。たとえ灰になっていようとも、千鳥ケ淵墓苑には、戦死者の遺骨が祀られている。誰の遺骨なのか特定されないまま納骨された若者たちの心中を思うと、陶棺を前にして、白菊を手に、じんじんと胸が痛んだ。

240万柱の犠牲者の向こうには、その何倍もの数の家族があり、戦争が終わってもなお、それら遺族は、暗い影を引きずりながらも、昭和・平成と強く生き抜いておられる。戦災や原爆で命を落とした人たちや、戦争のための病死者や飢餓による死者も数知れない。戦争は、筆舌に尽くしがたい惨事だ。日野原重明氏は、戦争をしかける人々は一時的に精神病に罹っていると断言したが、先の大戦で明日の食料もなく飢えに苦しんだ民間の人々も、戦争によって正常な判断を失ってしまった社会の犠牲者だ。

千鳥ケ淵墓苑には昨年9月、今上天皇の御製の碑が建立された。「戦いなき 世を歩みきて 思ひ出ず かの難き日を 生きし人々」。この歌碑を前に、全ての戦争犠牲者に対する哀悼と尊崇の念を重ね、壮年の男性参拝者が悲しく奏でる尺八の音に心を合わせ、不戦の誓いに私はあらたな血潮をみなぎらせた。

レバノン・イラク・アフガン等、世界各地で紛争や戦争は絶えることがない。テロへの制裁の戦争であっても、子どもや女性・高齢者など不当な犠牲を強いられる人々が、そこには続出する。たとえ後方支援といえども、米国が主導したイラク戦争に、日本は参戦した。多くの民間人が、戦争の犠牲になり地獄を味わった。戦争を正当化する米国に、このまま日本が追従することは、先の大戦で犠牲になった全ての日本国民を、裏切ることになりはしないだろうか。

千鳥ケ淵にひっそりと佇む墓苑のあり方は、戦争を正当化し存在を強力にアピールする靖国神社とは、極めて対照的だ。靖国神社には、実際に遺骨は納められてはいない。一宗教法人である靖国神社が自主的に戦没者の魂を祀っているにすぎないのだ。軍幹部によって出撃を命じられ散っていった無名戦士たちは、紛れもなく先の大戦の犠牲者だ。戦争を正当化し美化する靖国神社の本質を知ったとき、それでもなお靖国神社に祀られ続けることを、全ての英霊は良しとしているのだろうか。

一宗教法人である靖国神社の動向を、たとえ国家といえども左右できない現実がある以上、千鳥ケ淵墓苑を戦争犠牲者の追悼のシンボルとすることは、極めて自然であり憲法にも叶っている。千鳥ケ淵墓苑では、年間を通して各種団体による戦没者に対する慰霊の行事が行われている。近い将来、今上天皇の拝礼があるかもしれない。全ての戦争犠牲者への哀悼と尊崇の念を現し不戦を誓うシンボルとして、千鳥ケ淵墓苑が国立追悼施設へと拡充されることを、私はあらためて願う。海外の要人がすなおに日本の戦争犠牲者に心を寄せる場になるよう、千鳥ケ淵墓苑は平和への道標として、新たな意義を付して進歩発展を遂げていかなければならないのだ。
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新鮮野菜「トマトとオクラ」が教えてくれたこと 8月12日

8月5日発行の「週刊ダイヤモンド」は、日本国民の「食の安全」に対する、不適な挑発行為と言っても過言ではない。食品添加物や遺伝子組み換え食品、あるいは米国産牛肉等をリスクとみなす認識に、「フードファディズム」の烙印を押し、そんな消費者の認識をナンセンスだと斬り捨てているのだ。サプリメントや特定保健用食品に対する玉石混交との評価は的確であるが、味の素やコカ・コーラ、更には中国野菜を正当化する内容は、あまりにも利益第一主義である食品メーカー寄りの発言で、そこに消費者の健康への配慮は微塵も感じられない。

「動物実験で無害であることが確認された量の1/100量を『1日摂取許容量』として定め、それよりもはるかに少ない量が実際の使用基準として決められている」として、食品添加物を「悪魔フーズ」とみなす消費者の反応は過剰であると、週刊ダイヤモンドは非難する。しかし、週刊ダイヤモンドが決定的に間違っているのは、いまやありとあらゆる食品に、添加物が使用されているということを加味していない点だ。1つ1つの食材が、添加物の許容量の範囲内であったとしても、1日3食、間食や飲料も併せると、現代人は、基準値を大幅に超える添加物を、日々曝露しているのだ。

