ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

2/14 主日の説教より

2010-02-14 22:36:20 | カトリックの信仰
 今日は久しぶりに母教会でミサに参加。F師司式でした。

☆★☆★☆ ルカ6:17,20~26 貧しい人は幸いである~
 第一朗読(旧約聖書)のエレミヤ書では『祝福されよ、信頼されるものは…』とあり、第二朗読(使徒書)のコリントの信徒への手紙の中で『主の復活は来る』とあり、この灰の水曜日から四旬節に入り、私たちは主の受難、復活へ向けて準備が始まる。
 イエスは、集まった人々に向かって語りかけている。ひとり一人に色々な思い、願いがある。どんな辛いことがあっても、或いは何もなくても神に信頼して生きることができるか。キリスト者として、生活の中でキリストを選ぶ場面もあるでしょう。その時に、キリストを選ぶか。例えば、昔金曜日に毎週、肉を食べてはいけない小斎(小さな清めといったらいいのか)があった。家のものが信者ではない時に、夕べの食卓に肉が出たときにどうしようかと思ったというような体験もあった。例えば日曜に仕事が入って、ミサに行けなくなった。今はどちらもたいして問題にすることではないが…そんなことでもキリスト者としてどちらを選ぶかという小さな選択があった時代であった。
 良心的に人をゆるせない時にキリスト者としてゆるさなくてはならない葛藤がある、そういうときにこそ、キリストを選んでいけるキリスト者でありたい。これからの四旬節の間にそんな自分の心の貧しさに気づき、キリストに信頼をおくものとなれるように祈りましょう。★☆★☆★

 主日のミサでは沢山の方と顔をあわせる。ミサが終わって、知人のR君と玄関先で話をしながら昨年末に生まれた赤ちゃんを連れて迎えに来る奥さん(私、この2人の結婚式の証人でした)を待っていた数分の間、やはりミサを終えて家路につく多くの方と次々に『お久しぶり…』『お元気でしたか?』と声を交わわせ、ちょっと会話しているのを見ていたR君が、びっくりしていた。「え~っ?? 話をしない相手がいない!!」 確かに~~~

 本当に幸せなことだと思う。が、この幸せを今日の福音の中に当てはめるとキリスト者としてはどんな生き方をしているのだろうと自分を振り返ってみた。今日の福音箇所にはなくて、マタイの福音書にある『柔和な人は幸いである。その人は地を受け継ぐ』という句が好きなのだが、今日のルカではピタッと来るところがない。色々な人に色々なことを言われたことも、何人かの人にののしられたことも、あることないこと言われてめげそうになったこともあったっけ。でもそんな時にいつも思っていた。言われたそのことを言わせてしまうものが私にあるから、そういう言葉になるのだろう、とその内容を思い巡らしすごすようにしていたな、と。波立ち、心騒ぐ思いが段々と穏やかになって行き、至らない自分に気がつかせてくれたことを感謝できるようになる、そんなことは何度も体験した。そんな折々のことが思い出されて、それでも今日、沢山の方たちと心からの笑顔で話せることに多くの方たちに支えられ、助けられて教会活動をしていたのだなぁと改めて、感謝しかない。

 昨夜、早めにお風呂に入り、床に入り、良く眠って、朝早く目覚めて…。今日はお天気も良くて、いい一日だった。

 オリンピック、みな一生懸命、それでいい。悔いのない、練習してきたことができたと思える瞬間が沢山の人にありますように。外野席はその輝きを目にできることに感謝したらいい。


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