Justice! 社会正義の実現!所得充実政策!ワクチンより検査を積極的に推奨! / 薬剤師・元参議院議員・消防団
ひらがな5文字の「はたともこ」ブログ
「教育勅語」は19世紀の目標 7月1日
大阪の2つの私立幼稚園で、年長組の園児約120人に、なんと「教育勅語」を暗唱させていることが判明した。驚いた!園長は、「幼児期から、愛国心・公共心・道徳心を育むためにも、教育勅語の精神が必要と確信している」と主張するが、今国会でも議論になったように、愛国心・公共心・道徳心は、決して強制されて植えつけられるような代物ではない。当然文科省も、園児に教育勅語を教えることは適当ではないと苦言を呈している。
幼児期から古典に親しむため、一昨年来、年長組を対象に論語の勉強を始め、「教育の真髄を短い言葉で伝えているのが教育勅語」と考え、昨年10月から毎朝園児に暗唱させていると、両幼稚園の園長を務める籠池靖憲氏は話す。父兄に対しても、「今こそ教育勅語の精神が必要」との所感を添えて、口語訳を配布したというからすごい。
明治天皇の署名がなされた教育勅語は、明治23年、すべての学校に配布された。父母への孝行や夫婦の和合をうたい、道徳心を培う一方、明治天皇への忠誠の美風を礎とする教育勅語は、発布翌年、内村鑑三の批判をきっかけに、あらためて重用する旨の訓令が発せられ、学校の式典でも「奉読」すること強制されるようになった。
一方、時の文部大臣である西園寺公望は、教育勅語があまりにも国家中心主義に偏重しすぎていることを危ぶみ、実現はしなかったものの「第2教育勅語」を起草した。即ち、国家中心主義を強制する教育勅語は、当初から批判の多い内容だったのだ。しかし、昭和に入ると、教育勅語は益々重用され、学校内にある「奉安殿」という特別な場所に天皇皇后両陛下の写真とともに保管され、結局は、1938年の国家総動員法を正当化するための軍国主義の経典として利用されるに至ったのだ。
軍人の規律を説く「軍人勅語」と同列に扱われた教育勅語は、当時、明らかに軍事教育・軍国主義を国民に強制するためのものとなった。その後、日本は敗戦に至り、教育勅語があまりにも神聖化されている点を問題視したGHQの指令のもと、1948年、国会決議を経て、ようやく教育勅語は失効した。
年端もいかぬ園児に、軍国主義を彷彿とさせる教育勅語を暗唱させる幼稚園は、社会通念上、やはり異常と言わざるを得ない。事前に「暗唱」のことを知っていたら、入園を考え直した保護者は居たはずだ。「戦争にいざなった負の側面を際立たせ、正しい側面から目をそむけさせることには疑問を感じる。」との園長の主張には、少なくとも、園児に対する歴史の教育が無い以上、無理がある。国家中心主義と軍国主義を強制する教育勅語を暗唱させられた園児たちの自我が目覚めた時、彼らが偏狭な価値観にとらわれはしないか今から非常に不安になる。
継続審議になった教育基本法改正案の議論の際にも、教育勅語を連想させる内容は、与野党問わず大きな論点となった。常識的に考えても現代社会にそぐわない教育勅語は、園児に暗唱させるべきものでは、決してない。道徳の心得は、教育勅語の力を借りなくとも可能だ。これから展開されるのは、21世紀の「この国のかたち」を構想する憲法や教育基本法の国民的議論だ。19世紀に始まり、20世紀の日本の大失敗の原因となった「教育勅語」は、21世紀の日本に、決してふさわしいものではないと、私は思う。
幼児期から古典に親しむため、一昨年来、年長組を対象に論語の勉強を始め、「教育の真髄を短い言葉で伝えているのが教育勅語」と考え、昨年10月から毎朝園児に暗唱させていると、両幼稚園の園長を務める籠池靖憲氏は話す。父兄に対しても、「今こそ教育勅語の精神が必要」との所感を添えて、口語訳を配布したというからすごい。
