「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

2012-05-30 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月27日、沖縄県豊見城市の社会福祉センターで開かれて、初めて出席しました。万次郎会は、私がブログにアップしてある「沖縄で愛される中浜万次郎」を書いた縁で、同会の新年会に招かれ、賛助会員にもしていただきました。
 総会は立派な議案書が作られていて、事業報告と計画、決算報告と予算案まで、しっかりと報告、提案され承認されました。報告の中に、私たち夫婦が新年会に高知県出身のゲストとして招待されたことも記されています。

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総会には、琉球に上陸した万次郎が、半年間滞在した同市翁長(おなが)の高安家5代目当主の高安亀平さん、豊見城市長らも出席された。
 これからの行事予定では、万次郎会が後援する「今こそジョン万次郎の勇気と努力に学びましょう」の講演会(6月9日)や久高島探訪の研修(7月)、シンポジウム(8月)、文化講演会(9月)の開催、そして土佐清水市で開かれるジョン万祭(10月)、万次郎忌の集い(東京、11月)への参加も予定されています。 結成20年を超えて、ますます旺盛な活動を進めている様子がうかがえます。

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 総会の後は、ジョン万次郎研究家の神谷良昌氏が「ジョン万次郎と牧志朝忠とベッテルハイムの遭遇」と題して講演しました。プロジェクターを使い、新しく見つかった史料、エピソードを盛り込みながら、とても分かりやすく興味深い講演で、参加者を魅了  しました。

                                     

絵は万次郎がアドベンチャー号で琉球に上陸しようとする場面。神谷氏の原案、儀間比呂志さんの絵による絵本『琉球に上陸したジョン万次郎』から。

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写真は、万次郎が琉球で半年間滞在した高安家。家の前に建つ衝立のようなものは、沖縄の家には必ずあったヒンプン。万次郎は、外に出る時はこの1㍍20㌢の高さのあるヒンプンを飛び越えて行ったそうだ。

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6月ウマチー(祭り)の大綱曳きの模様。万次郎も参加した。万次郎は、わずかな滞在の間に、ウチナーグチ(沖縄語)を覚えて、冗談もウチナーグチで話すほどだったとのこと。

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神谷さんによると、万次郎が琉球の大度海岸に上陸したさい、聴取にあたったのが当時、首里王府で異国通事と外務次官のような役職にあった牧志朝忠だった。朝忠は、万次郎からアメリカの政治制度、一般の国民から大統領が選挙で選ばれ、任期は4年、大統領をおりれば一般の国民に戻ることなど詳しく聞いた。万次郎が上陸したさい、アドベンチャー号に積んでいた数冊の本の中で、初代大統領のジョージ・ワシントンについて書かれたものを、朝忠はとても読みたかったので、夜通し本を筆写して、まだ終わらないので借りて読んだという。
 その後、ペリーが琉球に来た際、通訳にあたった朝忠は、ペリーの部下が琉球に不当なことを要求したが、朝忠は、ジョージワシントンを生んだ国でこんな不当なことを押しつけていいのか、とただした。米側は、琉球のような小さな島で、ジョージ・ワシントンのことを詳しく知っているのに驚いて、ペリーに報告し、要求を取り下げた。
 万次郎が朝忠にもこんな大きな影響を与えていたことなども、神谷氏は話しました。
ベッテルハイムとは当時、イギリスから琉球に来ていた宣教師で、薩摩藩と王府は、万次郎がベッテルハイムと接触するのを恐れて、那覇市に連れて行こうとした万次郎を、隣りの豊見城市で一番遠い翁長に戻して留置いたとのことでした。

また、坂本竜馬がつくった亀山社中は日本で初めての株式会社だけれど、これは万次郎が伝えたアメリカの政治や社会の仕組みなどの情報を知って、竜馬がつくったものだったと話していました。

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会には糸満市からも初めて5人が参加しました(上写真)。というのは、万次郎が上陸した糸満市の大度海岸に、万次郎がこの地に上陸したことを示す記念碑を建立する計画があるそうです。出席者の一人は、なんと高知市の出身で大度海岸近くの米須に住んでいるとのこと。新たな高知出身者が現れ、私も挨拶を交わしました。

 講演の後は、懇親会。ちょうど私の隣に座った男性は、兵庫県から豊見城市に移住してきたばかりで、万次郎会のことを知って初めて参加したとのこと。万次郎ファンが増えていることは嬉しい。

