混戦の長野県知事選挙 7月30日

長野県知事選挙は、混戦模様だ。先週末、村井氏リードのうわさを耳にしたときは、「まさか」とも思ったが、週末の世論調査の結果は、田中氏村井氏が横一線で競り合っているということだ。しかも、まだどっちに投票するかを決めていない人が2割もおり、投票日前日あるいは投票日当日に決めるという人が非常に多いという最近の傾向を考えれば、まだまだ予断を許さない状況だ。

田中知事は、個性的な豪腕ぶりで、県政の改革に挑み、それなりの実績をあげつつある。しかし、その改革は、県議その他の既得権益を破壊するものが多く、田中知事によって利益を奪われた人々は、1日も早く田中知事に辞めてもらいたいと思っている。

今回の選挙でも大半の県議が村井氏を支援しているが、田中氏自身の支持率が4年前と比べれば激減しており、田中氏は予想外の苦戦を強いられている。田中氏は、長野県を本来あるべき自立した自治体へと導こうとしているが、客観的に見て村井氏は、既得権益を保持しようとする守旧派のイメージが強い。どちらが長野県に、輝く未来をもたらすだろうか。答えは簡単だと思うが、そう簡単に運ばないのが選挙というものだ。

田中知事が誕生して、長野県は全国の注目の的だった。しがらみにとらわれず、バサバサと無駄なものを削り、リタイヤしたシニア世代を住民自治に組み込みつつ、財政再建に挑む長野県の取り組みは、全国のさきがけでもあり立派な手本でもあった。せっかく歩み始めた、子どもや孫の時代を見据え持続可能な社会の構築への挑戦を、あっさりと中断・放棄してしまうことはあまりにも愚かだ。

確かに田中康夫氏は、かなりくせのある人物だ。ナルシストと言っても良い。しかし、政治は好き嫌いではない。田中氏の改革への意欲と方向性に間違いがない限り、可能な限りそれを後押しし一緒に痛みを分かち合うことが、賢者の選択というものだ。長野県の有権者の、冷静かつ賢明な判断を期待する。県議の既得権益を、県民が守ってあげる必要性などないどころか、自己保身を主張する県議ならそれこそ税金のムダ遣いだ。

大雨災害にみまわれ波乱の幕開けとなった長野県知事選挙だが、長野県の将来と同時に日本の地方自治のあり方さえもが左右される重要な選挙だ。このまま長野県が、改革の先頭を走り続けるのか、それとも以前の、県議や一部の人々だけが私腹を肥やす利権政治に舞い戻るのか、重要な岐路に長野県民は立たされている。被災者の方々は、選挙どころではないと思うが、水害は江戸時代のような豊かな森林があれば防止できる。脱ダムを掲げ、森林の治水能力の向上に視点をあてた田中知事の政治的センスは、極めて優れている。この次の4年間も、真の改革者をリーダーに全県民が邁進すれば、痛みの向こうには、子どもたちやおじいちゃんおばあちゃんたちの、優しい笑顔が待っていると、私は信じて疑わない。
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学校給食と米国産牛肉 7月29日

米国産牛肉の輸入再々開が決定されたことは、非常に由々しきことだ。勿論、賢い消費者は、安全性に対する科学的根拠のない単なる政治的判断による今回の輸入再々開を、冷ややかに見守るだろうが、最も懸念されるのは、学校給食だ。根拠がないにせよ建前上は政府が米国産牛肉の安全性を認めた以上、学校給食の現場が、それをたてに安価な米国産牛肉の利用に踏み切る可能性が高いからだ。

学校給食には、幾つかの学校・学区をまとめて一括調理し配送する「センター方式」と、学校ごとに調理する「自校方式」とがある。文科省の補助金として「学校給食施設整備費」が給付されているが、1964年に共同調理場(センター)への補助金導入が開始されて以降、合理化の名のもとにセンター化が進められてきた。全国に2,700前後のセンターが存在するとみられ、そのうち30前後のセンターが、1日1万食を超える給食をつくっている。

合理化を追求した「センター方式」は、一度に大量の給食を作らなければならないために、加工食品を多用したり、限られた予算内で栄養のバランスを形式的には整えなければならないため、中国野菜や米国産牛肉に頼ってきた実態がある。加工食品は添加物の塊だし、中国野菜は、ポジティブリスト制度が導入される以前は、農薬の塊だった。輸入停止された間こそ使用しなかったものの、それまでは安価な米国産牛肉が多用されていた。センター給食を管理する栄養士にとっては、安価な中国野菜や米国産牛肉は、食材として切り離すことの出来ない自分たちにとって「価値」のあるものだったのだ。しかし、すべては行政や栄養士サイドの都合にすぎない。そこに給食を強制される子どもたちの健康や美味しく味わいはじける笑顔など、殆ど想定されていないのだ。

