goo blog サービス終了のお知らせ 

「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)


浦添市の沢岻樋川

浦添でももう那覇市のすぐ隣になる沢岻(タクシ)を歩いた。いくつか拝所など巡ったあと、沢岻樋川があるはずなので探した。なかなか分らない。人に聞いても分らない。展望がよい場所に出たので写真を撮っていた。振り返ると、マンションのそばに史跡らしいものがある。それが沢岻樋川だった。


樋川は、水槽がいくつにも区切られている。飲料用や野菜や食器など洗うところ、衣類を洗濯するところなど用途によって分けられているのだろう。高台のとても眺望のよい場所なのに、水は多く、いまでもとても透明度が高い。のぞいてみると、小さな魚が何匹も泳いでいるではないか。

 普通、井泉ではあまり魚は見ない。でもここはなぜか棲んでいる。この樋川はとても由緒あるそうだ。由来と琉歌が書かれた立派な碑がある。
「沢岻樋川やかりーな泉 首里御城に若水ゆうさぎてぃ 千年万代栄えうにげ」。「かりー」はめでたい、縁起が良いという意味である。説明文には要旨次のように記されている。

 

 沢岻樋川は1000年余りの歴史がある。琉球王朝の頃、風水の方位がよく、水質も良い泉であり、正月には国王の長寿・繁栄を願い、若水を献上したという。琉歌はそのことを詠んでいる。1999年修復とあるから、昔からこういう碑があったのだろう。若水汲みについて、あとから詳しくふれたい。


沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)


浦添市の仲間樋川



琉球が統一される前、中山国(チュウザンコク)の王都だった浦添市の浦添グスク跡に近い集落、仲間を歩いた。ここには、大きな仲間樋川(ナカマフィージャ)がある。このあたりは、沖縄戦の激戦地である。
 樋川は市内で最も大きい井泉の一つ。仲間集落の村カー(共同井戸)として大切にされてきた。樋から水が豊富に流れ出ている。
 昭和10年(1935)コンクリートの近代的な改修がされた。上部の水タンクに水を貯め、次に洗濯などする「平場」をへて、最後は農具や農作物を水洗いしたり、馬の水浴びなどする「ウマアミシ」にたまるように造られている。


この樋川は戦争で大きな被害を受けず、仲間の収容所に集められた数千人の人々の生活水をまかなった。


                      
上水道が整備される昭和40年代まで、水を利用する人たちでにぎわったという。
 いま見ても、とても規模が大きい。水量も豊富である。なかなか見事な樋川である。いま夏休みで子どもたち10人ほどが集まり、水遊びに熱中していた。
         


 グッピー(小さな魚)がいると言って、網ですくったり、水かけをしてはしゃいでいる。楽しくてたまらない様子。時間の立つのも忘れるだろう。中学生らしいニイニイが一人いて、しっかりリードしていた。子ども時代に、田舎の川で遊んだことを思い出す。いまではとても懐かしい光景だ。



 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
 新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。

Img086

これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。

 中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。

Img089  

記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。

 Img087  

万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。

Img091  

2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。

Img092   

「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。

Img093  

会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。

 

 沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎、その2

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
 大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。

Img094  

牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。

 Img095  

業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。

Img096  

牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。

 紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。 

Img097

 ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。

 カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。

Img098  

一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。

 2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。

 3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。

 4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。

 5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。

 ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。

 

 沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)

2012-01-14 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)


次に向かったのは宝口樋川(タカラグチフィージャー)。モノレールの儀保(ギボ)駅から少し下ると、標柱がある。この標柱だけでは場所がわからない。通りかかった若い女性に尋ねると、「谷川に沿って少し下るとありますよ」と教えてくれた。
 湧水はどこでもけっこう分かりにくい場所にある。近くにいる人でも、地元に住んでいる人でないと分からないことが多い。



宝口樋川は、この地によい水が湧くことは知られていたけれど、不便な場所であること、当時、住民がそんなに水に困っていなかったことから、顧みられなかったという。

宝口よりもう少し上に登ったところの当蔵(トウノクラ)村の宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)という人が、その湧水を惜しみ、賛同者をつのり24人が費用を出し合い、道を整え、樋川を設けた。宝口という地名に湧く樋川なので「宝樋」と名付けたという。

                         樋川は大雨にあって一度壊れて、修理しようとしたが、費用がかかり困っていた。ところが、赤田村に住む宮城筑登之の母親から費用負担の申し出があったので、無事工事を進めることができて、樋川はよみがえったという。
 ここには、とても立派な碑がある。右から「宝桶」と記され、この樋川の由来など記されている。

  

 


                                                                        

