大晦日 12月31日

今年も、多くのみなさまに助けていただき、つつがなく大晦日を迎えることができました。1人1人の温かいハートに、感謝の気持ちで胸がいっぱいです。ありがとうございます。ありがとうの清水英雄先生の教えでは、「ありがとう」は常に現在進行形であるために、「ございました」ではなく「ございます」と表現します。

振り返ってみると、今年は世界各地で紛争や戦争そして災害の絶えない1年でした。人類が煩悩に惑わされ、目先のことばかりに心を動かされた結果だと、自分自身の反省もこめて自戒する大晦日、今日1日です。自己を犠牲にしてもなお、世界平和と豊かな人権そして地球環境保全のために力を尽くせる、そんな人間になりたいと、研鑚努力の日々を送る私です。

新しい年が、希望に満ち溢れたより良い年になるという保証は、どこにもありません。すべては、私たち人類の日々の実績の積み重ねでしかないのです。そう思うと、いかに人間1人1人の営みが、世界を動かす原動力になっているかがわかります。どんなに小さな事象にも、惜しまず全力を尽くすこと、それが実行できてこそ初めて、21世紀の世界に、輝かしい未来が訪れるということなのでしょう。楽して得られる結果は、何一つないのです。後世に恥じない歴史に残る成果の1年となるよう、2005年を生きる私たちは、責任を自覚して社会に貢献していかなければならないのだと思います。

社会の仕組みを決定する国会でも、国会議員の不祥事が後を断たない1年でした。今年最大の課題であった年金改革も、国会議員の年金未納・未加入が続出し、国会議員にそれを議論する資格があるか否かに問題は終始してしまいました。結局は、国会議員の特権である議員年金は温存されたまま国民への負担増だけが押し切られるという、誰の為の政治なのかさっぱりわからない国会となってしまいました。河村たかし衆議院議員は、議員年金廃止を強く訴えましたが、結果的に国会から飛び出し、信念を貫くために名古屋市長選挙に立候補することになりました。永田町で、真の市民政治が実現する日は、いったい、いつやって来るのでしょうか?こんな思いのまま年越しを迎えることに、大きな寂しさを覚えます。

人生いろいろ会社もいろいろと開き直る低俗性、自衛隊の居る所が非戦闘地域だとする厚顔ぶり、自立とアイデンティティの両方ともを見失い米国追従路線をひた走る稚拙さ・・・これらすべてが国家の代表たる我が国の総理大臣が持ち合わせる性質です。国民が投じる1票によって、この国が動いていることを実感し、金輪際、誤った選択のなきよう、偽善者に惑わされない眼力を身につけていく必要性が、私たち国民には求められているのです。

物質文明は、とうとう行き詰まってきています。豊かな自然環境のもと、ゆとりある精神で互いを思いやる温かい社会を構築していくことこそが、21世紀、人類に繁栄をもたらすバネになることでしょう。今年のキーワードにもなった「自己責任」という概念と併せて他者に思いを馳せるウオームハートをもってすれば、人格としては鬼に金棒、人類の更なる飛躍も期待できるというものです。

物質は失われても、人の心は永遠です。「清く正しく美しく」、負けずに逃げずに果敢に挑む。是々非々に真っ直ぐに、自分を誤魔化さない1日1日を来年も積み重ねていきたいと願いながら、2004年最後の「はたともこ日記」と致します。
みなさま、いつもいつも、本当にありがとうございます。明日は、清清しいハレの元旦を、お迎えください。
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風邪 12月30日

昨日も今日も、日中は、年末とあって薬剤師業務は大変充実しており、全力で務めを果たしているのだが、夜になると気が抜けるのか、風邪の具合が極端に悪くなる。昨夜は、抗生剤と消炎鎮痛剤をのんだだけで、いつの間にか爆睡していた。今朝は、そのせいか清清しく仕事に向かったのだが、夜になるとやっぱり不調。fever+。緊張感が足りないせいだ!?