近年、地産地消が提唱されるようになり、子どもたちに新鮮な農作物や地域の特産物を食べさせることこそが食育の原点だとする人々の間から、再び学校給食を「自校方式」に切り替えようという声が上がり始めている。1997年、「保健体育審議会」は、「児童生徒の実態や地域の実情に応じて、豊かできめ細やかな食事の提供や食に関する指導が行われることが望ましく、運営と合理性とに配慮しつつ、センター方式と自校方式とを比較検討することが望ましい。」との答申を出している。しかし、「センター方式」に転換するのには補助金が出ても、「センター方式」から「自校方式」に戻すのには補助金が出ないため、思うように「自校方式」に回帰できない実態があることも事実だ。

新鮮で安心・安全な食材を使った家族の手料理を囲む「食卓」は、子どもたちに幸福と健全な発育を与える。給食も同様だ。合理化を追求する行政の都合だけで、大切な給食の質が低下してしまっては本末転倒だ。子どもたちが笑いながらペロリと残さずたいらげてこそ、給食には価値が生まれ、食育にもつながっていくのだ。予算の都合で、実際には安全性の確認などできていないのに、米国産牛肉が給食に利用されることは、絶対にあってはならないことなのだ。米国産牛肉をスーパーで買わないことはできても、学校給食から牛肉だけ残すことなど、到底できるものではない。子どもたちに選択権はないのだ。

とにかく、教育委員会と栄養士との良識で、安全性に対する科学的根拠のないままの米国産牛肉が、給食に利用されることのないように厳重な監視が必要だ。子どもも親も、学校給食を選べない。政治的判断でしかない、日本政府による無責任な米国産牛肉の輸入再々開の決定は、社会の弱者でもあり宝でもある子どもたちを、不本意にも危険にさらす。政府は、食育の原点を、完全に見失っている・・・。
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ワーキング・プア 7月28日

「ワーキング・プア」は、現代社会の大きな病根だ。「働く貧困層」と日本語では訳される「ワーキング・プア」は、20代30代の本来最も頑張りのきく若者が、極端な場合、住所不定無職に陥る現象だ。大卒や高卒のそれなりの学歴を持ちながら、正社員として定職につけない、これがワーキング・プアの現状だ。今や労働者全体の30%を超える人々が、非正規社員だ。経常利益が日本最大のトヨタでさえ、非正規雇用者の数を増やしているという実態がある。多くの中小企業が正社員を削減しパートやアルバイトに雇用形態を切り替えていくのもうなづける。

ワーキング・プアである以上、その若者は結婚できない。勿論、子どももつくることができない。現代の少子化の大きな要因は、ワーキング・プアの「増殖」にあると言っても過言ではない。特に若者のワーキング・プアは、本人の努力不足という認識だけで片付けられる問題ではない。若者のワーキング・プアを放置し続けると、生活保護などの社会保障費や、税金・社会保険料収入の減少などの形で、結局は国庫負担に跳ね返ってくるのだ。政府は一刻も早くワーキング・プアへの就労支援に着手しなければならないのだ。

企業が何を求めているかを知り、ニーズにあった職能を身につけるために、「YES-プログラム」という若年者向けの就職基礎能力支援事業を、厚労省は展開している。大学・短大・高校のカリキュラムに組み込み、一定程度の実績を挙げている。興味深いのは、マクドナルドが「YES-プログラム」と連動して、アルバイトのスキルアップに役立てている点だ。マクドナルドでアルバイトを経験した若者は、正規に就職した先の企業で、基礎ができていると高い評価を受けることが多いそうだ。

「ヤングハローワークしぶや」では、30歳以下の求職者に、「YES-プログラム」を紹介し、就職に必要な基礎能力の修得を目指しているということだ。しかし、いまだ30%を超える人々が正規雇用に就けない現状を踏まえると、厚労省の取り組みは、あまりにも不十分だ。必要とする技術を身につけた若者を、企業が放っておくはずがない。学習しようにも資金がない、学習できないから就職に必要な能力を身につけることが出来ない若者のジレンマを、政府の責任で解消しなければならないのだ。

更に、パート社員や派遣社員の待遇の改善も必要だ。ワーキング・プアになるよりはましだからという理由で、同じ仕事をこなしながら正社員の1/3の給料に甘んじざるを得ないという実情がある。求人票に記載してある待遇と、全く乖離する場合もある。8割が違法広告を掲載するという、人材派遣業はいわば無法地帯にある。しかもそれが、かのオリックス宮内義彦氏率いる「規制改革・民間開放推進会議」が推し進めた企業よりの「改革」であることを、私たちは決して見逃してはならない。即ち、小泉改革が「ワーキング・プア」を生んだといえるのだ。

