孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

水木しげるさんとニューギニアの思い出

2015年12月01日 | 日記
30日、朝、漫画家の水木しげるさんが亡くなった。93歳だったそうだ。

ネットのニュースでこれを知ったとき、私はもう40年以上も前のことを感慨深く思い出した。

当時私は19歳の大学2年生だった。

大学に入学して、5月病を乗り越え何とか学生生活にも慣れてきた頃、私は同じ下宿にいた先輩の所属するサークルに入会して少し経ったときだった。

それは、「熱帯農業研究会」という名のサークルだったが、名前の通り熱帯の農業を研究するわけでもなく、その時々の注目されるテーマ、中でもどちらかといえば日本のみならず世界に関わる農業関連のテーマをピックアップして、勉強しようといった程度の
ワイワイガヤガヤのサークルであった。

むしろ、勉強より定期的に開かれる「コンパ」と称する飲み会で盛り上がるサークルだった。

当時は、「人口爆発」とか「食糧危機」とかいったテーマがよく話題になっていて、マルサスの人口論などを持ち出して、人口は幾何級数的に増加するが、食料はそれに追い付かない。やがて、人類は食糧危機に直面することになる。

何とかせねば・・・。などと、学生ながらに心配していた。

そんなとき、顧問の教授だったか、サークルのOBだったか忘れたが、何かのきっかけで、グリーンランドを島とみなさなければ、世界一大きな島であるニューギニアが食糧生産の基地として有力候補になり得る、すぐに行動を起こそう、という流れになった。

農学部の教授から、確か広島の小さな商船会社が実験的にニューギニアで試験農場を開き、何人かの日本人もその村に常駐しているという情報を得て、我々はすぐにコンタクトして現地調査を兼ねた視察体験旅行を計画した。

その歳の夏休みを利用して、その商船会社の客船を利用して、船でパプア・ニューギニアに向った。私を含めて、男性4名・女性1名の計5名が第一次調査隊として、横浜港から出航したのだった。

それまでに、我々はみな貧乏学生だったため、講義の合間を利用して、1トントラックを借りてちり紙交換をしたりして、共同でせっせと資金集めをした。

そんな時、誰かが漫画家の水木しげるは、ニューギニアで戦争体験があり、左腕を失くしたが今や漫画家として売れっ子になっている。もしかしたら、我々の話に賛同して、少しは資金援助をしてくれるかもしれない・・・と言い出した。

若かった我々は行動力においては、それは見事なもので、早速水木しげるさんに訪問のアポをとり、水木さんのお宅を訪問したのだった。



仕事場に通された私達は、実はこれこれこういうわけで、ニューギニアで食糧生産を企んでいる。ついては何分貧乏学生の身で資金が不足して困っている。すこし、寄付をお願いできないでしょうか・・・といった感じで、単刀直入に訴えた。

水木さんは、我々の話に真剣に耳を傾けて下さり、その後ご自身も戦後何度か訪れたときの写真を見せてくれて、ニューギニアのことを語ってくれたのだった。右腕1本でニューギニアの川を泳いでいる水木さんの写真が印象的だった。



どこの馬の骨かも分からない学生達がノコノコ押しかけて行ったのにも関わらず、水木さんは、確か10万円ほどカンパしてくださった。何せ当時は、学生のアルバイトが、時給360円程度の時代だった。我々は、はるばる東京まで出かけていった甲斐があったと、感動したのだった。


我々は長い船旅の後、2つのグループに別れ、半分は水木さんが戦時中赴任したラバウル島へ向い、半分(私と先輩)はニューギニア本島の奥地を探検し、1週間ほど掛けて島の実況見分をした。

その後、商船会社の試験農場のある村に入るため2グループは合流して、試験農場で体験実習を10日ほどしたのだった。

ニューギニアに行った時のことは、今年初めの頃、「20歳の被差別体験」というタイトルでこのブログでも少し話題にしたことがあったが、実にいろいろな体験をして、当時の経験が原体験となって、今の自分があるような気がしている。

水木しげるさんの訃報は、そんな昔の思い出をしばし蘇らせてくれた。

水木さん、その節はご支援ありがとうございました。

どうか、安らかにお眠り下さい。   合掌。