「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

2011-02-19 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

天保8年(1837)4月17日、土佐藩馬廻格 
   乾永六の長男として高知城下中島町に生れた。
 少年時代から学問よりも相撲や闘犬などの勝負事を好み、
   士格青年の社団組織「盛組」の中心人物として
   乱暴を働き処分を受けている。
 安政2年(1855)には1年間江戸勤番を勤めるが、安政
   3年8月には総領職没収、城下四ヵ村禁足という重い
   処分を受けて、3年間城西神田村で生活したこともある。
 万延元年(1860)父の死去により、知行を50石削られて
   220石で家督を継ぎ、時の仕置役 吉田東洋の
   推薦を受けて藩政に携わり、騎兵術、蘭式兵学を学んだ。
 慶応4年(1868)の戊辰戦争には東山道先鋒総督府参謀
   として出征、その功績により、版籍奉還後は高知藩
   山内豊範の補佐役大参事となった。
 のち明治政府の参議となったが、明治6年征韓論に敗れて
   西郷隆盛らとともに辞任した。
 翌7年1月、同志とともに「愛国公党」を結成、民選議院
   設立の建言を政府に提出、高知に帰って片岡健吉らと
   立志社を設立して自由民権運動を展開した。
 明治15年4月6日、自由党総理として遊説中、岐阜で
   暴漢に刺されたとき、血まみれの中で口にした「板垣
   死すとも自由は死せず」の一言が新聞その他で報道
   され、この言葉が自由民権運動の合言葉になると
   ともに、彼は一躍自由民権運動の英雄となった。
 同年11月から7ヵ月にわたる欧州視察にあたっては、
   その旅費の出所に疑惑が生じ、党内に亀裂を生じる
   など、彼らの運動も曲折を重ねたが、明治22年の
   憲法発布、翌年の国会開設への道を切り開いた。
 その後、板垣は伊藤博文内閣の内務大臣などの要職に
   つくも、明治33年引退後は社会改良運動に尽くした。
 大正8年死亡 83歳。 あぞのに分骨堂がある。

板垣は角刀道振興にも力を尽くし、国技館の名付け親とも
   言われるほどで、記念角刀興行をし、純益15,797円
   が寄贈され、またそれ以外に募金が33,000円に上り
   大正13年銅像が建設されたが、戦時中供出された。

     除 幕: 昭和31年5月11日
     題 字: 板垣退助先生像
     規 模: 本体~2,2 ㍍  台座~4,205 ㍍
           総高~6,405 ㍍
                      事業費: 250万円

 

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界6

2011-02-19 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界6

04~臨済宗妙心寺派「青源寺」

 開山したのは慶長8年(1603)創建。1766年再建。
 掛川・長蓮寺の高僧だった丈林宗規が、戦国大名、
 山内一豊や重臣である深尾重良と交わりが深く、
 静観の地 佐川を好んで青源寺を開いた。
 深尾家の菩提寺となる。
 この高僧は特に天皇が許す僧衣に紫の衣があり、
 紫衣僧(しえそう)として人々から尊敬されている。
 青源寺は代々紫衣僧の高僧、名僧を輩出している。 

 02~名教館の玄関

 安永元年(1772)佐川藩主、深尾氏が土居邸内に家塾
 として、「名教館」を創設、のちに藩校として士分の教育に
 資した。1830年東元町に広大な校舎を建設、以来幕末
 まで数多くの人材を育成し、佐川郡の文運を高めた。
 明治2年、版籍奉還により「佐川小学校」と改名し、
 中本町に佐川尋常小学校としての校舎の建築、
 玄関を移設した。 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町編

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

2011-02-19 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

 

09~竹村家住宅  国指定重要文化財

 東の店舗部分は230年、西の客間は170年前のもの。
 幕府の巡検使を迎えた程の格式の高い住宅で、
 高知城「懐徳館」と同様の貼り付け壁(和紙貼り付け)。
 付け書院の花頭窓は、土佐でしか見られない特徴である。
 東棟(店舗・屋号を黒金屋)、中棟(住居)、西棟(客間)の
 三棟からなっている。
 入口は西と東の2ヵ所で、西門は巡検使や高官を迎える
 正門で、東門は家人の入口である。