患者さんの病状を見ていると、下痢・嘔吐をともなう風邪が日本では流行っているようだ。引きこもらない以上、風邪に感染することはやむを得ないが、症状を最小限に留める為には、数多くうがいすることが一番だ。

スマトラ沖地震の被災地では、二次感染による疫病の大発生が心配されている。現地との往来が簡単なだけに、その影響を、日本も受けることになるかもしれない。抗マラリア薬の硫酸キニーネやファンシダールの供給準備は万全か?可能性にすぎないが、心配になる。

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スマトラ沖地震 12月28日

スマトラ沖地震は、空前の被害をもたらしている。世界の一大事だ。インド洋の島々に暮らす人々が、「津波」に対する認識がほとんど皆無であったことが被害を拡大した要因のようだ。しかし、「津波」を知らないなんて、地震大国・日本に暮らす私たちからは、到底想像できない事態だ。サザンの曲も、中国・台湾までは浸透していても、インド洋までは届いていなかったのか。

それにしても、世界各地から観光客が訪れるリゾート地でのエマージェンシー対応の脆弱さには、改めて驚かされる。モルジブなどは、むしろ高級リゾートの範疇だ。しかし、水上コテージは見るも無残に崩壊し、為す術も無く多くの観光客が津波にのみ込まれている。津波に対する認識がまったくなかったことの責任を、被災地域の国家に対して、果たして追及できるのだろうか?あくまでも震災であって、人災ではないということになるのだろうか。

ASEANは、日本が最も多くのODAを拠出している地域だ。ASEAN地域の発展のために、ODAは有効活用されていると信じているが、これからは、まずは、地震・津波・火災などのエマージェンシーに対する最低限の知識と訓練の浸透が必要だ。避難の術を知らないのでは、どうしようもない。

今回の被災者の中には、意外と名前を公表されたくない観光客が存在する。所謂、お忍びの旅なのだろう。特に、旅行会社のパックツアーを利用せず、ダイレクトに交渉して現地入りしている観光客の安否確認は、容易ではないだろう。ついに、海上自衛隊の艦船とヘリもプーケットへ向けて出動した。外務省は31億円の資金援助を決定した。我が国は、各国の要請に対して、最大限応えていくべきだ。そして、二度とこのような惨劇が起こらぬよう、地震経験の豊富な国として、これまでの経験と知り得るすべての情報の提供に努め、環太平洋・インド洋ベルト地帯をはじめ七つの海が一体となって、エマージェンシー対策を共有する環境整備を構築していく必要がある。

今回の津波の高さは、10mの地点もあれば、ほんの2,3mで甚大な被害が発生した地域もある。我々先進諸国が排出する地球温暖化ガスによって、海面が上昇し、南太平洋からインド洋にかけての島々の海抜が、年々削られているという事実から、私たちは目を背けることは出来ない。現にツバルは国家を挙げての移住を余儀なくされている。何がどうあろうとも、地球は1つ。代わりはないのだ。宇宙船地球号の乗組員である私たちは、21世紀は、地球環境に優しい生き方を選択するほかないのだ。

2004年の年の瀬を迎え、このような一大事が地球を襲った真の意味を、我々人間は、真剣に考えていかなければならない。支援金31億円も、ムダなダムや空港の建設を見直せば、直ちに回収できる金額だ。イラクでの流血が、いかに無意味なものであるかを、あらためて痛感させられた今回の大地震だった。
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介護保険制度改革 12月27日

介護保険制度改革が、着実に進められている。個人的には「元氣高齢者サービス」と呼びたいのだが、厚生労働省のいう「予防介護サービス」を、介護認定に組み込むため、これまで「要支援・要介護1・要介護2・要介護3・要介護4・要介護5」の6段階に分かれていたサービスが更に細分化されることになる。純粋予防サービスを意味する「要支援1」と次の段階の「準要介護」、さらに従来の要介護1のレベルを、予防サービスを受ける「要支援2」と予防サービスを受けない「要介護1」に分けることによって、全体で8段階に区分されることとなる。順番をつけるとするならば、「要支援1」「準要介護」「要支援2」「要介護1」「要介護2」「要介護3」「要介護4」「要介護5」ということになる。

ともかく、呼び名はともあれ、元氣維持のためのサービスを導入するという発想は、私の年来の主張だ。膨らむ高齢者医療費そして介護報酬を抑制する最大のポイントは、医療や介護を必要としない健康体を維持していくことであり、それこそまさに人間として最大の喜びであるはずのものなのだ。その意味において、今回の厚生労働省の取り組みは、前向きだ。ただ、予防介護に筋力トレーニングを導入するという点は、にわかに受け入れ難い。現実に、元氣な高齢者の多くが筋力トレーニングに励んでいるという姿は、非常に想像しにくい。むしろ、ウォーキングやスイミング、あるいは高齢者が高齢者を介護する形などなど、普段の生活の中で、十分に生きがいや体力は磨かれていくものだ。あえて「筋力トレーニング」を導入する必要性を、私は認めない。