碑の表は1807年に記されたもの。とても由緒ある石碑である。この碑も、沖縄戦で失われた。それが1986年、下を流れる真嘉比(マカヒ)川の改修工事によって、川床から碑の大部分が発見された。現物は、かなり破壊され、摩耗が激しいため、新たに復元することになり、1995年に復元されたそうだ。

 この宝口樋川の近くに、紙漉所跡(カミスキジョアト)の案内板があった。琉球王国時代から昭和初期にかけて、紙漉が行われていたそうだ。琉球では、1694年に大見武憑武(オオミタケヒョウブ)が、薩摩から紙漉の技法を習得して帰り、首里で紙漉をするようになった。



1840年、儀保村の一角、宝口に家屋を建て、製紙区域として、製造が途絶えていた百田紙の製造を行わせたのが始まりだと言う。首里の山川町では、芭蕉紙、宝口では、百田紙が作られた。百田紙は、コウゾの樹皮でつくる和紙である。紙漉は、水がなければできない。宝口樋川があったので、この地で紙漉ができたのだろう。
 桃原本通りを南に行った山川の近くの急傾斜地を降りていくと、「さくの川」の樋川に出る(左)。急な崖下から湧き出る地下水を導き出した共同井戸だ。地下水は、崖の相当奥にあるようだ。

 



 巾30㌢、長さ80㌢に加工された琉球石灰岩を、なんと10個ほどもつないだ樋で水を導いている(右)。この水路の中も、内部が崩れないように、石垣を設けているという。まるでトンネルのようになっている。

 

この水は、村人の飲料水や生活用水として使われた。水汲み広場は、約1㍍ほど掘り下げ、樋口から外に向かって扇形に造られている。
 ここからあふれ出た水は、北西に流れをつくり、その谷間の南斜面には、王家御用の芭蕉園があった。ここの芭蕉を用いて、紙漉が行われていた。芭蕉紙が作られた。
 この辺りは「紙漉山川(カビシチヤマガー)」と呼ばれていたそうだ。この水は、飲料、生活用だけではなく、やはり紙漉という産業にも用いられていた。
 井戸や樋川を見ていると、琉球王国時代からの人々の暮らしや生業、湧水に込めた思いや願い、石積み技術など、さまざまなことが見えてくる。首里に石積みの井泉が多いのは、石積み工が多くいたこともあるそうだ。

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

 

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

2012-01-14 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

首里の桃原、儀保付近の湧水

 首里城の西側にあたる丘陵の斜面は、首里城の城下町のようになっている。いくつもの集落が密集している。首里金城町に続いて、首里の山川から儀保(ギボ)に抜ける桃原(トウバル)本通りの付近の湧水を訪ねた。
 こちらは、とても深い谷川が流れている。でも谷川は排水路のような感じだ。飲み水、生活用水はやはり井泉に頼る。狭い地域に人口が多いから、井泉の水も豊富でないと生活できなかっただろう。  

       


  最初に行ったのは、佐司笠樋川(サジカサヒージャー)だ(左)。ここは、琉球最後の国王、尚泰の四男、尚順の屋敷だった「松山御殿」(マツヤマ ウドゥン)のすぐ裏側にある。いまだに尚家の敷地内である。



  といっても、かつての桃原村の貴重な水源だった。湧水はどこでも、祈願の対象だから、敷地を囲っている金網に「拝みをなさる方へ ここからご自由にお入り下さい」との表示があった。右写真は、この桶川とは無関係である。花街のあった那覇市辻の「二十日正月」行事の際の井戸への祈願の模様である。  

  
佐司笠樋川に行くため金網の戸を開けて入ると、驚くほど立派な樋川だった(上左)。琉球の黄金時代を築いた尚真王の長女、佐司笠按司加那志(サシカサアジカナシー)が、フクギの大木にいつも鷺(サギ)が止まるのを見て、掘り当てたという由来のある樋川だ。ちなみに、沖縄の井泉は、犬が濡れて帰ってきたので、水が湧いているのがわかり、井泉が見つかった、など湧水発見に動物かかかわっていることがよくある。



見事な琉球石灰岩の円形の石垣が三段に積み上げられている。芸術的ともいえる円形の石積みだ。恐らく、これだけの樋川は、沖縄でも指折りだろう。
どんな干ばつにも水は枯れず住民を助けた。村の貴重な水源だった。

いまでも水量が多く、井戸拝み(カーオガミ)に訪れる人が後を絶たないという。降りて行くと、石垣の奥の水源から石造りの樋で水を流していた。水槽は半円形で、これも見事な石積みだ(右)。そばに奇妙な石があった。直径1㍍くらいはある(右下)。何のためだろうか。他の井戸では見ない。

 

