孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

いつも思う、奇態な光景

2016年02月13日 | 日記
『名選手、名監督にあらず』とは、けだし名言だと思う。

いくら記録を残そうが、名場面で期待通りの成績を残そうが、人に教えるのが上手下手というのは、まったく別の才能だと言えるのは間違いない。

よく例に出すのだが、山本五十六の名言だとされる、「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、褒めてやらねば人は動かじ」は、上手な教え方のエッセンスだと思う。



それが、少年野球教室という場で、こういう教え方しか出来ない人には、指導を依頼する方が間違っているとしか言えない。

「球がこうスッと来るだろ」
「そこをグゥーッと構えて腰をガッとする」
「あとはバァッといってガーンと打つんだ」

夕方のニュースで、球団のスポンサー局のためか、往年の名選手が野球キャンプ地を訪問して選手を激励した、と伝えていた。



この御仁、業界ではミスターとか訳の分からない通称で呼ばれ、正に神様扱いされているようで、脳卒中で倒れて以来中気の体を世間にさらけ出し、麻痺した右手をズボンのポケットに隠し、ヨイヨイの体で球場や練習場に出没する。(それとも、取り巻きに引っ張り出されるのか・・)

この光景は、私には名状しがたい奇態にしか映らない。

ワールドカップとかいう外国チームとの試合に出た際、日本チームの監督はこの御仁に、こともあろうか日の丸に、その方の現役当時の背番号である3の文字を書かせ、ダッグアウトの壁に掲げたのだった。



そして、守備に付く選手達はダッグアウトを出る際に日の丸の3の部分に手で触れてから飛び出していくのだった。恐らく監督の指図だったのだろうが、これなど胃液が逆流しそうなくらい不快なシーンであった。

そんな往年の名選手と対照的な存在であった元スワローズの監督は、選手育成に関しては一家言持つ方だった。

最近もどこかで目にしたが、覚せい剤で逮捕された元職業野球選手に関して、こんなことを言っていた。

『野球選手に大事なのは判断力だが、清原のプレーからは状況判断をしているとか、頭を使っているとかが全く伝わってこなかった。・・・』

『清原が西武1年目か2年目のときに、俺は森(祇晶・元西武監督)に言ったんだよ。清原は野球に対する思想、哲学が何もない奴だ、天性だけでやっている。お前が悪い。ちゃんと教育しろって。野球の指導はコーチがやる。監督の仕事で大事なのは人間教育、社会教育ですよ。・・・』

『清原は若いときに教育されていないから考えないし感じない。人間の最大の悪は鈍感であると言うが、まさにそのとおりだよ。覚醒剤は悪いと知りながら手を出すのは鈍感以前の問題、バカとしか言いようがない。バカと同時にやはり若いときの教育だね。』

まったく、この方の仰るとおりで、この方の奥さんやご自分の息子に対する教育姿勢などではどうしようもない方だと常日頃感じていたが、上記のコメントは実に的を射ていると思った。

西武のときに野放しだったのが、そのまま別球団に移籍してからもまったく変化無く、世間からも、球団関係者からも、スポーツマスゴミからも、チヤホヤされ続けていたわけだ。



神様的な存在の御仁も、右手でほっぺたをバシッとやりたかったであろうが、如何せん中気で思うように動かなかったようだ。

イエロージャーナリズムは、今や大物歌手もシャブ仲間だったと書きたてているようだが、以前大麻で逮捕された彼とて、脛は傷だらけで今後の進展も知れたものであろう。



スポンサー局ならば、この際徹底的に膿を出し切る姿勢を示さないと、人気は益々下降線をたどることになるだろう。右手は動かなくても、まだ話せるようだから、何か球界に君臨するお立場で、一言寄せて欲しいものだ。

「吸いたくなったら、グウッと構えて、バァっと我慢するんだ。」とかね。

偉大なる日本語

2016年02月13日 | 日記
職場で、今現場で使用している帳票の一つを海外工場用に英訳して欲しいという依頼があった。

製造ラインで不具合が発生した際に使っている報告用の帳票で、どこで何を作る為の、どういう作業で、どういう不具合が発生したか。現象は、症状は。などなど記入する項目は多いが、そのために時間を費やすのは無駄と考え、記入方法には工夫を凝らしてある。

例えば、簡単な問いには「有・無」のどちらかを丸で囲む。あるいは、「要・不要」のどちらかを丸で囲む・・・等々である。

最初依頼されたときは、簡単なことだから30分もあれば出来るだろうと思ったが、いざ始めるとこれがなかなか厄介だと分かった。

日本語を英語に翻訳することはこれまで何度もあったが、こういうスペースの決められた処にはまる様に英語に訳すとなると、文字の大きさが揃わなくなったり、改行せざるを得なくなったりで、帳票のバランスがガタガタになってしまうのだった。

「要・不要」とか「有・無」などは、漢字なら1文字か2文字で済むが、英語にするとそうはいかない。

そんなときは、項目の質問内容を工夫して、「○○、必要か?」あるいは、「△△は、あるか?」として、回答は「Yes ・ No 」とした。

それにしても、日本語は便利である。

横にも縦にも書ける。漢字は、音読みと訓読みの2種類がある。その漢字を加工して、ひらがなとカタカナを作り出した。

Pneumonia という英語を見て、知識のある人は何のことかすぐ分かるが、無い人にはチンプンカンプンで、何のことかは想像すら出来ないだろう。

しかし、「肺炎」という漢字を見れば、医者でなくとも、「何か肺の病名ですかね?」と分かるだろう。おそらくこの漢字を初めて見る小学生ですらかなりの割合で理解できる子がいると思う。

しかし、外国語ではこうはいかないのである。ちょっと前まで、南朝鮮では漢字とハングル文字を併用していた。従って、私が30年以上前になるが、仕事で滞在していた頃は、新聞を見て、漢字の部分を拾い読みすれば、大まかな意味は理解できたものである。

しかし、今や彼らはその漢字を捨てた。その不便さは、この例えがいい。

Shindaisha tanomu.

このような文があったら、意味が分かるだろうか。ハングル文字は母音と子音の組合せだから、丁度ローマ字のようなものだ。

Shindaisha とは、「寝台車」とも「死んだ医者」とも読める。

日本でも本気でローマ字を公用語にしようと議論したときがあったそうだ。もし、ローマ字や英語が公用語に決っていたら、今日の日本の繁栄は絶対に無かったといえるだろう。

英語を公用語にすれば、グローバル化が進み、益々発展するはずだ・・と主張する人は、フィリピンを見ればいい、マレーシアを見ればいい、インドを見ればいい。

明治維新で外国からそれまでになかった概念や知識がなだれ込んできた。そのとき、必死で日本語化に取り組んだ結果、日本国内で最新の学問を享受できたし、外国に出なくとも研究にいそしむことも可能になった。

原子、分子、時間、空間、価値、電力、演説、社会、気温、遺伝、確率、回路、経済、可能性、胃潰瘍・・・数え切れないくらいの言葉が発明され、今日あたかも昔から存在していたかのような使い方がされている。

今、日本の会社であるにもかかわらず、英語を社内公用語にしようとする動きがあったり、テレビでは幼い子供を対象とする英語塾のCMが垂れ流されている。

クリスマスだのハロウィンだのバレンタインだのと、カタカナの文化が日本を侵食しているようだ。

子供は、それをカッコイイと感じ、対照的に日本独自の伝統文化を尊ばなくなっていく。

英語教育の若年化は亡国の愚策である、と警鐘を鳴らす人たちの趣旨はそこにある。