更に、今回は、特養や老健に所属するケアマネジャーが、施設利用者の要介護度を認定調査することを禁止するとしている。当然のことだ。遅きに失した感もある。農村部では、民間事業所が存在しないこともあるので、一概に断定はできないが、基本的に、認定調査も含めてケアプランの作成は、独立した立場で中立性を持ったケアマネジャーが行なうべきものだ。医療費抑制の為に導入された介護保険制度であったはずなのに、抑制どころか介護報酬さえも膨れ上がり、結果的に医療と介護との総費用は縮減されるどころか増加傾向にある。

その大きな要因は、介護の必要度の低い人にまで、過剰な介護サービスを提供するケアプランにあることは、残念ながら否定できない事実なのだ。特定の事業所に利益をもたらすことを可能にしている現行の介護保険制度の問題点を丁寧に分析し、1つ1つ解決していくことが必要なのだ。厚生労働省は、事業所に所属しないケアマネジャーがケアプランを作成した場合、報酬を上乗せすることも併せて決定した。地域からの信頼と専門性の観点から、たとえば街の薬局がその任を担うことが最もふさわしいと、私は考えている。

元氣高齢者サービスは、必ず医療費や介護報酬の抑制へとつながる決定打になると、私は確信している。介護保険の中に、元氣を維持するための運動や学習を組み込むことと併せて、元氣高齢者が、NPO法人などの形で、地域のニーズに有償ボランティア(年金プラスアルファ)として貢献できるネットワークを構築していくことが、最終的に目指すべき高齢化社会の在るべき姿だと私は考えている。子育て支援や地域の児童への教育支援はもとより、長年培った職能を発揮していただく各種シルバー人材サービス、そして勿論、高齢者による介護支援など、高齢者の生きがいを見出す可能性は無限大だ。元氣高齢者政策の充実こそが、介護保険制度の充実をも意味することになるのだ。介護保険料の徴収年齢を引き下げること以前に、取り組むべき課題は山積しているのだ。

介護保険制度が成熟してくれば、障害者福祉との一体化も当然議論されてしかるべきだろう。ただし、介護保険と障害者福祉との一体化は、現段階では居宅サービスに留まるべきものだと、私は考えている。施設での一体化は、もう少し深く検討する必要がある。

そして、何よりも、介護保険制度の改革で忘れてはならないことは、介護現場で働くスタッフの労働条件の改善だ。フラフラになり薬を飲みながら、この年末年始も休日返上で必死に働く介護スタッフの過重労働に、厚生労働省は目を向けなければならない。現場の悲鳴は、厚生労働省には届いていない。より良い制度設計がなされたとしても、それを支える介護スタッフの劣悪な労働条件が改善されない限り、介護保険に未来はないと、私は断言する。

すべての介護職員に介護福祉士の資格をとらせることで、介護の質の向上が図れるものなのだろうか?介護は、人対人だ。そして多くの場合、年下の人間が人生の大先輩を相手にサービスを提供する。まさに、ここでも人間力が問われているのだ。働くスタッフが、精神的にゆとりを持って仕事に臨める環境を作り上げていくことが、何より大事なことなのだと、私は思う。
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大地震とEQ 12月26日 

スマトラ沖の大地震は、今年の重大ニュースの1つに数えられる。インドネシア・タイ・スリランカ・インド・マレーシアと、多国間にまたがる大被害だ。インド洋上で、今なお救助を待っている被害者も存在するはずだ。自衛隊のヘリや船を派遣して、救護にあたる必要性を感じる。ひとまず政府は、スリランカからの要請に応え、緊急医療援助隊を派遣することを決定した。

被災地の多くは、インド洋のリゾート地だ。経済的に余裕があったならば、私もダイビングに出かけていたかもしれないと思うと、決して他人事ではない。現に日本人も被害に遭っている。こういう時こそ復旧支援に自衛隊を派遣し、日本への信頼を回復するきっかけとして欲しい。

