猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

カジノより 観光立国より 文化立国

2019-12-25 22:21:51 | カジノ反対
カジノ推進の秋元司議員が収賄容疑で逮捕された日に、5年前にYahooで書いたブログを再録する。
 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
観光立国より文化立国がいい。カジノ立国はもってのほかだ。
観光だって文化の味わいがなければ旅の喜びが半減する。

昨年、ガンから生還した私の友人は仲間4人で、でかいアメ車でルート66の旅に出た。ルート66はシカゴから西海岸のサンタモニカをつなぐ旧国道で、小説や映画やテレビドラマの舞台になった。現在は、ただの田舎のハイウェイ ルートだ。コーラを飲み、ラジオを聞き、アメ車で騒ぐことで、青春のすべてが蘇る。

もっと前のことだが、暮れに仕事でニューヨークを訪れたとき、セントラル・ターミナルの近くで、長らく会ってない友達ふたりに偶然あった。町並み、ショッピング、食べ物、ミュージカルが懐かしくて、飛行機代の安いクリスマス明けに、個人的に来たとのことである。暮れのセントラル・ターミナルの飾りは実に美しい。幻想的な夜を味わえる。

ロシアにはビザンチン文化の香りがある。歌姫マリーナ・デビアトバ(Марина Девятова)の民謡ステージを見にロシアに行ってみたい、と私は思っている。

文化は幅広いものから成り立つ。人々の造った町並み、建物、公園から、人々の営み、食べ物、ショッピング、音楽、演劇や、人々の教養、道徳、宗教へと広がる。

京都に文化の香りがなければ、どうして海外から観光に人がくるだろうか。普通の人にとって、旅の動機はカジノではなく文化である。文化で人を集めると、色々な小規模の店にもお金が落ちる。そのまま、地元の大学に留学するかもしれない。

ケインズ経済学者、小野善康は『成熟社会の経済学』(岩波新書)で、日本のこの20年間のデフレは、需要不足が主要因で、雇用をふやす政策を取る必要があると言っていた。社会には充分食べ物や工業製品を供給する能力があるのに、富が偏在していて、それを消費できていない。

現代では、需要不足を輸出で解決できない。なぜなら、安い製品の輸出は国際社会に緊張を引き起こすからである。トヨタやホンダが、製造、開発の拠点を米国に移したのは、日米摩擦を避けるためである。「貿易立国」の日本は、他国に貧乏を輸出することや他国の平和をかき乱すことは許されない。

カジノで雇用を作るより、文化の興隆で雇用を作る方が世界から尊敬される。文化は、知的な生活、知的なインフラを作るが、エネルギーなどの天然資源をむさぼるわけではない。そして、旧来の産業の担い手をリフレッシュし、また、新たな産業を創出するだろう。カジノ産業には広がりはなく、利権に群がる人々を作るだけである。

日本は、音楽や 演劇や 食べ物(和食だけでなく)や ショッピングや 文芸や 芸術や それに人間学、社会学、数学、科学、宗教などの学問で、世界中の人が訪れてみたい国であって欲しい。文系理系を問わず、文化の担い手として大学をみて欲しい。

引きこもったサリンジャー、映画『ライ麦畑の反逆児』

2019-12-22 18:03:04 | 映画のなかの思想
 
木曜日に妻と一緒にテレビで映画『ライ麦畑の反逆児』を見て、土曜日に図書館にサリンジャーの本を借りに私は出かけた。妻が、読みたいのに、サリンジャーの本を何冊ももっていたのに、それが見当たらないと言う。私は、自分のためにも、と4冊借りてきた。
 
妻は映画のタイトル『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』が良くないと言う。原題は “Rebel in the Rye”で、2017年のアメリカ映画である。少なくとも、「ひとりぼっちの」はおかしい。
 
映画でニコラス・ホルトの演じる色白で繊細で反抗的なサリンジャーが良かった。しかし、借りてきた本のサリンジャーの写真は、浅黒い「うまづら」で鼻がつぶれている。彼の父は、東欧の出身のユダヤ人で肌の色が褐色なのはしかたがない。映画は、読者の期待するイメージを視覚化するのだ。
 
“rebel”を反逆児と訳しているが、反抗する者のことである。昔、ジェムーズ・ディーンが『理由なき反抗』という映画に出ていたが、原題は “Rebel Without a Cause”である。適切な日本語訳は思いつかないが、要は、大人の社会にさからう不良なのである。自分に正直でありたい、うそつきになりたくないという、純粋であることを求めているだけなのである。
 
