指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

無観客興業を見て 大相撲は・・・

2020年03月08日 | 大衆芸能
日曜日に続き、大相撲を見る。無観客興業だが、これを見ていて、無観客の歌舞伎を思いだした。



無観客の歌舞伎とは、1935年に菊五郎の『鏡獅子』を小津安二郎が、戦後カラー映画のテストで、やはり歌舞伎を撮ったもので、いずれもフィルムセンターで見た。
どちらも、当時は大きなカメラを入れて、照明も必要だったので、通常の舞台では撮影できず、興業が終了後に撮ったものだった。
見るとかなり違和感があるもので、それは無観客なので、役者への掛け声や拍手がないことによるものだった。

大相撲もそうで、力士、行事、呼び出し、審判、さらに協会の職員以外に人はいないので、シーンとしている。
逆に、行事や呼び出しの声や所作がよくわかり、力士の力闘に集中できるメリットも感じた。
さらに、これを見てあらためて分かったのは、大相撲も歌舞伎も、観客の参加を前提にできていることだった。
世界の演劇で、観客の中で演じる花道のある舞台はなく、歌舞伎は独自である。
昔、シェークスピア時代の演劇は、張り出し舞台だったらしいが、近代劇では額縁で区切られていて、舞台と客席は明瞭に区切られており、花道での演技もある歌舞伎は極めて例外的である。

ここで、以前にも書いたが、折口信夫の「相撲は演劇である」との説の正しさを再認識する。
相撲にも花道があり、天井の櫓の周りの幕は、劇場の上部にある「一文字幕」と同じ起源なのである。
相撲は、神と精霊の戦いであり、土俵の土を足で踏み固めるのは、土地を清浄化する祈りなので、ぜひ大相撲は「悪霊退散」の祈祷としてやってもらいたいと強く願うものである。

『てんやわんや次郎長道中』

2020年03月08日 | 映画
昨日は雨で、外に出ずに録画した映画を見た。
長兵衛となのる市川雷蔵が、ある田舎の村にくる。
「寂れた村」ときいていたが、非常ににぎわっている。
女目明しの藤原礼子にきくと、「金が出るとのことで賑わいだしたのさ」とのこと。



例によって、悪徳商人、目明し、女郎宿などがあり、夢路いとし・黄味こいし、平参平、都喋々・南都雄二、芦屋雁之助・小雁らが出てくる。
そして藤田まことも。
要は、テレビの『てなもんや三度笠』の映画化の1本なのだ。
『てなもんや』の映画化は、東宝と東映にあるが、これが一番面白い。

天王寺虎之助、茶川一郎、もちろん白木みのるも出てくる。
出てこないのは、財津一郎と京唄子・鳳圭介くらいだろう。
そして、各自の一八番のギャグを見せるので、非常に面白い。
ここでは雷蔵は、司会者のごとき役目で、芸人たちを見せる立場に徹しているのは偉い。
姿三千子や坪内ミキらも出てくるが、筋はどうでもよいもので、最後は代官との立ち廻りを演じて、全員が次郎長一家であることを明らかにして次の村に行く。
珍しいのは、村祭りのシーンで南都雄二が櫓で歌うが、結構上手くて、やはり昔の芸人は芸があるなと思う。
女では、『薄桜記』の真城千都世も歌うが、元宝塚なので、歌は様になっている。
脚本八尋不二、監督は贔屓の森一生である。
衛星劇場

岸家対小林家

2020年03月08日 | 事件
コロナウイルス騒ぎで、多くのイベントや公演で、中止、延期が相次いでいる。
大相撲やプロ野球では、無観客で試合が行われている。
その中で、宝塚歌劇団は、宝塚大劇場での公演を9日から再開することにしたそうだ。
安倍内閣のご指示に逆らったと言うよりは、本公演で退団する生徒もいることが大きな理由だろうと思う。

                 

さて、安倍晋三と宝塚と言えば、祖父岸信介と宝塚の創始者小林一三との対決を思いだす。
1940年の第二次近衛内閣の時、この二人は商工大臣と次官だった。
そして、戦時体制への移行で、統制経済が叫ばれ、その急先鋒の岸信介と、自由主義経済の小林は鋭く対決した。
本来、次官は大臣に従うものだが、岸は容易には大臣に従わず、二人の対決は近衛文麿の手におえないものとなり、ついに近衛は二人を辞職させることにして事態を収拾した。
この岸信介の統制経済は、彼の孫の安倍晋三に遺伝していると思える。
春闘での、彼の「賃上げ要求」などは、まさしく統制経済的発想だと思う。