高校生のみなさん、(^◇^)ノ お~ぃ~ゲンキか!
みなさん、HageOyaji通信600回記念に相応しい話題を引用し、提供しましょう。
北海道大学では、この度、札幌農学校時代の「歴史的講義ノート」の一部をデジタル化し、ネット上で公開し、我々も簡単に当時の「知」の系譜を知ることが出来るようになりました。
北海道大学オープンコースウェアは、北海道大学大学文書館と共同で、文書館が所蔵している札幌農学校時代の「歴史的講義ノート」の一部をデジタル化し、ネット上で公開を始めました。
「知の系譜」として、今回ネット上で最初に公開されたのは、クラークの「植物生理学」の講義を1期生の佐藤昌介(後の北海道帝国大学初代総長)が書き取ったノートです。
原本の写真画像と文字部分をテキスト化した資料から、当時の学問の状況を知ることができます。
更にクラーク博士に招かれたウイリアム・ペン・ブルックの「農学」の講義を、2期生の新渡戸稲造が書き取ったノートも公開されています。
◆公開中:
植物生理学 (1876) W. S. Clark教授 / 佐藤 昌介 著
農学 (1877-1878) W. P. Brooks教授 / 新渡戸 稲造 著
◆順次公開:
数学 (1879) C. H. Peabody教授 / 南 鷹次郎 著
土木工学 (1881) C. H. Peabody教授 / 広井 勇 著
植物学 D. P. Penhallow教授(推定) / 宮部 金吾 著
測量学 C. H. Peabody教授 / 伊吹 鎗造 著
≪参考≫
◆佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856~1939)
北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。岩手県花巻市出身。札幌農学校(現在の北海道大学)に第1期生として進学。ウィリアム・スミス・クラークに学んだ。大学卒業後、札幌農学校助手に就任。1882年には自費で渡米し、ホートン農場で農業技術を習得したほか、ニューヨーク在勤総領事の紹介により農商務省御用掛りに就任した。その後はアメリカ合衆国メリーランド州にあるジョンズ・ホプキンス大学でおよそ2年間、経済学者のR・T・イリーらにより指導を受けた。1886年、札幌農学校教授となる。1894年、札幌農学校校長に就任。新渡戸稲造らと共に1899年、日本で初めて農学博士の称号を授与された。1907年、東北帝国大学農科大学学長に就任。1918年、北海道帝国大学が発足され、同大学の総長に就任した。
◆新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862~1933)
札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた。
みなさん、当時の学生の「講義ノート」を見るだけでも、貴重な資料ですね。
みなさん、HageOyaji通信600回記念に相応しい話題を引用し、提供しましょう。
北海道大学では、この度、札幌農学校時代の「歴史的講義ノート」の一部をデジタル化し、ネット上で公開し、我々も簡単に当時の「知」の系譜を知ることが出来るようになりました。
北海道大学オープンコースウェアは、北海道大学大学文書館と共同で、文書館が所蔵している札幌農学校時代の「歴史的講義ノート」の一部をデジタル化し、ネット上で公開を始めました。
「知の系譜」として、今回ネット上で最初に公開されたのは、クラークの「植物生理学」の講義を1期生の佐藤昌介(後の北海道帝国大学初代総長)が書き取ったノートです。
原本の写真画像と文字部分をテキスト化した資料から、当時の学問の状況を知ることができます。
更にクラーク博士に招かれたウイリアム・ペン・ブルックの「農学」の講義を、2期生の新渡戸稲造が書き取ったノートも公開されています。
◆公開中:
植物生理学 (1876) W. S. Clark教授 / 佐藤 昌介 著
農学 (1877-1878) W. P. Brooks教授 / 新渡戸 稲造 著
◆順次公開:
数学 (1879) C. H. Peabody教授 / 南 鷹次郎 著
土木工学 (1881) C. H. Peabody教授 / 広井 勇 著
植物学 D. P. Penhallow教授(推定) / 宮部 金吾 著
測量学 C. H. Peabody教授 / 伊吹 鎗造 著
≪参考≫
◆佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856~1939)
北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。岩手県花巻市出身。札幌農学校(現在の北海道大学)に第1期生として進学。ウィリアム・スミス・クラークに学んだ。大学卒業後、札幌農学校助手に就任。1882年には自費で渡米し、ホートン農場で農業技術を習得したほか、ニューヨーク在勤総領事の紹介により農商務省御用掛りに就任した。その後はアメリカ合衆国メリーランド州にあるジョンズ・ホプキンス大学でおよそ2年間、経済学者のR・T・イリーらにより指導を受けた。1886年、札幌農学校教授となる。1894年、札幌農学校校長に就任。新渡戸稲造らと共に1899年、日本で初めて農学博士の称号を授与された。1907年、東北帝国大学農科大学学長に就任。1918年、北海道帝国大学が発足され、同大学の総長に就任した。
◆新渡戸稲造(にとべ いなぞう 1862~1933)
札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。稲造は祖父達同様、かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた。
みなさん、当時の学生の「講義ノート」を見るだけでも、貴重な資料ですね。