添加物や農薬・化学肥料に侵された食品の横行が、現代人にガンを激増させる大きな要因であることは、いまや否定できない事実だ。可能な限り添加物や農薬・化学肥料に侵されていない食材を摂取しようとする消費者の行為に水をさす週刊ダイヤモンドの主張は、まさに利潤追求の企業の代弁者とみなされても仕方がないものだ。旬の新鮮とれたての食材は、週刊ダイヤモンドが擁護する「味の素」を使わなくても、それだけで美味しい。化学調味料の乱用は、素材の味を引き立てるどころか、私たちの健康を明らかに阻害する。

「レモン汁や酢のほうが、歯や骨を強力に溶かす」として、コカ・コーラを飲む子どもが骨折しやすいという認識は誤っていると、週刊ダイヤモンドは主張する。更に、コカ・コーラのカロリーは100%オレンジジュースとほぼ等しいとし、コカ・コーラを飲むと「太る」という認識は迷信だとする。週刊ダイヤモンドは、多国籍企業であるコカ・コーラ社のダブルスタンダードを無視している。インドで販売されたコカ・コーラから、EU基準値の30倍を超える残留農薬や殺虫剤が検出されたこと。更に、炭酸の製造過程で発生するヘドロを、コカ・コーラはケララ州の農家に無料で配布していたが、なんとそのヘドロからは高濃度の鉛とカドミウムが検出されたという事実を、「消費者は情報に溺れている」とあえてメディアリタラシーを持ち出す以上、週刊ダイヤモンドは併せて報道しなければならなかったはずだ。

害虫をつきにくく品種改良した遺伝子組み換え食品は、農薬や除草剤の使用量が削減され、むしろ「環境にやさしい」として、週刊ダイヤモンドは遺伝子組み換え食品を正当化する。しかし、免疫力の低下やアレルギーを惹起するなど遺伝子組み換え食品の安全性は、未知数だ。遺伝子組み換え食品を摂取した世代の「子ども」への影響も、現段階ではわからない。そうである以上、食品のトレーサビリティを明確にし、遺伝子組み換えであるか否かを明示して消費者に選択肢を与えることは、絶対に必要だ。

週刊ダイヤモンドが最悪だと思うのは、「米国産牛肉というだけで危険だと判断するのは間違いだ」と主張したことだ。日本への輸出を専門としていない子牛業者に輸出許可を出したり、日本への輸出再開条件を守ることのできない検査体制の不備に問題があったにすぎず、米国産牛肉の安全性が揺らいだわけではないと週刊ダイヤモンドは主張する。鶏糞やチキンリッターなどSRM入りのレンダリングによる肉骨粉がウシに戻ることが容認され、成長ホルモンが使用される米国畜産業界の飼料規制の甘さを、週刊ダイヤモンドはまったく理解していない。たとえSRMが完全に除去されていたとしても、20ヶ月齢以下のウシの全頭検査をしない以上、日本と同等以上の安全性が確保されたとして安心して米国産牛肉を食することなどできないのだ。

米国産牛肉をはじめ食料の輸入を日本自らがストップすることは、食糧自給率40%の日本として自分で自分の首をしめるようなものだと週刊ダイヤモンドは指摘する。米国産牛肉や中国野菜の輸入を拒否することは、「食料安保」という鋭い刃が日本の喉元に突きつけられることに等しいと、週刊ダイヤモンドは主張する。しかし実際には、食料の大半を日本人は捨てている。「飽食の国・日本」の最大の課題は、食料の自立すなわち食糧自給率100%を目指すことだ。農薬や化学肥料にたよらない農業こそ、日本の農業の可能性を大きくする。他国の追随を許さない質の高い農作物は、日本人を健康へと誘うと同時に、安心・安全な無・低農薬作物は、十分な国際競争力を有することにもなるのだ。

