猫じじいのブログ

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「ギフテッド教育」は子どもと対等の立場で好奇心や論理的思考に寄り添うこと

2022-04-09 23:43:47 | 教育を考える

きょうの朝日新聞33面に『89歳 憂える「ギフテッド教育」 戦争のため 選ばれた「特別科学教育」』の記事があった。伊藤和生の署名入り記事である。

記事そのものは、日米戦争末期、理数系のできる子どもたち(小学校4~6年と中学校1~4年)を集めて、英才教育を行ったということである。この記事を読んだだけでは、その意図はわかりにくかったので、朝日新聞のギフテッド教育の記事をこの1年にさかのぼってネット上で調べた。ほとんどの記事で伊藤和生の署名がみえる。ただ、有料会員記事に分類されているので、途中までしか読めない。その範囲で、私は、つぎのようなことが言いたいのではないか、と推量する。

政府は、日本の科学技術の遅れを取り戻すため、「ギフテッド教育」の名のもとに、選抜された子どもたちに、科学技術の英才教育を行いたい。文科省が有識者会議を組織したところ、「ギフテッドとは定義できるのか」「選抜は子どもたちの間に差別を生む」との声が出た。

今回の伊藤の記事も、戦争末期の「英才教育」を例に出し、政府の安易な英才教育をたしなめるものだと思う。ただし、ちょっと力不足の記事かなとも思う。

文科省の有識者会議は、昨年12月17日に、「何らかの特定の基準によって才能を定義し、定義にあてはまる児童生徒のみを『特異な才能のある』と扱うことは行わない」「選抜した子に特定のプログラムを提供することは子どもをラベル付けすることになりかねない」と論点整理をし、今後「才能があっても学校になじめず困っている子への支援を中心に議論する」ことになったという。

非常にまともな論点整理で私も賛成する。

今年1月20日の小林香織の記事『「ギフテッド・チルドレン」突出した能力と複雑な個性 寄り添い伸ばす支援とは』は、論点がわかりやすい。

小林の記事は、「ギフテッド」とされる子どもたちに、

  • 論理的な説明を求め、理由に納得できないと指示に従うことができない
  • 同年代の友達と話が合わず、友達ができにくく、孤独感を抱えている

という共通の特徴があると、指摘している。学校の教師たちや親たちはこれをキチンと受けとめて、寄り添った対応をして欲しいと私は思う。

「ギフテッド」は、平均的な子どもたちと違って、単に能力に凸凹があるということにすぎない。個性があるということだから、いいことである。ところが、困ったことに、能力に凸凹があると、現在、「発達障害」と診断される。親たちはその診断名に動揺してしまう。

そういう親たちを「ギフテッド」の名のもとに商売の糧にする人たちが出てきている。そして、学校まで作って、テレビで宣伝しまくる。朝日新聞の伊藤に、その実態を暴いて欲しい。「ギフテッド」の子どもたちは英才教育を求めているのではなく、共感して欲しいのである。

私はNPOで、学校教育で救いきれない、あるいは、救いきれなかった子どもたちの相手を、している。

日本の現状では、多くの大人や子どもは、権威に逆らうと生きていくのが困難になると思いこんでいる。そのためか、親や教師は、論理的に考える子どもに暴力を振るうか無視するかである。周りの子どもたちもそういう大人たちをみて、その子をいじめるようになる。

私が思うに、みんな同じだと、同じものを食べよようとして一部の食べ物の値段が上がり、同じ職業に就こうとして激しい就職競争が起きる。みんなに個性があれば、争わずに、社会的平等が実現できる。

だから、好き嫌いがあって、能力に個性があることは、とっても良いことで、それを伸ばす教育を家庭でも学校でもすればよい。文科省は、教科書検定を廃止し、学習指導要領を破棄すればよい。日本国憲法のいうように、学びたければどこまでも自由に学べばよい。

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