「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

沢村さんの沖縄通信・・・「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

2016-12-07 | 沢村さんの沖縄通信

「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

  「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」と題した講演会が11月20日、糸満市の農村環境改善センターで開かれた。主催は、NPO法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会。

 万次郎は1851年、アメリカから帰るにあたって、琉球国大渡浜(旧摩文仁間切小渡浜)に上陸した。その上陸地に記念碑を建設しようと活動する同期成会は、会長の上原昭氏が今年6月の糸満市長選挙で当選し、記念碑建設の機運が盛り上がっている。

 講演会では、市長である上原会長が主催者あいさつした。

 第1部の基調講演では、高知県出身の万次郎研究者、北代淳二氏が「万次郎と咸臨丸―秘められた歴史貢献」と題して講演した。

 北代氏は、咸臨丸は1860年(万延元年)、最初の遣米使節団が乗った米軍艦ポーハタン号の随行船として太平洋を渡った。万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとともに通弁主務として乗船したこと。しかし、ホワイトハウスでの日米修好通商条約の批准書の交換式には万次郎は出ていない。それは、万次郎が帰国し幕府に呼び出されたが、水戸の徳川斉昭が万次郎はアメリカに恩義があり通訳につけるとアメリカのためにならないことは言わないのでは、と主張し、ペリーとの交渉の際、出席させなかった。万次郎の情報や知識は尊重しながら、要注意人物と見られたことが最後までつきまとったとのべた。

 咸臨丸は「日本開闢以来初の大事業」とされ、勝や福沢は、外国人の手を借りずアメリカに行ったのは「日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ」(勝著『氷川清話』)とのべているが、それは事実ではないと指摘した。

 咸臨丸には、99人の日本人と米海軍の命令でジョン・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗員が航路案内役として乗船した。1960年に「ブルック大尉の日記」が公になり、咸臨丸の真実が明らかになった。そこでは「万次郎はこれまで会った中で最も素晴らしい男の一人だ。彼が日本の開国にほかの誰よりも大きく関心を持っていた」とのべている。

 北代氏は、咸臨丸の船上は、「日米異文化交流の実験場で、命を懸けた共同作業だった。日米双方のコミュニケーションが万次郎の重要な役割だった。日米の理解が深まった」とのべた。

 その後、勝は江戸城無血開城、福沢は啓蒙学者として名をなしたが、「万次郎は通訳という黒子の仕事をして、帰国後も歴史の表舞台に出ることなく、自分の果たした役割を語ることなく歴史の舞台から去って行った」とのべた。

 第2部では、北代氏のコーディネーターのもと、パネリストとしてジョン万次郎研究家の當眞嗣吉氏、糸満市教育委員会総務部長の神谷良昌氏、万次郎研究家の長田亮一氏、糸満市長の上原昭氏が報告した。

 

ジョン万次郎 に関する記事 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

 沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記


沢村さんの沖縄通信・・・亀島靖氏が講演、沖縄ジョン万次郎会講演会

2016-10-21 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄ジョン万次郎会講演会開かれる、亀島靖氏が講演

 第11回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月24日午後、沖縄県豊見城市社会福祉協議会ホールで開かれた。劇作家で著名な琉球歴史研究者の亀島靖氏が講演し、聴衆で会場はいっぱいとなり、万次郎に対する関心の高まりを示した。

 講演会は、赤嶺光秀会長が挨拶、宜保晴毅市長ら来賓が挨拶した。オープニングで、市内豊崎小学校の愛唱歌「未來への扉~ジョン万次郎からのメッセージ」(2014年度6年生一同が作詞・作曲、嶺井るみ先生が編曲)と歌手の三田りょうさんが歌う「ジョン万次郎の歌~忘れはしない胆心(ちむぐくる)」が紹介された。

 亀島氏は「琉球歴史の謎とロマン~日本の夜明けに貢献したジョン万次郎と牧志朝忠~」と題して講演した。亀島氏は5つのキーワード「黒潮」「クジラ」「牧志朝忠」「明治維新(島津斉彬)」「産業革命」を軸に話した。

 万次郎が漁船で遭難した当時は異常気象で、通常は北に流れる黒潮が南下し蛇行していたため万次郎らは助かったという。黒潮の三大動物の一つがクジラで、当時のアメリカは捕鯨が重要産業であり、鎖国していた日本に捕鯨船が寄港できるように日本に開港させるためペリーが派遣され、琉球に先に来たこと。琉球が異国の人も来るものは拒まず迎える精神をもっていることをイギリスから琉球に来たバジル・ホールの航海記を読んで知っていたとのべた。

 万次郎は、ペリーの来る前年、琉球に上陸したが、鎖国の日本に上陸すれば打ち首にされるかもしれない最悪の事態を想定し、一番上陸しやすい国として琉球に来たが、バジル・ホールの本を読んでいたと思われる。万次郎は、「ABCの歌」をはじめて日本に紹介し、初めてネクタイをし、初めて蒸気船に乗り、初めて近代的な捕鯨術を習得した日本人でもあるとのべた。

 ペリーの来琉のさい対応した牧志朝忠(まきしちょうちゅう)は北京に留学して中国語、ロシア語、英語も学び語学の才能があり首里王府の外交を担当していた。万次郎が滞在したさい、世界の情報や本も提供された朝忠はペリーに会ったさい、「アメリカは一農民が選挙で国王になれる」と話し、ペリーは琉球の役人がジョージ・ワシントンのことを知っていることに驚いたという。

 ペリーは、「これから日本に向かうが幕府が敵対すれば艦砲射撃で江戸を焼け野原にするつもりだ」と朝忠に話したので、朝忠はすぐ那覇にある薩摩藩の出先機関である在番奉行所に伝え、早船、急便で情報が広島にいた島津斉彬に知らされ、すぐ幕府に伝えたので、幕府はペリー艦隊が来てもお台場で砲撃をしないで迎えることになったという。

 当時の琉球は中国から国王として認証される冊封(さっぽう)を受けたが、中国は琉球を支配する国とは見ていない。琉球は中国の属国ではなかった。琉球から毎年7名、7年間の留学生を受け入れ国費で学ばせるなど、とても厚遇した。その背景に火薬の原料となる琉球の硫黄が欲しかったことがあるとのべた。
 亀島氏は、RBCラジオ「おもため歴史ゼミナール」で毎日話しているだけに、とてもわかりやすく面白い内容の講演だった。

 

 

ジョン万次郎 に関する記事 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

 沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記


琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く・・・竹内經氏が講演

2015-05-24 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信・・・

琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く

                    竹内經氏が講演

 

沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月23日、豊見城市の市社会福祉協議会で開かれた。

総会では、9月12日に第4回ジョン万次郎サミットin沖縄&沖縄ジョン万次郎講演会を開くなど今年度の事業計画案など議案を採択した。 

総会後には「美ら島沖縄大使」をつとめる竹内經氏(静岡県出身)が「琉球と土佐、その深い縁その歴史を紐解く」と題して講演した。

 竹内氏は、1851年に琉球の小渡浜(現糸満市)に上陸した万次郎らが、那覇への護送が中止され、豊見城・翁長(オナガ)村に留め置かれたのはなぜか、その背景について次のようにのべた。

 富山藩が北前船で運んできた昆布を大坂堺の海産物問屋には卸さず、極秘に薩摩藩へ横流し、見返りに高価な「唐薬種」(中国渡来の薬)を薩摩藩から手に入れようとした。薩摩藩は当時、長崎しか許されていなかった「唐薬種」を秘密裏に琉球を介して昆布と引き換え富山にさばくことを企んだ。「唐薬種」は富山藩で和薬と調合され和漢薬として全国に広まった。抜け荷として運ばれてきた昆布は、中国へ輸出された。

 秘密裏に取り引きされていた<昆布と唐薬種>の交易の現場を万次郎らに知られたくなかったのが翁長村留め置きの理由の一つであろう。

また、イギリスの宣教師・ベッテルハイムと万次郎らとの接触を懸念していたこともある。

 万次郎らが7か月もの長期に留め置かれたのはなぜか。

 万次郎が上陸する前年の1850年、琉球から江戸に向かう「江戸上り」(99人)の一行が、江戸を発ったのは12月22日。琉球への帰還は翌年4月13日と見られる。万次郎たちの薩摩への護送は当初6月14日出立だったのが、急きょ1か月延期された。薩摩から帰った船を修理して護送船にしたのではないか。

万次郎たちは7月11日、翁長村を出立し、同月18日、ようやく大聖丸で薩摩へ向かった。護送が遅れたのも、船の調達そのものの裏事情がからんでいたとも推理できる。

 護送船の手配を含めて、王府側が多忙を極めていたことも、護送日程がずれ込んだ要因の可能性が高い。

 琉球王府が万次郎ら土佐漂着民に配慮した思惑について、次のようにのべた。

 琉球人が乗った船が時化に遭い、黒潮にのって土佐沖に漂着した記録が18世紀に少なくても3回ある。1705年に80人(滞在5か月間)、1762年に50人(2か月間)、1795年に31人(逗留日数不明)が保護され滞在した。

 滞在期間の諸経費は現在の貨幣に換算して合計3億円に近いと考えられる。

 琉球人が土佐に漂着して保護されたことへの恩義を詠んだ琉歌がある。1762年 長嶺筑登之(チクドゥン)の琉歌である。

「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることは出来ません)。

 土佐の万次郎たち3人を7か月間保護した琉球王府の支出した経費はどのくらいだったのか。資料がない。

琉球王府と土佐藩の“貸し借り”、恩、絆、縁(エニシ)の所以がここに見出すことができる。琉球王府は、万次郎たちの漂着の報を受けて、昔、受けた土佐藩への恩義、丁重なる持て成し、気遣いを優先させたことはいうまでもない。

 9月のジョン万サミットin沖縄と併せて開かれる「第10回沖縄ジョン万次郎講演会」では、高知で発行されている「土佐史談 中濱万次郎特集号」に沖縄から執筆した神谷良昌、當眞嗣吉両氏が講演することになっている。

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記


沢村さんの沖縄通信 目次

2015-03-28 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信 目次

 

沢村さんの沖縄通信・・・「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

沢村さんの沖縄通信・・・亀島靖氏が講演、沖縄ジョン万次郎会講演会

琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く・・・竹内經氏が講演

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

 沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

 沢村さんの沖縄通信・・・沖縄ジョン万次郎会が講演会  

 沢村さんの沖縄通信・・・「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心~」が、ユーチューブに

 沢村さんの沖縄通信・・・夏の真夜中に咲く幻想的な花、サガリバナがいま満開です

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・高知人が作った「平城山」を聴く  

沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

沖縄ジョン万次郎会の新年会に招かれる

 

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その10)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その11)

 

 

元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎

元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎、その2 

沢村さんの沖縄通信・・・沖縄に「ジョン万焼」登場

沢村さんの沖縄通信・・・沖縄の市場の歳末風景

沢村さんの沖縄通信・・・佐川町出身・黒岩恒さんの顕彰碑を見ました

沢村さんの沖縄通信・・・糸満ハーレー
沖縄通信・・・「ヒージャーオーラセ」(闘山羊)
沖縄通信・・・華やかに一万人のエイサー踊り隊
沖縄通信・・・サガリバナ
沖縄通信・・・那覇ハーリー
沖縄通信・・・ジョン万カップ少年野球交流大会

沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒  追記
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その4
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その3
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その2
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その1

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎記念碑
沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の記念碑を建立する計画が!
沖縄で愛される中浜万次郎 その6・・・明治維新、自由民権運動にも影響が
沖縄で愛される中浜万次郎 その5・・・万次郎から勉強した島津斉彬
沖縄で愛される中浜万次郎 その4
沖縄で愛される中浜万次郎 その3・・・琉球で綱曳きにも参加した
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その2
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その1

沖縄通信・・その7 高知県出身の依光年恵さん、108歳の茶寿祝う
沖縄通信・・・その6    ついでに、花だより

沖縄通信その5・・・ 沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その4・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その3・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その2・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その1・・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

ジョン万次郎 に関する記事

「高知ファンクラブ」での 連載もの

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ  記事一覧はこちらから

 


沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

2015-03-28 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

糸満市米須に住む和田達雄さん(越裏門出身)の案内で、ジョン万次郎が初めて琉球に上陸した地を歩きました。和田さんは、ここに万次郎上陸の地の記念碑を建立しようと、期成会副会長として活躍している方です。 2015/03/27 (金) 沖縄 沢村                                                                                

ジョン万次郎がアメリカから帰国する際、上陸したことで知られる沖縄・糸満市の大渡海岸を歩いた。今回は、ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長の和田達雄さんが案内をしてくれた。和田さんは、高知県出身で近くの米須に住んでいる。記念碑建立に情熱を注いでいる方である。

 大渡海岸は、いまダイビングやシュノーケリングの適地として、県内外から人々が集まる。この日も、朝からアメリカ人を含めてダイビングやサーフィンを楽しむ人たちが駆けつけていた。大度海岸は「万次郎ビーチ」とも呼ばれている。

 写真は、大度海岸

 和田さんは、「ジョン万次郎の琉球上陸、半年の足あと」を文章にまとめ、「下船から上陸までの経緯」「上陸小渡浜から翁長村への道順」を、写真や図を使ってわかりやすくA3用紙2枚に図解している。パネルにして近くの「海の見えるレストラン」に展示もしている。写真は、展示されているパネル。

 

