指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

中野翠について

2023年09月09日 | 都市

朝日新聞に中野翠の回想が出ているが、以前私は次のように書いた。

 

           

『あの頃の早稲田で』 中野翠   彼女は、1964年に早稲田大学の政経学部に入り、左翼になるべく、社研に入るが、驚くことに私は、社研は、特定のセクトのものではなかったと初めて知った。私は、早稲田の社研、社会科学研究会は、社青同解放派のものだと思っていたからだ。また、学生会館の彼らの部屋は、文学研究会と共同で使っていて、そこに新崎智(呉智英)がいて、知合いになったとのこと。新崎君は、当時はかなりの有名な人で、早稲田の「学費・学館闘争」の時、最後に12人の学生が処分されたが、11人は解放派などセクトの人間だった。だが、新崎さんだけは当時はセクトに属していなかったが、彼は声が大きくて目立ったので処分されたのではないかという噂だった。読んでいるといろいろと面白いことがあるが、「学生会館に映画研究会もいたのでは」と書いてあるのは完全な間違いである。映画研究会の部室は、21号館・共通講堂の裏にあった「演劇長屋」(そこには三劇団の部室と稽古場の他、探検部、中南米研究会なども入っていた)の先の路地を右に行った平屋の仕舞屋だったのだ。それは、普通の家を大学が買ったのではないかと思われるもので、板敷きでその上に長机と椅子が置いてある奇妙な部室だった。そこにドカドカと土足で上がるので、板は泥々で動くと砂が舞い上がると言った汚いものだった。ここで、部員は映画についての議論をするのだが、「本当に議論だけなので、若者は肉体を酷使しなければ」と、私は手前の劇団演劇研究会に入ることにしたのだ。同じように同学年だった金子裕君も、あまりにひどいので映研を辞めたとのことだった。後に、彼は大和屋竺や鈴木清順らと仕事もするようになった。

今後、どのような展開になるのか、一応期待したい。

と、言うのも彼女は私の2年上で、学費・学館闘争の時には、一番の中心になった学年なのだから。


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