 懇親会では、カラオケも置かれて、大城光盛会長を始め自慢ののどを披露しました。
 私も余興を予想して三線を持参。ツレと二人で、戦後、捕虜収容所のあった名護市の二見(ふたみ)の思い出を歌った民謡「二見情話」を歌いました。
 一節ごとに拍手をいただき、ありがたかったです。高知出身なのに歌三線で沖縄民謡を歌ったので、ビックリという感じ。「上手でしたよ」「二見情話はいい曲ですよね」「私もいま練習しているところですよ」と何人も声をかけてくれました。2人とも舞台に上がったので、残念ながら写真はありません。

  

 

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

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沖縄ジョン万次郎会の新年会に招かれる

2012-05-30 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄ジョン万次郎会の名嘉真和彦事務局長と昨年末、偶然知り合いになった。それが縁でこの同会「20周年記念誌」を送っていただき、私も「沖縄で愛される中浜万次郎」と題する拙文を送った。 

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 沖縄ジョン万次郎会の新年会に光栄にも、夫婦でお招きをいただいた。会場は、万次郎の記念碑が建てられた翁長共同利用施設である。公民館のように使われている建物だ。建物のすぐ裏手に万次郎が滞在した高安家がある。

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会長の大城光盛さん、前会長で顧問の大城盛昌さん、副会長の大城恵子さん、与那覇正文さん、そして万次郎が半年間滞在した高安家の5代目当主の高安亀平さんらを紹介され、挨拶を交わした。万次郎会の活動のことは知っていたが、まさかこんな形でお招きされて、みなさんとお会いできるとは、夢にも思わなかった。

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写真は左から大城会長、大城顧問、高安さんである。高安亀平さんは、5代目当主となる。昭和4年(1929)生れなので、1827年生れの万次郎とは102歳違い。ことし数え年で85歳になるそうだ。とても元気そうだ。それぞれが万次郎についてのエピソードを話してくれた。
 万次郎は、琉球の大度浜海岸に上陸して、この豊見城村の翁長集落に来た。高安家に滞在したが、ここにきて1週間でもう外に出て、村の住民と交流し、方言も覚えたという。スゴイ言語力だ。沖縄の古い家は、家に入る正面に衝立のようなヒンプンがある。万次郎はこのヒンプンを飛び越えて外に出ていたという。
 銅像の写真は「沖縄ジョン万次郎会結成20周年記念誌」から。

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このとき万次郎はまだ25歳の青年だから、身も軽い。
 翁長の万次郎記念碑(写真下)向うに道路が少し広くなっている。ここは馬場だったという。馬場で、昔から綱引きが行われ、万次郎も参加したことが伝えられる。綱引きは、「6月ウマチー」という旧暦6月のお祭りと旧暦8月15夜の満月の2回行われる。私の拙文では8月15夜の綱引きに参加したと書いたが、その時は万次郎はもう翁長にはいなくて、6月ウマチーの綱引きに参加したとのことだった。拙文を読んだ大城会長が指摘してくれた。

055 綱引きは、東(アガリ)と西(イリ)に分かれて引く。万次郎がいた高安家は東方だった。この時の綱引きでは、東が勝ったので、万次郎が加わったので東が勝ったのでは、といわれたそうだ。

 まだ高安家を訪問したことがないので、そのうち一度、訪ねてみたい。

 

 新年会は、那覇市のホテルからシェフが来て出張料理をするという豪勢なものだった。料理とお酒をいただくと、余興が始まった。

 事務局長の名嘉真さんは、とみぐすくカラオケサークル仲間達の会長さんでもある。ジョン万会にはカラオケがつきものとなっている。2月には謝恩ステージカラオケ交流歌謡祭を那覇市内で開催することにもなっている。

 新年会には、この歌謡祭に出演する皆さんも参加して、舞台で次々に自慢のノドを披露してくれた。

 もちろん、大城会長(左)、名嘉真事務局長(右)も最初に歌ってくれた。050

 051 名嘉真さんは、「とみぐすく万次郎音頭」という歌の作詞もされて、記念碑の横には、この歌を紹介する案内板も建てられている。

 

 

 

 

 

 村田英雄の曲に「あゝ万次郎」056 という歌があり、舞台でカラオケサークルのメンバーが歌ってくれた。初めて聴いた。

「♪怒涛逆巻く足摺岬 海で育ったいごっそう 父は亡くとも泣くもんか 負けるもんかの男の気概 土佐は清水の快男子 あゝ中の浜万次郎」(一番)