万次郎(23)と伝蔵(47)、五右衛門(25)の3人は、ハワイから商船サラボイド号に乗船して琉球の喜屋武(キャン)岬沖まで来て下船し、小型ボート・アドベンチャー号を降ろした。雨と霙(ミゾレ)混じりの寒い荒海の中、10時間近く漕ぎ、大渡海岸沖の干瀬(ヒシ)の浅瀬に着き、一夜を過ごした。翌朝、ヒルクイエ(海水温が急に凍え死んだ魚)を捕りに来た村人に出会う。異様な容姿に驚いて逃げてしまったが、一人の若者が話しかけてきて、「ここは琉球の摩文仁間切(マブニマギリ、いまの町村)」と応える。「どこから来たのか」と尋ね、漂流して異国で10年過ごし帰国する旨を話すと、安心したのか「ここから東によい船着き場があるので、そこへ回りなさい」と教えてくれた。3人は広い海岸の東端にある小渡浜に無事上陸した。

1851年2月2日(旧暦正月2日)のことだった。

 

 数年前に、大渡海岸を見た時は、漠然と広い砂浜の中央部にでも万次郎は上陸したのかと勝手に思っていたが、まったく違っていた。

 ちょうど潮が引き、浅瀬の岩場が海面から出て来た。駐車場から岩場に降りて、イノー(礁池)の上を上陸地の浜に向って歩いていった。途中に、海岸沿いに岩石が連なっている。動物の姿に似た奇岩がある。和田さんは、そんな岩を見つけては命名してきた。

「ふくろう岩」「ゴリラ岩」「シ―サー岩」「ライオン岩」「カメレオン岩」。中でも「鷲の親小岩」(写真)はとてもよく似ている。自然の岩とは思えないほどの造形美である。

潮が引くと、イノーの中に、青い熱帯魚がたくさん泳いでいる。水際の岩場から、湧水が流れているところもある。足を滑らせないように注意しながら岩場を回っていくと、小渡浜に着いた。

 

 小渡浜は、小さな入り江になっていて、東側は崖がそそり立っている。昔は山原船(ヤンバルセン、本島北部の物産を運搬した小型帆船)が入ったそうだ。浜には下部がえぐられた巨岩も立っている。浜の西側、岩石が連なっている中に、ポッカリと岩の割れ目が見える。写真は小渡浜を案内する和田達雄さん。

 

 「この割れ目から万次郎は中に入ったんだよ」と和田さん。身体を斜めにして、少しかがみながら割れ目をすり抜けた。私も後に続いたが本当に狭い。割れ目から入ると、周囲が岩に囲まれた砂地があり、ちょっとした広間のようになっている。万次郎らは、身の保全と食事をとるため安全な場所を探した。ここで朝食をとりコーヒーを飲んだのではないか、和田さんは説明する。

 

 「高知県の地図があるよ」と近くの岩を指差した。言われれば空洞部分が高知県の姿に似ている。こんな岩を見て「高知県に似ている」などど、喜んでいるのは、2人とも高知出身だからだ。沖縄に来るまでは、縁もゆかりもなかった高知人2人が、沖縄の地で万次郎の上陸地に立っていること自体が、不思議な偶然である。写真は、高知県地図に似た岩の空洞。

 小渡浜の東側の岩崖の下部が少し窪んでガマのようになっている。「あそこは岩が黒くなっているでしょう。あれは米軍の火炎放射器で焼かれた跡だよ」と和田さんが説明する。見ると、本当に岩が黒く焼けただれたようになっている。写真は焼かれて黒くなった岩。

沖縄戦で米軍の進攻を受け、首里から撤退した第32軍は摩文仁に司令部を置いた。摩文仁に近いこの大渡海岸は、追い詰められた住民らが逃げ惑った場所でもある。ちょっとしたガマにも避難し、海岸沿いの湧水もすくって喉を潤しただろう。

このあたりは、摩文仁には平和祈念公園と「平和の礎(イシジ)」があり、米須には「ひめゆりの塔」がある。沖縄戦の悲劇がどこにも刻まれている地である。

 

 大渡海岸を訪れる人は、年々増えているようだが、万次郎の上陸地の足跡を示すものはこの場所にはない。「万次郎ビーチ」と呼ばれても、その意味を伝えるものもない。写真は万次郎上陸地の小渡浜。

ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会は「万次郎上陸の歴史的価値を後世に伝え」、万次郎が鎖国日本の開国に貢献し、「琉球の夜明けはもとより日本の夜明けが、ここ大渡浜から始まったことを明らかにする」(同趣意書)ために、記念碑建立が必要だと主張している。

まだ建立は具体化されていないが、その前に当面「ジョン万次郎上陸之地」の看板を5、6月にも設置したいと準備を進めているそうだ。

 

万次郎らは、小渡浜に上陸したあと、2人の役人に連れられて米須村にあった摩文仁番所(役所)に向かった。万次郎らが通った昔の宿道(公道)を和田さんが案内してくれた。

万次郎ら一行は、岩崖を上がり宿道に出て、小渡村に向い急な坂のニンブイビラ(ヒラとは坂道のこと)を通り小渡村の元家(ムートゥヤー、村落の本家)、玉城家に寄り挨拶をして、お茶をいただき小休止する。そして、カテーラビラを上り番所で待機した。ちょうど昼時になり、近所の村人がたくさん出迎え、温かいふかしイモや差し入れをいただいた。

玉城家のあった場所や摩文仁番所跡は、いまは建物もなく、説明してもらわなければわからないままだった。摩文仁番所が、摩文仁ではなく、米須にあったことも説明を聞いてわかった。写真は、小渡浜から翁長村までの道順を示すパネル。

 

万次郎ら3人は、王府から派遣された役人2人の簡単な取り調べを終えて、午後4時過ぎ、徒歩で那覇に向かう。途中だんだん暗くなり、松明(タイマツ)に火をともして歩き続けて、小禄番所(現在は那覇市)にやっと着いた。

その後、垣花のガジャンビラの近くまで来たところ、那覇から来た役人の指示があり、豊見城間切翁長(オナガ)村に行くように伝えられる。その理由は、イギリスから宣教師として派遣され、那覇にいたベッテルハイムが活動していて、3人と会わせるのはまずいとの薩摩藩の役人の判断があった。那覇から離れた翁長村に向かう。

歩き疲れたため、役人の配慮で籠を用意してもらい翁長村に到着すると真夜中になっていたが、夜明けまで取り調べを受けた。その後、徳門家(屋号・トクジョウ)の高安親雲上(ペーチン、琉球士族の称号の一つ)の母家を借りた。写真は、万次郎が滞在した当時の高安家の家屋敷と思われる風景を復元した絵。

 

以後、旧暦7月11日、翁長村を離れるまで、半年間にわたり翁長村に滞在することになる。

竹の柵で母家の周囲をかこみ、薩摩役人5人と王府の役人3人が交代で監視した。食事は、琉球王府より調理人3人が派遣され、米飯に豚、鶏、魚肉や島豆腐、野菜などを使った琉球料理を毎日食した。時には王府から泡盛が送られもてなしがされた。