 それにしても、よく固い石をこれほど丸い形に仕上げたものだ。丸い石の外側の敷石も、この円形に石に合うように、石を加工している。
 琉球王府時代の石積みの技術には、つくづく感心する。それに、この樋川は、沖縄戦で激戦の地なのに、破壊されずに残ったのだろうか。説明はないので、多分残ったのだろう。


  
同じ敷地内のすぐ側に、「昔石道」(ンカシイシミチ)があった。石畳の道を降りて行く。また湧水がある。

世果報御井小(ユガフウ ウカーグヮー)という井戸だ(下)。王朝時代より炊事、洗濯など生活用水として使われた泉である。水がわいているので樋はない。
 

 
沖縄戦で埋没したけれど、昭和61年(1986)に掘り出された。その際、古い鍋や食器類が出土し、戦争中にここで炊事をし、飢えをしのいだ悲惨な状況が偲ばれたという。
 説明を書いた案内板が、もう剥げてきて字がまともに読めない。推測を含めてこんな説明だった。




桃原大通りから、急坂を上がると、安谷川嶽(アタニガータキ)に出た。アーチ型の門がある(左)。といっても門はただの門ではない。琉球では、神聖な御嶽(ウタキ)の前に立つ門が拝殿になる。首里王府の高級女神官の一人、大阿母志良礼(オオアムシラレ)が司る御嶽の一つである。由緒ある拝所だ。門のなかが聖なる場所である。

 この近くに安谷川(アタニガー)がある。石段を降りていくと井泉があった(右下)。あまり大きな井泉ではない。ここはなぜか、川の名がついていた。

次に、桃原本通りを下に少し降りると、谷川のそばに加良川(カラガー)がある。谷川が流れているが、この川の岸に共同井戸がある。川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられている。
 加良川はなんと、大きなガジュマルの木の根のところにあたる(下)。


ただ、今は危ないから鉄板で蓋をしている。この井戸の上に橋がある。橋から井戸に降りてくる石畳の道が残っている。道幅を広くとり、川沿いに一段と高い道を設けて、水汲みに集まる人々が、順序よく出入りできるように工夫されているそうだ。すぐそばに石碑が建っている。この碑は、井戸とは関係ない。



 実は、琉球王府の時代、18世紀に初めて歌三線と台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」を創作した玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の生誕の地を示す碑である。
朝薫は、王府で踊奉行(ウドゥイブヂョウ)をつとめ、中国から琉球国王を任命するためにやってくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために、「組踊」を創作した。朝薫の創作した「執心鐘入」など「5番」と言われる「組踊」は、いまなお繰り返し上演される。

2010年、「組踊」はユネスコの無形文化遺産として認定された。

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)  

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

2012-01-14 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

雨乞い御嶽



首里金城町からマルソウ通りを東に向かうと首里崎山町に出る。首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤ ウドゥン)の跡がある。由緒ある場所であり、歩いてみた。
 崎山町の公園の一角に、大きな石造獅子がデーンと鎮座していた。1677年に造られた王府の別邸、御茶屋御殿にあった石造りの獅子だ。
 とても大きく迫力がある。御殿を火災やその他災厄から守る獅子だった。御殿はいまはないので、公園に鎮座している。
 石獅子は水と関係ない。実は、このすぐ近くにある雨乞御嶽(アマグイウタキ)を紹介したい。雨乞いの祈願をする御嶽(ウタキ、拝所)は、複数あるらしいが、ここはとても由緒あるところだ。

 雨が降らず干ばつで凶作となれば、王府と民百姓にとっては一大事。死活問題だ。だから大干ばつに襲われたとき、国王みずからが神女を従えて、雨乞いの儀礼をおこなったという。低い石垣が円形にぐるっと築かれている。丸く囲んだ区域が聖域とされ、石敷きの壇に香炉が設けられている。こんな円形の御嶽は見たことがない。王府の雨乞い儀式をするのだから、さすがに立派である。

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 


沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2)

2012-01-05 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2) 


首里金城町の湧水

 高地に位置する首里城の南斜面に、士族たちが住んでいた首里金城町がある。石畳道が伸びていて、首里王府の時代の面影を残す雰囲気がある。NHK連続テレビドラマ「ちゅらさん」のロケでも使われたので、すっかり有名になった。人気ある観光スポットになっている。500年もの間、風雨や戦乱にも絶えてきた歴史の道だ。首里城から南部に行く時の要路だった。

 ほとんどの人は、斜面の坂道を登り降りするだけで終わる。でも、石畳道は、いくつもの横道があり、縦横に石畳道が伸びている。横道を入って行くと、そこには昔からの湧水がたくさんある。



実は、首里金城町を歩いたのは、この付近がとても湧水が多い地域なので、古い井泉(カー)を見るためだ。この石畳の道は、人々が通行するだけではない意外な役割がある。それは、この地域に住む人々の生活に欠かせない水の確保にも貢献したという。石畳道が水の確保に欠かせないとは、どういうことだろうか?
この付近に降った雨は、石畳道から地下に浸み込み、井泉に流れていくという。
  