明治天皇の署名がなされた教育勅語は、明治23年、すべての学校に配布された。父母への孝行や夫婦の和合をうたい、道徳心を培う一方、明治天皇への忠誠の美風を礎とする教育勅語は、発布翌年、内村鑑三の批判をきっかけに、あらためて重用する旨の訓令が発せられ、学校の式典でも「奉読」すること強制されるようになった。
一方、時の文部大臣である西園寺公望は、教育勅語があまりにも国家中心主義に偏重しすぎていることを危ぶみ、実現はしなかったものの「第2教育勅語」を起草した。即ち、国家中心主義を強制する教育勅語は、当初から批判の多い内容だったのだ。しかし、昭和に入ると、教育勅語は益々重用され、学校内にある「奉安殿」という特別な場所に天皇皇后両陛下の写真とともに保管され、結局は、1938年の国家総動員法を正当化するための軍国主義の経典として利用されるに至ったのだ。
軍人の規律を説く「軍人勅語」と同列に扱われた教育勅語は、当時、明らかに軍事教育・軍国主義を国民に強制するためのものとなった。その後、日本は敗戦に至り、教育勅語があまりにも神聖化されている点を問題視したGHQの指令のもと、1948年、国会決議を経て、ようやく教育勅語は失効した。
年端もいかぬ園児に、軍国主義を彷彿とさせる教育勅語を暗唱させる幼稚園は、社会通念上、やはり異常と言わざるを得ない。事前に「暗唱」のことを知っていたら、入園を考え直した保護者は居たはずだ。「戦争にいざなった負の側面を際立たせ、正しい側面から目をそむけさせることには疑問を感じる。」との園長の主張には、少なくとも、園児に対する歴史の教育が無い以上、無理がある。国家中心主義と軍国主義を強制する教育勅語を暗唱させられた園児たちの自我が目覚めた時、彼らが偏狭な価値観にとらわれはしないか今から非常に不安になる。
継続審議になった教育基本法改正案の議論の際にも、教育勅語を連想させる内容は、与野党問わず大きな論点となった。常識的に考えても現代社会にそぐわない教育勅語は、園児に暗唱させるべきものでは、決してない。道徳の心得は、教育勅語の力を借りなくとも可能だ。これから展開されるのは、21世紀の「この国のかたち」を構想する憲法や教育基本法の国民的議論だ。19世紀に始まり、20世紀の日本の大失敗の原因となった「教育勅語」は、21世紀の日本に、決してふさわしいものではないと、私は思う。
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教育基本法改正は、本当に必要か 5月8日
教育基本法改正を訴えているのは、もっぱら政府与党である。当の現場を担う教職員の多くは、逆に改正には反対の立場だ。教育の荒廃を改正の理由に挙げる政府だが、教育の荒廃は、教育基本法を改正すれば改善されるというのか。あり得ない。荒廃の本質的な理由が、まったく理解されていない。むしろ教育基本法の改正で愛国心が強制されることにより、教育の荒廃は一層進むに違いない。
極東地域での不必要な孤立化を進める小泉政権のおかげで、総理が米国に擦り寄る分、日米同盟をたてに米国は日本を植民地化しようとしている。小泉政権5年間は、極東での日本の自立したアイデンティティを、完全に失墜させてしまった。自らアジアでの自立の芽をそぐ日本を、世界の先進国はカウンターパートとしてみなすはずがない。
だらしない日本政府と、一国主義の米国とのお粗末な目論見が一致し、米軍再編のために日本は3兆円とも言われる巨額の資金を提供しようとしている。軍事国家アメリカの手足として、今まさに自衛隊は米軍に飲み込まれようとしている。合わせて、政府提出の教育基本法案が数の力で成立すれば、軍備の拡大とともに愛国心の強制によって、さながら戦前の帝国主義の再来ということになる。再び赤紙が配達される日が、やって来るのではないだろうかとさえ思ってしまう。