弱者をとことん切り捨てる小泉改革は、ワーキング・プアなど社会に負の遺産を残した。歳出削減といっても、公務員の無駄遣いや箱物行政の無駄遣いは解消される気配すらなく、おまけにまともに税金を支払うことのできない「働く貧困層」が増殖すれば、国民負担は増加するばかりだ。ワーキング・プアの解消には、小泉政権からの脱却、即ち政権交代しかないのだ。若者たちがはつらつと生きていける社会の構築に、私たちは選挙による政権交代をもって邁進していかなければならないのだ。
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ついに米国産牛肉輸入再々開 7月27日

米国産牛肉の輸入再々開を、政府は今日決定した。6月24日から7月23日までの間、厚労省と農水省が実施した米国の対日輸出承認施設35施設の現地調査の結果を踏まえ、輸入再々開を決定したのだ。政府の発表によると、実際には、35施設のうち15施設は、直ちに輸入再々開を決定できない何らかの不備や事情があったが、近いうちに、対日輸出リストに掲載されることが決まっている。

その15施設を、今後日本側があらためて査察する予定はなく、パッカーおよび米国の自主的な是正措置に委ねることで、リストに加えるというのだから、完全に米国ペースであることを誰もが否定できない。しかも、当該35施設の名前は、米側からの「施設が特定できる情報は非公開とのこと」との要請により、公開されていないのだから、現地調査そのものに本質的欠陥があると言わざるを得ないのだ。

日本が要求した「対日輸出プログラム」にあるウシの月齢確認とSRM(特定危険部位)の除去は、日本国内では当たり前に行われる作業であるが、米国の食肉加工施設で働く多くのヒスパニックなどの従業員にとっては、全てを履行することは、実際問題なかなか厄介だ。何よりも、彼らの多くはスペイン語しか話すことができない。仮に、AMS(米農務省農業販売促進局)の職員が監視したとしても、ヒスパニックの従業員が、EVプログラムの内容を理解することは困難かもしれないのだ。

米パッカーでのSRMの除去に、万が一不備があったとしても、全箱開梱して目視検査をする日本の税関で、なんとか流通を食い止めることはできるかもしれない。しかし、税関の目視で、月齢や使用された飼料まではとても判断がつかない。米国畜産業界で、今、最も注目しなければならないことは、肥育過程でウシが食する飼料に関する規制の甘さである。今回の査察で、米国の農場は、「肉用牛は、たん白質含量の高い飼料を必要としておらず、植物性の原料でたん白質の要求量を満たすことができるため、動物性たん白質を給与することは経済的でない」との回答を示しているが、ここで言う「動物性たん白質」とは、いったい何を指しているのだろうか。あえて「肉骨粉」だと仮定しても、鶏糞やチキンリッターなどがここで言う「動物性たん白質」に該当しないという根拠は、どこにもない。

調査対象となったレンダリング工場1施設が、「反芻動物由来の肉骨粉」を反芻動物に給与してはならない旨の注意書きを出荷書類に記載し出荷し、調査対象となった配合飼料工場2施設が、「反芻動物由来の肉骨粉」は原料として使用しない」と言っても、反芻動物由来すなわちウシの肉骨粉が鶏の飼料となり、その鶏糞やゲージ内の肉骨粉が混入したゴミ(チキンリッター)が、ウシの飼料となっていることは、もはや周知の事実なのだ。特に、吉野家が特注する「吉ギューの吉ギューによる吉ギューのための牛肉(ショートプレート)」は、鶏糞に甘い蜜をかけたものを飼料として肥育した、その名もずばり「糖蜜飼育若姫牛」なる「ブランド」なのだ。

日本政府の、米国の甘い飼料規制に対する認識・態度には、日本の消費者の不安や懸念を背負っているという使命感が、全く感じられない。そもそも、米国内で流通する所謂低所得者向けのオーガニックでない牛肉は、名実ともに「オーガニック」でないのだから、肥育に使用される飼料は、従来通り、肉骨粉混じりのリスキーな状態のままだ。米国の当初の主張が、「米国の条件下、米国民は食しているのだから、日本が示すレベルの高い条件は必要ない」であったことを思い出すと、米国全土に広がる畜産農家の一人一人が、飼料に配慮するとは、到底思えないのだ。

更に、今回の調査でも、月齢20ヶ月以下の規定が遵守される根拠はない。決定的なのは、米国の牛には、日本のように1頭1頭トレーサビリティの根拠となるロットが、プロッティングされてはいないことだ。結局、米国の牛は、月齢を正確に把握することなど、できるはずがないのだ。

多くの日本の賢い消費者は、このような状況の中、再び米国産牛肉が店頭に並んだり、加工食品に使用されたりすることに脅威を感じている。日本の消費者の健康と食の安全を守るべき日本政府が、日米関係を良好に維持するための政治的道具として、危険な米国産牛肉の輸入再々開に踏み切ることは、日本国民の1人として断じて許すことは出来ない。真に日本が、世界から健康で文化的な先進国家として認められるには、あえて米国および米国の畜産業界に対して、誤りを指摘する一石を投じる覚悟が必要だ。しっぽを振って寄り添うだけの、単なる米国のポチである以上、日本は世界のどの国からも評価もされなければ相手にもされないのだ。世界の公衆衛生の観点から、米国の畜産が、BSEリスクからの脱皮も含めて食の安全に律する行動をとることが、何よりも重要だ。

