監督協会が作っている、監督に聞くシリーズで、2009年元日活の斎藤信幸が聞き役。
沢田の作品は、以下のとおりで、見てないものも多いなあと思う。
- 1968.04.28 大幹部 無頼 日活 ... 助監督
- 1968.11.02 無頼 人斬り五郎 日活 ... 助監督
- 1968.12.28 無頼 黒匕首 日活 ... 助監督
- 1969.03.15 無頼 殺せ 日活 ... 助監督
- 1970.03.07 斬り込み 日活
- 1970.07.22 反逆のメロディー 日活
- 1970.12.15 女子学園 ヤバイ卒業 アカデミー・プロ=日活
- 1971.04.24 関東幹部会 日活
- 1972.11.29 セックス・ハンター 濡れた標的 日活
- 1973.02.17 反逆の報酬 東宝=石原プロ
- 1973.06.23 濡れた荒野を走れ 日活
- 1974.07.24 ともだち 日活児童映画室
- 1974.11.22 あばよダチ公 日活
- 1976.10.20 暴行! 日活
- 1977.03.05 卒業五分前 群姦 リンチ 日活
- 1978.04.15 襲え! 日活
- 1978.08.19 高校大パニック 日活
- 1979.03.17 肉の標的 奪う!! にっかつ
- 1979.05.26 俺達に墓はない 東映セントラルフィルム
- 1980.02.02 レイプハンター 狙われた女 にっかつ
- 1981.03.14 月光仮面 プルミエ・インターナショナル=ヘラルドエ...
- 1991.04.20 仔鹿物語 にっかつ撮影所=にっかつ=「仔鹿物語」映...
- 1991.10.05 撃てばかげろう サム・エンタープライズ・グループ
- 1995.06.09 極道おとこ熟 (V) 東映ビデオ
- 1996.07.12 平成残侠伝 ぶった斬れ! (V) 東映ビデオ
- 1997.02.14 平成極道伝 外道は殺れ! (V) 東映ビデオ
- 1997.07.11 平成極道伝 阿修羅が斬る! (V) 東映ビデオ
- 1997.11.28 監禁逃亡 略奪愛 (V) SEN=ジャパンホームビデオ
- 1998.02.14 甦る優作「探偵物語」特別篇 夜汽車で来たあいつ セントラルアーツ
- 1998.03.07 極道三国志 総長への道 KnacK
- 1998.07.29 修羅がゆく8 首都血戦 KnacK
- 1999.06.11 平成極道伝 夜叉が裂く! (V) 東映ビデオ
実は、沢田監督には、西区のシネノヴェチェントで行われた『濡れた荒野を走れ』の上映会の後の宴会で、話したことがある。この藤棚にも住んでいたことがあり、そこには2館も映画館があったの言うのには、驚いた。ここは、今はみなとみらいになった三菱重工横浜造船所があり、4万人もの職員(当時の言葉でいえば職工)がいたのだから、その工場城下町として、西区は賑わっていたのだ。市会議員も、自民党と社会党議員が一人づついたが、さらに三菱労組の民社党の議員もいたくらいだ。
沢田監督は、家庭の事情で、横浜商業高校を出た後、1年間銀行に勤めた後、中央大学に入る。その頃には、児童劇団の名門・東童にいて、地方廻りをやっていたそうだ。そこは、児童劇団の名門で、てんぷくトリオの戸塚睦夫がいた劇団でもある。
大学時代の最後、就職することになり、日活の助監督を知っているという友人に連れられて行った家が大邸宅で、その名は、神代。勿論、彼のものではなく、彼の妻島崎雪子の家で、昼過ぎに起きて来た神代辰巳に書類を置いてきて、無事日活に入社する。
助監督4期生で、13人いて、どこの監督に着くかを、今村昌平作成のあみだくじで決めて、沢田監督は、阿部豊監督となる。
