孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

外来文化礼賛

2016年02月17日 | 日記
毎年、2月に入るとスーパーの一角にチョコレート専門の棚が出現するのが恒例になった。

この前、ドラッグストアでは、その前でどれにしようか迷っている老婆がいて、明らかに通行の妨げになっていた。大した量を買うわけでもないのに、老婆達はほとんどみんなカートを利用したがる。

これも通行の妨げになる要因の一つだが、優柔不断そうなその老婆は、我関せずといった様子でチョコレートを手にとっては戻す動作を繰り返していた。

バレンタインデーにチョコレートを。それも女性から男性に。

どの職場でも似たような現象が起きているのだろうが、私の通う職場でも4名いる女性社員が20名ほどの男性社員に、お菓子を配って歩く習慣が存在している。

いわゆる「義理」なのだろうが、私にはあれは迷惑でしかない。

さすがにチョコレートにすると負担が大きくなるためか、駄菓子の詰め合わせなのだが、それも市販のものではない。手作りの詰め合わせなのだ。



乾いたタオルを絞れ、と職場の改善、無駄取りを要求されている彼女達だけに、今年の菓子詰め合わせにはその知恵が顕著に表れていた。

明らかに、100円ショップで売られている駄菓子を数種類買い求め、それを開封して適当に割り振って、片手に乗るくらいの紙袋に詰め込み、しゃれたリボンで封をするのである。

中には丸や四角の煎餅有り、ビスケットあり、ラムネ菓子あり・・・

憎いなあ・・と思った演出は、紙袋に小さく「銀座○○」というカタカナ名の店の名前と、シールが貼られていて、紙袋は茶色で中身は見えない。意外とずっしりとした重量感もあって、「オッ!今年は高級チョコでも奮発したのか?お返しが大変だな・・・」と早とちりさせる仕掛けだった。

家に持ち帰って、開封してみてがっかり。結構なショックを感じた自分を恥じてしまった。

今やチョコレートなど年中好きなときに買って食べることができる。また、海外旅行の帰りに余った現地通貨でお土産を買うとすれば、チョコレートが一番無難で、私など毎回チョコレート以外勝ったことが無い。

こウルサイ女性達にお返しをやらないとなると、陰でどんな悪口を言われるか考えただけで恐ろしくなる。出張に行っても何のお土産も買ってこない上司など、もうドケチ呼ばわりしている。

バレンタインデーなど、頼みもしないのに、毎年毎年迷惑な習慣が出来上がったものである。

こういった、カタカナの外来文化を盲目的に礼賛したがるのは主に女性であることは、もう誰も否定しないだろう。

結婚式を挙げるなら、キリスト教徒でもないのに、ウェディングドレスを着て教会形式でと言いたがるのも女性である。



ああいう形式の結婚式に出たことが何度かあるが、出席者に賛美歌まで歌わせるのには閉口した。(私はそういうとき、般若心経のメロディーを頭の中で唱えて、キリシタンの邪気が心に入るのを阻むことにしている。)

ハロウィンなどという毛唐のお祭りを真似たがるのも、女性たちであろう。自分の子供に妙な格好をさせて、近所に駄菓子をせびらせ、町興しだなどと威張っている。



そして、今や幼い子供達は英語教室通いを始めた。家に帰ってきた我が子が、「グドゥ・イヴニン、マム!」などと言おうものなら、ママは「おぉ!!」と呟いて卒倒しそうになる。「我が子はまるで外人みたいな英語を喋る!」と。



年に何度かはミッキーやミニーと記念写真を撮りに出かけたがるのも女性達に多い。

こんな調子で育てられた子供たちは、いつの間にかカタカナの外来文化を崇拝し、日本古来の伝統文化や習慣は『ダサい、旧い、興味ない』と言ってバカにするようになる。それもこれも親の背中を見て育つからだ。

母国の文化を下に見て劣等感を抱き、その反動で外国のものなら何でも優れていると考えるようになるわけだ。ママと同じように。

こういう子供の割合が徐々に増えていくのに伴って、日本の国力はジリジリ下がっていく。母国を誇れずして、国を想う人間に育つわけが無い。

自分の名前を、トムだのスティーブだのと外国人に呼ばせて喜ぶ男も多いが、小さな子供に大きな影響力を持つのは、断然女性だろう。

日本の女性達に望みたい。外来文化を信奉するのはホドホドにしようではないか。