「♪目には手ぬぐい押しあてながら 逢えて嬉しと泣いた母 十と一年十カ月 苦労かけたとお袋さんに わびる男の目に涙 あゝ中の浜万次郎」(三番)

 こんな歌詞である。なかなか勇ましく、勢いのある歌だ。賀川幸星作詞作曲である。

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わがツレも舞台で「愛の賛歌」をカラオケサークルの人のように、伴奏音楽のテープを用意していないので、アカペラで熱唱した。

 最後に高安亀兵さんと記念撮影をさせてもらった。

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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」 ・・・インフラ、十年一昔、高知の変わり様

2012-05-12 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

インフラ、十年一昔、高知の変わり様

                                                     情報プラットフォーム、No.233、5月号、2012、掲載


高知に15年前に来た時と今とを比べる。前回の{納豆、十年一昔、高知の変わり様}(No.232、5月号、(2012))の続編である。

 高知市内の東西の交通が、土電通りの他に、北環状道路、土佐道路と選択肢が増え、高速道も加わって便利さが増し、渋滞解消になっている。山田ま での「あけぼの街道」の開通が間近であり、「国道195号」の道標がすでに散見できる。南北方向の交通は、対面ではあるが五台山トンネルの完成 で、医療センターや高知新港へのアクセスが楽になった。高速道では、高知インターの開業があり、2008年の4車線化で川之江から南国までの19 のトンネル内の安全性が高まっている。また、県西部への延伸が少しづつ進んでいる。一方で、五台山の2本目のトンネル掘削は、高知龍馬空港へ、そ してさらに先への高規格道路の進捗を感じさせるに十分である。中山間地の道路整備も少しづつ進んでいる。

地形が急峻なこと、災害の多いこと、そして孤立しがちな地形であることなどの短所を長所に変えるように、多様な工夫の結果として高知県の土木技術が進んだ。地域に根ざした土建業者が各地に配置されている。沢筋の奥の集落に土建業者と自動車修理工場が一軒づつ必ずあるように思えた。「沢が崩れたと き、川下からだけではなく、上流からも復旧工事ができるようになっているのです」と
教えられた。公共投資が激減し、土建業の廃業や転業が相次ぐこ の頃では、こんなメリットも強調できなくなっていると思われる。

 浦戸の渡し(御畳瀬-種崎間)は無料であるが、2002年から四輪は載せなくなった。県外客の案内の目玉としていたのだが残念である。浦戸大 橋、仁淀川河口大橋、宇佐大橋などが無料化された中で、高知桂浜道路は有料で残されている。
県内では10ヶ所だった道の駅は21ヶ所に倍増してい る。一方で、廃墟と化したドライブインが各地に散見される。

高知に来て最初に住んだのが知寄町のマンションの11階であった。高知港がよく見えた。停泊中の大阪高知特急フェリーや東京-那智勝浦-高知を結ぶ「さんふらわあ」を眺めたものである。船腹に太陽のマークを付けた「さんふらわあ」は2001年10月に、大阪特急フェリーは2005年4月に廃止と なってしまった。1998年に供用が始まった明石海峡大橋の影響が大きかった。JR四国の特急南風も苦戦をしているようである。高知と京阪神を結 ぶ高速バスの料金が安く、所要時間にも差が無くなっている。高知空港は2004年に滑走路が2500mに延伸され、着陸時の安定性や安全性は大き く増したと思われる。

 県内中山間地で広く仕事をしている土木建設業の社長さんが携帯3社の電話をぶら下げていた。「圏外が多くてね」と嘆いていたのを思い出す。今で は何処を見ても、携帯3社の店舗が競い合い、丘の上には何処でも通信塔が立ち、圏外エリアは少なくなってきた。

 一方で、高齢化率の上昇を示すかのように、養護老人ホーム、ケアハウスなど老人福祉施設が開設され、葬祭会館も次々とオープンしている。石材業 の新装の展示場も増えている。反面で、ホテルや大規模宴会場を持つ施設は苦しいようである。結婚式やお客(高知流の宴会)の在り方が変わってきて いる。閉鎖されたところも多い。高知に来た頃は2次会・3次会が普通だったが、高齢化のせいか、景気が悪いためか、めっきり減っている。飲酒運転 の取り締まり強化に伴って、代行が急速に増えてきたのもこの10年である。

