指田文夫の「さすらい日乗」

さすらいはアントニオーニの映画『さすらい』で、日乗は永井荷風の『断腸亭日乗』です 日本でただ一人の大衆文化評論家です

『人間蒸発』

2005年09月29日 | 映画
9月23日に川崎市民ミュージアムで『にっぽん戦後史・マダムおんぼろの生活』を見たと書いたが、その日は今村昌平監督の映画『人間蒸発』も見た。
これは、東京下町からある男が蒸発したことを、その婚約者だった女性早川佳江さんと俳優の露口茂、今村組のスタッフが探すもの。

途中で佳江さんが露口を好きになってしまい、その告白も隠し撮りで捉えている。
封切り当時も、ルール違反だと今村に対して批判があり、早川さん本人も告訴したはずだが。

確かに今見てもあまり後味の良くない作品である。
しかし、封切り当時は衝撃を受けた隠し撮りのシーンは今見ると余り驚かない。
それは、その後テレビ等でそうした手法は当たり前のように行われているからである。だが、「人権的視点」から見ればこうしたことへの感覚の麻痺はいいことではないだろう。

叙勲祝賀会に行った。

2005年09月29日 | 横浜
以前、職場で大変お世話になった上司だった方が、今春に勲章を受賞され、お祝いの会が横浜のホテルであった。
それには官位がなかった。聞くと以前はあった等級(勲何等というもの)は、廃止されたのだそうだ。
昔は、「あいつは勲3等だったのに、なぜ俺は勲4等なのだ」などという馬鹿らしい争いがあったが、そうしたことはなくなったわけだ。
人間に等級を付けるのは良くないということらしい。当然のことで、戦前の日本では1等国民とか、2等国民と言った区別があった。
1等とは言うまでもなく、本州に住む日本人で、沖縄や朝鮮半島等に住む人々は2等国民とされたらしい。実に馬鹿げたことである。

私などよりはるかにえらい人ばかりなので、会場の隅に恐縮していたが、つくづく日本は超長寿社会だと思う。60才はおろか70、80の人が元気なのだ。偉い方がずっとはるか上までご存命なのである。誠にご同慶に耐えない。

昔、映画監督の故・須川栄三が、50年前の下っ端の助監督だったとき、当時東宝には40人以上の助監督がいて、「1年に2人ずつ監督に昇進しても、定年までに俺に回ってくる機会はない。忘年会かなんかで全員がふぐ中毒になってくれないかな」と妄想したと書いていたことをふと思い出した。

勿論、ふぐ中毒はなく、皆さん元気でお帰りになったようだ。
私も、友人に会って戻った。

『NaNa』

2005年09月29日 | 映画
期待していなかったが、前から中島美嘉は贔屓なので、行くと意外に面白かった。現在の若者の心情のキーワードが、「自分らしく自由に」であることがよく分かった。
中島美嘉と宮崎あすかの、同じナナという名の二人の女性の話。
ツッパリのロックシンガー中島と能天気なフリーター宮崎。上京する新幹線で偶然知り合い、同じ部屋をシエアーする。
中島は、昔の恋人で有名ロックバンドメンバーの松田龍平と再会し、宮崎は付き合っていた恋人と別れる。

注目すべきは、ここには役作りといった伝統的な演技が全くないことだ。
東陽一の『サード』『もう頬杖はつかない』あたりから始まった自然な演技が完全に定着し、他に演技の方法論がないことが分かる。太陽族から『非行少年・陽の出の叫び』や『非行少女ヨーコ』などの不良少年ものにあった、少年・少女たちの「背伸び」が全くない。

自分が普通に言うように台詞を言い、演技しているのが当然となっている。
そして、ここで顕現されている若者の気分は、「自分のやりたいことを自由にやる」ということである。勿論、それは間違いではなく、究極の目的である。
しかし、大きく見れば自分が選択したのではなく、実は類型として与えられたものであることが分かる。
昔、アメリカの社会心理学者R・D・レインが『引き裂かれた自己』の中で書いたように、アメリカの消費社会の中で、人々は自らが選択したように思い商品を購入しているが、実は選択するよう強いられたものだ、と言った趣旨のことを書いていたと思う。それに近いことが今日本でも起こっているのではないか。

そして、若者のそうした「自分らしく、自由に」という気分に一番あったのは、政治で言えば小泉純一郎首相である。小泉首相に、従来の自民党の勢力に縛られているという感じはない。
それに比べれば、岡田克也民主党前代表は、自由にものを言わず、どこか後ろに存在する者や勢力の意見を言わされていると言う感じがした。その辺が、若者が民主党に投票しなかった大きな理由だろう。