「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)



宜野湾市森の川


宜野湾市には、森の川(ムイヌカー)と呼ばれる由緒ある泉がある。
                   森川公園になっている。石積みが見事な泉である。この辺りは湧水がとても多いところだ。水源は、この公園の北側の高台に広がる米軍普天間基地だ。水路から、こんこんと水が流れている(左)。その昔、この森の川に、奥間大親が来たところ、天女が水浴びをしていたので、木にかけていた衣を隠した。困った天女を家に連れて帰った。
一男一女が生れ、その子・察度(サット)は後に、中山国の王に就いた。まだ琉球が統一される前である。だから、森の川は羽衣伝説の地として知られる。
察度王は、当時の明国に朝貢し、中山国王として任命してもらう冊封(サッポウ)関係を結んだことで知られる。
 この水路の奥に、実は円形の石積みの囲われた空間がある。この日は、シルバー人材センターのおじさんたちが、清掃をしていた。何か、誇りを持って丁寧に清掃していた。



                         
「ここは囲われているから、水浴びをする場所だっただろうね」と説明してくれた。左写真では、残念ながら円形が見えない。上から見ると見事な円形である。「沖縄戦で壊されたのですか?」と聞くと「いや、少し壊れたところは、白い石で復旧してあるが、他はほとんどは壊れずに残ったので、昔からの石積みですよ」という。

 
 沖縄のあちこちで、城跡をはじめ石積みの遺跡をみるが、ほとんど壊されて、戦後に復元させたものだ。でもここはよくぞ残ったものだ。なぜだろうか?



                                               多分、日本軍が陣地を造っていたのは、宜野湾でももっと南に当たる嘉数高台から那覇にかけての高地だった。だから、読谷近辺に上陸した米軍は、嘉数高台までは、日本軍の抵抗をほとんど受けず、一気に進軍した。この付近は素通りしたので、壊されずに残ったようだ。おじさんに尋ねると「そのようですよ」と肯定していた。 左の絵は、昔の住民か水場を利用していた風景である。

「この辺りはカー(泉)が多いので、戦前は那覇にも導管で送っていた。この北側にも、ここよりもっと大きいカーがあるよ」という。「エッ、もっと大きいんですか! その場所って、ひょっとして普天間基地の中じゃないですか」と言うと、「そうそう、基地の中だから、自治会でカギ借りないと入れないよ」「そうですか、じゃあ、カーで何か行事のある時は、カギを開けて入るわけですね」「そうそう」。おじさんは、こともなげに話す。

 この泉の隣には、これまた由緒ある「西森御嶽(ニシムイ ウタキ)」がある。神聖な拝所である。碑もあり、その前に石門が造られている(下)。琉球王国の時代、由緒ある拝所の前には門を造っていた。門の中は神聖な森である。他には何もない。

 


 琉球王国の尚清王につながる向氏伊江家の人々が、18世紀に森の川の石積みと石門を建てたそうである。普天間基地の中には、昔からの御嶽もある。お墓もある。カー(泉)もある。一日も早く、基地が閉鎖、返還されれば、自由に出入りできるだろう。
 由緒ある井泉を見て歩いても、米軍基地問題に突き当たる。それが沖縄である。


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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)



宜野湾市の喜友名泉


米軍普天間基地のある宜野湾市には、たくさん湧水の名所がある。その一つに、「喜友名泉」がある。喜友名はいまの読み方は「キユナ」だが、この湧水は方言読みで「チュンナーガー」と呼ぶ。
 この湧水は、なんと米軍の「キャンプ瑞慶覽(ズケラン)」の中にある。でも、住民にとって生活用水としてなくてはならない泉で、由緒ある湧水である。だから、基地の中でも、金網は住民が立ち入れるように仕切られている。でも勝手には入れない。市教育委員会文化課に連絡すれば、鍵を開けてくれた。『ぎのわんの文化財』の冊子もいただいた 。


 
那覇から国道58号線を北上し、伊佐の交差点から普天間デイゴ通りに入るとすぐに、左側に「喜友名泉」が見える。入口からして立派だ。入り口にもすでに石造りの碑川が作られ、水が流れ出ている。現在でも喜友名泉は、ポンプアップして、簡易水道として、畑の散水などに使われている。

 

厳重なアメリカ式のカギを開けてもらい、金網の中に入ると、坂道を降りて行く。石畳の道もある。見えてきた、見えてきた。昔からの湧水らしいとても雰囲気のある泉である。普通、湧水は「井戸(カー)」や「樋川(ヒージャー)」という名前が多いが、ここは「泉」の字を使っている。  
 二つの井泉がある。左側の泉を「イキガガー」と呼ぶ。「イキガ」とは男性を意味し「男の泉」。右側の「カーグヮー」は「イナグガー」と呼ぶ。「イナグ」とは女性なので「女の泉」を意味する。


 
 左写真は「イナグガー」である。イナグガーの正面の壁には、なんと3か所も湧水口がある。湧水口の上には、庇(ヒサシ)がついている。おもに、日々の飲料水や洗濯によく利用されたという。「イナグ」の名がついたのは、水汲みや洗濯などは主に女性が担っていたので、女が使う泉として名付けられたのではないだろうか。