愛国心を強制すれば、おませな子ども達は、逆に強い反発心を覚えるに違いない。その結果、規律を正すどころか益々教育現場は荒廃する。客観的にみても、現行の教育基本法に問題点があるとは思えないし、政府改正案の文章が、現行のものに優るほど立派なものだとも思えない。日本人の文化の普遍性と同時に、グローバル化による文化の多様性についても受け入れようとする現行の教育基本法こそ、時代にぴったりとマッチしている。
文部科学省は、今日、教育基本法改正推進本部の初会合を開いた。現行法を否定する文科省の意図が、さっぱりわからない。教育の先頭に立つ多くの教職員の声に耳も傾けもせず、一方的に愛国心にこだわる政府与党とそれを支える文科省の権力意志に対して、異をとなえるチャンスは国民には少ない。政府体制派の御用機関に成り下がったマスメディアに期待できるものはなく、多くの国民が法改正の本質を知る術はなく、声を挙げることもなく政府案が可決成立されるとすれば、異常としか言いようがない。
教育基本法を改正する必要はない。日米同盟をたてにした米国による軍事的な日本の植民地化と相まった、帝国主義に逆戻りするような政府案に、賛成できるはずがない。国会でのまともな審議を期待するが、与党絶対多数の国会では、このまま成立してしまう可能性は十二分にある。軍事的に事実上米国の植民地と化し、この上、愛国心まで強制されてしまっては、子どもたちの自由は奪われたも同然だ。せっかく素晴らしい教育基本法が在るのだから、これを温め成熟させていくことに力を注ぐべきだと私は思う。
極東地域での不必要な孤立化を進める小泉政権のおかげで、総理が米国に擦り寄る分、日米同盟をたてに米国は日本を植民地化しようとしている。小泉政権5年間は、極東での日本の自立したアイデンティティを、完全に失墜させてしまった。自らアジアでの自立の芽をそぐ日本を、世界の先進国はカウンターパートとしてみなすはずがない。
だらしない日本政府と、一国主義の米国とのお粗末な目論見が一致し、米軍再編のために日本は3兆円とも言われる巨額の資金を提供しようとしている。軍事国家アメリカの手足として、今まさに自衛隊は米軍に飲み込まれようとしている。合わせて、政府提出の教育基本法案が数の力で成立すれば、軍備の拡大とともに愛国心の強制によって、さながら戦前の帝国主義の再来ということになる。再び赤紙が配達される日が、やって来るのではないだろうかとさえ思ってしまう。
愛国心を強制すれば、おませな子ども達は、逆に強い反発心を覚えるに違いない。その結果、規律を正すどころか益々教育現場は荒廃する。客観的にみても、現行の教育基本法に問題点があるとは思えないし、政府改正案の文章が、現行のものに優るほど立派なものだとも思えない。日本人の文化の普遍性と同時に、グローバル化による文化の多様性についても受け入れようとする現行の教育基本法こそ、時代にぴったりとマッチしている。
文部科学省は、今日、教育基本法改正推進本部の初会合を開いた。現行法を否定する文科省の意図が、さっぱりわからない。教育の先頭に立つ多くの教職員の声に耳も傾けもせず、一方的に愛国心にこだわる政府与党とそれを支える文科省の権力意志に対して、異をとなえるチャンスは国民には少ない。政府体制派の御用機関に成り下がったマスメディアに期待できるものはなく、多くの国民が法改正の本質を知る術はなく、声を挙げることもなく政府案が可決成立されるとすれば、異常としか言いようがない。
教育基本法を改正する必要はない。日米同盟をたてにした米国による軍事的な日本の植民地化と相まった、帝国主義に逆戻りするような政府案に、賛成できるはずがない。国会でのまともな審議を期待するが、与党絶対多数の国会では、このまま成立してしまう可能性は十二分にある。軍事的に事実上米国の植民地と化し、この上、愛国心まで強制されてしまっては、子どもたちの自由は奪われたも同然だ。せっかく素晴らしい教育基本法が在るのだから、これを温め成熟させていくことに力を注ぐべきだと私は思う。