琉球王府のもてなしの背景には、次のような事情があったと考えられる。

1705年7月、琉球の進貢船が中国の福州からの帰りに遭難して、土佐清水の清水浦に入り4か月間滞留した。その間、進貢船の使節通訳官である奥間親雲上はじめ役人、乗組員82人が土佐藩の世話を受け、現地で病死した1人は地元の連光寺境内の墓地に墓碑も建立され丁寧に祀られた。帰国の際、土佐藩主は絵画、掛物、陶器などを琉球に贈り、船員には多量の食糧品を送った。琉球王府にとって、土佐で介護してくれた土佐藩に対する返礼の機会でもあった。

万次郎ら3人はその後、同7月18日、那覇港を出港し薩摩の山川港に向かった。

以上の万次郎らの琉球上陸と半年の経緯は、和田達雄氏の執筆した「ジョン・万次郎の琉球上陸 半年の足あと」からの抜粋、要約である。

 

土木遺産に認定された「用之助港」

大渡海岸には、「用之助港」と呼ばれる港跡がある。和田達雄さんが案内してくれた。万次郎とは無関係である。

白い砂浜の沖合は、珊瑚礁が広がり、その外縁に環礁があって、舟は入れない。そのため、環礁を掘削して舟が入れるようにしたのがこの港跡だ。明治40年に完成した。当時佐賀県から沖縄にきて島尻郡長を務めていた第11代齊藤用之介が、漁業振興のため掘削させた。「大渡の用之助港」は「珊瑚礁に囲まれた沖縄ならではの土木遺産として価値が高い」として、2009年に「土木学会推奨土木遺産」に認定された。写真は「用之助港」。

実際に現場を指揮した蒲助の名を取り「蒲助港」という別名がある。

「 用之助港」の近くに、岩が3個かある。2014年7月6日の台風8号によって海底から陸揚げされた。和田さんは、万次郎らが最初にボートで漂着したことにちなんで、「伝蔵岩」「万次郎岩」「五右衛門岩」と3人の名前をつけている。

写真は、和田さんが3人の名前を付けた岩。

沖縄の南部を回る機会があれば、ジョン万次郎がアメリカから帰国し、最初に上陸したこの地を訪ねて、万次郎を想起してほしい。

 

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


沢村さんの沖縄通信・・・「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心~」が、ユーチューブに

2013-08-04 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄は、連日35度の猛暑続きで、もう2カ月近くまともな雨がないので、サトウキビや農産物に被害が出てきています。久米島など離島では、月末には断水が予想されてます。石垣は山が高いので水はあるようです。雨乞いをしなければいけないこの頃です。

                                      沢村

 

このブログでも紹介した「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心~」が、ユーチューブにアップされている。是非、一度聴いてみてほしい。

(こちらからどうぞ!)

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=rI9oJXu5cA4

 

歌っているのは、三田りょうさん。フォーク調の歌で、歌詞には、万次郎の生涯が凝縮されて歌われている。

「ジョン万次郎の歌 忘れはしない~肝心(いむぐくる)~」

 歌 三田りょう 作曲 かでかる さとし 日高博作詞

1、土佐の男は「いごっそう」、黒潮育ちの万次郎。
  
 14の時に海に出て 嵐に遭って流されて
 助けられたが捕鯨船 自由あふれるアメリカへ。

2、ジョン万と呼ばれ、学ぶ日々、首席で卒業、万次郎。
 七つの海をめぐりつつ 瞼にうかぶは、土佐の母。
 あふれる知識を身につけて、ふるさと帰ると決めたのさ

3、 鎖国ニッポンそれならば、琉球めざす万次郎。
 アレに見えるは糸満の、白波上げる小渡(うどぅ)の浜。
 ふるさと離れて10年目、たどり着いたは豊見城(とみぐすく)。

4、島の人々優しくて、ここでも人気の万次郎。
 
 三線の音(ね)に誘われて、夜が明けるまで、毛遊(もーあし)び。
 ここも俺のふるさとよ、忘れはしない、肝心(ちむぐくる)。

5、坂本龍馬も驚いた、スゴイ男よ万次郎。
 アメリカ帰りのあの男 世界のすべてを知っている。
 幕末動乱、夜明け前 時代がお前を待っていた。

  新しい ニッポンの礎(いしずえ)築いた 万次郎。
 その名は中濱万次郎。

注・「毛遊び」とは、野原で夜、若者たちが歌三線、踊りで遊ぶこと。

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


沢村さんの沖縄通信・・・夏の真夜中に咲く幻想的な花、サガリバナがいま満開です

2013-06-27 | 沢村さんの沖縄通信

 沢村さんの沖縄通信・・・夏の真夜中に咲く幻想的な花、サガリバナがいま満開です

夏の真夜中に咲く幻想的な花、サガリバナがいま満開です。6月中旬の梅雨明けから7月にかけ咲きます。前に一度、アップしていただきましたが、今回は、一度にたくさんのサガリバナが咲いていたので、紹介します。

 那覇市の首里城の東にあたる首里鳥掘町の街路樹として、サガリバナの並木があります。大きな花の木から、数え切れないほどのつるが長く垂れ下がっています。太陽が沈み、夜が更けると、花を開かせます。

朝太陽が昇ると、花はすべて散り落ちます。一輪の花は一夜だけの命ですが、毎夜次々に、つるが伸び、つぼみが開き、花開かせます。


 あまりに花が多くて、まるで綿か雪が降るようです。甘い香りが付近一帯にただよい、圧倒されそうです。


和名はサワフジ。熱帯、亜熱帯の湿地に自生し、奄美諸島から南に咲く花。いかにも南島らしい華麗な花です。

                    沖縄 沢村

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

2013-05-04 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

 

「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~」ができました。沖縄フォーク歌手、かでかるさとしさん作曲、作詞 日高博で、歌うのは、歌手の三田りょうさん。三田さんは、東京出身の歌手ですが、沖縄によく来て、RBCラジオで番組ももっており、ファンが多い人です。
 CDは「高杉晋作の歌~ああ青春奇兵隊~」とカップリング。

万次郎の人と歩みを簡潔にまとめたような歌詞です。曲調は、フォーク調でとても歌いやすい曲です。三田さんは、もともとはフォークソングを歌っていた人だそうです。

 

 

「ジョン万次郎の歌 忘れはしない~肝心(いむぐくる)~」

 歌 三田りょう 作曲 かでかる さとし 日高博作詞

 

1、土佐の男は「いごっそう」、黒潮育ちの万次郎。
14の時に海に出て 嵐に遭って流されて
助けられたが捕鯨船 自由あふれるアメリカへ。

2、ジョン万と呼ばれ、学ぶ日々、首席で卒業、万次郎。
七つの海をめぐりつつ 瞼にうかぶは、土佐の母。
あふれる知識を身につけて、ふるさと帰ると決めたのさ

3、 鎖国ニッポンそれならば、琉球めざす万次郎。
アレに見えるは糸満の、白波上げる小渡(うどぅ)の浜。
ふるさと離れて10年目、たどり着いたは豊見城(とみぐすく)。