 
石畳道を下から登って行くと、すぐ左側に「新垣(アラカチ)ヌカー」が見えてくる。琉球王府時代の末期に、この屋敷の主である新垣恒俊氏が男子出産を祈り、私費を投じて造った井戸だという。

 でも私用ではなく、首里金城町の共同井戸の一つになっている。
 この日、七か所回ったが、同じ金城町の湧水でも、やはり「ガー(井戸)」と呼ぶ場所と「樋川(フィージャー)」と呼ぶ場所がある。「ガー」とは、文字通り井戸のように、その場所で水が湧き出ている。「樋川」とは、石垣より奥に水脈があり、そこから琉球石灰岩で造られた樋(トイ)で水を導き、半月形の貯水池に溜める。必ず、樋から水が出る仕掛けになっている。上の写真の新垣ヌカーは、カーだから樋がない。

新垣ヌカーから西にのびた道を進むと「金城大樋川(カナグシク ウフフィージャー)」に出る。こちらはとても規模が大きい。やはり住民の共同井戸だ。二つのかけ樋で地下の水を導き出している(下)。



 昔は、坂道を上下する人馬が、水で喉を潤し、一息入れた場所だった。 ここの少し東の方に、琉球を支配していた薩摩で和紙の作り方を学び、琉球で最初に和紙をすいた人の屋敷跡がある。17世紀末頃、この樋川の水で和紙が作られたという。
 由緒あるフィージャー(樋川)である。



 ここから斜めに少し上がると「仲之川(ナーカヌカー)」があった(右)。
 東には、金城大樋川、西には寒水川樋川(スンガーヒージャー)という大きな井泉があり、その中間にあるからこの名前がついた。

 水質や水量がとても優れていて、日照りでも水が枯れなかった。だから王府時代は、日照りの時は、首里城内の御用水になっていたそうだ。
見事な石積みのカーである。カーだから樋はない。石垣の右上に小さく見えているのは、このカーの拝所である。水は命の源であり、井戸、樋川は祈願の対象である。だから、かならず拝所がある。

 1883年6月の大雨の際に、壊れて王府の役職者、百姓ら45人が五万貫文を拠出し、王府に願い出て修理をしたことがある。その由来を刻んだ石碑がカーの入り口にあった。だが、沖縄戦で破壊され、いまその土台と碑の一部が残っている。

ここまでは、首里金城町の西側の井泉を回った。
 集落の中央部の石畳道のそばに 村屋(ムラヤー)がある。昔の集会所のようなところだ。今度は金城町の東半分の方面を回ってみた。



 


村屋から東に歩いて行くと、「上ヌ東門(ウィヌアガリジョウ)ガー」に出た(左下)。
 沖縄では、東はアガリ、西はイリという。これは太陽が東から上がり、西に入るからである。分かりやすい。門はジョーと読む。なぜ門がジョーなのかいまだによくわからない。

 このガーは、18世紀頃に造られた共同井戸である。やはり樋はない。文字通り井戸である。

 ただ、ここの井戸にはしっかりフタがしてあった。もう使われないのだろう。このガーは毎年、旧暦9月に行われる「ウマーチヌウグヮン」(祀りのときの御願)と呼ばれる防火防災の祈願で拝所の一つになっているそうだ。



ここから下がったところに「下ヌ東門(シチャヌアガリジョウ)ガー」がある。でも、どこから行けばよいのか、入る道がわからなかった。ウロウロしていると、ちょうど、そこへ人間一人がやっと通れるような細道から、おばあが降りてきた。早速、連れ合いが行き方を尋ねた。「この道を上がっていけば下ヌ東門ガーがあるよ」といま歩いてきた道を指して教えてくれた。

入って行くとあったあった。こちらは、フタはなく、半円形に石積みされている。やはり共同井戸の一つで、18世紀頃に造られた。

 前面に水汲み場の石敷広場が設けられている。上下二段に分けられ、下段の広場は水を溜めて、洗濯やイモ洗いなどできるようになっている。この井戸に上から降りてくる道は、石畳である。


首里金城町の共同の井戸は、みんな18世紀頃に造られている。 なぜだろうか? 推測してみると、この時代は、天災地変が相次ぎ、琉球でも干ばつと凶作で飢餓が起きたと伝えられる。多分、日照り続きで水がなくて 困ったことがあり、水源を探して井戸、樋川を造ったのではないだろうか。