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大江健三郎氏とエドワード・サイード 4月29日
今日は、私にとって記念すべき1日となった。長年の夢であった、作家・大江健三郎氏の講演を、生で聴くことができたのだ。「生・大江」に、あと何回会えるかわからない、もしかしたら最初で最後のチャンスかもしれないと、昨夜は興奮してあまり眠れなかった。
歴史に翻弄されるパレスチナの地に、和解と共生を求め続けたパレスチナ出身の知識人故エドワード・サイードを軸に作成されたドキュメンタリー映画、佐藤真監督「エドワード・サイード OUT OF PLACE」の完成記念上映会で、生前のサイード氏と親交のあった大江健三郎氏は講演した。2002年、朝日新聞は、大江氏とサイード氏との往復書簡を連載した。私も毎回楽しみにしていた読者のひとりだが、実際のところ内容が非常に難解で、2,3度読み返さなければ理解できなかったことを覚えている。
2時間17分にも及ぶ映画は、佐藤真監督の思い入れが十分に伝わってくる力作だったが、サイード氏が亡くなったあと撮影されたものなので、子どもの頃のモノクロフィルムなどでしか、サイード氏本人は登場しない。映画上映後、妻のマリアム・サイード氏が挨拶に立った。妻・マリアムは、音楽を通してパレスチナとイスラエルの和解と共生を実現しようとしたサイード氏の遺志を継ぎ、指揮者でピアニストのダニエル・バレンボイムとともに、パレスチナ西岸地区で音楽教育の発展とイスラエル・パレスチナの若手音楽家の交流プロジェクトに、現在取り組んでいる。バレンボイムは、ワーグナーの解釈の第一人者で、2002年にも日本で公演を行っている。
マリアム・サイードによる紹介で登場した「生・大江」は、やっぱりすごい人物だった。まず何よりも驚いたのは、この講演のために大江氏が費やした、膨大な時間とエネルギーだ。半年前から準備を始め推敲された講演内容は、会場で大江氏の講演を聴く妻マリアムに対して同時通訳しやすいようにと、事前に原稿にまとめられていた。生原稿をめくりながら話す大江氏の姿は誠実さにあふれ、大江氏の言葉を借りるならば「優しさの感情」にあふれていた。即ち「優情」というこの言葉は、少年時代からの友人であり義兄であった映画監督・伊丹十三氏の突然の自殺に悩み苦しむ大江氏に対して、サイード氏が送った言葉の一つだ。オリジナルは「Affection」。大江氏は、堀田善衛氏の言葉を借りて、これを愛情ではなく「優情」と訳したのだ。
今日の講演の圧巻は、大江氏が教育基本法について触れたことだ。昨年1月発行の「『自分の木』の下で」の文庫版のあとがきで、大江氏は教育基本法について触れている。日本国憲法が施行されたその年、大江氏は新制中学に入学した。前年、父親を亡くしていた大江氏は、中学への進学をあきらめていただけに、喜び勇み、学校で教わることのすべてに興味を持った。「(新しく施行された)憲法の一番大切なところが、子供の生活と関係づけて短く書いてある」と社会科の先生が紹介してくれた教育基本法を、大江氏はノートに写した。大江氏は「難しい言葉の連続だったが、その文章が好きだった」と記している。
このとき大江氏は、教育基本法の文章を、これから作っていく学校の方針を子供らに約束するのにふさわしい表現であると感じ、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」が本当になされるのであれば、自分はしっかりと受け止めようと思ったという。