4、島の人々優しくて、ここでも人気の万次郎。
三線の音(ね)に誘われて、夜が明けるまで、毛遊(もーあし)び。

ここも俺のふるさとよ、忘れはしない、肝心(ちむぐくる)。

5、坂本龍馬も驚いた、スゴイ男よ万次郎。
アメリカ帰りのあの男 世界のすべてを知っている。
幕末動乱、夜明け前 時代がお前を待っていた。


新しい ニッポンの礎(いしずえ)築いた 万次郎。
その名は中濱万次郎。

 

 沖縄では、2013年7月7日に、「とみぐすくカラオケサークル仲間達結成20周年」の集いで「三田りょう新曲発表会」も兼ねて披露されます。豊見城のカラオケサークル仲間達の会長さんは、沖縄ジョン万次郎会の事務局長でもあり、そんなつながりで、カラオケサークルの集いと新曲の発表会を兼ねています。 

 すでに県内では、RBCラジオの「団塊花盛り」などの番組で新曲が流されています。カラオケDAМでも、配信されています。

 

                       沖縄 沢村

 

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沢村昭洋さんの沖縄通信・・・高知人が作った「平城山」を聴く 

2012-08-28 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・高知人が作った「平城山」を聴く 

「ギター伴奏によるテナーの調べ」と題するコンサートが、那覇市の沖縄都ホテルの「虹のチャペル」で開かれ、聴きに行った。毎月、首里にある小さなホールのコンサートで顔なじみの糸数剛さんと奥さんの秀子さんが出演するからだった。

008_2

糸数さんは、もとは高校教師だが、声楽を学んだテナー歌手。同時にギターも練習し、自分でギター伴奏をしながら歌えるという珍しい歌手である。

019

拍手に迎えられて入ってきた。「宵待草」をはじめ11曲を歌ったが、その中に高知出身の2人が作詞、作曲した「平城山(ナラヤマ)」があった。

022

 

歌ったのは、妻の秀子さん。楽曲紹介で「平城山は高知県出身の二人の作詞、作曲による曲です」とあった。高知県出身の私も、学生時代に聞いたけれど、もう忘れたのか、初耳だった。

歌詞を紹介する。訳は自己流である。

 1、人恋ふは 悲しきものと 平城山に もとほり来つつ たえがたかりき
  (人を恋するのは哀しいもの 平城山に めぐってきたが 耐えがたいことだ)

 2、古へも 夫(ツマ)に恋ひつつ 越へしとふ 平城山の路に 涙おとしめ
  (古い時代にも 夫を恋して 越えてきたという 平城山の路に いま涙を落している)

027

歌詞は、宿毛市に生まれた北見志保子(1885-1955年)が大正9年(1920)に詠んだ短歌である。奈良県の平城山の丘陵にある磐之姫陵(イワノヒメリョウ)の周辺をさまよったさいに詠んだ連作の一つ。歌には、この当時の彼女の思いが込められている。
 志保子は歌人の橋田東声と結婚したが、弟子で12歳年下の浜忠次郎と恋に落ちた。いわば不倫の恋。志保子と浜を引き離すため、親族が浜をフランスに留学させたという。しかし、その後、彼女は夫と離婚し、浜への愛をつらぬき再婚したとのこと。
 磐之媛というのは、仁徳天皇の皇后だった。それが、紀州に旅に出ている間に、仁徳天皇は八田姫を迎えたので怒って筒城宮に帰ってしまった、という。
 そんな磐之媛の夫への思いと哀しみに、自分を重ねて詠んだのだろう。

017

作曲は、平井康三郎(1910-2002年)。伊野町生れである。東京音楽学校バイオリン科に学び、作曲や合唱指導者として活動した。名曲「平城山」のほかに「スキー」「ゆりかご」「お江戸日本橋」など多くの童謡も作曲していることで知られる。
(注・ネットの「二木紘三のうた物語」など参考にさせていただいた)。
 「平城山」はもう何回となく聞いたけれど、こんなに生々しい恋心が込められた歌謡だとは思わなかった。秀子さんがソプラノで美しく歌い上げた。
 糸数さんは、息子さんのお嫁さんが高知県出身だとか。高知にも行ったことがある、と高知との縁を話していた。糸数さんは、「平城山」を歌うにあたって、高知出身の22人によって、作られたことを知り、コンサートでもわざわざ丁寧に紹介した。高知への思いが感じられた。

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

2012-05-30 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月27日、沖縄県豊見城市の社会福祉センターで開かれて、初めて出席しました。万次郎会は、私がブログにアップしてある「沖縄で愛される中浜万次郎」を書いた縁で、同会の新年会に招かれ、賛助会員にもしていただきました。
 総会は立派な議案書が作られていて、事業報告と計画、決算報告と予算案まで、しっかりと報告、提案され承認されました。報告の中に、私たち夫婦が新年会に高知県出身のゲストとして招待されたことも記されています。

 002

 

総会には、琉球に上陸した万次郎が、半年間滞在した同市翁長(おなが)の高安家5代目当主の高安亀平さん、豊見城市長らも出席された。
 これからの行事予定では、万次郎会が後援する「今こそジョン万次郎の勇気と努力に学びましょう」の講演会(6月9日)や久高島探訪の研修(7月)、シンポジウム(8月)、文化講演会(9月)の開催、そして土佐清水市で開かれるジョン万祭(10月)、万次郎忌の集い(東京、11月)への参加も予定されています。 結成20年を超えて、ますます旺盛な活動を進めている様子がうかがえます。

 006

 

 総会の後は、ジョン万次郎研究家の神谷良昌氏が「ジョン万次郎と牧志朝忠とベッテルハイムの遭遇」と題して講演しました。プロジェクターを使い、新しく見つかった史料、エピソードを盛り込みながら、とても分かりやすく興味深い講演で、参加者を魅了  しました。

                                     

絵は万次郎がアドベンチャー号で琉球に上陸しようとする場面。神谷氏の原案、儀間比呂志さんの絵による絵本『琉球に上陸したジョン万次郎』から。

008

 

写真は、万次郎が琉球で半年間滞在した高安家。家の前に建つ衝立のようなものは、沖縄の家には必ずあったヒンプン。万次郎は、外に出る時はこの1㍍20㌢の高さのあるヒンプンを飛び越えて行ったそうだ。

009

6月ウマチー(祭り)の大綱曳きの模様。万次郎も参加した。万次郎は、わずかな滞在の間に、ウチナーグチ(沖縄語)を覚えて、冗談もウチナーグチで話すほどだったとのこと。

