「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・父の叙勲、恩師の叙勲、そして

2011-09-23 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

父の叙勲、恩師の叙勲、そして

                                                                          情報プラットフォーム、No.2889月号、2011、掲載

 

  父 鈴木英三郎(1903,8,8~1986,5,15)1973年の秋に勲三等旭日中綬章の叙勲を受けた。刑務官一筋を全うしたが、彼の人生は、暴動、脱 走、虐待、戦犯、汚職などのキーワードが並ぶ波乱に満ちたものである。{破獄}(本誌、No.2027(2004))にその一端を記した。

  勲二等以上の伝達式は宮中に於いて行われるが、勲三等からの伝達式はそれぞれの省庁で行われる。恒例に従って、父は母を伴って伝達式に出席した。帰宅した 母に感想を聞いた。「最前列に座っている人たちは、うちのお父さんも含めて偉そうな顔をしている。『何故、おれが勲三等なのだ』と云わんばかりの不満気な顔さえしている。」、「それに比べると、後ろの方に座っている勲五等、勲六等の人たちを見て感動した。長年連れ添った老妻と涙で抱き合っ ている。『有り難う、お前のお陰だよ。』の連発なの。叙勲はこのような人にこそ大きな意味があると思うの。お父さんを叙勲する必要などないわ よ。」とのこと。官僚として定年を迎えて、当然のこととしての勲章ではなく、地道に地域に生きて、人々のために尽くしたことが認められる勲章こ そ、意味深いと母は
思ったのである。

恩師 梅川荘吉先生(1924,1,10~  )2001年の秋に勲三等瑞宝章の叙勲を受けた。それまでに、大先輩の祝賀会に先生と共に出席する時、彼の口癖は「たかが勲章で、あの嬉しそうな顔。鈴 木。おれは勲章など欲しくもない。おれの心配はしなくても良いからな。」である。そして、最長老の乾杯の音頭では、「スピーチが10分を越えそう だな。老害の最たるもの。素晴らしい先輩と思ってい
たが、見込み違いだったな。耄碌(もうろく)の極みだ。」と囁くのである。梅川先生から多くの ことを学んだ。軽妙洒脱な語り口もその一つであり、{天真爛漫と傍若無人}(本誌、No.25411(2008))に書かせて頂いた。

  航空工学に先生は憧れていたが、東京工業大学に入学した時には、戦争に負けて、その領域の教育・研究は禁止されていた。そして彼は金属工学科に進んだ。し かし、夢を捨てることはなかった。これからの航空機材料となる軽量複合材料の研究を行ったのである。最終的には宇宙開発に関わり、無重力下での材料実験へと進んだ。助教授として、私の研究対象は、本来の金属間化合物の研究({伊能忠敬の地図}、本誌、No.2354(2007)を参照)に加えて、当然複合材料の分野へも拡がった。退官された先生の後を継いで、毛利衛さん搭乗の日本初の宇宙材料実験を行う栄誉を担うことができた。 先生のお陰である。

  彼はビーチクラフト・ボナンザを所有している。尾翼がV字型である。髪結いの亭主はいいですねと言いながら、何度も乗せて貰った。「鈴木。タッチ・アン ド・ゴーに大島まで行こうよ。」と、駐機場になっている調布飛行場へ向かうことが多かった。

先生が70歳を過ぎたころ「鈴木。おれの叙勲はどうなっている。」、「先輩は要らないと言ってましたよ。」、「本気にするやつが何処にいる。おれは欲しいのだ。」と怒鳴られてしまった。間もなく90歳になろうとする今でも、パイロットの免許を持ち続けている。裸眼視力を自慢する度に「先輩は勉強を しなかったからですよ。」と冷やかしている。

春の叙勲は311日の東日本大震災で大きく遅れた。地震と津波、そして原発事故のテレビ映像から思い起こすのは、一面焼け野原の横浜の市街地である。父の福岡から札幌への転勤途上で横浜大空襲に遭遇した。中学1年生の時である。
今、瑞宝中綬章を前に「よいことは おかげさま」と振り返り、「生かされてある」の思いを深くしている。


