狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

「声の残り」余聞

2006-09-20 21:12:09 | 阿呆塾

ドナルド・キーン(Donald keene)
1922年ニューヨーク生まれ。コロンビア大學卒。在学中から日本語を学び、戦後ケンブリッジ大學、京都大学などで日本文学を研究。「国性爺合戦の研究」でコロンビア大學博士となる。日本文学を多数海外に紹介している。1962年の菊池寛賞受賞。1985年『百代の過客ー日記に見る日本人』で読売文学賞、日本文学大賞受賞。現在コロンビア大學教授、朝日新聞社客員編集委員。
「著書『碧い眼の太郎冠者』『日本人の西洋発見』『日本文学史・近世篇』『日本文学史・近代・現代篇』『日本文学散歩』『日本人の質問』など。
『人間失格』他英訳も多数。

これは『二つの母国に生きて』朝日選書1987年の奥付にある筆者紹介である。
これを見ると、小生と著者とは、○歳しか違わない勘定になる。
敬老日の前後、ボクも己の年齢について考えないわけではなかった。
だから、年齢などの記述があると、大いに注目するのだ。
「声の残り」のあとがき、〝おわりに〟を読んでみよう…。(以下引用)
おわりに
…(略)
 しかし初めから、現在活躍中の作家より、どちらかというと故人になった作家のほうに、より多くの紙数を割くことになるだろうことは、予想していたことであった。思うにこのことは、今やその声も聞けず、会うこともかなわぬ人々に対して、私が抱いているノスタルジーから来る、当然の結果なのである。そしてそれだけではない。
私がある年齢に達した今や――私は七十歳になったばかりだ――新しい友人を作るのがのが困難になって来た、ということもある。同時に、いわば新種の文学を受け入れるのも、むずかしくなって来ている。
最近ある人に、好きな漫画家は誰か、と訊かれたことがあった。その時私は、日本の漫画で、最後まで読み通したものは一冊もない、と白状せざるを得なかった。多分漫画も、読むべきなのだろう。今の私には、ただ単調なドドン、ドドンという騒音としか聞こえないロック音楽でも、もっと理解しようと努めなければならないのかもしれない。しかし人間は、年を取るにつれて、自分の趣味を変えるのが、ますますむずかしくなって来るものなのだ。したがって、この私も、漫画の文化性を探ることによって、自分の文化的関心を拡げるよりも、すでに自分が感服している作家を、さらに深く読み込むほうを、採るのである。
 …(略)