孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

白衣の天使は統計学者

2016年02月21日 | 外国ネタ
最近の病院では男性の「看護師」もチラホラいて、以前長く「看護婦」と呼ばれていたことからどうも「看護師さん・・」とは呼びにくい私などは、「あのぅ・・・」と言うに留まっている。

そもそも、私は今でもCAとかキャビン・アテンダントとか、乗務員などとは呼んだことはない。いつも、「スチュワーデス」とか男なら「スチュワード」で通している。

昔、アメリカで、議長をチェアマンではなく、チェアパーソンなどと呼び始めたときも、まず「バカバカしい・・・」と感じたものだった。

それはさておき、看護婦の別名とも言える「白衣の天使」と言えば、返ってくる言葉は、「ナイチンゲール」ではないだろうか。

Nightingale といえば、日本名「小夜啼鳥(サヨナキドリ)」とか「夜啼鶯(ヨナキウグイス)」という小鳥の名前だが、イギリス人のフローレンス・ナイチンゲールは、その肩書きは看護婦、看護教育学者、社会企業家、そして統計学者と多岐にわたる才媛である。

両親が2年間という長い新婚旅行中のイタリア・フィレンツェで生まれた彼女は、英語読みのフローレンスという名前をつけられ、その後両親によって一流の英才教育を受けながら成長した。

しかし、本人は当時召使程度の職業と見られていた看護婦という仕事に関心を抱いていたという。母親は賛成ではなかったが、本人の意志は揺るがず信念を押し通し続けた。

時代は、1854年。黒海のクリミアでトルコとロシアの戦争が勃発すると、英仏がトルコ側に加わり、戦火は広がった。前線の負傷兵たちの悲惨な状況が伝わってくると、ナイチンゲールに出番がやってきた。



英国の戦時大臣の依頼に応じたナイチンゲールは、シスター24名と職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基にある病院に向かったのだった。

現地の状況は想像以上に酷いもので、しかも彼女達は必ずしも歓迎されたわけでもなかった。そこで彼女はその実情を英国の戦時大臣に書状で伝え、それを見た大臣は英国女王に伝えて彼女達の援軍にお墨付きを与えて支援した結果、その状況は改善した。

彼女は看護婦の総責任者として、まずは衛生状態を改善することを提案すべく、負傷兵の死亡原因の実態調査を始めたのである。そのときに、より分かりやすくするためにデータを「見える化」したのが、有名な円グラフ「鶏のとさか」であった。



兵士の死亡数とその死亡原因の推移を月ごとに示すため、円を12(12ヶ月)に等分して、扇形の面積と色でもって一目でその実態がわかるように工夫した円グラフで、その得意な形が鶏のとさかのように見えるところから、そう呼ばれた。

青い部分が兵士が病気で死亡した領域で、中心に近いグレーとピンクの部分が負傷やその他で死亡した領域を表す。数値を面積で表し、視覚的にその差が理解しやすくなっている。

図の右側が、ナイチンゲール派遣前の状況。左側がナイチンゲール派遣後を示している。兵士達の主な死因は、衛生状態の悪さであることを訴えるのに適した円グラフとして、結果的に効果的な資料となった有名な手法である。

多くの兵士達が戦いで負傷して死亡していくというよりも、病院のトイレなどの衛星状況の劣悪さか原因で病気(感染症)によって死亡していくという問題の解決を計るためには、予算や人員など、組織を動かす必要があり、そのための合理的な道具として、彼女の円グラフは有効であった。

この事例は、彼女を統計学者と呼ぶに十分であっただろう。

実際、この手法はどうなっているか。



簡単な例で説明できる。上図の棒グラフを「鶏のとさか」に書き換えてみよう。

A=1、B=3,C=2というデータを扇形の面積で表し、その中心を共通にする。

それぞれの中心角は、360度 ÷ 3 = 120度
次に、A,B,Cをそれぞれ面積1:3:2の中心角120度の扇形にするため、それぞれの半径を求める。

それぞれの半径をra, rb, rc とすると、面積を求める計算式は次のようになる。

πxraxra ÷3=1、  πxrbxrb ÷3=3、  πxrcxrc ÷3=2

それぞれの式からAの半径ra, Bの半径rb, Cの半径rc を求めて図にすればよい。



1856年、クリミア戦争が終わってから彼女は国民的英雄として騒がれることを好まず、目立たないように英国に帰国した。そして、その後も病院の状況を示す統計資料を次々に作成して発表し、硬直した陸軍組織の改革にも大きく貢献することとなった。



後に彼女は英国ばかりではなく、米国の統計学会の名誉メンバーになるなど、看護婦というより統計学者として、その名を残すこととなるのだが、有名人として扱われることを嫌い、墓には名前を彫らずイニシアルだけを残した。