自公が合意した「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」の表現は、国境を超える文化の多様性を否定し、国家によって文化を一つにしようとするものであって、著書「文化と帝国主義」でサイード氏が考察し導き出した思想に明らかに反するものだと、大江氏は主張した。パレスチナを追放され、生涯「exile(故国喪失)」であり続けたサイード氏が求めてやまなかった「文化」を、政府改正案は、まさにエグザイルするものだ。現在の教育基本法と政府改正案が示す『文化』とは、多様性と普遍性において正反対のものであると、大江氏は言い放ったのだ。このままでは、戦争という暴力によって世界の文化を統一しようという米国の帝国主義に、日本は飲み込まれてしまうと大江氏は危惧する。
敗戦前の、「文化」の帝国主義に戻りかねない与党の改正案が、昨日閣議決定され国会に提出されたことは、天長節であった4月29日を意識してのことだと大江氏は分析する。政府改正案は、これまでの教育基本法の趣旨とは、まったく異なるものだと断言し堂々と立ち向かう大江氏の言葉に、会場を埋め尽くした千数百人の聴衆は、いつしか吸い込まれていた。
大江氏は、ノーベル賞受賞後に一度、ペンを置くと宣言した。しかし、今、再び、ペンを持った。大作も残したいそうだが、一人でも多くの次世代を担う若者に伝え残しておかなければと、文体を気遣い、所謂わかりやすい文章での作品を発表し始めている。待ちに待った大江氏の講演は、本当に素晴らしいものだった。準備に準備を重ね、言葉の一つ一つを選び誠実に語り尽くす今日の講演ほど、立派な講演を私は聴いたことがない。
歴史に翻弄されるパレスチナの地に、和解と共生を求め続けたパレスチナ出身の知識人故エドワード・サイードを軸に作成されたドキュメンタリー映画、佐藤真監督「エドワード・サイード OUT OF PLACE」の完成記念上映会で、生前のサイード氏と親交のあった大江健三郎氏は講演した。2002年、朝日新聞は、大江氏とサイード氏との往復書簡を連載した。私も毎回楽しみにしていた読者のひとりだが、実際のところ内容が非常に難解で、2,3度読み返さなければ理解できなかったことを覚えている。
2時間17分にも及ぶ映画は、佐藤真監督の思い入れが十分に伝わってくる力作だったが、サイード氏が亡くなったあと撮影されたものなので、子どもの頃のモノクロフィルムなどでしか、サイード氏本人は登場しない。映画上映後、妻のマリアム・サイード氏が挨拶に立った。妻・マリアムは、音楽を通してパレスチナとイスラエルの和解と共生を実現しようとしたサイード氏の遺志を継ぎ、指揮者でピアニストのダニエル・バレンボイムとともに、パレスチナ西岸地区で音楽教育の発展とイスラエル・パレスチナの若手音楽家の交流プロジェクトに、現在取り組んでいる。バレンボイムは、ワーグナーの解釈の第一人者で、2002年にも日本で公演を行っている。
マリアム・サイードによる紹介で登場した「生・大江」は、やっぱりすごい人物だった。まず何よりも驚いたのは、この講演のために大江氏が費やした、膨大な時間とエネルギーだ。半年前から準備を始め推敲された講演内容は、会場で大江氏の講演を聴く妻マリアムに対して同時通訳しやすいようにと、事前に原稿にまとめられていた。生原稿をめくりながら話す大江氏の姿は誠実さにあふれ、大江氏の言葉を借りるならば「優しさの感情」にあふれていた。即ち「優情」というこの言葉は、少年時代からの友人であり義兄であった映画監督・伊丹十三氏の突然の自殺に悩み苦しむ大江氏に対して、サイード氏が送った言葉の一つだ。オリジナルは「Affection」。大江氏は、堀田善衛氏の言葉を借りて、これを愛情ではなく「優情」と訳したのだ。
今日の講演の圧巻は、大江氏が教育基本法について触れたことだ。昨年1月発行の「『自分の木』の下で」の文庫版のあとがきで、大江氏は教育基本法について触れている。日本国憲法が施行されたその年、大江氏は新制中学に入学した。前年、父親を亡くしていた大江氏は、中学への進学をあきらめていただけに、喜び勇み、学校で教わることのすべてに興味を持った。「(新しく施行された)憲法の一番大切なところが、子供の生活と関係づけて短く書いてある」と社会科の先生が紹介してくれた教育基本法を、大江氏はノートに写した。大江氏は「難しい言葉の連続だったが、その文章が好きだった」と記している。