だから、日本でいえば、不登校の子や、引きこもりの子の気持ちに似ている。世間の常識にさからっているが、自分のこころに正直であるが、政府には反逆してはいない。
 
私は途中から見たので、映画に気持ちを入れ込むことができなかった。気持ちを入れ込まないと、サリンジャーはわがままな青年としか映らない。
 
サリンジャーは、出版社の人びとに“banana fish”ではだめで、“bananafish”でないといけないと言う。自分の写真を表紙にするなと言う。マーケテイング(販売活動)をしなくてもよいと言う。
 
サリンジャーは、町でチンピラに因縁をつけられたとき、自分は「帰還兵」であると言うが、結局殴られる。
 
サリンジャーは町ではじめてあった青年に、「どうして、自分のことをこんなに知っているの、自分はホールデンだ」と言われて、いやな思いをする。映画では、その青年の役をチビデブにしているのが、ちょっといただけない。サリンジャーが容姿に偏見をもっているように見える。この青年も主役と同じく、色白の繊細な少年にすべきだった。
 
サリンジャーが、田舎に引きこもったとき、地元の高校生のインタビューを引き受けるが、その高校生が新聞社に記事を売ったことに傷つく。どうして、彼が高校生を信頼したのか映画ではよくわからない。傷つくためには、信頼するステップがいる。直観的に信頼したというのは、映像化が難しい。
 
借りてきた、映画の原作といわれる、ケネス・スラウェンスキーの『サリンジャー 生涯91年の真実』(晶文社)を読んで、はじめて、サリンジャーの気持ちを理解できる。原題は “A Life Raised High”だ。
 
サリンジャーを理解するに2つの要素が必要だ。
 
第1は、両親との関係だ。父親は苦労して成功した食肉業者だ。第2は、第2次世界大戦で防諜員として参戦したことだ。
 
父親は、サリンジャーが実社会に背を向けているのを理解できない。しかし、別に、サリンジャーに暴力をふるうわけではない。サリンジャーも父親の指示にしたがうが、しかたがなくといった態度である。
 
サリンジャーは父の生き方が好きではないが、自分の生き方に確信があったわけではない。なんとなく、作家しかないと追い込まれていく。ただ、素晴らしいものを、こみ上げてくる魂の叫びを文章にしたいと思う。傑作だと思って書いたものが、出版社によって拒否される。お金のために読者に媚びたものが、受理される。
 
出版社は売れるために書き直しを要求する。内容も改め、長さも出版に都合がよいよう短くさせる。書き直しに編者員が加わる。本のタイトルを勝手に変える。
 
これは、現在の日本のマンガ出版業界と同じだ。出版社の方が力をもっており、傲慢になっている。
 
防諜員として第2次世界大戦の参戦も、サリンジャーを理解するカギだ。単に多数の人びとが死んだだけではない。防諜員として、すなわち、より醜い役回りを戦争で行うわけだ。防諜員とは、捕虜を尋問して軍事情報を得るだけでなく、普通の市民をも尋問して、反米的な人間を摘発するわけだ。その結果が相手の死にいたることもあるだろうし、尋問の過程に暴力もあるだろう。
 
サリンジャーが徴兵されたとき、親元を離れ、自活でき、しかも著作に専念できると考えていた。ずいぶん身勝手だが、お坊ちゃんのサリンジャーらしい。確かに、最初は新兵教習所の教師役をもらえた。ところが、サリンジャーがドイツ語やフランス語を話せることが軍上層に気づかれ、1944年のノルマディー上陸作戦から、防諜員としてヨーロッパの最前線に投げ込まれたのだ。
 
だから、サリンジャーは自分を「帰還兵」だ、自分は戦争で変わったのだ、と主張したのである。
 
最後になるが、図書館に行って驚いたのは、以前に野崎孝訳でよんだサリンジャーの著作が、同じ出版社から村上春樹訳ででていることだ。
 
白水社からは、野崎の『ライ麦畑でつかまえて』に代わり、村上の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』が出版されていた。新潮社からは、野崎の『フラニーとゾーイー』に代わり、村上の『フラニーとズーイ』が出版されていた。私の印象では、村上の訳は、文章に緊張感がかけ、失敗のように感じた。英文を読んでいないが、都会の引きこもりの緊張感のある話し方が、サリンジャーの作品にあっていると思う。これも、自分勝手な私のイメージだが。

実刑判決の元農水省事務次官の保釈に納得できない

2019-12-20 21:49:10 | 社会時評

被告の元農林省事務次官が実刑判決だったということは、正当な理由がないのに長男を殺害したと裁判員裁判で判断された、ということである。しかも、被告はまだ上告していない。すなわち、地裁の判決は不当だと意思表示もしていない。したがって、地裁が、保釈請求を棄却したのは、合理的判断といえよう。それなのに、高裁が地裁の判断をくつがえし、保釈を認めたことは、被告の一族かオトモダチが高裁に圧力をかけたとしか、思えない。

