この一週間、いつも心に引っかかっていることがあった。
一つのcccメールに書いてあったことへの違和感が始まりだった。素直にその感想を書いて返信したら、「正論!!」と、相手は提案そのものをひっこめた・・私のメールを添付したcccメールで。
私が違和感を覚えた観点とは違っていたので、何だか面倒なことになってしまった。
その後、全員とあうチャンスはあったが、何もなかったようにcccメンバーもそのことに触れず、当事者同士も言葉を交わすこともなかった。このままでいいのかなぁというモヤモヤを抱きながら。
昨日「お騒がせして申し訳ありませんでした」と別件メールの文頭にあった。この一言が言えなかったのだなぁと相手の気持ちを思ってみた。私だって彼女を不愉快な気分にしたのだから、「お騒がせしてしまった」のは同罪じゃないだろうか、と思った。
「正論」だと押し通すつもりはなかったが、退路を断った書き方じゃなかっただろうか。思い返す一方、私の感想なのだから「こういう意見もありますが皆さんはいかがお考えですか」との返信だったらと言い訳を思いついた途端に、自分の傲慢さを思い知ることになった。
最初のメールへの私の返信は、かなりハッキリと問題を指摘している。感想だけ、彼女の思いを問い返してやり取りすれば良かった。・・・・・・
この件だけではなくて色々な場面を思い浮かべていった。
偉そうに意見を言っている自分。上から目線で物事を見ているかのようなふるまい。「そりゃぁ、まずいでしょう」という自分に至ってはわが身に向かって言うべき言葉に思える。
私の価値基準はカトリックの価値基準!なんて思っているけれど、実は私はかなり自己中心的な考え方・生き方だ!
主イエス・キリストはいつも父である神に祈りのうちに対峙していた。大切な選択、苦しい選択の前に必ず祈っていた。そして父である神の思いが実現するように自分を明け渡していた。《自分の思いではなく、(神の)思いのままに・・》と最後まで神に従順であった。イエスのように完全には出来ない。でもイエスのようになりたいと願っているキリスト者なのだ、が、私は祈っていただろうか。この頃、いつも自分が中心にいた。私の中心には神はいなかった!
そのことに気がついた時に、カトリック信仰の7つの秘跡のうちの一つ“ゆるしの秘跡”(よく懺悔と言われるが、ちょっと違う)を受けたい気持ちになって、また思いめぐらし、祈る。
確かに私の犯した罪はいろいろな思いめぐらしの中で浮き彫りになってきたことがあったので、ゆるしの秘跡を受けるのもいいだろうけれど、神からゆるされればそれでいいのかなと思った。また祈る。
ずっと以前、こんなことがあった。
友人AさんがBさんの言葉に傷ついていた。AさんもBさんの様子を見て、何か気に障ることを言ってしまったかなと察したらしい。BさんはAさんに謝らずに神にゆるしを求めて、“あなたの罪はゆるされた”という言葉をもらった。Bさんはそれでピリオドをうった。でもAさんはずっとその傷がいえることがなかった。二人の話を聞いていて「Bさんそれは違うでしょう。神様の許しも大切かもしれないけれど、傷つけたAさんに対して謝らなくちゃ!」と言ったことを思い出した。Bさんと同じことをしようとしているのではないか、と。
何べんでも祈ろう。私の根源的な罪深さについて内省して祈ろう。この一週間だけではなくて自分自身と向き合って、頑なさを抱え込み、傲慢になる傾きを直視してみよう。まず、そこから始めようと思う。
一つのcccメールに書いてあったことへの違和感が始まりだった。素直にその感想を書いて返信したら、「正論!!」と、相手は提案そのものをひっこめた・・私のメールを添付したcccメールで。
私が違和感を覚えた観点とは違っていたので、何だか面倒なことになってしまった。
その後、全員とあうチャンスはあったが、何もなかったようにcccメンバーもそのことに触れず、当事者同士も言葉を交わすこともなかった。このままでいいのかなぁというモヤモヤを抱きながら。
昨日「お騒がせして申し訳ありませんでした」と別件メールの文頭にあった。この一言が言えなかったのだなぁと相手の気持ちを思ってみた。私だって彼女を不愉快な気分にしたのだから、「お騒がせしてしまった」のは同罪じゃないだろうか、と思った。
「正論」だと押し通すつもりはなかったが、退路を断った書き方じゃなかっただろうか。思い返す一方、私の感想なのだから「こういう意見もありますが皆さんはいかがお考えですか」との返信だったらと言い訳を思いついた途端に、自分の傲慢さを思い知ることになった。
最初のメールへの私の返信は、かなりハッキリと問題を指摘している。感想だけ、彼女の思いを問い返してやり取りすれば良かった。・・・・・・
この件だけではなくて色々な場面を思い浮かべていった。
偉そうに意見を言っている自分。上から目線で物事を見ているかのようなふるまい。「そりゃぁ、まずいでしょう」という自分に至ってはわが身に向かって言うべき言葉に思える。
私の価値基準はカトリックの価値基準!なんて思っているけれど、実は私はかなり自己中心的な考え方・生き方だ!
主イエス・キリストはいつも父である神に祈りのうちに対峙していた。大切な選択、苦しい選択の前に必ず祈っていた。そして父である神の思いが実現するように自分を明け渡していた。《自分の思いではなく、(神の)思いのままに・・》と最後まで神に従順であった。イエスのように完全には出来ない。でもイエスのようになりたいと願っているキリスト者なのだ、が、私は祈っていただろうか。この頃、いつも自分が中心にいた。私の中心には神はいなかった!
そのことに気がついた時に、カトリック信仰の7つの秘跡のうちの一つ“ゆるしの秘跡”(よく懺悔と言われるが、ちょっと違う)を受けたい気持ちになって、また思いめぐらし、祈る。
確かに私の犯した罪はいろいろな思いめぐらしの中で浮き彫りになってきたことがあったので、ゆるしの秘跡を受けるのもいいだろうけれど、神からゆるされればそれでいいのかなと思った。また祈る。
ずっと以前、こんなことがあった。
友人AさんがBさんの言葉に傷ついていた。AさんもBさんの様子を見て、何か気に障ることを言ってしまったかなと察したらしい。BさんはAさんに謝らずに神にゆるしを求めて、“あなたの罪はゆるされた”という言葉をもらった。Bさんはそれでピリオドをうった。でもAさんはずっとその傷がいえることがなかった。二人の話を聞いていて「Bさんそれは違うでしょう。神様の許しも大切かもしれないけれど、傷つけたAさんに対して謝らなくちゃ!」と言ったことを思い出した。Bさんと同じことをしようとしているのではないか、と。
何べんでも祈ろう。私の根源的な罪深さについて内省して祈ろう。この一週間だけではなくて自分自身と向き合って、頑なさを抱え込み、傲慢になる傾きを直視してみよう。まず、そこから始めようと思う。