 004

神谷さんによると、万次郎が琉球の大度海岸に上陸したさい、聴取にあたったのが当時、首里王府で異国通事と外務次官のような役職にあった牧志朝忠だった。朝忠は、万次郎からアメリカの政治制度、一般の国民から大統領が選挙で選ばれ、任期は4年、大統領をおりれば一般の国民に戻ることなど詳しく聞いた。万次郎が上陸したさい、アドベンチャー号に積んでいた数冊の本の中で、初代大統領のジョージ・ワシントンについて書かれたものを、朝忠はとても読みたかったので、夜通し本を筆写して、まだ終わらないので借りて読んだという。
 その後、ペリーが琉球に来た際、通訳にあたった朝忠は、ペリーの部下が琉球に不当なことを要求したが、朝忠は、ジョージワシントンを生んだ国でこんな不当なことを押しつけていいのか、とただした。米側は、琉球のような小さな島で、ジョージ・ワシントンのことを詳しく知っているのに驚いて、ペリーに報告し、要求を取り下げた。
 万次郎が朝忠にもこんな大きな影響を与えていたことなども、神谷氏は話しました。
ベッテルハイムとは当時、イギリスから琉球に来ていた宣教師で、薩摩藩と王府は、万次郎がベッテルハイムと接触するのを恐れて、那覇市に連れて行こうとした万次郎を、隣りの豊見城市で一番遠い翁長に戻して留置いたとのことでした。

また、坂本竜馬がつくった亀山社中は日本で初めての株式会社だけれど、これは万次郎が伝えたアメリカの政治や社会の仕組みなどの情報を知って、竜馬がつくったものだったと話していました。

 013

会には糸満市からも初めて5人が参加しました(上写真)。というのは、万次郎が上陸した糸満市の大度海岸に、万次郎がこの地に上陸したことを示す記念碑を建立する計画があるそうです。出席者の一人は、なんと高知市の出身で大度海岸近くの米須に住んでいるとのこと。新たな高知出身者が現れ、私も挨拶を交わしました。

 講演の後は、懇親会。ちょうど私の隣に座った男性は、兵庫県から豊見城市に移住してきたばかりで、万次郎会のことを知って初めて参加したとのこと。万次郎ファンが増えていることは嬉しい。

 懇親会では、カラオケも置かれて、大城光盛会長を始め自慢ののどを披露しました。
 私も余興を予想して三線を持参。ツレと二人で、戦後、捕虜収容所のあった名護市の二見(ふたみ)の思い出を歌った民謡「二見情話」を歌いました。
 一節ごとに拍手をいただき、ありがたかったです。高知出身なのに歌三線で沖縄民謡を歌ったので、ビックリという感じ。「上手でしたよ」「二見情話はいい曲ですよね」「私もいま練習しているところですよ」と何人も声をかけてくれました。2人とも舞台に上がったので、残念ながら写真はありません。

  

 

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沖縄ジョン万次郎会の新年会に招かれる

2012-05-30 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄ジョン万次郎会の名嘉真和彦事務局長と昨年末、偶然知り合いになった。それが縁でこの同会「20周年記念誌」を送っていただき、私も「沖縄で愛される中浜万次郎」と題する拙文を送った。 

         062

 沖縄ジョン万次郎会の新年会に光栄にも、夫婦でお招きをいただいた。会場は、万次郎の記念碑が建てられた翁長共同利用施設である。公民館のように使われている建物だ。建物のすぐ裏手に万次郎が滞在した高安家がある。

047  

会長の大城光盛さん、前会長で顧問の大城盛昌さん、副会長の大城恵子さん、与那覇正文さん、そして万次郎が半年間滞在した高安家の5代目当主の高安亀平さんらを紹介され、挨拶を交わした。万次郎会の活動のことは知っていたが、まさかこんな形でお招きされて、みなさんとお会いできるとは、夢にも思わなかった。

053 

写真は左から大城会長、大城顧問、高安さんである。高安亀平さんは、5代目当主となる。昭和4年(1929)生れなので、1827年生れの万次郎とは102歳違い。ことし数え年で85歳になるそうだ。とても元気そうだ。それぞれが万次郎についてのエピソードを話してくれた。
 万次郎は、琉球の大度浜海岸に上陸して、この豊見城村の翁長集落に来た。高安家に滞在したが、ここにきて1週間でもう外に出て、村の住民と交流し、方言も覚えたという。スゴイ言語力だ。沖縄の古い家は、家に入る正面に衝立のようなヒンプンがある。万次郎はこのヒンプンを飛び越えて外に出ていたという。
 銅像の写真は「沖縄ジョン万次郎会結成20周年記念誌」から。

Img086_2  

このとき万次郎はまだ25歳の青年だから、身も軽い。
 翁長の万次郎記念碑(写真下)向うに道路が少し広くなっている。ここは馬場だったという。馬場で、昔から綱引きが行われ、万次郎も参加したことが伝えられる。綱引きは、「6月ウマチー」という旧暦6月のお祭りと旧暦8月15夜の満月の2回行われる。私の拙文では8月15夜の綱引きに参加したと書いたが、その時は万次郎はもう翁長にはいなくて、6月ウマチーの綱引きに参加したとのことだった。拙文を読んだ大城会長が指摘してくれた。

055 綱引きは、東(アガリ)と西(イリ)に分かれて引く。万次郎がいた高安家は東方だった。この時の綱引きでは、東が勝ったので、万次郎が加わったので東が勝ったのでは、といわれたそうだ。

 まだ高安家を訪問したことがないので、そのうち一度、訪ねてみたい。

 

 新年会は、那覇市のホテルからシェフが来て出張料理をするという豪勢なものだった。料理とお酒をいただくと、余興が始まった。

 事務局長の名嘉真さんは、とみぐすくカラオケサークル仲間達の会長さんでもある。ジョン万会にはカラオケがつきものとなっている。2月には謝恩ステージカラオケ交流歌謡祭を那覇市内で開催することにもなっている。

 新年会には、この歌謡祭に出演する皆さんも参加して、舞台で次々に自慢のノドを披露してくれた。

 もちろん、大城会長(左)、名嘉真事務局長(右)も最初に歌ってくれた。050

 051 名嘉真さんは、「とみぐすく万次郎音頭」という歌の作詞もされて、記念碑の横には、この歌を紹介する案内板も建てられている。

 

 

 

 

 

 村田英雄の曲に「あゝ万次郎」056 という歌があり、舞台でカラオケサークルのメンバーが歌ってくれた。初めて聴いた。

「♪怒涛逆巻く足摺岬 海で育ったいごっそう 父は亡くとも泣くもんか 負けるもんかの男の気概 土佐は清水の快男子 あゝ中の浜万次郎」(一番)

「♪目には手ぬぐい押しあてながら 逢えて嬉しと泣いた母 十と一年十カ月 苦労かけたとお袋さんに わびる男の目に涙 あゝ中の浜万次郎」(三番)