引きこもりを抱える私たち老夫婦としては、このような司法の態度が、面倒くさい子どもは親が殺しても構わないという風潮を日本に広めるのでは、と恐れる。

また、全国の引きこもりが、このような司法の態度やそれを容認するメディアに動揺して、うつなどの症状を悪化させないかを、心配する。

何か、長男は法律を犯す行為をしたのか。もし、したとしても、どのような刑罰を下すかは、裁判の場で決めるべきことである。人を殺していけないという市民社会のもっとも基本的な法を犯したのは、元農林省事務次官である。

だいたい、長男は大学入学時から一人暮らしをしていた。その彼がゴミをきちんと出さないからといって、近所迷惑と親元に戻されて、1週間で殺されなければならないとは、理不尽である。

引きこもり親の会に属している私たちからみれば、元事務次官の長男は、少しも大変な引きこもりに見えない。

この元事務次官は、大学の入学からずっと長男を指図し、卒業して就職がないと妻のコネで病院職員として押し込み、アニメの専門学校に入学させ、コミケに出品させている。これは、長男を一人の人間として見ていたならば、してはいけないことである。元事務次官は、長男をふり回していただけである。

親元に帰ってきて、リビングで、「今までの44年の人生はなんだったのか」「父さんは東大を出てていいね」と泣き伏す長男をわざわざ殺すということは、以前から長男を憎んでいたのであって、とっさの殺人ではない。台所まで包丁を取りに行って、殺したのである。

事前に、妻に殺害をほのめかす手紙を渡したり、殺害の刑期や情緒酌量についてネット上で検索したりしたことは、一定の殺意と計画性があったと考えられる。

そして、引きこもりの専門家の小島貴子がいうように、元事務次官は少しも自分の長男に寄り添っていない。世間体から息子を冷たく断罪しているだけである。長男の劣等感を補強しているだけである。

世間体を優先するのも1つの哲学だろう。子どもを突き放すのも1つの哲学だろう。長男より、愚母である妻を優先するのも1つの哲学だろう。しかし、だからといって、子どもを殺すことは一線をこえている。だから、地裁は、懲役6年の実刑を課したのだ。

高裁が、上告もしていない実刑の被告を保釈するとは、司法の信頼性を大きく壊すものである。

[追記]
元農林水産事務次官の弁護人は1審東京地裁の裁判員裁判判決、懲役6年の実刑を不服として、12月25日、控訴した。
いっぽう、東京高裁(青柳勤裁判長)が保釈を認める決定をしたのは12月20日であり、控訴の5日前に はやばやと保釈決定したのは異例である。

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト、カウツキーの『中世の共産主義』

2019-12-19 22:59:09 | 民主主義、共産主義、社会主義

カール・カウツキーの『中世の共産主義』(法政大学出版局)を読みだしてから、1か月を超えている。以前よりも、読めるようになった。ネット上の、Spiegel OnlineのProject Gutenberg-Deでドイツ語の原文も見つけ、無料ダウンロードし、参照している。

私が最初に興味をもっていた、16世紀のドイツの農民戦争、トーマス・ミンツァーの反乱は本書で扱われていないが、15世紀のフス戦争までが、『中世の共産主義』で書かれている。

この『中世の共産主義』は、“Vorläufer des neueren Sozialismus”の第1巻の翻訳で、続く巻に、カウツキーがミンツァーの反乱を書いている。第1巻の翻訳者、栗原佑は『中世の共産主義』の出版の1980年に急死したので、続く巻は日本語に翻訳されていない。そのままになっているのが残念である。

しかし、キリスト教世界で異端として抑え込まれたものが、下層民の反乱で、共産主義のさきがけであったとする、本書のカウツキーの見方に、私もいつの間にか賛同者になっている。

共産制もゲマインシャフト(共同体)も同根だとするが、カウツキーの見方である。

カウツキーは、社会民主主義党(Sozialdemokratische Partei Österreichs)に属していた。この“sozial”という語は英語の“social”にあたり、20世紀初頭の人びとにとって、とても、素晴らしいものに響いたように思える。エンゲルスの『空想から科学へ』の原題は、“Die Entwicklung des Sozialismus von der Utopie zur Wissenschaft”であって、共産主義 “Kommunismus”ではなく、社会主義 “Sozialismus”が使われているのも、このためだ。

