元農林水産省事務次官の息子殺害の件に、ようやく、まともなコメンテーターがメディア上にあらわれた。きょうのテレビ朝日の『羽鳥慎一モーニングショー』での小島貴子のコメントに賛同する。殺された息子の気持ちにそっての発言である。
本件で、「発達障害」は関係ない。「ひきこもり」という話しでもない。息子が親に暴力をふるったという話しである。そして、それを息子の殺害によって父親が解決しようとした話である。
12月17日の朝日新聞の記事、
〈殺された長男は発達障害の一つ、アスペルガー症候群の疑いと診断され、片付けなどが苦手な特性があった。〉
は意味不明である。
まず、精神科医は「アスペルガー症候群の疑い」と言っただけである。「…の疑い」とは、医師が診断をつけられる確証を得られないのに、親などが診断名を強要すると、苦し紛れに使う便法である。診断基準(Diagnostic Criteria)を満たしていないことを「疑い」という。
(なお、「アスペルガー症候群」という診断名は、6年前に出版された米国精神医学会の診断マニュアルDSM-5の診断名からはずされた。)
さらに言うと、「片付けなどが苦手」は、べつに、「アスペルガー症候群」とは関係ないことである。
精神科医にかぎらず、いろいろな子どもに接する仕事をしていれば、平均的でない子どもに接すると、奇妙だと感じる。平均的でないことは別に悪いことではない。個性だとして、受け入れればよいだけである。
朝日新聞はつづけてつぎのように書く。
〈熊沢被告が「ごみ捨てなんて基本的なこと」「迷惑かけないでくれ」などと責めた点について、証言に立った主治医から「症状に合わせた対応ができていない」との指摘もあった。〉
「症状に合わせた対応ができていない」とは、被告が息子の個性に合わせた対応ができていない、と対応のまずさを指摘したわけだ。私からみれば、主治医は被告にそのまずさを普段から指摘していたかが、気になる。
これには、2つの解釈が成り立つ。1つは、主治医は明確にいったのに、被告夫婦は聞く耳を持たなかった。人間は自分に落ち度があると思っていないから、はっきり言われても記憶に残らない。
もう1つは、殺害事件が起きて、新聞記事などをみて、あるいは法廷に立って、はじめて主治医が気づいたのかもしれない。精神科医は、本人や家族の証言をもとに判断するのだが、本人や家族は とりつくろって本当のことを言わない。その上、精神科医は多数の患者をみていて忙しいから、気づかないことが多い。これが、主治医の「相談してくれれば」という発言になる。
朝日新聞は続いてつぎのように書く。
〈法廷では熊沢被告に妻や後輩らが同情する証言をした一方で、長男の思いを代弁する証人は現れなかった。妻は「アスペルガーに生んでしまって申し訳ない」、熊沢被告は就職の失敗について「もっと才能があれば」。〉
「アスペルガー症候群の疑い」が、ここでは、「アスペルガーに生んでしまって申し訳ない」になっている。「アスペルガー症候群」であって何が悪い。とっても腹が立つ発言である。被告は、さらに「もっと才能があれば」と息子を見くだす。才能なんてべつに必要でない。
朝日新聞はつぎのように締めくくる。
〈哀れむような言葉はあっても、命を絶ったことへの謝罪はなかった。〉
だからこそ、殺された息子の気持ちにそった小島貴子のコメントが出てきたことが、本件でとてもだいじなのだ。そうでないと、扱いにくい困った息子を殺すことが正当化される社会になる。
検察は証人に小島貴子を呼べば良かった。
多くの引きこもりと異なり、この息子は親の指示に良く従っている。従った結果、殺されたのである。
引きこもりとは、典型的には、親の家の自分の部屋に閉じこもり、親とのコンタクトを避ける。そうでなくて、この息子は大学入学時から一人暮らしをしている。18歳のとき、統合失調症と診断されたというが、統合失調症の患者を一人暮らしさせるとは、精神科医療に関係している者からは信じられない話である。
たぶん、自分に暴力をふるったことから、母親が自宅から息子を追い出したのであろう。そして、息子は、父親だけに頼っていた可能性がある。被告はこの点に関して世間体からウソをついていると思われる。
しかし、父親は、いつまでたっても指図するだけで、共感しない。距離を保った人間関係を作るよう努力したという。それは1つの哲学、すなわち、人生の選択である。しかし、その結果、息子を殺害とは、被告の哲学が、弱者の切り捨てであったことを示す。
事件の1週間前に一人暮らしの息子が戻ってきて、息子からのはじめての暴力に「体に震えがくるほど恐怖心」をもったという。「震えがくるほど」は、ウソではないと思う。恐怖心とは、自分ではコントロールできないものである。ところが、数日後、恐怖心で、わざわざ、台所に包丁をとりにいって、それで息子を刺すというのは、前もって殺害を計画していたからである。
殺害日の前に、息子の殺害をほのめかす手紙を被告が妻に渡したのは、息子より妻を選択したという告白であり、このとき、妻は警察に相談すべきであった。結局、息子より妻を愛していたわけだが、私の人生経験からいって、子どもを見捨てるのは珍しいことではない。
事件を担当した検察官が、判決の後、退廷する被告に激励するような声をかけたという。元事務次官の選択を模倣するものが現れないように、断罪するのが検察官の仕事ではないか。