昨年末の「開運!なんでも鑑定団」という番組で、支那の茶碗に2,500万円の評価額がついて話題になった。鑑定者によると、国宝級の逸品らしいのだが、その場面をテレビで観ていた陶芸家が、お土産品レベルの一目でわかる紛い物だとケチを付けたので、大騒ぎになった。
というのも、その陶芸家はただの素人ではなく、親子二代にわたって、当の茶碗の復元の研究をしている専門家であったからだった。見た瞬間に紛い物だと分かる、幼稚園の工作レベルの紛い物だと断定した。
結局、この茶碗の真贋についてはどうなったかは知らないが、幼稚園児の工作レベルのお茶碗に2500万円の値を付けてしまうことがあるのだろうか?
このエピソードを知った時、思い出したのが【井戸の茶碗】という古典落語の演題であった。「開運!なんでも鑑定団」という番組にも出たことのあるこのお茶碗は、知る人ぞ知る高麗茶碗の珍品で、本物ならば数千万円の値がつくらしい。
井戸の茶碗
この噺は、江戸時代の話で主な登場人物は、くず屋の清兵衛、浪人・千代田朴斎、若侍・高木作左衛門の三名である。
登場人物が三人とも、曲がったことが大嫌いな正直者で、融通が利かない処もあるのだが、古い仏像をくず屋に出したところから話が始り、途中何の変哲もないお茶碗も登場して、最後はめでたしめでたしで終わるという、聴いた後清々しい気分にさせてくれる噺だ。
くず屋の清兵衛
私は、この噺を古今亭志ん生(五代目)と三遊亭園生(六代目)の演目として聴いたことがあるが、どちらも甲乙つけがたいほどの名人芸である。
昭和の名人たち
古典落語には人情噺というジャンルがあって、江戸時代の人情味溢れる人たちが繰り広げる面白おかしい話が、ほのかな感動を感じさせてくれる。
特にこういう話を、名人と呼ばれる落語家の噺で鑑賞すると、話の良さが一層ひきたつので、是非お勧めする。
CDレンタル店や図書館などには、必ず揃っているし、 youtube などでは動画でも楽しめるから便利な世の中になったものだ。
人情噺では、「唐茄子屋政談」とか「文七元結(もっとい)」、「芝浜」などがいい。
今は使われなくなった江戸言葉(例えば、へっつい=かまど)などが出てくるし、自分が幼い子供の頃、お爺ちゃんが使っていた言い回し、(例えば、下地=醤油)なども聴けて、実に懐かしい気分にさせてくれることがある。
さらに、こういう古典落語を聴くことは、子供の情操教育にもきっと役立つし、小難しいことを言わなくても、日本人ならではの道徳観が自然と身に染みていくことになる。
教育勅語の復活だとか、道徳を教科になどという前に、我が国の伝統芸能から学ぶことは大きな意義があるのではないだろうか。
大喜利で、オチャラケ芸を言って座布団を集めるだけが落語家のすることではない。ましてや、自分は私生活で愛人を囲っていながら、新婚さん相手に偉そうな説教をするのが落語家ではない。
大切な日本の文化遺産の継承を担って欲しいものだ。
というのも、その陶芸家はただの素人ではなく、親子二代にわたって、当の茶碗の復元の研究をしている専門家であったからだった。見た瞬間に紛い物だと分かる、幼稚園の工作レベルの紛い物だと断定した。
結局、この茶碗の真贋についてはどうなったかは知らないが、幼稚園児の工作レベルのお茶碗に2500万円の値を付けてしまうことがあるのだろうか?
このエピソードを知った時、思い出したのが【井戸の茶碗】という古典落語の演題であった。「開運!なんでも鑑定団」という番組にも出たことのあるこのお茶碗は、知る人ぞ知る高麗茶碗の珍品で、本物ならば数千万円の値がつくらしい。
井戸の茶碗
この噺は、江戸時代の話で主な登場人物は、くず屋の清兵衛、浪人・千代田朴斎、若侍・高木作左衛門の三名である。
登場人物が三人とも、曲がったことが大嫌いな正直者で、融通が利かない処もあるのだが、古い仏像をくず屋に出したところから話が始り、途中何の変哲もないお茶碗も登場して、最後はめでたしめでたしで終わるという、聴いた後清々しい気分にさせてくれる噺だ。
くず屋の清兵衛
私は、この噺を古今亭志ん生(五代目)と三遊亭園生(六代目)の演目として聴いたことがあるが、どちらも甲乙つけがたいほどの名人芸である。
昭和の名人たち
古典落語には人情噺というジャンルがあって、江戸時代の人情味溢れる人たちが繰り広げる面白おかしい話が、ほのかな感動を感じさせてくれる。
特にこういう話を、名人と呼ばれる落語家の噺で鑑賞すると、話の良さが一層ひきたつので、是非お勧めする。
CDレンタル店や図書館などには、必ず揃っているし、 youtube などでは動画でも楽しめるから便利な世の中になったものだ。
人情噺では、「唐茄子屋政談」とか「文七元結(もっとい)」、「芝浜」などがいい。
今は使われなくなった江戸言葉(例えば、へっつい=かまど)などが出てくるし、自分が幼い子供の頃、お爺ちゃんが使っていた言い回し、(例えば、下地=醤油)なども聴けて、実に懐かしい気分にさせてくれることがある。
さらに、こういう古典落語を聴くことは、子供の情操教育にもきっと役立つし、小難しいことを言わなくても、日本人ならではの道徳観が自然と身に染みていくことになる。
教育勅語の復活だとか、道徳を教科になどという前に、我が国の伝統芸能から学ぶことは大きな意義があるのではないだろうか。
大喜利で、オチャラケ芸を言って座布団を集めるだけが落語家のすることではない。ましてや、自分は私生活で愛人を囲っていながら、新婚さん相手に偉そうな説教をするのが落語家ではない。
大切な日本の文化遺産の継承を担って欲しいものだ。