小泉路線を継承するポスト小泉政権では、日本の食の安全を守ることはできない。「美しい国」とは、それこそ言ってみるだけだ。政権は、選挙でしか代わらない。私たち消費者の賢い選択が、今度こそ求められるのだ。
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村上ファンド「31人の投資家リスト」 7月25日

月刊誌「FACTA」に、31人の「村上ファンド投資家リスト」なるものが掲載された。もはや個人的な利殖を否定できない状況にある日銀の福井総裁の他にも、小泉改革を取り巻いた著名人たちが群雄割拠に名を連ねる。

(政治家)
浅尾慶一郎(民主)・伊藤達也(自民)・岡田克也(民主)・片山さつき(自民)・河野太郎(自民)・竹中平蔵(自民)・西村康稔(自民)・林芳正(自民)・松井孝治(民主)・茂木敏充(自民)・斉藤健(千葉7区補選落選)・塩川正十郎(元財務大臣)

(財界関係者等)
鮎川純太(テクノベンチャー会長兼社長)・新井隆司(ビックカメラ会長)・宇野康秀(USEN社長)・小城武彦(カネボウ副社長)・折口雅博(グッドウィルグループ会長兼CEO)・角川歴彦(角川グループホールディングス会長兼CEO)・木村剛(フィナンシャル社長兼CEO)・堺屋太一(作家)・澤田秀雄(H.I.S会長)・重田康光(光通信会長兼CEO)・冨山和彦(産業再生機構専務)・中川勝弘(トヨタ自動車副会長)・南部靖之(パソナグループ代表兼社長)・西川りゅうじん(商業開発研究所レゾン所長)・平田竹男(日本サッカー協会専務理事)・藤田晋(サイバーエージェント社長)・増田宗昭(カルチュア・コンビニエンス・クラブ社長)・三木谷浩史(楽天会長兼社長)・安延申(ウッドランド社長)

リストの出所は、家宅捜索した東京地検か、捜索されたM&Aコンサルティングか、ファンドを実質運営していたとされるオリックスかの3ヶ所しかあり得えないが、FACTA編集部は、3ヶ所のうちいずれかが出所であるという確証を得ているという。

永田メールの轍を踏まぬようFACTA編集部は、リストアップされた31人全員に、①村上氏に面識はあるか②村上ファンドから投資の勧誘を受けたか③村上ファンドに投資した事実はあるか④投資しているなら、投資時期や金額などを教えて欲しいと、4項目の質問状を送り、真偽のほどを確かめようとした。

その結果、竹中平蔵議員と松井孝治議員の2人は、再三の電話にも無回答を貫いている。林芳正氏や塩ジイは「回答しません」、鮎川純太氏は「取材は一切断っている」、USENの宇野康秀氏は「コメントは控える」、角川歴彦氏は「取材はお断りします」、重田康光氏は「本人への取材取次ぎはできません」、小城武彦氏は「連絡先不明」、ウッドランドの安延申氏は「回答なし」と、なっている。そして残りの21人は全員が、投資の事実は一切ないと答えている。

しかし、見れば見るほど、リストアップされた31人は、民主党の3人の議員はともかく、他は見事に小泉改革を取り巻き周辺をうごめいていた人たちばかりだ。彼らは、規制緩和をうたった小泉改革の真っ只中にいた、まさにインサイダーであり、彼らが村上ファンドへの投資を行っていたのだとすれば、それは究極のインサイダー取引きそのものだ。たびたび開かれていた「竹中勉強会」には、楽天やフルキャスト、インデックスなど急成長を遂げたITベンチャーや村上世彰氏の右腕と称されたM&Aコンサルティングの丸木社長や同社のファンドマネジャーらが名を連ね、何を隠そう「次はどの株が上がりそうか」を、詳細に分析していたというのだから、名実共に紛れもないインサイダー取引きが、公然と繰り広げられていたということになる。

FACTAも指摘するように、検察の次のターゲットは、小泉改革のメインエンジンの役割を担ってきた「規制改革・民間開放推進会議」議長であり事実上村上ファンドの主宰者であったオリックスを率いる宮内義彦氏だ。小泉規制改革の旗振り役であった宮内氏が、おそらく、最も小泉改革の恩恵に預かった人物に違いない。小泉エセ改革の申し子である村上ファンドで、暴利をむさぼったと推測されるそのインサイダーたちと、村上ファンドの黒幕であるオリックスの宮内義彦氏は、小泉内閣終焉と同時に摘発されなければならない。