 大部分が外からの大きな力を受けながらの変わり様であるが、便利になったのか、不便なのか意見の分かれるところである。豊かさとは、幸せとは を、考え直す時に来ている。


 ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。

鈴木朝夫(すずき ともお)
〒718-0054  高知県香美市土佐山田町植718
0887-52-5154、携帯 090-3461-6571  s-tomoo@diary.ocn.ne.jp  

 

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録


鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・納豆、十年一昔、高知の変わり様

2012-05-12 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

納豆、十年一昔、高知の変わり様      

                                                                     情報プラットフォーム、No.232、4月号、2012、掲載予定


 高知工科大学の創設に関わり高知に住み着いたのが平成9年(1997)4月であり、満15年になる。この「ぷらっとウオーク」の掲載が始まった のは平成14年(2002)5月からであり、十年一昔、総計120編に達している。テーマは様々である。読んだ方から、「好奇心旺盛ですね」と か、「あら探しが上手ですね」などと云われている。

 高知に来た時と15年後の今とを比べる。県別統計などからの引用ではなく、街を歩きながら、買い物をしながら、車を運転しながら、新聞・ニュー スを見聞きしながら気付いたことを、記憶の中から取りだして現在と比較する。まずは食から始めよう。

 高知にはコンビニエンス・ストアが殆ど無かった。地元資本のお弁当とコンビニを組み合わせた”24時間眠らない「如月」”が目に付くだけだっ た。今では、大手ブランドのフランチャイズ店が多くなっている。

それに対応してか、極端に多かった小さな喫茶店が激減している。{モーニングって 何です}(本誌No.258、3月号(2009)を参照して欲しい。ラーメン店は多かったが、一方で、そば屋とうどん屋は探すのに苦労した。特に そば屋は皆無に近かった。最近は讃岐うどんのチェーン店を多く見かけける様になっている。地元資本の焼肉店や居酒屋はかなり多いが、「食べ放題・ 飲み放題」は期待するほどではなかったようである。また、全国展開のファミリーレストランの勢力は、高知ではそれほど伸びていないようである。回 転寿司は10年前から増えているように思える。全国的な傾向であろうが、居酒屋の客層は酒臭いおじさん層から、家族連れに変化して来ている。

地元資本の店舗が少なくなっているのはスーパーマーケットである。その他に県外資本に押されているのは、家電量販店、パチンコ店などである。最近は県外資本のホームセンターの進出が目立っている。ドラッグ・ストアだけはまだ基本的には県内資本である。

スーパーの商品で大きく変化したものが一つある。関東地方と異なり、殆ど見かけることのなかった(糸引き)納豆が、商品棚の幅も広くなり、銘柄も豊富になっている。健康食品としてのテレビの影響が大きく、関東と関西との消費の差は縮まっているとのことである。ついでに、ダシ汁で食べるトコロテン には吃驚したが、最近は二杯酢や三杯酢のものも並べて売るようになった。なお、トコロテンの食べ方は地域によって様々である。

 グローバル化による変化も大きい。果物では、キーウイフルーツや、マンゴ、パパイア、アボカドなどのトロピカル・フルーツが普通に出回りだした のが2000年以降である。国産や高知県産も多くなっている。わらび茸などの名称で出ていたが、今ではエリンギとして名称が定着した茸も10年ほ ど前からである。

 2000年暮れに開業したイオン・モールの展開と西武デパート(2002年)とダイエー(2005年)の高知からの撤退、そして北環状道路周辺 の整備が客の流れを変えている。高知駅舎の高架化によって、北側一帯の開発が進み、高知インターから降りたとき、県都高知に到着と思わせる街並み に仕上がっている。

一方で、帯屋町商店街やはりまや橋界隈の往年の賑わいは無くなっている。それにも増して、高知市内、周辺都市の商店街の凋落ぶ りは見事と言って良い。シャッターの降りたまま、そこに画を描くことで盛り上げようとしている。でも、地元スーパーにある良心市は活況を呈してい る。まず、入り口付近にある「かかし市」、「ふるさと市」、「太陽市」などを見てから店内の買い物が始まるようである。

「この様なことがある」、 「見落している」、「10年前はこうだったよ」などと、お気づきの点を下記までお知らせ下さい。   

 

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