どのガー、樋川も、見事な半円形の石垣が築かれ、半月形の貯水池がある。そして広場は二段に分けられ、飲料に使った後、下の段では洗濯など出来る。さらに、排水溝があり、使用後の水は農業用水にも使うなど、とっても合理的な使い方をしている。水は人間の生存と生活に不可欠であり、かつ湧水だから、それほど多くはない。だから、とても貴重な水資源であり、みんな大切に使った事がよくわかる。
 
石畳道を少し離れ、上に登ると「マルソウ通り」という通りに出る。西に向かい歩くと首里寒川町になる。この通りを少し降りると「寒水川樋川(スンガーヒージャー)」があった(上)。

 折しも、おじいたちが、草刈り、清掃をしてくれていた。「ごくろうさまです」と声をかけると、湧水のことを聞かなくても「樋川はこの下にあるよ」と教えてくれた。それだけ名高いからなのだろう。

 こちらも18世紀頃に造られた村ガー(共同井戸)の一つ。上水道が普及するまで住民の大切な生活用水だった。
 樋口の奥にある水脈から琉球石灰岩で造られたかけ樋で水溜りに導かれている。あふれた水は、下手の水溜りに集められ、洗濯などしたあと、農業用水として活用された(右)。というわけで、たくさんの井泉を見た。



首里の湧水は、まだ他にもあるが、首里金城町にこれだけ集中してあるのはなぜだろうか。
 人々が井戸を使うのには、井戸に通う道が欠かせない。飲み水を桶に汲み、この石畳の道を運んだことだろう。洗濯や芋など担いで洗いに通ったことだろう。昔の暮らしに思いをはせた。

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

2012-01-05 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

                                       沢村昭洋 

 

沖縄にはたくさんの湧水がある。沖縄本島は、北部は山が高く、谷川がある。でも中南部は、丘陵はあっても山らしい山はない。土地は琉球石灰岩が地表を被っているので、雨水が浸透して地下水が流れている。高台の下の崖の所や低い土地でも窪みになったところなど、水がわき出ている。

 湧水は、島の人々にとって命の源であった。集落のあるところ、かならず湧水がある。水の湧き出るところは、石積みで整備し、貯水池を設けて、住民が共同で使用してきた。

 

 

こんな湧水を、沖縄では「カー」と言う。井戸とも呼んでいるが、大和でいう井戸とはまるで異なる。大和では地下水のありそうなところに、縦穴を掘った。昔は、つるべで水を汲み上げた。その後は、手押しのポンプで汲み上げていた。こういう井戸も沖縄にないわけではない。でも少ない。多いのは、自然の湧水である。井泉と呼ぶのが適しているかもしれない。 


 

 井泉の名称としては、通常、地表に水が湧き出て、すぐそのまま利用できるところを「カー」。斜面の奥に水源があり、石や木で樋(トイ)をつくり、水を導きだしているところは「ヒージャー(樋川)」と呼ぶ。「カー」と区別している。

 「カー」は漢字を当てるとすれば「川」ではなく「井」である。首里王府で編纂した『琉球国旧記』では、「井(かあ)」と記している。ときには、「川」を使っている井泉もあるが、大和でいう川ではない。あくまで湧水である。

 本島だけでも、一つの集落にいくつかの井戸がある。しかも、その湧水のある場所の地形や水の出方、利用の仕方はさまざまである。井泉といってもその姿はすべて同じものはない。地域ごとに異なる。まるで城の城壁のように、半円形に高く見事な石積みがされているところもあれば、素朴な井泉もある。上水道が普及してもう使われなくて、そのまま放置していると危険なので、コンクリートで蓋をしたり、鉄柵で囲い鍵をしているところもある。いまの姿は変わっていても、長年にわたり、住民の命と暮らしを支えてきた水源にはかわりない。島に生きる人々の水への思いは、大和で考えるよりはるかに大きい。

 だからどこの井泉でも、必ず住民が祈願する拝所がある。そして、いまなお人々が日々、祈願に訪れる。そんな井泉の拝所を見ると、いかに島の人々にとって、井泉がかけがえのない役割を果たしてきたのか、そういう意味ではいまなお神聖な場所であることを、うかがい知ることができる。
 たくさんの湧水をすべて見て回ることは不可能だ。たいていは、地域回りなどをしていて、井泉に出会う。そんな、歩いて見た湧水を紹介したい。

 

 

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記


沢村さんの沖縄通信・・・沖縄に「ジョン万焼」登場

2011-04-06 | 沢村さんの沖縄通信

 

中浜万次郎のゆかりの地、豊見城市(とみぐすくし)の瀬長島にある「空の駅 物産センター」に、万次郎にあやかった「ジョン万焼」「ジョン万そば」が登場しました。

 

 

 


 万次郎は、1851年、アメリカから帰国するさい、当時の琉球に上陸し、豊見城村翁長(おなが)に半年間、滞在しました。そんな縁で、昨年「沖縄ジョン万次郎会」の創立20周年事業として、同市翁長にジョン万次郎記念碑が建立されたばかりです。