阿部豊は、完全に忘れられた監督だが、戦前の日活の大巨匠で、日本の映画監督で最初に自家用車を持った人だった。この人は、すべてアメリカ流で、「キャメラ、アクション!」と言われ、沢田君は、意味が分からずカチンコをきちんと打てず、落としてしまったとのこと。
その後の、小杉勇組は良くて、チーフの遠藤三郎が小杉監督とすべて決めていたが、奥さんが「方位」に凝っていて、あるシナリオで、場所が海辺となっていたのを、占いで全部山岳に代えると言ったこともあったそうだ。
沢田氏は、鈴木清順の『肉体の門』の助監督のときに知り合った女優と結婚することになり、仲人を鈴木監督に依頼しておいた。ところが映画『俺たちの血が許さない』の撮影が天気のために伸びて、鈴木が出来ず、仕方ないので小杉勇氏に代わってもらった。
相手の両親は、当時鈴木などは全く無名だったが、小杉勇は有名だったので、非常識だが一応喜んだ。さらに、式のときに、小杉勇が「さんさ時雨」を唄って大喜びだった。小杉は、民謡研究の大家で、実際の唄も非常に上手かったのだ。
最初の監督作品の映画『斬り込み』は、予定した渡哲也が、テレビのために1週間しかなかったが、一応のものができた。昔、見たと思うのと以下のとおりだった。
主演は渡哲也だが、実際は郷英冶とその手下の藤竜也、沖雅也、岡崎二郎、藤健次(スリーファンキーズの高倉一志)のチンピラが中心で、渡は末期の日活の唯一のスターだったため、日程が1週間しかとれなかったためほんの少しの出番。それが一番カッコいいのは困ったもの。強大な関東連合(稲川組か)の青木義朗らが、川崎市に進出し、地元の郷田組を配下に置く。川崎が珍しい。ヤクザ映画では、深作欣二の『解散式』と『人切り与太』、さらに戦前の「川崎騒擾事件」を題材にした『暁の挑戦』くらいだろう。郷田組長・高城淳一が優柔不断な男で、こいつ弱さのために部下と組は全滅して行く。
駄目な組長のために滅亡するというのは、山下耕作の名作『総長賭博』と同じだが、日活には東映のような美学がないので、滅亡の美しさはない。渡が、当り役・人斬り五郎シリーズの「五郎」そのままのキャラクターになってしまうのがおかしい。役者の「役柄」と言うものは、そう簡単には出来ないものなのだ。モップスの演奏があり、すずきひろみつが見えるのは貴重な映像。このゴーゴー・バーのシーンは大映のように泥臭く、日活にしては上手くない。 フィルム・センター
このように結構いい作品だったが、公開当時私は見ていなくて、最初に見たのは『反逆のメロディ』だ。
この最初の打ち合わせのとき、主演候補の原田芳雄と待ち合わせの喫茶店に沢田らが行くと、原田が少し遅れて店に来て、「テレビを見ていた・・・」という。
瀬戸内シージャック事件で、フェリーにいた犯人が、機動隊に1発で射殺されて転がり落ちたときだ。1970年5月12日。当時、非常に衝撃的な事件で、これのために、警察は後の「浅間山荘事件」では、犯人を射殺しなかった。これは、映画『凶弾』となり、石原良純の大根デビューとなった。
1970年の『女子学園・やばい卒業』の、冒頭の乱交シーンを撮った日に、三島由紀夫は自刃したとのことだが、これは日本アカデミープロという外部プロの下請けだったとのこと。
この頃、日活は、この他、新国劇映画等々の外部受注作品を製作して公開していた。
ダイニチ映配の大映では、製作部が少ない現金を握りしめて、映画『遊び』のロケ現場に行っていたとの話も聞いたことがあり、この弱者連合は本当に大変だったようだ。
ポルノ時代の『濡れた荒野を走れ』の原題は『赤い荒野を走れ』だったが、組合が「赤い、はだめ」の意見で、濡れたになったそうだが、赤は、神聖な色なのだろうか。
随分といろいろな作品を作っているなあと思うが、小杉や鈴木など、昔の日活や松竹の系統の娯楽作家の下に長くいた経験が堅実な作風に結びついているのだろうか。
出て、スマフォを見ると、阪神が3勝目で、日本シリーズ出場を決めていた。