週刊ダイヤモンドは今回の特集記事の中で、「消費者の利便性への欲求が、結果的に食の安心・安全を犠牲にしてきた。それを政府・企業・生産者に押し付けるのは、消費者のエゴだ。」との、神門善久(ごうとよしひさ)明治学院大学教授のコメントを掲載している。この言葉に、週刊ダイヤモンドの姿勢の全てが凝縮されている。食品添加物・遺伝子組み換え食品・農薬・化学肥料・米国産牛肉・中国野菜にコカ・コーラ、これら全てを肯定し、逆に注意をはらおうとする消費者を「フードファディズム」と揶揄する週刊ダイヤモンドこそ、日本の食の安心・安全に対する究極のテロリストだ。限りなく無農薬に近い農業を実践しようと努力する農家の方々への、無神経な冒涜だ。

過日、農業を営む知人が作ったトマトとオクラを、目の前で削りたての鰹節をまぶして食べた。体中のすべての細胞が生き返るほど、それはフレッシュで美味だった。毎日こんな食材に囲まれていたら、心身ともにいつまでも健康を維持できるのではないかと、しみじみ思った。添加物や農薬に頼らない、真に人と地球に優しい農業を、私は誰よりも応援したい。21世紀の日本の農業の在り方に逆行する週刊ダイヤモンドの見解は、日本の農業をおとしめるものだ。

特集記事を書いた記者に、あのトマトとオクラを食べさせてあげたいものだ。
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こんにちは!

ご無沙汰してしまいました。
今日から、日記、復活します。
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田中康夫知事の敗北 8月7日

田中康夫氏の得票率は、46.58%。約78,000票と意外に差は拡がっていた。結果については、非常に残念だが、今回の選挙が教えてくれたことは、改革は、決して1人ではできないということだ。

田中県政は、信州が自主独立の自治を実現していくための土台をつくる6年間だった。田中氏の政治センスを語るとき、なくてはならないのが「脱ダム宣言」だ。図らずも今回の選挙戦では、長野県は豪雨による大水害に見舞われ、県民はあらためて治山治水について考えざるを得なかったはずだ。

田中氏の言う「脱ダム」は、わずか6年間で完結するようなテーマではない。広葉樹を植林し、大木に育てるまでには、少なくとも100年はかかる。森林の成長に奇策はない。やみくもに破壊した森林を江戸時代のように再生するには、300年以上かかるのだ。温暖化が進み、私たちの住処である陸地が急速に侵食され、大気が汚染される今の地球を、再び緑豊かな住みよい環境に再生するには、原点に返って、あらためて植林をして、地道に粘り強く森林を育てていくしかないことを、多くの有権者は認識していた。

自分さえ良ければ良いという現代人のエゴイズムは、間違いなく地球を滅亡の危機へと加速度的に誘うものだ。現代社会が抱えるゴーマニズムによる地球環境の破壊に、田中氏は信州の地で、1人闘いを挑んだのだ。田中氏の方向性は、間違いなかった。おそらく、今回田中氏に投票しなかった多くの人々も、次世代への思いは田中氏と変わらないものがあったはずだ。

田中氏が決定的に間違ったのは、改革の手法だ。独善的で強引な田中氏の政治姿勢に、反発を感じる人々があまりに多すぎたことが、田中氏の最大の敗因だ。改革は、個人プレーではできないことが、あらためて今回証明された。既成概念を180度転換し、一定程度の痛みを伴わざるを得ない改革を、多くの人々は受け入れる準備はできている。有権者は従来の県議中心の利権政治の復活を、決して望んではいない。

長野県民も、ダムは環境破壊であり、真の意味での治水機能を有しないことを承知はしていた。ただ、田中氏が取り組もうとしていた森林再生プロジェクトが道半ばであることを考慮しても余りある田中氏の唯我独尊ぶりに、「NO」をつきつけたのだ。

長野県民に、推進する改革の意義を十分に理解してもらうことのできなかった原因は、明らかに田中氏本人にある。改革はチームプレーでなければ前進しないし、困難な改革を推進していくためには、ムーブメントが必要だ。日増しに孤立していった田中氏の政治手法が、自らの改革への足かせとなってしまったのだ。社会を動かすには、社会のあらゆる人々の共感を得る必要がある。ともに改革を推進する仲間を増やし、敵(県議)を極小化していかなかったことが、田中氏敗北の最大の要因だ。

