ふわり、ふわりと風のふくままに・・日記

感性がキラリと輝くような毎日を過ごしたいけれど、現実はなかなか思うようにはいかない。小さな喜びに敏感でありたい。

教会でも安産祈願 「戌の日」の代わりに

2006-12-02 08:51:10 | 日々の出来事
 来年春先から長男に第一子、長女と次女に第二子誕生の予定は、このブログでも書きました。よく、5ヶ月目に入った戌の日に初めて腹鯛を巻き始める日とされてい手、丁寧なお宅では神社で安産祈願をしていただきます。長女の婚家では、いつもしてくださっています。

 で、私はカトリック信者、神社にお札をいただきに行く気にはなりません。でもやはり、それぞれの子供たちが新しいいのちをはぐくみはじめて(初期のものも、中期に入ったものも、後期に入ろうとしているものもいるのです)出産の無事を祈りたいし、三つの家族にこんなおめでたいことが重なる時のも嬉しい出来事なので、昨日安産とそれぞれの家庭に神からの平和がありますようにという意向のミサをあげていただきました。

 私の場合は、お願いのミサより感謝のミサの依頼をすることが多いのですが、私にとっては赤ちゃんが授かったことは本当に感謝ですし、それぞれが順調に家庭を気付いてくれていることも感謝です。

 教会の中でさえ、この問題微妙で、まだお子さん達が結婚していない友人、結婚していても子宝に恵まれない友人がいて、普段は気楽におしゃべりしお付き合いしているのに、あんまり嬉しそうにしていると「皮肉混じり」「やっかみ混じり」の感情を受け取ることがあって…。その微妙なずれは、おめでたいときだけではなくて、病気になったときにも「祈り」は支えになるはずなのにひた隠しにするような体質があります。不思議の一つです。勿論、個人のプライバシーのことがありますからなんでもオープンというわけに行かないこともありますが、できれば「ありのままの自分」でありたいなと思います。昨日もミサの前に司祭に「今日のミサ意向は、そのまま言ってもいいの?」と聞かれましたが、そこいら辺の微妙さへの配慮ですね。

 ミサ後、参加していらした9人ぐらいの方々にお祈りとお祝いの言葉を頂いたのはいうまでもありません。こういう共同体的な祈りの中、皆で神の思いの実現を祈るところがが、キリスト教のいいところかなと思います。すべての人々の何気ない生活の中で神様の愛と平和と喜びがありますように。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。