 

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。
 

鈴木朝夫(すずき ともお)
718-0054 
高知県香美市土佐山田町植718
0887-52-5154
、携帯 090-3461-6571  
s-tomoo@diary.ocn.ne.jp   

  

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録


鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・情報交流館ネットワーク

2011-09-23 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」
情報交流館ネットワーク
                                            情報プラットフォーム、No.287, 8月号、2011
 


  火中の栗を拾うような形で情報交流館ネットワークの代表を引き受けた。
1999年(平成11年)の発足当時には、情報交流館ネットワークには登録した加盟団体が50近くもあり、交流館は単なる箱物ではないぞと活気に満ちていた。
小さな「森の音楽会」もそのような活動の一つであった。当時の活発な雰囲気の事例を感じて頂くために、「森の音楽会事始め」と題した拙文を「情報交流館ネットワークだより」(No.14、11(2002))から抜粋する。
           ---------------
  「コミュニティー・センターの小さなホールでの、個人の家のダイニングルームでの、ミニコンサートを探しては聴きに行きました。アメリカに一 年間滞在した1974年から1975年に掛けてのことです。演奏者の息遣いが聞こえるほどに近くで、音楽を聴くのは初めてでした。ハプシコードを 間近で見たり、触ったりしたのはこのようなときでした。」

  「高知にもありました。香北町の物部川のほとり、おしゃれなログハウスの喫茶店があります。その樫尾さんご夫妻から『今度、フルートの小さな リサイタルをここでやります。』とお誘いを受けました。」、「土佐山田町の奥、由緒
ある旧家を利用した料理屋があります。ここは、一晩に一組の客 しか受けず、年末には一年分の予約が入ってしまうほどの評判です。」、「お料理を戴きながらの小さな音楽会が年に1回ここで開かれ、4~5年も続いて居ることを知りました。この地区の横山さんを中心に進めて居られると聞きました。」

  「高知工科大学は林業試験場を移転させて、建設したという経緯があります。物部川の右岸、工科大の対岸に、様々な機能を統合した高知県森林総合センターがやっと出来上がりました。この中に『森の情報交流館』があります。県民に森と木の文化を知って貰うための施設です。
ある時、上のよう な関連ある方々の集まりで、この空間を利用して音楽会を開こうと盛り上がりました。子供が居ても良い、騒いでも良い、気楽な音楽会にしようとまと まりました。クラシックだけではなく、時には、ジャズも、フォークソングも、そして、野外に出て草笛やオカリナを聴くことも考えようと決まりまし た。音楽の合間に森と緑に関連ある話を聞きます。」、「今までの話題は、きのこの話、森の動物、炭の不思議、里山の話、土佐派の家などです。」

  「森の情報交流館のイベントコーナーのパソコン投影スクリーンの直ぐ上に、『森の音楽会』と記した緑色の看板がいつも掛かっています。 1999年9月に行った第2回の時のままです。今後も続けて行こうとの証とお考え下さい。
           -------------
 あれから約10年、どの団体にも老齢化の波が押し寄せ、意識のマンネリ化や組織の硬直化が進んでいる。県との関係においても情報交流館の運営方針・形態も変化し、今では指定管理制度に基づく経営に変わっている。一方で、情報交流館ネットワークの構成団体は減少傾向にあり、加盟団体は25程に減っ ている。

数の減少だけではなく、その活動も低迷して居る。指定管理を受けるための汲々とした対応になりがちであり、それをこなして仕事が終わった と思いがちである。理想の弾力性・柔軟性からはかけ離れている。

  情報交流館をバーテャル空間にも拡大し、メーリング・リストで多くの人と広く連携を取り、自然な形での新陳代謝が進む仕組みを構築したい。予算がなくても活動できるぞとの意識と工夫を励まして行きたい。皆さんの漲る熱気で10年前の活力を取り戻したい。美味しい様々な焼き栗を楽しもう。
 
ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。
鈴木朝夫(すずき ともお)
〒718-0054  高知県香美市土佐山田町植718
0887-52-5154、携帯 090-3461-6571  s-tomoo@diary.ocn.ne.jp