 「空の駅」の食堂のオヤジさんに、どういう縁でこのメニューが作られたのか尋ねてみました。「これはですね、ジョン万次郎の5代目当主の方が、万次郎会20周年のおり、お見えになりまして、これをつくって下さい、ということになったんですよ。そばは、中味は沖縄そばですが、ジョン万そば、と名付けたんです。橋本前高知県知事もおいでになり、ジョン万焼を食べられましたよ」とのことだった。


 瀬長島は、那覇市に近く、島だけれど道路が通じています。とても気軽に行ける島なので、いつも家族連れでにぎわっています。それに、那覇空港に近くて、島の真上を通過して離着陸する航空機が良く見えるので人気があります。観光スポットであり、若いカップルのデートスポットでもあります。

 

 


 というわけで、瀬長島に「空の駅」があります。ジョン万焼は1個100円(もち入り)、ジョン万そばは500円。ちょうど、昼食を食べたあとだったので、今回は味見はできませんでした。ジョン万あやかりメニューが、沖縄の観光スポットに登場したのも、沖縄でジョン万次郎がとても親しまれていることのあらわれでしょう。

 

 

 

 

 沢村さんの沖縄通信 

「高知ファンクラブ」での 連載もの

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ  記事一覧はこちらから


沢村さんの沖縄通信・・・沖縄の市場の歳末風景

2010-12-30 | 沢村さんの沖縄通信
沖縄の市場の歳末風景
  
沖縄の那覇市の牧志公設市場と周辺の市場は、年末年始の買い物客でとてもにぎわっています。写真点描でいくつか紹介します。
 

2-082.jpg①年越しそばーー伝統ある公設市場に行くと、入り口に長い長い行列ができている。「なんのための行列なのか?」と先頭の所まで見に行くと、そこは手打ち沖縄そばの店でした。手打ち麺を家族分でしょうか、大盛で買っていました。沖縄では行列はできないのが普通だけれど、ここだけは100人近い人が順番待ちしていました。
 
 
2-071.jpg②正月飾りの稲穂と米俵ーー小さな米俵は金ピカです。稲穂は束にしたものを売っています。
 
 
2-088.jpg③炭と昆布ーー沖縄では「たんとこんぶ」は「たんとよろこぶ」に通じるので縁起が良いと、正月には台所の神様である「火の神」、仏壇に、鏡餅やミカンなどといっしょに並べます。丸い炭を7,8㌢に切り、湿った昆布で巻き、さらに「寿」の字のある赤紙で巻いています。
 
 
2-092.jpg④鏡餅ーーといっても、「火の神」専用の鏡餅です。仏壇などに供える餅より少し小さいですが、「火の神」用のを別に売っているのが、沖縄ならではです。

 

 


2-068.jpg⑤田芋(ターム)ーー田芋は一度茹でたものを店頭で売っています。茹でているのは、そのまま煮物にするのではなく、すりつぶして田楽や砂糖醤油で味付けしてから揚げにするなど料理します。正月の定番料理です。田芋は水田で作っています。

 

 


2-122.jpg⑥かまぼこーー沖縄の蒲鉾は、鮮やかな赤と白で、とっても大きい。家族が多いし、親戚が回ってくるから、料理もたくさん作らなきゃいけないようです。

 

 

 

  2-109.jpg⑦豚肉ーー肉はスーパーでも買えるけれど、たくさん買うので、市場で肉をよく見て、指でつついて、品定めをして買う。三枚肉(ラフティにする)、ソーキ(アバラ肉)、テビチ(豚足)など山のように並べられています。
 
 
2-116.jpg⑧中味汁ーー中味とは、牛、豚の内臓。これで中味汁をたくさん作る。だから大量に買うのは市場でなければ買えない。「イナムドゥチ」というお汁も正月によく食べる。豚三枚肉、カステラかまぼこ、コンニャク、干しシイタケなど入れ、甘味噌で味付けする。これ専用の味噌が売られている。とくにその写真はないです。
 

2-069.jpg⑨テビチ煮付ーー長時間かけて自宅で煮る人が多いが、手間がかかるので、煮付がよく売られています。とても美味しい。

2-108.jpg

⑩お魚ーーマグロ、カジキを短冊状に切った身はてんぷら用。沖縄はてんぷらが大好きで、魚のてんぷらといえば、マグロ、カジキ、イカなど定番です。

 
2-103.jpg⑪島大根ーー大きくて、柔らかい。でもいまはあまり作らないので、少なくなっています。

2-067.jpg⑫セロリーーなぜ沖縄なのか、というとアメリカ占領の影響です。米兵家族はセロリをたくさん食べるので、戦後は農家がよく作ったのです。戦後まだ、野菜栽培にも人糞を肥料に使っていたけれど、米軍は不衛生だと決めつけ、化学肥料を使えと求めてきたそうです。いまもセロリはたくさん作り、大きな株ごと一株100円、150円とか安く売られています。正月関係ないけれど、寒くなった今がシーズンです。
 歳末の市場の風景も、沖縄ならではの正月飾りや料理、食材がいろいろあります。
 