 こんな歌詞である。なかなか勇ましく、勢いのある歌だ。賀川幸星作詞作曲である。

058  

わがツレも舞台で「愛の賛歌」をカラオケサークルの人のように、伴奏音楽のテープを用意していないので、アカペラで熱唱した。

 最後に高安亀兵さんと記念撮影をさせてもらった。

060

 

  

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記

 


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その11)

2012-02-07 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その11)

恩納村恩納区の湧水

「琉歌の里」で売り出している恩納村(オンナソン)のなかでも、番所(役所)があった恩納区を歩いた。琉歌の二大歌人の一人、恩納ナビーの生誕の地の碑があるそばに、石造りの湧水「カンジャガー」があった。
 古くから恩納区の人々の生活に欠かせない井泉である。産井(ウブガー)として利用されたという。 

産井は、産湯に使う水を汲む井戸のことをいう。沖縄では、井戸水は、産湯から始まり死に水に至るまで人々の暮らしと深く結びついている。 

琉球王府の時代から、正月の村拝みのときは、村の有志が揃ってヌン(神女)殿内(ドゥンチ)、マータンカー、赤平家とともに、この井泉のカンジャガーを拝む習わしがいまも続いているという。いずれも、祈願の対象になるような由緒ある場所なのだろう。


カンジャガーは鉄柵で囲われている。中を見るときれいな水を湛えていた。いまは使われないが、そのままでは危ないので鉄柵で囲っているのだろう。


那覇市の小禄方面の湧水


字小禄の樋川


 那覇空港に近い那覇市南部の小禄(オロク)地区。1954年に那覇市に合併されるまでは、小禄村だった。いくつかの地域から成り立っている。その中でも、字小禄は、昔は番所(役所)もあった小禄の中心地である。歩いて回ると、昔からの風景が残る。
 小高い山の上に森口公園がある。上がって行くと広場に出た。なんと、そこはやたら御嶽(ウタキ、拝所)がたくさんある。多いのは門中(ムンチュウ、男系の血縁集団)の拝所だ。「東門(アガリジョウ)門中」、「沢岻(タクシ)門中」などの小さい拝所が点在している。「思い門中」という、変わった碑もある。




森口公園を降りてきた。
 地域の案内図を見ると、ヒージャーがあるはずだ。でも地元の人に尋ねても、どうしても分からなかった。


小禄を通った機会に、もう一度、探してみようと、地図にある場所に車で行った。すると、道路わきにひっそりと碑が立っていた(上左)。ヒーザーガー跡(後原=クシバル=ヒージャー小)という。
 小禄の村ガー(共同井戸)の一つである。いまは樋から水は出ていない(上右)。でも最近までけっこう水が出ていたという。樋の左横に小さな拝所がある。


沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その10)

2012-02-07 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その10)



与那原町の親川
かつては沖縄北部から生活物資などを運ぶ「山原(ヤンバル)船」が着く港町として、にぎわった与那原(ヨナバル)町の中心地を歩いた。戦前は軽便鉄道も走っていた。昔からの商店街は、狭い通りで、やたら一方通行が多い。でも、街のあちこちに、古くからの拝所などあり、民俗を知るのには面白い。
 首里に近い与那原は、琉球王朝の時代、国王が聖地・久高島の参詣や王府の神女の最高位だった聞得大君(キコエオオキミ)の即位式である御新下り(オアラオリ)の際、首里を出て通るのが与那原だった。それで由緒ある拝所がある。また与那原は、伝統ある大綱曳きが有名である。大綱曳資料館もある。
                    
資料館のそばに「親川(ウェエガア)」があった。天地開闢(カイビャク)の昔、天降りした天女が出産の産場としたという神話に発して、国王、聞得大君が首里を出て最初の拝所とし、休憩の用水を献じた所と伝えられる。 一見すると井泉には見えない。立派な拝所の建物である。中に何を祀っているのか、のぞいてみると、まさしく水の湧き出る「カー」だった。


川と書いても、大和で言う川ではなく井戸である。住民にとって水は命である。ここは井戸そのものが、もう拝所になっているようだ。井戸にこんな立派な建物があるのは初めてだ。それだけ、由緒があり、人々の篤い信仰の対象なのだろう。聞得大君は、この親川の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫」の儀礼がされたと伝えられている。




中城城址の井戸

世界遺産に登録されている沖縄各地のグスク(城)を歩くと、見事な石積みの城壁がそびえる城址には、必ずいくつもの拝所とともに井泉がある。井泉がなければ、戦えないからだ。それにしても、どこの城跡も小高い山上にあるのに、湧水がある。不思議なほどである。かつて琉球に来たアメリカのペリー艦隊の一行も訪れたことで知られる中城(ナカグスク)城跡(右)には、二か所の井戸があった。



写真の大井戸(ウフグヮー)は、この階段を下りた低い位置にある。グスク自体が、標高約160㍍の高地にあるのに、よく湧水があるものだと感心する。

                   大井戸は、頂上からいえば少し下がった場所になる。だから高いところに降った雨が、ここで湧水となって出てくるのだろう。
 もう一つ夫婦井戸(ミートゥガー)という井戸もあり、城内に2つの井戸を確保していた。戦のことを考えれば、城内での水源の確保は必須の要件だったのだろう。

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)



宜野湾市森の川


宜野湾市には、森の川(ムイヌカー)と呼ばれる由緒ある泉がある。
                   森川公園になっている。石積みが見事な泉である。この辺りは湧水がとても多いところだ。水源は、この公園の北側の高台に広がる米軍普天間基地だ。水路から、こんこんと水が流れている(左)。その昔、この森の川に、奥間大親が来たところ、天女が水浴びをしていたので、木にかけていた衣を隠した。困った天女を家に連れて帰った。
一男一女が生れ、その子・察度(サット)は後に、中山国の王に就いた。まだ琉球が統一される前である。だから、森の川は羽衣伝説の地として知られる。
察度王は、当時の明国に朝貢し、中山国王として任命してもらう冊封(サッポウ)関係を結んだことで知られる。
 この水路の奥に、実は円形の石積みの囲われた空間がある。この日は、シルバー人材センターのおじさんたちが、清掃をしていた。何か、誇りを持って丁寧に清掃していた。



                         
「ここは囲われているから、水浴びをする場所だっただろうね」と説明してくれた。左写真では、残念ながら円形が見えない。上から見ると見事な円形である。「沖縄戦で壊されたのですか?」と聞くと「いや、少し壊れたところは、白い石で復旧してあるが、他はほとんどは壊れずに残ったので、昔からの石積みですよ」という。

 
 沖縄のあちこちで、城跡をはじめ石積みの遺跡をみるが、ほとんど壊されて、戦後に復元させたものだ。でもここはよくぞ残ったものだ。なぜだろうか?