09~竹村分家(マル久呉服店)

 分家の初代は、安右衛門守信で安政6年(1777)に
 本家より分家する。屋号を「 久 」を掲げた
 建築は、文政11年(1828)に、そして明治5年に改修。
 当初は質屋を営み、次第に発展して呉服商となる。
 三代目安七守本のころ、土佐国西部では唯一の
 絹織物商として繁盛した。
 この安七が店舗と住居を別棟として
 連続させた家を新築している。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界4

2011-02-19 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界4

05~元青山文庫 庫舎

 旧須崎署佐川分署として明治19年に建てられた。
 県内では、最も古い洋風建築である。
 その後、図書館として川田文庫に。時の宮内大臣、
 田中光顕から大量の書物を寄贈され、田中光顕の
 雅号「青山(せいざん)」をとり、青山文庫となる。
 民具館を経て、現在はイベント等で利用されている。

06~浜口家住宅

 浜口家は天正の頃、長宗我部信親の家臣であり、
 江戸中期に香南市手結から移り住み、
 高知・佐川・須崎で酒造業を営んだ家系の住居です。
 屋号を「生金屋(あらがねや)」と言い、大正七年に
 竹村本家「黒金屋本家」、竹村出店「黒金屋出店」、
 浜口家「生金屋」の三軒の酒屋が合併し、
 佐川醸造(後の司牡丹)を設立した。

 

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

2011-02-19 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

 

10~司牡丹 酒蔵

 長大な酒蔵は、長さ85mで国内でも有数の長さを誇る。
 建築は天保9年(1839)で、東西2棟を繋いだものである。
 東棟は「黒金屋本家」、西棟は「黒金屋出店」であった。
 幕末の頃は、上町周辺で9軒も(「黒金屋本家」「出店」
 「岩屋」「入吉屋」「生金屋」「西秤屋」「吉田屋」「岸屋」
 「高橋屋」)造り酒屋があったが、やがて淘汰され、
 大正7年には3軒になり、竹村本家・竹村出店・浜口家が
 合併して「佐川醸造」を設立した。
 その後、「司牡丹」に発展した。

 

07~町の駅、観光案内所

 この建物は武村本家の貸家棟であり、三軒長屋
 (東棟・中棟・西棟)の形式を留めた古い建物である。
 東棟は当初、納屋として建築されたが、後に住宅として
 改築。中棟はかっては味噌蔵であったものを、終戦後、
 住宅に改造後に、納屋として建築。
 西棟は大正期頃までは、高陽銀行(現四国銀行)
 佐川支店として使用されていた。
 現在は、中央の家を、町の駅として観光案内や、
 おみやげの販売もしています。
      ~一寸一服いかがでしょう~

 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・戦友を失いました

2011-02-19 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

戦友を失いました            情報プラットフォーム、No.281、2月号、2011

 


訃報に接したのは21世紀に入った直後である。越田豊先生を失ってから10年。
「鈴木先生、”バカ”の口癖は止めた方が良いです。」に「越田先生の”アホ と
ちゃいまっか”はきついです。」とやり返したことを思い出す。2001年3月21日の
一期生の卒業式に先立ち行われた追悼式で鈴木(当時副学 長)が読み上げたもの
を、越田先生を偲びながら採録したい。(Flying Fish(高知工科大学NEWS
LETTER)、No.14(2001,3)に掲載)


         ----追悼 越田 豊 副学長----


 戦友を失いました。高知工科大学を創るという戦場での戦いは熾烈でした。戦
いの相手は誰の心の中にでもある「固定観念」でした。どこに潜んでい るか分
からない相手です。この戦いは8年前に始まりました。副学長として共に、何時
も戦いの先頭を走っていたように思います。

 危篤と伺って駆けつけた1月28日の日曜日。先生の手を握りながら「しっかり
せよと、抱き起こし」の戦友の歌を思い出していました。しかし、友 は顔を上
げてくれません。手の温もりだけが伝わってきました。