更に、日本の金融の最高責任者である日銀の福井総裁を、秋の臨時国会では、速やかに辞職させなければならないのだ。子どもたちの見本とならない人物が、権力の座をいつまでも許されることは、教育上、極めてよくないことだ。濡れ手に粟の利殖行為は、まさに「国家の品格」をけがす、極めて卑劣で卑怯な行為だ。福井総裁が、秋の臨時国会を待たずに、自ら進退を決すべきだと思うのは、私ばかりではないはずだ。
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大転換すべき北海道の農業・酪農 7月24日

日本の酪農・乳業は、正しい方向に向かって歩んでいるのだろうか。私はいつも、疑問に思っている。給食という仕組みを利用して、飲むことを強要してきた牛乳の栄養価と安全性に、問題はないのだろうか。「病気にならない生き方」の著者・新谷弘実医師は、牛乳を「錆びた脂」と評する。牛乳は、そもそも子牛の飲物である。人間が飲むために粒状の乳脂肪を攪拌する際、乳脂肪は過酸化脂質へと酸化して、人体にとって「毒」になってしまっていると新谷医師は指摘する。

アトピーや小児喘息などのアレルギーの患者が、牛乳や乳製品の摂取を止めると、見事に症状が改善すると、新谷医師は経験を語る。単にカルシウムが豊富であることだけをとらえて、牛乳を絶対的栄養価の高い飲物に仕立て上げることは、骨にカルシウムが豊富だからと言って、腐った魚を食べさせることとなんら変わりはない。牛乳を飲むと通じが良くなるのも、単に、腐った脂で下痢をしているにすぎないのだ。

余剰牛乳を廃棄処分するほど市場の低迷にあえぐホクレンだが、お茶や豆乳など他のペットボトル飲料が台頭したことだけがその原因では決してない。牛乳を受け入れないことは、人間の自然の摂理なのだ。現代人に花粉症が多いのは、勿論、戦後無差別に植林された人工杉林が第一の原因ではあるが、1960年代、学校給食に牛乳が導入されたことも、重要な要因ではないかと言われている。

広大な土地を活用した北海道の酪農や農業は、今、間違いなく岐路に立たされている。日本の酪農業界がWTOの農業交渉に危機感を募らせているが、それはまさしく、日本の酪農に国際競争力がないことを意味する。「関税の引き下げで、乳製品の輸入が増加すれば、牛乳の受給調整が困難になり、酪農経営に壊滅的な打撃となる」との酪農団体の認識は、努力と工夫をせずして、可能性を自ら摘んでいるようなものだ。牛乳神話は、今や過去の話だ。政府が買い取った1,000万トンの牛乳も、果たして本当に途上国に支援物資として提供されるかどうかは、甚だ不透明だ。北海道の酪農は、いよいよ行き詰ってきた。

北海道の酪農と農業は、発想を大転換しなくてはならない。農薬や化学肥料を使用しない無農薬あるいは有機栽培の農作物の生産に、速やかにシフトすべきだと私は思う。政府は、これまでのミスリードを反省し、全面的にそのサポートをしなければならない。WTOにも揺るがない強い国際競争力を備えるには、日本の農業ならではの「安心・安全」な農作物の生産をおいて他にない。今や、無添加の限りなく自然に近い食材への関心は、日増しに高まっている。食材の向こう側にある、生産者の顔や厳しい農作業の姿を伺い知ることのできる農産物であれば、少々価格が高くても消費者は選択する。未来の健康への投資だと、思えるからだ。

日本の農業が国際競争に勝ち抜いていくには、質の高い農作物の生産以外に方法はない。他の国が出来ないことを、緻密な日本の民族性は、やってのけることができるのだ。これまでは、北海道の酪農が、飼料を海外からの輸入に頼っていたことが、結果的に、日本の食糧自給率低下の大きな要因となってきた。北海道の問題を抜きにして、食糧自給率の向上も、言ってみるだけだなのだ。明らかにこれまでの北海道の酪農・農業のあり方は間違っている。酪農はもとより北海道全体が、速やかに無農薬や有機栽培の質の高い農業へと転換していくことが、北海道が生き残る唯一無二の方策なのだ。

広大な国土を持ち質の低い農畜産物の大量生産を行う米国や中国と同じ土俵に立ち、関税の引き下げで右往左往するような日本の農業では、まったく光明は見出せない。他の追随を許さない無農薬・有機栽培の農業こそ、21世紀の日本が進むべき道だ。「食育」の真髄は、日々囲む食卓を通して、日本の社会の仕組みを見つめ直すことだ。とれたての新鮮な無農薬野菜は、甘くて美味しい。1人でも多くの子どもたちが、家族とともにそんな野菜を頬張りながら笑顔の絶へない食卓を囲む社会を、私たちは目指さなければならないのだ。何よりも、北海道の酪農と農業が新たな一歩を踏み出すことが、日本の農業の将来を占う試金石であり、食育の原点であることを、私たちは肝に銘じなければならない。
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靖国参拝「親の心子知らず」 7月23日