それは、90歳で他界した彼女の遺言であった。

武器商人か平和希求者か

2016年02月21日 | 日記
いつも楽しみな週刊新潮のコラム「変見自在」。最新号の高山正之氏も舌好調であった。

立ち読み中、朝鮮半島のことを書いたところを読んで、我慢できず声を出して笑ってしまった。

『朝鮮半島がなくなった地図を想像してみる。日本海が途端に広くなって、清々しさすら感じた。』

高山氏は以前から、半島国家の存在はいつの世も厄介なものだ、といい続けていたが、それは朝鮮半島に限ったことではない。

浦賀に黒船がやって来た頃、中東黒海にあるクリミア半島では大きな戦争があった。



この辺りの歴史は、学校で習ったか習わなかったかの記憶すらない。黒海の西側にはルーマニア、ブルガリア、セルビア、それにスポーツキャスターがよく舌を噛む、ボスニア・ヘルツェゴビナなど、耳にはする国や地域が存在するが、その位置関係や文化や歴史など、私にはほとんど知識がない。

クリミア戦争といわれても大した知識はないが、ノーベル賞のアルフレッド・ノーベルとか、白衣の天使・ナイチンゲールと聞けば、「ああ、知ってる、知ってる。」と言う人が多いのではないだろうか。

実はこの二人は、クリミア戦争には欠かせない有名人である。



日本の江戸時代末期にあたる1833年にスウェーデンのストックホルムで生まれたノーベルは、ダイナマイトで莫大な利益を得て、その遺産を元に今のノーベル賞がスタートした、というのはよく知られているが、それにはそれ以前に起きたクリミア戦争が大きく関わっている。

つまり、ロシアとトルコ、英仏軍の戦ったクリミア戦争のときには、ダイナマイトは完成しておらず、戦後にノーベルが特別な起爆装置を開発して実用化し、1871年以降急激に普及した爆薬であった。

それでは1853年から56年まで続いたクリミア戦争がどうノーベルに関わったのだろうか。

ノーベルの父、イマヌエルは建築家であり、発明家であったが事業に失敗して困窮し、彼は職を求めて単身ロシアのサンクトペテルブルクに渡った。そこで彼はエンジニア、工場経営者として徐々に頭角を現し、地雷や機雷の開発でロシア軍に大きく貢献したのだった。



クリミア戦争で、水中兵器・「機雷」の威力が大きく、優秀な武器であると認められ、イマヌエルは工場を一気に拡大して、機雷や地雷の生産を拡大し、この時点で莫大な富を得た。

 機雷敷設の様子

イマヌエルは息子達の教育には投資を惜しまない主義であったため、アルフレッド・ノーベルには学校には通わせず、当時一流の家庭教師を何人も高給で雇って英才教育を施し、海外に出してより見聞を広めさせた。

そして、22歳のときに大学教授から化学を習った際、ニトログリセリンという物質と出会うことになる。

ニトログリセリンは爆発力は当時普及していた黒色火薬の7倍あったのだが、火をつけただけでは燃えるだけで、爆発しないという厄介な物質だった。

彼は、導火線を工夫して特許を取り、「ニトロ爆薬」として大量生産を始めた。工場を拡大し、ヨーロッパに11箇所設立、そしてアメリカにも進出した。

事故で工場の爆発が続発していたが、その驚異的な爆発力のため、需要は文字通り爆発的に増えていった。

ノーベルは、破壊力を減ずることなく安定性を求めて実験を繰り返し、珪藻土を使用して固体化することに成功し、ダイナマイトと命名した。(名前の由来は、diatomite :ダイアトマイトとは、珪藻岩のこと。)

1888年。アルフレッド・ノーベルが55歳のときだった。兄のリュドビックが亡くなった。このときフランスの新聞は、「死の商人、死す」という見出しで、アルフレッドの死亡記事と誤って報道してしまった。

これを知ったアルフレッドはかなり強烈なショックを受けたのではなかろうか。

それまで、科学者、経営者として奔走してきた自分が、その死後どのように世間に評価されるか、ということを深く考えたのだと予想できる。

その結果、「換金可能な財産は、死んだ後、人類に最も役立つ研究や発明をした人に、分け与えてください。」という遺言を残すことになったのだった。

1896年12月10日、63歳で他界したノーベルが残した遺産は、日本円で約200億円。これを基金として、11901年、第一回のノーベル賞授与が行われた。

スタート時の対象は、医療、物理学、化学、文学、平和の五つであった。

私は、今でも「平和賞」と「文学賞」には首をかしげるが、このことはいずれまたブログのネタにしようと思っている。

一つの賞の賞金は、約1億円だそうだ。

メダルの感想を聞かれた日本の受賞者が、「ただの金属でしかない。」というようなことを言ったそうだが、まるで、宝くじの当たり券を、ただの紙切れだと言うようなもので、随分無理をした感想だと思った。

さて、疲れたので、ナイチンゲールとクリミア戦争については、次回のブログネタにします。