当時、社会的(“sozial”)はゲゼルシャフトに対応し、近代市民社会の理念と適合すると考えられていた。カウツキーも、「現代社会」を“der modernen Gesellschaft ”と言っている。

作家トーマス・マンが、1930年のベルリンの講演でドイツ社会民主党(Sozialdemokratische Partei Deutschlands)を擁護し、ナチス、社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparte)をなじったのも理解できる。ナチスが近代市民社会を全否定するものだったからである。

カウツキーの『中世の共産主義』が私にとって読みづらかったのは、プラトンの『国家』の引用からはじまり、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に続いたからだ。私は、自分の理解できないものにすごい抵抗感が先だつ個性をもっている。

このような書き出しをしたのは、カウツキーにとって、『国家』と『ヨハネの黙示録』が中世の共産主義的反乱を理解する鍵であったからだ。

ゲマインシャフト(共同体)がゲマイン(共同所有)という言葉からくると、私はいままで思っていなかった。それに気づくと、『中世の共産主義』が読みやすくなる。

『中世の共産主義』で「妻と子どもの共有」という言葉が何度もあらわれる。これは、原文の“die Gemeinschaft der Weiber und Kinder”を栗原がそう訳したのである。ゲマインシャフトを「共有」と訳したのだ。

人のモノは自分のもの、自分のものは人のモノという人間関係が、「共同体」である、とカウツキーは考えるのだ。

(現在、NPOで働いていると、子どもが私的所有制のルールを理解しない、と悩む親がいる。私も、中学生になっても、人のモノ、自分のものという区別ができなかった。私有制とは自明な概念でない。)

近代の「社会主義」は生産手段の共有を主張し、中世の「共産主義」は消費の共有を主張するものだと、カウツキーは考えている。

「妻と子どもの共有」というと女性の蔑視と捉えられるが、「家族の廃止(die Aufhebung der Familie)のことである。

初期キリスト教の共同体を再生しようという運動が中世に何度も起きるのだが、異端として鎮圧されてしまうか、みずから腐敗してしまう。モノの共同所有が相続という慣習によって壊されてしまう。相続とは、仲間より、自分の妻や子供を優先するからである。運動のリーダーは、当然、家族の廃止という概念にいたる。

これに対するカウツキーの価値判断は、私にはまだ読み取れない。しかし、中世の「共産主義」を弾圧する側にとって、単婚を守らない、家族の廃止を主張することは、弾圧する側にとって、「不道徳」と攻撃する口実となった、と、カウツキーは書く。

福音書では、イエスに従うものが、みんなで食事をするという光景がよく出てくる。

私の子ども時代、戦後の日本社会でも、小商店や職人の職場では、従業員は雇用主の家族といっしょに同じものを食べるのが普通であった。また、倍賞千恵子が証言しているように、外猫のように、子どもが他人の家のちゃぶ台に座って食事にあずかることは少なくなかった。

私の考えていた共同体とはその程度のものであったが、中世の共産主義とは、『マタイ福音書』に言うようにすべてを捨てて、イエスにまねることである。

戦後の日本のように、社会が豊かになれば、共同所有のいうのは難しくなる。それが腐敗なのか、仕方がないことなのか、簡単には言えない。しかし、資本主義社会だから、勝者が弱者を切り捨ててあたりまえ、という発言を耳にするとそれは違うだろうと言いたくなる。

近代社会は、私有財産や家族制を否定しないが、助け合って生きることを前提としている。家父長制を否定し、家族の一員の自由を尊重し、結婚しない生き方、競争しない生き方も認めている。

(もっとも、私は家屋の共同所有に賛成だから、賃貸の集合住宅に住んでいる。)

しかし、勝者が弱者を切り捨ててあたりまえという発言が出てくると、学校教育が競争社会、格差社会の洗脳機関になっているのではないか、と思ってしまう。競争したって誰も得をしない。得をするのは、競争させる権力者側でしかない。

殺された息子に寄り添う証人がいないまま結審した元事務次官の裁判

2019-12-17 19:55:15 | 社会時評

元農林水産省事務次官の息子殺害の件に、ようやく、まともなコメンテーターがメディア上にあらわれた。きょうのテレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』での小島貴子のコメントに賛同する。殺された息子の気持ちにそっての発言である。

本件で、「発達障害」は関係ない。「ひきこもり」という話しでもない。息子が親に暴力をふるったという話しである。そして、それを息子の殺害によって父親が解決しようとした話である。