公表されることが想定されてはいなかったとは思うが、極めて信憑性の高い元宮内庁長官・富田朝彦氏のメモには、昭和天皇の「親の心子知らず」という言葉が残されていた。当時の靖国神社宮司・松平永芳氏が、父である最後の宮内大臣・松平慶民の平和への強い意志を裏切り、靖国神社へのA級戦犯合祀に踏み切ったことをさしての昭和天皇の言葉だ。

「親の心子知らず」の言葉は、誰の胸にもズシンと突き刺さる言葉だろう。国家の象徴たる天皇ともなれば、誰よりもその見本でなければならないはずだ。内外の多くの人々の命を奪った戦争への昭和天皇の思いは、富田メモが物語るように非常に深い。その心を、現在の天皇陛下は、十分に受け継がれている。昨年のサイパン訪問が、昭和天皇にまさるとも劣らない今上天皇の戦没者への哀悼の思いを、顕著に表している。

今上天皇陛下は、サイパン島に慰霊に行ったのであって、決して日本国の軍人の戦没者を顕彰に行ったわけではない。小泉総理や安倍官房長官がこだわる靖国神社参拝と、そこが決定的に異なる点だ。東条英機元帥の孫娘東条由布子氏は、A級戦犯は、靖国に祀ってある246万柱の英霊のうちのごく一部にすぎず、わずか14名のA級戦犯合祀のために、天皇陛下や総理大臣が靖国参拝を躊躇することはおかしいと述べているが、それでもなお靖国神社に参拝することはできないという昭和天皇の心を、それは全く理解していない独善的な解釈だ。

泣く泣く散っていった戦士たちは、軍国主義をあおり戦争を指揮し、数えきれない人々を殺して、日本を敗戦国に追い込んでしまったA級戦犯と言われる人々とともに合祀されることを、果たして望んでいるだろうか。昭和天皇も今上天皇も、戦争の犠牲になった多くの無名戦士や民間人の心に寄り添おうとしている。そしておそらく、今の皇太子殿下が天皇になられたときも、戦没者へ寄せる心は変わることはないだろう。皇太子殿下は、昭和天皇が言う「親の心」のわかる天皇にきっとなられるに違いない。

「親の心を知る」今の皇太子殿下が、わが子にもその心を伝え、国内外の民間人を含む戦没者を慰霊する温かい心を持った天皇として、将来は愛子様が皇位を継承し、内外の人々の心に働きかける象徴となることを、私は願ってやまない。

それぞれの「心」の問題だと主張する小泉総理は、昭和天皇の「心」が明らかになった今、それを無視して「私の心は違う」と言って、この夏再び、靖国神社参拝に踏み切るのだろうか。昭和天皇の深い心の内が判明した以上、小泉総理は、それを謹んで重く受け止めなければならない。内外への影響力を考慮した上で、真に最善の選択は何か、謙虚に判断しなければならない状況にいよいよ追い詰められていることを、小泉総理は自覚しなければならない。
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奢れるトヨタは、久しからず 7月22日

トヨタ車のリコールが、相次いでいる。国内のほか米国でも、プリウスなど40万台ものリコールが報告された。ここ数年の三菱自動車のリコールは聞き慣れてはいたが、世界のトヨタに、こんなにもリコールが相次ぐとは、誰も想像もしていなかったことだ。

しかし、その原因は、はっきりしているような気がする。確かに、これまで、トヨタブランドは他の追随を許さなかった。ところが、この5年間、トヨタの総責任者であった奥田碩会長(現相談役)は、財界活動と政治活動とに携わることを最優先とし、一般消費者との関係を、極めて蔑ろにしてきた。誰もが認める事実だ。

奥田会長は、経団連会長だけではなく、小泉内閣の経済財政諮問会議の民間委員として、小泉政権の大資本のための改革を推進する役割を演じていたのだ。一般消費者を蔑ろにし、弱肉強食社会を推進し、大企業たる自社のトヨタが優遇されることだけに、奥田会長の関心は移っていたのだ。奥田会長はこの5年間、小泉内閣が推進する強者のための改革を推し進め、逆に、弱者である一般消費者に対しては、平気で打撃を与えることを良しとしてきたのだ。

奥田会長が、本業以外の「反消費者活動」にうつつを抜かす最中に、北米トヨタの大高英昭社長は、人間として最低の「セクハラ」という行為にはしり、国内では、中川勝弘副会長が、あの村上ファンドで利殖をする始末。トヨタの首脳陣は、まったくモラルハザードの極地なのだ。首脳陣が腐りきった会社に、良い商品など作れるはずがないのだ。

本来なら、消費者の所得を増やして、トヨタの車を買ってもらう立場の奥田会長が、大企業主体の新自由主義経済政策の推進役を買って出て、逆に、消費者に不利益をあたえる施策の旗振り役になってしまったことを、トヨタの社員たちは、どう思っているのだろうか。