このとき大江氏は、教育基本法の文章を、これから作っていく学校の方針を子供らに約束するのにふさわしい表現であると感じ、「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」が本当になされるのであれば、自分はしっかりと受け止めようと思ったという。
自公が合意した「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する」の表現は、国境を超える文化の多様性を否定し、国家によって文化を一つにしようとするものであって、著書「文化と帝国主義」でサイード氏が考察し導き出した思想に明らかに反するものだと、大江氏は主張した。パレスチナを追放され、生涯「exile(故国喪失)」であり続けたサイード氏が求めてやまなかった「文化」を、政府改正案は、まさにエグザイルするものだ。現在の教育基本法と政府改正案が示す『文化』とは、多様性と普遍性において正反対のものであると、大江氏は言い放ったのだ。このままでは、戦争という暴力によって世界の文化を統一しようという米国の帝国主義に、日本は飲み込まれてしまうと大江氏は危惧する。
敗戦前の、「文化」の帝国主義に戻りかねない与党の改正案が、昨日閣議決定され国会に提出されたことは、天長節であった4月29日を意識してのことだと大江氏は分析する。政府改正案は、これまでの教育基本法の趣旨とは、まったく異なるものだと断言し堂々と立ち向かう大江氏の言葉に、会場を埋め尽くした千数百人の聴衆は、いつしか吸い込まれていた。
大江氏は、ノーベル賞受賞後に一度、ペンを置くと宣言した。しかし、今、再び、ペンを持った。大作も残したいそうだが、一人でも多くの次世代を担う若者に伝え残しておかなければと、文体を気遣い、所謂わかりやすい文章での作品を発表し始めている。待ちに待った大江氏の講演は、本当に素晴らしいものだった。準備に準備を重ね、言葉の一つ一つを選び誠実に語り尽くす今日の講演ほど、立派な講演を私は聴いたことがない。
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殺人ゲーム 11月18日
奈良県で女の子が誘拐の末、殺された。まるでキツネにつままれたような悪夢だ。女の子は、所在地を追跡できるGPS内蔵の携帯電話を所持していた。その携帯電話を使って犯人からメールが送られてきたときには、既に女の子は殺されていたという。こんなに簡単に人を殺す神経は、まるでゲーム感覚そのものだ。殺人を悪とは思わぬ人間を、この国は生み出しているのだ。
ゲームソフトが、殺人と蘇生を繰り返す。サスペンスドラマは、2時間の間に3人の人間を殺す。架空と現実とが入り乱れ、ついに9.11テロが発生。そしてアメリカは反撃し、イラク戦争がしかけられ、再び流血の惨事が繰り広げられる。復興支援とは日本がこじつけて主張しているにすぎず、諸外国から見た日本は、明白に参戦国だ。
そんな現実を、TVを通して見せ付けられる日本人は、いつしか殺人がそんなに重いものとは思えなくなる。香田証生氏がのこぎり引きにあって殺されても、まるで他人事のようにまったく反応しない小泉総理は、あたかも殺人に痛みを感じていないかのように見える。いまどき幼稚園児だって“こいずみそうりだいじん”の顔と名前は知っている。クールな総理の表情が、子どもたちに誤った道徳をすり込んでいはしないか、心配になる。
資本主義社会の中で、市場を統制することは不可能だ。しかし、倫理的側面から教育上不適切と判断されるゲームソフトをはじめとするマルチメディアを子どもから引き離すことは、現代社会の責任ではないだろうか。あまりにも刺激的な描写を含む映画は、「R指定」として年齢制限が設けられている。(保護者同伴ならOKの上、指定の法的根拠はないのだが。)殺人ゲームソフトにも、「R指定」ができないものかと思う。