 
 
 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ




沢村さんの沖縄通信・・・佐川町出身・黒岩恒さんの顕彰碑を見ました

2010-12-07 | 沢村さんの沖縄通信
その後おかわりありませんか。12月となっても沖縄はまだ扇風機が欠かせません。明日からは少し気温も下がりそうです。名護方面に一泊でドライブしたので、黒岩恒の碑をやっと見つけました。僕もブログに書く予定ですが、先に高知の人にもお知らせしたいと思い、拙文と写真を送ります。                                     
                                                    沢村
 
黒岩恒さんの顕彰碑を見ました
 
 「知られざる高知人」として以前、紹介した黒岩恒さんの顕彰碑が名護市内で建立されているのを、見てきました。
 
黒岩さんは、佐川町立野の生まれで、明治25年(1892)沖縄師範学校教諭として赴任し、明治35年に国頭(くにがみ)郡各間切組合立農学校の創立にあたり、初代農学校長に迎え入れられました。「間切」というのは、現在の町村にあたる単位です。
 
博物学者だった黒岩さんは、沖縄に28年間いた間に、沖縄の動植物から地質、民俗など広く関心を持ち調べて、たくさんの新種を発見したことで知られます。「クロイワ」と名のつく動植物は、数十種類もあるそうです。
 
最近、話題の尖閣諸島を調査し、尖閣諸島を命名したことでも知られ、尖閣諸島問題がクローズアップされるにつけ、命名者の黒岩さんも新たな注目を集めているようです。
 
 
sawa073.jpg
                    黒岩恒先生顕彰碑
 
 この顕彰碑は、名護市大中の県立北部病院の駐車場の敷地内にあります。黒岩さんが初代校長を務めたこの農学校は、日本三大農学校の一つとしてその名声を博し、幾多の有為な人材を輩出したと言われます。黒岩さんは教え子たちにとても慕われていたようです。
 
顕彰碑は、昭和43年(1968)に「黒岩恒先生顕彰会」が建立したものです。碑文では「沖縄在住二十八年、其の間十有三年間の農学校長としての功績が最も顕著であり、文部省から選奨の栄誉に浴し、またそのすぐれた薫陶を与えた教え子四百余名を農民指導者として社会に送り出し、自からその最高指導者となり、農産物、有用植物、家畜等優良品種の導入増殖普及に努力、原始的であった沖縄の農法を科学的近代農法へ改革する基礎を創始した」と記しています。
 
 
    sawa076.jpg
                漢詩が刻印された顕彰碑の裏面
 
 碑の裏面には、明治40年(1907)、昆虫植物採集の帰途、名護市(当時は町)許田(きょだ)付近で詠んだ漢詩を刻んでいます。漢詩は、風光明美な名護湾と付近の風景を称賛した内容です。
 
 
 
sawa079.jpg
   黒岩さんが初代校長を務めた国頭農学校跡の碑、左隣りに見えるのは黒岩恒先生顕彰碑
 
 黒岩さんの顕彰碑の左隣りには、この漢詩を別の碑として建立してあり、右隣には、初代校長を務めた「国頭郡各間切島組合立甲種国頭農学校跡」の碑が、一昨年(2008年)に同窓会によって建立されたばかりです。
 
 
 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒  追記
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その4
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その3
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その2
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その1

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ

 




沢村さんの沖縄通信・・・糸満ハーレー

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信
ito006.jpg 豊漁と航海安全を祈願する海人(うみんちゅ、漁師)の行事、「糸満ハーレー」が15日、沖縄県糸満市の漁港で開かれ、大勢の人々でにぎわいました。
 
ito012.jpgこの日は旧暦5月4日で「ユッカヌヒー」といって、沖縄各地でハーリー(糸満はハーレーと呼ぶ)でいっせいに行われました。
 
 
025.jpg 糸満市の西村、中村、新島の三地区が保有するサバニ(小舟)を使い、三地区対抗の「御願(うぐぁん)バーレー」「青年団ハーレー」や市内の職域対抗ハーレー、さらにはサバニを転覆させてもう一度乗り競う「クンヌカセー(転覆)」、男系血族組織の門中(むんちゅう)で競う「門中ハーレー」など、糸満ならではのハーレーと次々行われました。
 