 2月2日の告別式の帰り、「戦い済んで、日は落ちて」と心で歌い、涙しながら
伊丹からの高知便に乗りました。もうすぐ大学が出来て4年。そこま で近づいて
きた卒業式。第一期生を送り出す今日このときに、ここにいる卒業生の晴れ姿を
見ることなく、あの世へ旅立たねばならなかったことは大変 な心残りだったで
あろうと推察いたします。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 私の不平や愚痴を黙って聞いてくれた先生、持って行きようのない憤りをたし
なめてくれた先生でした。関西弁特有の穏やかな調子であっても、厳し い内容
を盛り込んだ先生の語り口が懐かしく思い出されます。

 何時だったかはっきりと覚えておりませんが、京都の鱧料理をご馳走になった
ことがあります。これは私の魚だよと言って居られました。豊の魚を 「ハモ」
と呼ぶことを知りませんでした。その時、この次は私が私の魚で奢らせてくださ
いと申し上げました。「スズキ」のフランス料理のつもりで機 会を探していた
のですが、借りになってしまいました。

 「何故、生き物は雄と雌があるのですか」、「その必要性は」、「生物にとっ
てどんな利得があるのですか」と質問したことがあります。これを読ん で下さ
いと渡された本、お返しできずにお借りしたままになっています。新潮選書「な
ぜオスとメスがあるのか」です。先生の思い出、先生の記念とし たいと思いま
す。また読み返してみると、さらに疑問が出てきます。でも、それをぶつける人
はもうこの世にはいません。

 高知工科大学を離れ、お互いに歳を重ねた5年後、10年後に、久しぶりにお会
いして、あのときは大変でしたね、今だから言えるけどこんなだった よ、と
いった会話を先生としている情景を夢に描いていました。残念で、残念でなりま
せん。誰よりも学生が好きで、学生諸君の身になって考える先生 でした。今日
の卒業生のことを最も気に掛けておられた先生でした。先生の情熱や思いは、本
学の学生・卒業生・教職員全員に、永遠に受け継がれてゆ くことでしょう。先
生、これまでありがとうございました。そして、お疲れさまでした。ここに謹ん
で越田先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。

鈴木朝夫   s-tomoo@diary.ocn.ne.jp

高知県香美郡土佐山田町植718   Tel 0887-52-5154

 

 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界2

2011-02-15 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界2

20~森下雨村の生家

 小説家。明治23年佐川町上郷に出生。
 早稲田大学卒業後、「やまと新聞」の記者をを経て、
 「博文館」に入社、同社の雑誌「新青年」の編集長として
 活躍し、探偵小説翻訳や創作活動をながら、
 推理作家の養成に務め、江戸川乱歩、横溝正史等を
 育てた。今日の「探偵小説の父」と言われている。

        ~五月雨の土に残るや足の跡~

03~伊藤蘭林塾(寺子屋)

 蘭林は深尾家に仕える儒官となり、郷校「名教館」及び
 「蘭林塾」で教授すること50余年であった。
 当時の佐川では、大半の学徒の人々は蘭林塾の教えを
 受けている。
 牧野富太郎、田中光顕、広井勇、古沢滋などもすべて
 門下生で、この寺子屋から育っていった。

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町編

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羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

2011-02-15 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

 

01~町並み模型館
 
 ここには佐川町の上町周辺の古民家を、
 1/20に縮小した模型を展示しています。
 建物の外観、庭は勿論のこと、内部の障子や
 ふすま・掛軸・欄干にまで細かく再現しています。
 なお、模型の説明を(土・日のみ、佐川くろがね会
 )解り易く、ガイドいたします。
 プロの大工気分で、見学し、古民家の造り方と、
 構造、生活様式をご堪能ください。
 さらに、昔の職人の技が随所で見学できます。

 古民家は全国どこででも見られますが、
 ここでの時間と空間は、あなたにきっと大きな
 満足感、心のお土産を与えられるものと、
 信じています。

 

 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

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栄ちゃんの四国霊場巡り・・・27番霊場 神峯寺(こうのみねじ)