                                               多分、日本軍が陣地を造っていたのは、宜野湾でももっと南に当たる嘉数高台から那覇にかけての高地だった。だから、読谷近辺に上陸した米軍は、嘉数高台までは、日本軍の抵抗をほとんど受けず、一気に進軍した。この付近は素通りしたので、壊されずに残ったようだ。おじさんに尋ねると「そのようですよ」と肯定していた。 左の絵は、昔の住民か水場を利用していた風景である。

「この辺りはカー(泉)が多いので、戦前は那覇にも導管で送っていた。この北側にも、ここよりもっと大きいカーがあるよ」という。「エッ、もっと大きいんですか! その場所って、ひょっとして普天間基地の中じゃないですか」と言うと、「そうそう、基地の中だから、自治会でカギ借りないと入れないよ」「そうですか、じゃあ、カーで何か行事のある時は、カギを開けて入るわけですね」「そうそう」。おじさんは、こともなげに話す。

 この泉の隣には、これまた由緒ある「西森御嶽(ニシムイ ウタキ)」がある。神聖な拝所である。碑もあり、その前に石門が造られている(下)。琉球王国の時代、由緒ある拝所の前には門を造っていた。門の中は神聖な森である。他には何もない。

 


 琉球王国の尚清王につながる向氏伊江家の人々が、18世紀に森の川の石積みと石門を建てたそうである。普天間基地の中には、昔からの御嶽もある。お墓もある。カー(泉)もある。一日も早く、基地が閉鎖、返還されれば、自由に出入りできるだろう。
 由緒ある井泉を見て歩いても、米軍基地問題に突き当たる。それが沖縄である。


沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)



宜野湾市の喜友名泉


米軍普天間基地のある宜野湾市には、たくさん湧水の名所がある。その一つに、「喜友名泉」がある。喜友名はいまの読み方は「キユナ」だが、この湧水は方言読みで「チュンナーガー」と呼ぶ。
 この湧水は、なんと米軍の「キャンプ瑞慶覽(ズケラン)」の中にある。でも、住民にとって生活用水としてなくてはならない泉で、由緒ある湧水である。だから、基地の中でも、金網は住民が立ち入れるように仕切られている。でも勝手には入れない。市教育委員会文化課に連絡すれば、鍵を開けてくれた。『ぎのわんの文化財』の冊子もいただいた 。


 
那覇から国道58号線を北上し、伊佐の交差点から普天間デイゴ通りに入るとすぐに、左側に「喜友名泉」が見える。入口からして立派だ。入り口にもすでに石造りの碑川が作られ、水が流れ出ている。現在でも喜友名泉は、ポンプアップして、簡易水道として、畑の散水などに使われている。

 

厳重なアメリカ式のカギを開けてもらい、金網の中に入ると、坂道を降りて行く。石畳の道もある。見えてきた、見えてきた。昔からの湧水らしいとても雰囲気のある泉である。普通、湧水は「井戸(カー)」や「樋川(ヒージャー)」という名前が多いが、ここは「泉」の字を使っている。  
 二つの井泉がある。左側の泉を「イキガガー」と呼ぶ。「イキガ」とは男性を意味し「男の泉」。右側の「カーグヮー」は「イナグガー」と呼ぶ。「イナグ」とは女性なので「女の泉」を意味する。


 
 左写真は「イナグガー」である。イナグガーの正面の壁には、なんと3か所も湧水口がある。湧水口の上には、庇(ヒサシ)がついている。おもに、日々の飲料水や洗濯によく利用されたという。「イナグ」の名がついたのは、水汲みや洗濯などは主に女性が担っていたので、女が使う泉として名付けられたのではないだろうか。


名前の由来は、冊子にも書いていない。私の推測である。
 湧水口の前に、長い机のようなものが二つある。もしかして、これに腰をかけて洗濯などするために置いたのではないだろうか。湧水口とは反対側の壁際には、石造りの棚のような形のものが置かれているこれは何のためだろうか? やはり、水を汲んだカメや桶、洗った野菜、洗濯物など置くためだろうか。わざわざ窪みがある。考えられるのはそんな用途である。ちなみに、左側の「男の泉」には、こんなものは何もない。




 「イナグガー」の左側に、石積みで仕切られた三角形の空間がある。これはなんだろうか? 
 後から出てくる宜野湾市の「森の川」を見たとき、円形の石積みで仕切られた場所があった。それは水浴びをするためだった。こちらの三角形の場所も衝立で仕切った形なので、水浴びをしたのかもしれない。でも、仕切っても天井はないので、周りから丸見えである。だから違うのかもしれない。まだ謎である。

「イキガガー」(男の泉)は、左側の壁と正面の壁の2か所に湧水口がある。あとは何も置かれたものはない。


こちらの泉は、の節々の拝み(祈願)や正月の「若水」(ワカミジ)汲み、子どもが生まれた時の「産水」(ウブミジ)、人が亡くなった時の「死水」(シニミジ)など人生の折り目の時に使われたそうだ。
 もう一つ別名がある。「ウマアミシガー」と言う。つまり牛馬の水浴びに使われたという。これは男の仕事だっただろう。でも、拝みは女性が担うのが普通である。

 この泉はいつ造られたのか? 右の「イナグガー」に置かれた香炉は、明治22年(1889)の奉寄進で、この年に新造ないし修造されたと考えられている。それほど古くない。左の「イキガガー」は、もっと古い感じがする。
 「喜友名泉の水源利用の開始及びウフガーの築造年代は、湧泉の周辺に生えている樹齢数百年のアコウ大木から推測されます」(『ぎのわんの文化財』)と言う。築造がいつか断定していないが、琉球王府時代からのものであることが推測される。


 この湧水は、喜友名の集落からは、相当低い位置にある。集落から泉に来るのに、急勾配の石畳の坂道が約100㍍も続く。高低差が25㍍もあるという。昔は、飲料水など水汲みは、主に女性の仕事にされていた。それで、水汲みがきついので、喜友名には、他のからお嫁さんのきてがなかったという。その半面、水汲みをするためか、喜友名の嫁さんは「働き者」という評判だったそうである。


 でもやはり、喜友名の娘さんたちの朝夕の願いは、カービラ(泉に降りる坂道)が少しでも低くなるように願ったそうである。
住民の中でも、いまでも御願(ウガン、祈願)に来る人がいるのだろうか、金網の外側にお線香を焚いた残りがあった。たぶん、金網の中に入りたかったけれど、鍵が閉まっていたので入れず、金網の外で御願をしたのだろう。これも米軍基地の中に、由緒ある泉があるがためである。
 この喜友名地区は、南側は広大な普天間基地があり、北側はキャンプ瑞慶覽がある。米軍基地にサンドイッチされたような住宅街なのである。
 基地の中には、住民が古くから利用してきたこういう湧水や拝所、お墓などがある。なぜ、わが郷土の由緒ある場所が外国基地として占拠されているのか。鍵で開けてもらわないと入れないのか。理不尽さを痛感する泉である。


沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記