トヨタは、消費者のための会社であるという原点に戻らなければならない。これまで多くの人々が、トヨタ車神話を信じて利用してきた。私の周りの大半の人々が、トヨタ車を愛用している。そんな多くの期待に応えるべく、トヨタには、新たな出発が必要だ。大企業優先で、消費者に不利益を与えて平然としている奥田会長には理解し得ない一般消費者の生の声を救うシステムが、今のトヨタには決定的に欠けている。

多くの正直者の消費者は、トヨタの本来の生産・サービス能力に、これからも期待するはずだ。トヨタは一刻も早く原点に戻り、消費者に心を寄せる車作りの姿勢を取り戻さなければならない。政治は、魔物だ。国民を守るはずの政府が、消費者の意に反して不安に満ち溢れた米国産牛肉の輸入再開に血道を上げたり、規制改革を利用して、オリックスや村上ファンドが金儲けにはしり、ひいては日銀の福井総裁までもが「日本銀行員の心得」に反して個人的な利殖をする。政商となった奥田会長も同様に、いつしか一般消費者への心が失われていったのだろうが、今こそ原点に立ち返り、消費者にとって安心安全な車作りを、再び実行して欲しい。
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混乱した老齢者控除全廃 7月21日

今年度徴収分から、住民税の税率や所得税の控除が変更になり、6月に入り届いた住民税の納税通知書の額に愕然とした人々は多いはずだ。特に、65歳以上の年金暮しの高齢者には、大きな打撃を与えている。中には、住民税が一気に10倍に跳ね上がった高齢者もいる。

今回の増税は、不良債権が減少し、経済成長率や民間の設備投資が順調に伸びつつあるとして、定率減税の廃止を政府が掲げた平成16年の税制改正で決められていたことだが、案の定、政府の広報は例外なく不十分で、納税者に大きな混乱を招いた。6月に届いた住民税の納税通知書を見て初めて、増税に気付いた人々が圧倒的多数なのだ。税金は、納税者が納得の上で納めるべき性質のものだ。十分な周知徹底をせず、納税通知書だけを送付する政府のやり方は、極めて姑息で奢りに満ちている。

最も象徴的なのは、65歳以上で1,000万円以下の所得の高齢者に適用されていた老齢者控除が廃止され、住民税控除48万円と所得税控除50万円とが全廃されたことだ。夫婦の年間所得が250万円の世帯では、あらたに所得税3万3千円が、同250万円~300万円の世帯では、現行8千円の所得税が一気に7万円に引き上げられるという、大激変に見舞われることになったのだ。

当初は所得税の増税だけが議論の対象であったのに、次第に地方住民税や国民健康保険料にまで政府の食指は伸びていった。「三位一体改革の一環として、3兆円の地方への税源委譲に関して、所得税と住民税の税率構造を改める」という財務省の言い訳は、まるで矛盾に満ちている。そうであるならば、そもそも所得税の増税など、あってはならない話なのだ。結局は、歳出削減がままならない状況の中での単なる増税にすぎず、たとえ谷垣財務大臣の言う「税負担を公平に分かち合う観点」からの高齢者への増税であったとしても、まったく説得力はなく、納税者の理解など得られる話ではないのだ。

同時に、65歳以上の住民税非課税措置も段階的に廃止されることになり、加えて、公的年金控除の上乗せ措置も縮小された。例えば年間260万円以下の年金受給者の場合、現行の140万円から120万円に控除額は縮小されたのだ。これらの結果、住民税が10倍になった人も多く、それに連動する国民健康保険料もアップすることになったのだ。これだけの増税を行うのに、まったく広報をしなかった政府は、完全に高齢者を無視しているとしか言いようがなく、信頼の失墜も甚だしい。

今回の増税に納得いかない高齢者は多いはずだ。しかし、内容を十分に承知していたら昨年の総選挙で政府与党に投票などしなかったと、今更後悔してもはじまらない。周知徹底を、あえて怠った政府には重大な責任があるが、これを教訓の1つにして、納税者の1人として政策決定過程を十分に注視することを怠ってはならないと、肝に銘じなければならないのだ。

肝心なことは、「税負担を公平に分かち合う観点」と併せて、低所得者へのセイフティネットを忘れないことだ。「閉店間際のスーパーの値引き商品を買って生きながらえてきたのに・・・」と絶句する高齢者の首を、今回の増税は益々絞めることになる。政治は弱者を救うためにある。「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という憲法25条を、政府自らが破ってはならない。今回の老齢者控除の全廃に、ついていけない高齢者は、間違いなく存在する。

これ以上、孤独死が増えないように、年金制度を抜本改革して、基礎年金の全額を税負担(消費税)とし、所得の少ない人々に必要以上の負担をかけないような社会保障制度に転換していくことが、賢い選択なのではないかと私は思う。
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「靖国参拝問題」昭和天皇の重い言葉 7月20日