IQならぬEQなるものを、ご存知だろうか?IQが知能指数なら、EQは情緒指数であって、心の知能指数と言われることもある。EQはIQ以上に自己研鑽や努力によって向上させることができ、一種の人間力のバロメーターともなり得るものだ。

近年、道徳の授業をこなすのに、小学校の先生方は、四苦八苦されていると聞く。そこに目をつけ、「EQ向上プログラム」の道徳の授業への活用が研究されつつあるそうだ。といっても、そのプログラムはUSAオリジナルだ。その点がひっかかるが、研究するに値するだろう。いずれにしても、溜息が出そうな現行の道徳の授業は、改革の必要がある。

これから団塊の世代の人たちが、続々とリタイアする。社会の辛酸を知り尽くしたそんな人生の諸先輩に、教壇に立っていただくチャンスを作ることは、地域のコミュニティの活性化の観点からも、非常に有益なことだ。人間力は人間力をもってして初めて培われるものだ。EQ向上プログラムは、あくまでもものさしの1つにしかすぎない。私も「EQテスト」を行ってみた。結果を踏まえ、これからも高い人格を求め、精進する。
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2005年度予算 新石垣空港 12月25日

平成17年度予算政府案では、新石垣空港整備事業予算も、しっかりと認められていた。何故?環境省は、環境影響評価を十分考慮するよう述べていたのに、国土交通省と内閣府沖縄振興局によってごり押しされた新石垣空港予算。国の誤った選択を、このまま看過するわけにはいかない。この国の環境破壊を一歩も二歩も前進させる愚かな行為を、国民が選んだ国会議員たちは、何の手立てもこうずることなく見過ごしてしまうのだろうか?

石垣島の住民が、利便性を追求するあまり新空港建設を望んでいるとは、にわかに信じがたいのだ。現に私にも、石垣島民の方から新空港建設反対メールがとどいている。東京・大阪など本土の大都市との交流を活発にしたいのならば、わざわざ環境破壊をしてまで新空港を作ることなどない。現行の高すぎる航空運賃を、半額くらいまで抑えることを、何故、求めないのか、不思議でならない。それで問題の大半が解決するはずなのだ。そして3,000m滑走路を有する宮古島の下地空港を一般旅客輸送にも適用することに踏みきれば、完全に問題はクリアになる。世界自然遺産にもなろうかという八重山・白保の美しい海に傷をつける愚行を、このまま許してしまうのか?この国の公共事業の未来を占う大きな決断のときだ。国が国の責任で八重山の自然を守ることこそ、本来の道理というものだ。

ここで国会議員が踏ん張らなければ、何のための国会議員なのか、さっぱりわからなくなる。霞ヶ関の味方なのなら、国会議員なんかやめて、官僚にでもなればいい。それくらい有権者は厳しい目で見ている。八重山が何故、観光客やダイバーの憧憬の地なのか?そこを見失ってはならない。アクセスが困難なため、いつまでも残る自然美がそこには存在するからだ。利便性とは無縁のパラダイスに、身を任せる快感を、一度味わったら忘れられないからだ。ジャンボが何往復も往来する八重山の海なんて、人工的で何の魅力も感じない。本末転倒とはこのことだ。

八重山・白保の西表国立公園編入と世界自然遺産への登録は、そんな手付かずの自然が存在するから叶うことだ。新石垣空港建設と世界自然遺産とは明らかに矛盾する。日本国として、どちらを選択すべきかは、考えるまでもないことなのだ。自然を傷つけてはいけない。必ず、しっぺ返しをくらう。人間は、自然と共存する道を選択するしかないのだ!予算の政府案は確定したが、良識ある国会議員の再度の奮闘を期待する。 
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2005年度予算・直接支払制度復活 12月24日

結構、充実している!!
私淑する、ありがとうの清水英雄先生の教えの1つに、「疲れた・忙しい」というネガティブな言葉は使わないというのがある。だから、疲れた時は、「充実・充実」と言い聞かせる。しかし、これは意外に、疲れなど吹っ飛ばしてしまう魔力があり、いつもさわやかな気分で、一定の精神状態を保てる原動力にもなっている。今日も、職場は、患者さんが引っきりなし。息つく暇もないくらいの1日だった。これが、師走。そして、これが私のクリスマス・イブだ。