人が死んだら、家族や周囲の人間がどれほど悲しむものなのかを、想像すらできない人間が、この国には育ってしまっている。子どもは親の背中や周囲の大人の背中を見て育つ。不平不満を口にしない。他人の悪口を言わない。人を指差さない。差した指を除く全ての指が、自分を指していることに気付かなければならない。常に心に定規を持ち、はみ出したならすぐに軌道修正できる精神を維持したい。
犯罪被害者基本法の制定も必要だが、まずは国会議員が倫理観を取り戻さなければならない。政治の荒廃と社会の荒廃とは、パラレルだ。明らかに利害関係が発生する企業団体からの政治献金は、禁止すべきだ。中途半端な改革などすべきではない。多額の献金を差し出す財界人が、政府の審議会のメンバーに人選され、国民不本位の改革を推し進めようとしていることも一つの例だ。
今日のような惨劇が、二度と起こらない社会をつくりあげていくことが、政治の使命なのだ。
ゲームソフトが、殺人と蘇生を繰り返す。サスペンスドラマは、2時間の間に3人の人間を殺す。架空と現実とが入り乱れ、ついに9.11テロが発生。そしてアメリカは反撃し、イラク戦争がしかけられ、再び流血の惨事が繰り広げられる。復興支援とは日本がこじつけて主張しているにすぎず、諸外国から見た日本は、明白に参戦国だ。
そんな現実を、TVを通して見せ付けられる日本人は、いつしか殺人がそんなに重いものとは思えなくなる。香田証生氏がのこぎり引きにあって殺されても、まるで他人事のようにまったく反応しない小泉総理は、あたかも殺人に痛みを感じていないかのように見える。いまどき幼稚園児だって“こいずみそうりだいじん”の顔と名前は知っている。クールな総理の表情が、子どもたちに誤った道徳をすり込んでいはしないか、心配になる。
資本主義社会の中で、市場を統制することは不可能だ。しかし、倫理的側面から教育上不適切と判断されるゲームソフトをはじめとするマルチメディアを子どもから引き離すことは、現代社会の責任ではないだろうか。あまりにも刺激的な描写を含む映画は、「R指定」として年齢制限が設けられている。(保護者同伴ならOKの上、指定の法的根拠はないのだが。)殺人ゲームソフトにも、「R指定」ができないものかと思う。
人が死んだら、家族や周囲の人間がどれほど悲しむものなのかを、想像すらできない人間が、この国には育ってしまっている。子どもは親の背中や周囲の大人の背中を見て育つ。不平不満を口にしない。他人の悪口を言わない。人を指差さない。差した指を除く全ての指が、自分を指していることに気付かなければならない。常に心に定規を持ち、はみ出したならすぐに軌道修正できる精神を維持したい。
犯罪被害者基本法の制定も必要だが、まずは国会議員が倫理観を取り戻さなければならない。政治の荒廃と社会の荒廃とは、パラレルだ。明らかに利害関係が発生する企業団体からの政治献金は、禁止すべきだ。中途半端な改革などすべきではない。多額の献金を差し出す財界人が、政府の審議会のメンバーに人選され、国民不本位の改革を推し進めようとしていることも一つの例だ。
今日のような惨劇が、二度と起こらない社会をつくりあげていくことが、政治の使命なのだ。
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ヒラメ,教師 11月13日
ヒラメの天敵はイシガニだった!
毎年20万匹を放流しても、直後に激減するヒラメの幼魚。水産研究試験センターは、新潟県佐渡で、5万匹のヒラメの幼魚を放流し、追跡調査をした。結果、約7割が直後に姿を消し、その半数がイシガニに食べられていたことが判明した。放流効果を高める研究も必要だが、イシガニが犯人だったなんてっ!!
