NPOで私の担当する子どもに、ウソをつくと閻魔大王様に舌を抜かれる、だからウソをついていけないと言う高校生がいる。私もついムキになって閻魔様はいないのだと言ってしまう。
しかし、その子も懲りずに、閻魔様はどうやって舌を抜くのか、グーグルで検索している。そんなもの見つかるはずはないのに。
私も大人気がない。信教の自由があるのだから、閻魔様の存在を、サンタクロースと同じく、信じても良いだろう。
でも、神様が見ているから、お天道(てんと)様が見ているから、閻魔様が見ているから、何々してはいけない、何々しなければならない、と言われると、私は不安になってしまう。
もし、神様がいなかったら、お天道様がいなかったら、閻魔様がいなかったら、この子はいったいどういう行動をとるのかと思うからである。
実際、この子にとって、閻魔様だけでなく、母親も いまだに絶対的なのだ。自分の行為、例えば、知らない人の家の玄関のベルを押したこと、バスが止まらない先に席を立ったこと、などを母親に知られることを、非常に恐れている。
倫理的規範や社会的規範に従う理由が、誰かが言ったからとか、世間様の目が怖いとか、超自然的権威が命令したからとか、であってはならない、自分の意思として選択すべき問題と私は考える。
姜尚中が『悪の力』(集英社新書)のどこかで、最も激しい悪に陥る者は神に最も近づいて絶望した者であると書いていたが、これも他の権威に頼るからそんなことになるのだ。
神様を信じなければ、神様を恨むこともない。恨んで悪に走る必要もない。
どう生きるのが良いかは、結局、自分の選択である。
元々はユングのタイプ論に対して批判しているサイトを探している時にこちらのブログを拝見しました。入念な言葉の定義や科学的判断による客観性に富んだ考察に惹かれ、他の記事を読ませて頂いたところ、私の理想とする思想家に出会えたことに気付き、感動しました。
その豊富な経験や思想を可能な限り享受したいです。健康にお過ごしくださることを願っております。