田中氏の落選は、真の改革を目指す人々に一瞬の失望を与えた。しかし、真の改革者は、立ち止まるわけにはいかない。たとえ周囲に矛盾や不満を感じても、「それでもなお」と思う人間にのみ、「改革」の資格がある。新たに誕生した滋賀県の嘉田由紀子知事が、チームプレーによってあらゆる困難を打ち破り、真の改革を着実に推進していくことに期待をかけたい。
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瑛梨香ちゃんを襲った悲劇 7月31日

埼玉県ふじみ野市の市営プールの吸水口に、吸い込まれて亡くなった遊泳中の小学校2年生の女の子・戸丸瑛梨香ちゃんは、本当に可哀想だ。市の杜撰な管理体制がうんだ、稀に見る悲劇だ。第三者の私でも、瑛梨香ちゃんのことを思うと、胸が張り裂けそうになる。

流れるプールの「流れ」をつくるために、プールの壁面にあった直径60cmの吸水口は、本来なら2枚の格子状のアルミがボルトで固定され、人間が吸い込まれないように防御しているはずだった。事故直前、1枚のアルミ格子がはずれているのを知った職員は、なんとあろうことか、本当に信じられないことに、アルミ板をプールサイドに置き、工具を取りに行ってしまったのだ。その間、アルバイトの監視員は、吸水口に近づかないよう注意を呼びかけていたというが、現場の映像を見る限り、注意を呼びかければ済むようなそれは「穴」ではない。

アルミ板をはずしたままその場を離れた職員も職員だが、アクシデントを知り得た監視員が、直ちに「遊泳中止」の放送を場内に流さなかったことはまったく信じがたく、監視員としての資質を疑わざるを得ないものだ。同時に、流れるプールの「流れ」をつくるために行っていた「吸水」を、異常が確認された時点で止めなかったプール側の判断は、あまりにもお粗末、職員たちの危機管理意識の低さには唖然とするばかりだ。

市営プールには、10数人の職員(委託会社職員2人と、その他は高校生のアルバイト)が配置されていたというが、幼い子どもの命を守ることができないような人員配置であったことが、今回の「人災」をまねいたのだ。いったい、今までどういう意識を持って、プールの運営にあたっていたのだろう。業務上過失致死罪は当然免れないが、瑛梨香ちゃんの家族に対しては、謝っても謝りきれない大失態だ。家族にしてみれば、たとえ数億円の賠償金を積まれても、許すに許せない、あってはならない本当に信じがたい事故であるはずだ。

子どもは無防備であり、無防備な子どもを守るのは大人の責任だ。楽して儲けるヒルズ族たちを重用する「改革」を推進した小泉政権は、社会全体の「職業意識」と「危機管理意識」を希薄にさせた。ワンフレーズ・ポリティクスの小泉政権は、「無責任」であることを結果的に美化し正当化した。アルバイトであるにせよプールの監視員は、監視員としての職責を全うしようという意識が希薄であったことは確かだ。小泉総理のおちゃらけ政治は、社会の一員として、何事に対しても真摯に対応する姿勢を崩壊させてしまい、結果として、無防備な子どもたちを、周囲の大人たちが守ることが出来ないという、最悪の事態を招いてしまった。

今回の事故は、明らかに、周囲の大人たちの軽薄さと愚かさとがうんだ悲劇だ。つぐなってもつぐないきれるものではない。「適当に生きる」ことを容認した小泉政治は、その責任を認識し反省する必要がある。「適当に生きる」社会は、今回のような取り返しのつかない悲劇を生みかねない、非常に不安定な社会だ。地に足のついた正直者が損をしない社会、無防備な子どもたちを、大人が率先して守り育てる社会を、早急に取り戻す必要がある。

瑛梨香ちゃんの悲劇は、無責任な現代社会の縮図だ。ご家族の心境は想像するにあまりあるが、瑛梨香ちゃんだって、死ぬに死に切れなかったに違いない。思えば思うほど、胸が痛む話だ。事ここに至り、プールの職員たちの責任のとり方次第では、子どもたちに与える影響も考えなければならないだろう。取り返しのつかない事態をうんだプールの職員たちの誤った判断は、社会に糾弾されてしかるべきだ。

プールの運営を担っていた大人たちは、瑛梨香ちゃんに、どんな謝罪の言葉をかけるのだろうか・・・。
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