82兆1829億円の来年度一般会計予算の政府案が確定した。当初、耕作不利地に対する中山間地域直接支払制度の予算は、ゼロだった。発表の数日前、直接支払いは無意味だとする投稿を新聞で読んだ時、よもや、とは危惧していたが、本当にゼ回答とは正直驚いた。

この直接支払制度は、特に、中山間地つまり田舎の田畑を保全していくためには、現段階ではなくてはならない命綱のようなものだ。農地の多面的機能に着眼し、洪水の防止、大気の浄化、水源涵養の観点から、耕作放棄地をなくし、田畑を守るそれだけで一定の所得が補償されるこの制度は、中山間地で農業に従事する方々にとってのより所であり、また、国の予算でそれを補償するということは、緑の恩恵にあずかる都市部の人間もみな平等に、環境保全の責任を果たすという意味において当然のことなのだ。

平野部での直接支払は、確かにバラマキ的要素が強いかもしれない。というより、平野部に、直接支払制度は、必要ないかもしれない。今、問題なのは、過疎化により後継者不足に悩む中山間地域の農業なのだ。日本の国土の7割は中山間地域であり、農家の4割が中山間地域に存在するという現実を踏まえると、直接支払制度の継続は必然であり、更なる充実改善に力を尽くすことが重要なのだ。

財務省案のままだと、地方の中山間地域は、バッサリと切り捨てられるところだったが、農水省による折衝の結果、221億5700万円の予算が復活した。ひとまず、ほっと一息だ。そしてこの先大事なことは、中山間地域の田畑あるいは森林で耕作された農作物や木材の、販路の確保だ。地産地消は当然のこととして、人口密集地の都市部あるいは気候の異なる遠方の人々に味わい使用してもらうためのネットワークの構築が実現して初めて、中山間地域の農業は不動のものとなる。国やJAが先頭に立つことはもとより、1人1人の住民が、お中元やお歳暮など贈り物の際には、極力、地域の特産物を「産直」することを心掛けることも重要な要素なのだ。

パソコンの前に座った今夜、思わず目にしたピンクレディの姿。ピンクレディ大好き少女だった小学校時代がフラッシュバックする。祖父から、初めてもらったプレゼントが、ピンクレディのレコードだった。頑固一徹、いつも殿様のように偉そうな祖父からのプレゼントに、嬉しさで心がバラ色にときめいたことを、今でもはっきりと覚えている。それにしても、この歳この境遇にある私でさえもなお、魅了してやまないピンクレディのはじける魅力には、完全に脱帽だ。数年ぶりに、TVにかじりついてしまった。50代に手が届く2人の女性の底知れぬパワーに、圧倒されることなく、私も負けずに全力疾走!すっかり元氣をもらってしまった。
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師走の処方箋 12月22日

師走らしく、とても忙しい1日だった。年末年始は特に、循環器系の病気が悪化しやすく、患者さんたちも、念入りに薬を調達する。1人の患者さんが両手でも足りないくらいの薬を服用している場合もあり、ミスの無いよう処方内容も含めて徹底した監査を行なう。当然のことながら、患者さんの数だけ処方箋があり、ドクターも大変だが、処方薬をチェックする薬剤師は、気を抜く暇も無く、意外に楽な仕事ではない。

投薬も、薬を渡せば良いという問題ではなく、ドクターには言えなかった患者さんの話に耳を傾け、薬の適正な使用とコンプライアンスの向上を目指していくことは、薬剤師としての最低限の任務だ。最終的には、患者さんが安心感と信頼感を抱いて、安定感のある精神状態で帰路に付けるよう、薬剤師として最大限の配慮をきかす必要がある。が、なかなか言うは易しで、思うようにはいかない場合もあり、自分の人間力の乏しさに、はがゆさを覚えることしきりである。

もう2週間もすると、お正月が明ける。本当に、時の経つのは早い。今年は、薬剤師として患者さんの健康管理にどれだけ貢献できただろうか、と自身を振り返り、来年も、より良い薬剤師像を模索し、研鑚努力していきたい。まだまだ年末まで、頑張るゾオ!そして、勿論、政治活動も、ガンバルゾオ!
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介護保険制度改正 12月21日