2011-02-14 | 栄ちゃんの四国霊場巡り

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・27番霊場 神峯寺(こうのみねじ)

 

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

   (四国27番霊場 神峯寺(こうのみねじ) 09/08/17)

出典:四国ネット・・・27番霊場 神峯寺(こうのみねじ)

「真っ縦」といわれる勾配四十五度の一.三㌔の急坂で知られた土佐の関所。寺のある山頂までは三・三㌔あるが、遍路で難行した宮地達観氏の奉仕で自動車道が開通し、歩かずして山門までゆける。

 三菱王国を築いた岩崎弥太郎の母は、幕末のころ弥太郎の開運を祈願して、この急坂を登り、二十一日の間二十㌔離れた井ノ口から神峯寺へ日参した。やがて、弥太郎は大成し後に山林を寄進し、報恩を感謝している。

 寺の縁起によれば、当初天照大神、その他諸神が祀られ、後に行基菩薩が自ら十一面観音を刻んで安置し、神仏を合祀した。大同四年には勅命によって観音堂と名づけられ、廷暦年間に四国霊場に定められた。

明治の神仏分離で一時廃寺となったが、明治十七年再興された。山門は龍園尼の発願で建立。本堂、大師堂は急な山の斜面に建てられている。境内には清澄な霊水が湧き出ており眼下に美しい紺青の海原が望まれる。

 

 

栄ちゃんの四国霊場巡り 

四国八十八箇所(徳島・愛媛・香川)

四国八十八箇所(高知県内) 

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 

栄ちゃんワールド・・・梶ケ森周辺の風景

 

へんろ道高知

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羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その2

2011-02-14 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その2

 

 

 

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羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口

2011-02-14 | 羽迫博己さんの、町屋あれこれ

羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・倉敷掲示板・インターネット情報~素材と人口 その1

 

 

 

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

2011-02-14 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

 

 

岩崎弥太郎先生

天保5年(1834)12月11日、安芸郡井ノ口の地下浪人・
   岩崎弥次郎の長男として生れた。
 少年時代から勉学に励み、三奇童の一人と称された。
 安政元年(1854)江戸に出て、翌年幕府直轄の学校
   「昌平校」の儒官あさかごんさいの元に入門した。

 しかし、父が投獄された知らせを受けて帰国、
   父の訴訟事件をめぐって役人を誹謗したとして、
    彼も一時牢につながれた。

 安政4年出獄後、高知城下鴨田村に住み、吉田東洋の
    門下生になる。
 6年以来、なかずとばずの時期があるが、慶応2年
   (1866)後藤象二郎らによって藩直営の商館・開成館
   が設立され、翌3年、弥太郎は長崎の出先機関
    「土佐商会」の主任として活躍することになった。

 長崎では坂本龍馬や薩摩の五代友厚などとの接触を通じて
   広い視野、自由な発想を注ぎ込まれたことが、その後の
    弥太郎の生き方に大きな影響を与えたと見られている。
 同年郷土から新留守居組に異例の昇進を果たし、明治2年
   (1869)大阪土佐商会主任となって大阪に出て、
   戊辰戦争に伴う軍用金の調達に外国貿易を活用して
    成果を挙げ、四党官権小参事に出世した。

 以後、弥太郎は大阪土佐商会から衣替えした土佐開成社の
   経営に当たる一方、半官半民の「九十九商会」を興した。
 そして譲り受けた藩船に岩崎家の紋所三階菱と、山内家の
   三つ葉柏を組み合わせて作った三菱の紋を付けて、
    東京大阪間の回送運輸業を開始した。

 

廃藩置県後は藩機能を脱却して「三ッ川商会」と改称、
   明治6年にはさらに「三菱商会」と改めて、
    三菱財閥の原型を確立した。
明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、10年の西南の役に
   あたって、三菱は軍事輸送を一手に引き受け、また、
   外国汽船を駆逐するという国策に乗って、政府船舶
   の無償払い下げや補助金などの手厚い保護を受け
    海運界に揺ぎ無い地位を確立した。
 しかし、明治11年後ろ盾となった大久保利通が暗殺され、
   同14年政変で大隈重信派が排撃されると、三菱の
   独占を切り崩すため、政府主導で発足した共同運輸
   会社との激しい競争に晒されることになった。
 競争の激化から、政府は共倒れを心配して妥協を勧告、
   明治18年9月、両社は合併して
   「日本郵船会社」が発足するが弥太郎はそれを
    待たずして、同年2月7日病死した。 52歳。