12月17日の朝日新聞の記事、
〈殺された長男は発達障害の一つ、アスペルガー症候群の疑いと診断され、片付けなどが苦手な特性があった。〉
は意味不明である。

まず、精神科医は「アスペルガー症候群の疑い」と言っただけである。「…の疑い」とは、医師が診断をつけられる確証を得られないのに、親などが診断名を強要すると、苦し紛れに使う便法である。診断基準(Diagnostic Criteria)を満たしていないことを「疑い」という。

(なお、「アスペルガー症候群」という診断名は、6年前に出版された米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5の診断名からはずされた。)

さらに言うと、「片付けなどが苦手」は、べつに、「アスペルガー症候群」とは関係ないことである。

精神科医にかぎらず、いろいろな子どもに接する仕事をしていれば、平均的でない子どもに接すると、奇妙だと感じる。平均的でないことは別に悪いことではない。個性だとして、受け入れればよいだけである。

朝日新聞はつづけてつぎのように書く。
〈熊沢被告が「ごみ捨てなんて基本的なこと」「迷惑かけないでくれ」などと責めた点について、証言に立った主治医から「症状に合わせた対応ができていない」との指摘もあった。〉

「症状に合わせた対応ができていない」とは、被告が息子の個性に合わせた対応ができていない、と対応のまずさを指摘したわけだ。私からみれば、主治医は被告にそのまずさを普段から指摘していたかが、気になる。

これには、2つの解釈が成り立つ。1つは、主治医は明確にいったのに、被告夫婦は聞く耳を持たなかった。人間は自分に落ち度があると思っていないから、はっきり言われても記憶に残らない。

もう1つは、殺害事件が起きて、新聞記事などをみて、あるいは法廷に立って、はじめて主治医が気づいたのかもしれない。精神科医は、本人や家族の証言をもとに判断するのだが、本人や家族は とりつくろって本当のことを言わない。その上、精神科医は多数の患者をみていて忙しいから、気づかないことが多い。これが、主治医の「相談してくれれば」という発言になる。

朝日新聞は続いてつぎのように書く。
〈法廷では熊沢被告に妻や後輩らが同情する証言をした一方で、長男の思いを代弁する証人は現れなかった。妻は「アスペルガーに生んでしまって申し訳ない」、熊沢被告は就職の失敗について「もっと才能があれば」。〉

「アスペルガー症候群の疑い」が、ここでは、「アスペルガーに生んでしまって申し訳ない」になっている。「アスペルガー症候群」であって何が悪い。とっても腹が立つ発言である。被告は、さらに「もっと才能があれば」と息子を見くだす。才能なんてべつに必要でない。

朝日新聞はつぎのように締めくくる。
〈哀れむような言葉はあっても、命を絶ったことへの謝罪はなかった。〉

だからこそ、殺された息子の気持ちにそった小島貴子のコメントが出てきたことが、本件でとてもだいじなのだ。そうでないと、扱いにくい困った息子を殺すことが正当化される社会になる。

検察は証人に小島貴子を呼べば良かった。

多くの引きこもりと異なり、この息子は親の指示に良く従っている。従った結果、殺されたのである。

引きこもりとは、典型的には、親の家の自分の部屋に閉じこもり、親とのコンタクトを避ける。そうでなくて、この息子は大学入学時から一人暮らしをしている。18歳のとき、統合失調症と診断されたというが、統合失調症の患者を一人暮らしさせるとは、精神科医療に関係している者からは信じられない話である。

たぶん、自分に暴力をふるったことから、母親が自宅から息子を追い出したのであろう。そして、息子は、父親だけに頼っていた可能性がある。被告はこの点に関して世間体からウソをついていると思われる。

しかし、父親は、いつまでたっても指図するだけで、共感しない。距離を保った人間関係を作るよう努力したという。それは1つの哲学、すなわち、人生の選択である。しかし、その結果、息子を殺害とは、被告の哲学が、弱者の切り捨てであったことを示す。

事件の1週間前に一人暮らしの息子が戻ってきて、息子からのはじめての暴力に「体に震えがくるほど恐怖心」をもったという。「震えがくるほど」は、ウソではないと思う。恐怖心とは、自分ではコントロールできないものである。ところが、数日後、恐怖心で、わざわざ、台所に包丁をとりにいって、それで息子を刺すというのは、前もって殺害を計画していたからである。

殺害日の前に、息子の殺害をほのめかす手紙を被告が妻に渡したのは、息子より妻を選択したという告白であり、このとき、妻は警察に相談すべきであった。結局、息子より妻を愛していたわけだが、私の人生経験からいって、子どもを見捨てるのは珍しいことではない。

事件を担当した検察官が、判決の後、退廷する被告に激励するような声をかけたという。元事務次官の選択を模倣するものが現れないように、断罪するのが検察官の仕事ではないか。