日経新聞を手にした途端、今日は驚いた。
A級戦犯の合祀を知った昭和天皇は、以来、そのことを理由に靖国神社を参拝しなくなったことが、ついに証明されたのだ。当時の宮内庁長官・富田朝彦氏が残したメモに、はっきりとそう記されていたのだ。

ヒトラーに買収されたのではないかと昭和天皇が疑うほど、極端なドイツびいきの松岡洋右氏と、その松岡氏のブレーンと言われた白鳥敏夫元駐伊大使の2人が靖国神社に合祀されていることに、昭和天皇は特に強い不快感を示したようだ。「平和に強い考え」のあった最後の宮内大臣・松平慶民氏の長男でありながら、1978年にA級戦犯合祀に踏み切った当時の靖国神社宮司・松平永芳氏をして、「親の心子知らずと思っている。だから、私はあれ以来、参拝をしていない。それが私の心だ。」と、昭和天皇は言葉を残している。

このメモがとられた直前に行われた天皇誕生日に先立つ記者会見では、戦争に対する考えを問われた昭和天皇は、「何といっても、大戦のことが一番嫌な思い出」と、大戦への筆舌に尽くしがたい思いをすなおに吐露している。

当時の国民感情に配慮した昭和天皇の発言内容は、富田朝彦氏の人間性から推し量るにその信憑性は極めて高いとされている。A級戦犯合祀を理由に、靖国参拝をこれほどまでに忌避した昭和天皇の考えを、今後、総理大臣の靖国参拝問題を考える際には、十分に考慮しなければならない。A級戦犯も戦争の犠牲者にかわりはないとして、総理大臣の靖国参拝を肯定しようとする小泉総理も安倍官房長官も、昭和天皇の思いの深さに比べると単なる駄々っ子のつっぱりにすぎない。

靖国神社がA級戦犯を合祀しようがしまいが、それは一宗教法人である靖国神社の勝手だが、A級戦犯を合祀した靖国神社に総理大臣が参拝することは、たとえそれが戦勝国の裁判であって全面的に承服できるものではないにせよ、我が国が国際社会に復帰する前提となった東京裁判の判決に、総理自身が異議を申し立てているようなものだ。小泉総理が盟友と自負するブッシュ大統領でさえ、総理の靖国参拝には首をかしげている。小泉総理が任期中に再び靖国神社を参拝するようなら、サミット同様、いよいよブッシュ大統領から名指しで苦言を呈されるに違いない。総理の靖国神社参拝は、どの国の国益にも資さない、浅薄な行為なのだ。

小泉総理が何が何でもA級戦犯に手を合わせたいのなら、彼らの遺骨が眠る愛知県三ヶ根山の山頂にある「殉国七士」の墓をお参りすればよいのだ。中国・韓国との関係と靖国神社参拝とを天秤にかけて、靖国神社参拝を選択するような料簡の持ち主に、国家の首相たる資格はない。

本当に可哀想なのは、A級戦犯らの命を受けて、10代20代の若さにして神風となり散っていった少年飛行兵たちのほうだ。「お母さん、お父さん、今日までありがとうございました。私は征きます。」「今更、言なし」知覧特攻平和館に遺された少年飛行兵たちの絶筆は、いつ思い出しても万感胸に迫る。戦没者を慰霊し、真に平和への誓いを新たにしようとする気持ちがあるのなら、母の胸がまだ恋しい若さで散っていった少年飛行兵の無念に思いを寄せ、彼らの慰霊碑のある知覧を、敗戦記念日には小泉総理は訪れるべきだ。

戦争を美化し、日本が行った植民地支配や侵略行為を正当化する靖国神社は、総理大臣が参拝するには決してふさわしい場所ではない。しかし一方で、「春の梢に咲いて会おう」と、靖国神社での「再会」を約束し散っていった戦没者の方々への哀悼の気持ちは、日本国民共通のものだ。将来も含め、戦争で犠牲になった全ての人々を祀り、慰霊し平和を誓う施設が、やはりどうしても必要だ。現状に大きな問題はあっても、無名戦士の遺骨を収集しお祀りする千鳥ケ淵戦没者墓苑を、更に発展させて追悼施設をつくり上げていくことが、極めて理に叶っているのではないかと私は思う。

昨年、天皇皇后両陛下は、サイパンのバンザイクリフやスーサイドクリフを訪れ、祈りをささげられた。天皇陛下や一国の宰相が最も心を寄せなければならないのは、絶望の淵に立たされ命を落とさざるを得なかった、国内外の民間の人々であるはずだ。戦争を美化し、植民地支配や侵略行為を正当化し、A級戦犯を合祀する靖国神社は、時の総理大臣が参拝するのには、全く不適切な施設なのだ。

小泉総理は、昭和天皇の心を尊重しなければならないのだ。
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