 
    周りの岸壁には応援と見物の人々が詰めかけ、鉦(かね)や太鼓が鳴り、声援が飛び交います。船の漕ぎ手は「ハーレーシンカ」と呼ばれ、若者が中心です。応援の年配者、年寄りもみんな若い時にはハーレーに参加した人たち。応援には熱が入ります。
 
ito028.jpg
 
 漁港内には、芸能船が登場するのも糸満ハーレーの見物です。歌三線で民謡を流れると、気分も盛り上がります。船は港内をぐるりと一周して、芸能を披露。狭い船内では、踊りや獅子舞まで演じられました。
 
073.jpg 最も面白い行事は、子どもたちによる「アヒル取り競争」。アヒル50羽、スイカ50個、真鯛50匹(ただし、引き替え用のボール)が港内の海に浮かべられ、花火が打ち上げられると、岸壁からいっせいに子どもたちが海に飛び込みました。
 
ito070.jpg
 
 子どもたちが競い合って逃げるアヒルを追いかけ、足や首をつかむと、歓声が上がります。ハーレーは中国から伝わりましたが、アヒル取りも中国で行われていたそうです。
 
076.jpg
 
子どもたちはアヒルをつかんで海から上がってきましたが、アヒル汁にするのかと思えば、「人にあげる」とか「売る」という声が聞かれました。取ること自体が楽しみのようです。

沖縄通信・・・「ヒージャーオーラセ」(闘山羊)

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信
ヤギを闘わせる「ヒージャーオーラセ」(闘山羊)を見に、本島北部の名護市の山里、勝山に行きました。

  

21,22日と開かれた「シークワーサー花香り祭り」の一番のイベントでした。

   

 

120.jpg

 

 闘うのは、立派な角を持つオスです。円形の柵の中に入った2頭のヤギは、互いに高く立ち上がって頭を振り下ろし、ガツーンと角を突き合わせ闘います。

 

124.jpg

 

ヤギといっても大きいのは120㎏ほどもあり、角を突き合わせ時はスゴイ迫力。歓声と拍手がわきます。ヤギも拍手があると興奮して余計ハッスルします。見に行った21日は、15頭が闘いました。

 

 

 

136.jpg 終わりには、抽選会があり、一等はヤギ一頭。おばさんが引き当てましたが、自宅では飼えないので、その場でセリにかけられ、見事12000円で買い取られました。引かれていくヤギを見送っている女性が、一等を当てた人です。

 

 

033.jpg

 

077.jpg 沖縄ではヤギのことを「ヒージャー」と言い、「ヒージャー汁」「ヒージャー刺身」がウチナーンチュ(沖縄人)は大好きです。勝山地区は、ヤギと柑橘類の「シークワーサー」の産地。祭りには住民が店を出し、ヤギ汁、刺身も売られており、近くには地元の販売店もあり看板が出ています。

 

 

054.jpg祭りが開かれた勝山公民館には、命を頂くヤギの鎮魂を願って「羊魂碑」が建てられていました。

 

 

070.jpg 

シークワーサーは、スダチのような柑橘です。付近にはたくさん木があり、白く可憐な花を咲かせ、甘い香りがただよっていました。


沖縄通信・・・華やかに一万人のエイサー踊り隊

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信


eisa-005.jpg


 



eisa-002.jpg沖縄は夏祭りのシーズンです。


2日は那覇市の国際通りで「一万人のエイサー踊り隊」がエイサーパレードを繰り広げました。エイサーは、もともとお盆に先祖の霊を迎え、送るための盆踊りです。伝統的な踊りに加え、新しい振り付けや音楽で踊る創作エイサーも盛んです。


 


 2日は炎天下の中で、繁華街の国際通りに設けられた9カ所の演舞場を中心に、県内各地の10の青年会、20の創作エイサー団体が、太鼓を打ち鳴らし、勇壮な踊りを披露しました。

 

 


009.jpg エイサーは、とてもカッコイイので、子どもたちにも人気があり、ちびっ子の踊り手もたくさん登場し、パーランク(小さな手打ち太鼓)を打ち鳴らし、元気よく踊っていました。

 

沿道には、おじい、おばあから観光客、外国人など詰めかけ、2歳ほどの子どももパーランクを手に応援していました。エイサーには、獅子舞が付きもので、今回はド派手な色の獅子舞が登場し、人気を集めていました。

 

 

 


eisa-007.jpg 真夏のエイサーは、通常は夜踊るのですが、この祭りは真昼なので、みんな1曲踊るごとに汗だくだく。付き添いが、ワゴンに冷水をのせて運び、水分補給をしています。

 

 「やったことないけれど、一度踊ってみたい」という人のために、当日、2時間ほど前から練習をした「にわかエイサー踊り隊」も踊りを披露しました。     沖縄・沢村