介護保険制度における被保険者・受給者の範囲の拡大が議論を呼んだが、ひとまず今回は先送りとなった。被保険者・受給者の範囲の拡大というと聞こえが良いが、要は、賄いきれなくなった介護報酬を、保険料で補おうとする姑息な手段でしかなく、20歳まで保険料徴収年齢を引き下げるという原案は、とても納得のいくものではなかった。先送りではなく私は、廃止を求めたい。介護保険の給付額が保険料を上回る状態は、これまでの施設に甘い介護サービスのレセプトを見れば明らかだった。

介護保険制度導入から5年が経過しようとしているが、介護保険創設時の本来の目的として掲げられた「自立支援」の趣旨は、気がつけば、いつしか忘れ去さられ、事業所は少しでも高い利益を得るために要介護度の高い利用者を好むようになっていた。更に悪いことには、事業所所属のケアマネジャーによる事業所寄りの偏ったケアプランが横行するようにもなっていた。利用者の自立支援どころか、このような介護サービスを受ければ受けるほど、利用者の要介護度が高くなるという、家族にとっても厚生労働省にとっても不測の事態に陥ってしまっていたのである。この矛盾とのたたかいこそが、介護保険制度改正の本質であり争点であるべきものなのだ。

公平公正を期すためには、何よりケアマネジャーの独立性の確保が急務だ。私は、調剤薬局で薬剤師をしながら、ケアマネジャーとしてケアプランの作成にあたっていた。薬剤師として、かかりつけ医の要請があれば居宅での薬剤管理指導を行なうことはあるが、自前の介護サービスは一切持たず、必要なサービスを適切なサービス事業所を選定して利用者に提供していた。その際、特定の事業所に利益をもたらす行為など、絶対にあり得なかった。

供給が需要に追いつかない状況の中で、コネクションの無い事業所にサービスの提供を依頼することは、実際問題、なかなか困難を要するものではあったが、良心的な事業所であれば、必ず、なんとかして応えてくれた。私の倍は生きておられる人生の大先輩のケアプランを作成する上で、常に肝に銘じたことは大先輩への敬意と誠意だ。それは見守る家族にも伝わり、家族の利用者に対する愛情もより深まっていった。そんな要介護者を前にして、自立支援どころか、ますます自立から遠ざかってしまうようなふしだらな介護サービスを提供する事業所など、一軒もなかったと言いきれる。再認定の度毎に、要介護度が上がっていくという事態など想像のしようもなかったのが、私のケアマネジャーとしての経験である。

医薬分業を進め、地域にかかりつけ薬局が存在する社会を、この国は目指している。であるならば、かかりつけ薬局にケアマネジャーが存在し、各種介護サービスを手配しながら必要なケアプランを作成していくことは、ケアマネジャーの独立性の面、また利用者に与える安心感の面、いずれの場合においても十分に対応し得る理想の姿ではないだろうかと、私は考えている。

今後ますます高齢化が進行し、2050年には超高齢化社会(3人に1人が65歳以上)に突入する。本来それは、お元氣な高齢者の方々の数が増えることを意味しなければならず、より一層、元氣を維持するための元氣高齢者政策の重要性が求められる。これまでのような介護に特化した介護保険制度ではなく、元氣を維持するためのサービスも介護保険制度には組み込むべきなのだ。このことは、介護保険制度創設の時から、私は主張している。重点を置くべきは、むしろ、いつまでも自立できるための元氣維持の政策なのである。

今回やっと、厚生労働省は、予防介護という言葉を使い始めた。本来の趣旨は元氣高齢者政策でなければならないはずだが、この際、呼び名は二の次だ。体を動かすリクリエーションサービスや生活習慣病の学習、あるいは男性の料理教室、更には元氣高齢者のための介護教室などを積極的に組み込むべきだ。シルバー人材センターとのネットワーク化も、考慮すべきだ。

一方で、厚生労働省は、介護保険制度と障害者福祉の一体化を模索している。介護保険制度においても、介護の質の向上を目指し、将来的に、介護職員は介護福祉士の国家資格を有する者に限定するとの案が浮上する中、居宅介護サービスについての高齢者介護と障害者介護の一本化については、十分に検討の余地があると、私は考えている。しかし、施設介護での一体化については、早計に判断できるものではない。