       除 幕: 昭和61年7月12日
       題 字: 岩崎弥太郎先生  字 手島右卿
       規 模: 本体~3,3 ㍍  台座~2,64 ㍍
             総高~5,94 ㍍
                       事業費: 4,100万円

 

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土佐の銅像と 津江美和さんの写真

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像18・・・山内容堂その2

2011-02-14 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像18・・・山内容堂その2

山内容堂趣意書

かって、高知城内に、初代一豊公と15代豊信(容堂)公の
   二つが建っていましたが、戦時中強制的に供出されて、
    久しい間姿を消しておりました。
 一豊公の銅像は、有志によって平成8年9月元の藤波神社
   の境内に、雄々しい騎馬像が再現され、
    県市民の多くの人々に喜ばれています。
 容堂公は歴代藩主の中でも傑出した名君で、たまたま
   幕末維新の大激動の時世に偶会し、その識見と才能を
   持って、国事に参与、奔走し「幕末四賢公」の一人として
    名声を天下にはせました。
 慶応3年10月の大政奉還の建白は、公の功業の内の
   最大のものといえましょう。
 書をよくし、酒を愛し、優れた詩文を多く残した容堂公を
   偲び、入国400年を期に、ギャマンの杯を傾け
   大政奉還を喜ぶ公の坐像を、ゆかり深き山内神社の
    境内に建てて見たいと考えました。
 つきましては、皆様のご賛同を頂き、物心両面のご協力
   を戴ければ幸いと存じます。

    除 幕: 平成14年4月10日
    題 字: 大政奉還を喜ぶ山内容堂公
       字: 山内豊秋
    規 模: 本体~1,185 ㍍  台座~1,2 ㍍
          総高~2,385 ㍍
    事業費: 1,281万4千円

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

2011-02-12 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

山内容堂

本名豊信(とよしげ)、隠居後容堂と号した。
 文政10年(1827)分家の長男として生れた。
 嘉永元年(1848)、22歳で宗家を継いで
   15代藩主となった。
 嘉永6年ペリー来航後、幕府の要請に対して「外交意見書」
   を提出、師と仰ぐ吉田東洋を抜擢して
    藩政改革を推進した。
 その後に起こった将軍後継問題では、福井の松平春嶽、
   薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城の三藩主と共に、
    一橋慶喜を推して存在を示した。
 また、条約勅許問題にも関与して、時の大老井伊直弼と
   対立したため、安政6年(1659)には、いわゆる
    「安政の大獄」で隠居、謹慎の身となった。
 「桜田門外の変」のあとの幕政改革を受けて、文久2年
   (1862)4月謹慎を解かれると、再び国政に関与し、
    公武合体策を堅持して時局の収拾を図った。
 翌3年の8・18政変後は土佐勤皇党弾圧に踏み切り、
   武市半平太らを断罪したが、慶応2年(1866)の第二次
   長州征伐の大敗後の長州処理と、兵庫開港問題を
   めぐる四候会議の解体以後、幕府の限界を見抜き、
   坂本龍馬の「船中八策」を基本とする後藤象二郎の
    意見を容れて大政奉還を建白した。
 維新後は中央政界を去り、「鯨海酔公」と称して酒と詩文
    (700首を残す)に明け暮れる豪遊の生活に浸った。
 明治5年(1872)6月21日没。墓は品川区太井にある。
           昭和19年、供出された。

     除 幕: 大正15年(1926)11月7日
     規 模: 本体~3,94 ㍍  台座~4,55 ㍍

     総高~8,49 ㍍
                     事業費: 39,315円

 

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土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像16・・・船中八策とは

2011-02-12 | 羽迫博己さんの世界

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