蟹の中でもとても小さなイシガニが、実はワタリ蟹よりも数段美味だということをご存知だろうか?何故、こんなにイシガニは美味しいのかと、長年私は不思議に思っていた。やっとその理由が解明した!だって、ヒラメを食べていたんだもの。
ヒラメと言って思い出すのが、ヒラメ教師という言葉。上ばっかりを気にして、子どもたちになかなか目が届かない教師の比喩だ。東京都三鷹市立第4小学校は、PTAや地域の住民が教師のサポート役として、授業に参加しているそうだ。教師1人では不十分だった個別指導が可能になり、子どもたちにも好評。今では年間のべ2千名もの地域の人たちが授業に参加し、ついにNPO「夢育・支援センター」を設立、職員室の隣の部屋にその事務局を置くまでに成長している。主婦やスポーツクラブの経営者、民間企業を定年退職した人など様々な意欲ある地域住民が、積極的に授業に参画する姿勢は素晴らしい。門戸を開いた学校と支える住民のこの取り組みは、見習うべきところが大きい。(NHKスペシャル放送)
校長の民間からの登用は、文部科学省の思い切った改革の1つだ。義務教育の柱は国が決定し、細かい方策は現場に裁量を与えることが21世紀は必要だ。閉鎖的な学校現場に、新鮮な空気を吹き込むことで、教師には緊張感と活気がみなぎり、子どもには明らかに好影響を与える。強くたくましい人間を育てるためには、強くたくましく社会を生き抜いてきた民間人が、手本になることがふさわしい。想像力豊かな百戦錬磨の社会人が教師をサポートし、「地域の子どもは地域が守り育てる」という認識を持って臨めば、へこたれない強くたくましい人間が育つに違いない。魚のヒラメは美味しいが、ヒラメ教師は煮ても焼いても食べられない。
毎年20万匹を放流しても、直後に激減するヒラメの幼魚。水産研究試験センターは、新潟県佐渡で、5万匹のヒラメの幼魚を放流し、追跡調査をした。結果、約7割が直後に姿を消し、その半数がイシガニに食べられていたことが判明した。放流効果を高める研究も必要だが、イシガニが犯人だったなんてっ!!
蟹の中でもとても小さなイシガニが、実はワタリ蟹よりも数段美味だということをご存知だろうか?何故、こんなにイシガニは美味しいのかと、長年私は不思議に思っていた。やっとその理由が解明した!だって、ヒラメを食べていたんだもの。
ヒラメと言って思い出すのが、ヒラメ教師という言葉。上ばっかりを気にして、子どもたちになかなか目が届かない教師の比喩だ。東京都三鷹市立第4小学校は、PTAや地域の住民が教師のサポート役として、授業に参加しているそうだ。教師1人では不十分だった個別指導が可能になり、子どもたちにも好評。今では年間のべ2千名もの地域の人たちが授業に参加し、ついにNPO「夢育・支援センター」を設立、職員室の隣の部屋にその事務局を置くまでに成長している。主婦やスポーツクラブの経営者、民間企業を定年退職した人など様々な意欲ある地域住民が、積極的に授業に参画する姿勢は素晴らしい。門戸を開いた学校と支える住民のこの取り組みは、見習うべきところが大きい。(NHKスペシャル放送)
校長の民間からの登用は、文部科学省の思い切った改革の1つだ。義務教育の柱は国が決定し、細かい方策は現場に裁量を与えることが21世紀は必要だ。閉鎖的な学校現場に、新鮮な空気を吹き込むことで、教師には緊張感と活気がみなぎり、子どもには明らかに好影響を与える。強くたくましい人間を育てるためには、強くたくましく社会を生き抜いてきた民間人が、手本になることがふさわしい。想像力豊かな百戦錬磨の社会人が教師をサポートし、「地域の子どもは地域が守り育てる」という認識を持って臨めば、へこたれない強くたくましい人間が育つに違いない。魚のヒラメは美味しいが、ヒラメ教師は煮ても焼いても食べられない。
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