介護保険と障害者福祉とを一体化させるとなると、保険料の徴収が、益々ややこしくなる。人は誰でも老いるし、障害は不可抗力または受動的なものだ。私は、最低所得補償である基礎年金と介護・福祉に関しては、その財源は全額税方式に切り替える必要があると考えている。先送りになった政府案のように20歳以上のすべての国民から強制的に介護保険料を徴収するという方法は、サービスを利用しない場合の還元方法をどうするのか、また、未納者の増加をもたらすという問題点をはらんでいる。

現在、用途の不明な消費税を、あらためて福祉目的税とすることは、極めて理にかなっている。介護保険制度は、創設の精神にのっとっり、高齢者の自立を促し、また自立する高齢者を支えるものでなければならない。更に、横だし・上のせサービスなどと言わず、制度そのものを自治体の裁量で運営することが重要だ。今、商店街など地域の活性化のために、地域通貨の概念が注目を浴びている。元氣高齢者が介護スタッフとして活躍する日が来れば、介護サービスの利用料は、地域通貨が最適だと、私は思う。国は思いきって、地方分権の旗印として、介護保険制度の地方への委譲に踏み切るべきであり、それはまさに、日本の介護・福祉のフロンティアを意味することとなると、私は考えている。
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高松宮喜久子さま 12月19日

ご逝去の報に接し、あらためて高松宮喜久子さまの生い立ちや生き様について触れることとなった。私がはじめて高松宮喜久子さまを認識したのは、薬学部の学生の頃だった。病院薬剤師を志すことを決意した私は、就職を希望する病院をあれこれと考えていた。その頃は、病棟まで活動の幅を広げる臨床薬剤師が存在する病院は数少なく、都内でも限られていた。

港区にある済生会中央病院がその1つで、私はこの病院を候補の1つに挙げていた。済生会は、明治天皇による「医療を受けられない貧しい人でも医療が受けられるように」という趣旨の「済生勅語」を受けて、大正4年北里柴三郎博士を初代院長に恩賜財団として発足し、今日に至っている。その名誉総裁が高松宮喜久子さまだったのだ。当時、私が手にした病院のパンフレットにも、喜久子さまのお言葉があった。結局、この病院には、大学を首席で卒業した女性が就職内定し、私はひとまず東大分院研修へと進路を決めることとなったのだ。

高松宮喜久子さまの、済生会もさることながら、高松宮妃癌研究基金の名誉総裁としての活動は、とても意味あるものだった。この基金は、研究者の励みとなり優れた研究を更に発展させ、ガン撲滅に向けて極めて有意義な功績を生み出した。母君をガンで亡くされたことがきっかけだが、高松宮殿下をも同じくガンで亡くされ、喜久子さまのこの基金に対する思い入れは並々ならぬもがあって、結果、皇室の一員として、大きく社会に貢献されることとなった。今年に入り、ご自身も乳ガンに犯されていることを知り、「私もそうなのですね」と述べられたそうだ。最後の将軍・徳川慶喜の孫にあたり、明治・大正・昭和・平成と4つの時代を生きぬかれた、92歳の大往生だった。

喜久子さまは、早くから女帝容認論を提唱され、愛子内親王が誕生された際も、あらためてそのことに言及されている。皇太子ご一家にとっても大きな支えであったに違いない喜久子さまのご逝去は、今後の皇室の行方を左右しかねない事態とも言える。

喜久子さまがそうであったように、社会に大きく貢献できる方ほど、皇室としての存在意義は大きい。皇室外交の部分で、存分にその能力を発揮され得る雅子さまの活躍の芽を摘むような現在の宮内庁の考え方には、私は賛同できない。

その意味で、喜久子さまは、高松宮妃癌研究基金・高松宮記念基金(ハンセン病などに尽力)の運営および、恩賜財団済生会・東京慈恵会の名誉総裁などを歴任され、大正・昭和・平成の長きにわたり、我が国の医療福祉の発展に多大なる功績を残された「活躍する皇室」の1人であったといえる方だ。皇室として、最大限に務めを果たされたと言って良い。

雅子さまにも、喜久子さまのように存分に活躍できる環境を提供してさしあげることが、宮内庁としての賢い選択だ。愛子さまが天皇になることが決まれば、21世紀後半の日本は、女性の優しさに包まれた平和で柔軟な社会であることが想像され、考えただけでも穏やかで微笑ましい気分になりはしないか。喜久子さまのご冥福を、心からお祈りするとともに、是非とも宮内庁には、喜久子さまの遺志を尊重して欲しいと思う。
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