名前の由来は、冊子にも書いていない。私の推測である。
 湧水口の前に、長い机のようなものが二つある。もしかして、これに腰をかけて洗濯などするために置いたのではないだろうか。湧水口とは反対側の壁際には、石造りの棚のような形のものが置かれているこれは何のためだろうか? やはり、水を汲んだカメや桶、洗った野菜、洗濯物など置くためだろうか。わざわざ窪みがある。考えられるのはそんな用途である。ちなみに、左側の「男の泉」には、こんなものは何もない。




 「イナグガー」の左側に、石積みで仕切られた三角形の空間がある。これはなんだろうか? 
 後から出てくる宜野湾市の「森の川」を見たとき、円形の石積みで仕切られた場所があった。それは水浴びをするためだった。こちらの三角形の場所も衝立で仕切った形なので、水浴びをしたのかもしれない。でも、仕切っても天井はないので、周りから丸見えである。だから違うのかもしれない。まだ謎である。

「イキガガー」(男の泉)は、左側の壁と正面の壁の2か所に湧水口がある。あとは何も置かれたものはない。


こちらの泉は、の節々の拝み(祈願)や正月の「若水」(ワカミジ)汲み、子どもが生まれた時の「産水」(ウブミジ)、人が亡くなった時の「死水」(シニミジ)など人生の折り目の時に使われたそうだ。
 もう一つ別名がある。「ウマアミシガー」と言う。つまり牛馬の水浴びに使われたという。これは男の仕事だっただろう。でも、拝みは女性が担うのが普通である。

 この泉はいつ造られたのか? 右の「イナグガー」に置かれた香炉は、明治22年(1889)の奉寄進で、この年に新造ないし修造されたと考えられている。それほど古くない。左の「イキガガー」は、もっと古い感じがする。
 「喜友名泉の水源利用の開始及びウフガーの築造年代は、湧泉の周辺に生えている樹齢数百年のアコウ大木から推測されます」(『ぎのわんの文化財』)と言う。築造がいつか断定していないが、琉球王府時代からのものであることが推測される。


 この湧水は、喜友名の集落からは、相当低い位置にある。集落から泉に来るのに、急勾配の石畳の坂道が約100㍍も続く。高低差が25㍍もあるという。昔は、飲料水など水汲みは、主に女性の仕事にされていた。それで、水汲みがきついので、喜友名には、他のからお嫁さんのきてがなかったという。その半面、水汲みをするためか、喜友名の嫁さんは「働き者」という評判だったそうである。


 でもやはり、喜友名の娘さんたちの朝夕の願いは、カービラ(泉に降りる坂道)が少しでも低くなるように願ったそうである。
住民の中でも、いまでも御願(ウガン、祈願)に来る人がいるのだろうか、金網の外側にお線香を焚いた残りがあった。たぶん、金網の中に入りたかったけれど、鍵が閉まっていたので入れず、金網の外で御願をしたのだろう。これも米軍基地の中に、由緒ある泉があるがためである。
 この喜友名地区は、南側は広大な普天間基地があり、北側はキャンプ瑞慶覽がある。米軍基地にサンドイッチされたような住宅街なのである。
 基地の中には、住民が古くから利用してきたこういう湧水や拝所、お墓などがある。なぜ、わが郷土の由緒ある場所が外国基地として占拠されているのか。鍵で開けてもらわないと入れないのか。理不尽さを痛感する泉である。


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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)


浦添市の沢岻樋川

浦添でももう那覇市のすぐ隣になる沢岻(タクシ)を歩いた。いくつか拝所など巡ったあと、沢岻樋川があるはずなので探した。なかなか分らない。人に聞いても分らない。展望がよい場所に出たので写真を撮っていた。振り返ると、マンションのそばに史跡らしいものがある。それが沢岻樋川だった。


樋川は、水槽がいくつにも区切られている。飲料用や野菜や食器など洗うところ、衣類を洗濯するところなど用途によって分けられているのだろう。高台のとても眺望のよい場所なのに、水は多く、いまでもとても透明度が高い。のぞいてみると、小さな魚が何匹も泳いでいるではないか。

 普通、井泉ではあまり魚は見ない。でもここはなぜか棲んでいる。この樋川はとても由緒あるそうだ。由来と琉歌が書かれた立派な碑がある。
「沢岻樋川やかりーな泉 首里御城に若水ゆうさぎてぃ 千年万代栄えうにげ」。「かりー」はめでたい、縁起が良いという意味である。説明文には要旨次のように記されている。

 

 沢岻樋川は1000年余りの歴史がある。琉球王朝の頃、風水の方位がよく、水質も良い泉であり、正月には国王の長寿・繁栄を願い、若水を献上したという。琉歌はそのことを詠んでいる。1999年修復とあるから、昔からこういう碑があったのだろう。若水汲みについて、あとから詳しくふれたい。


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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)


浦添市の仲間樋川



琉球が統一される前、中山国(チュウザンコク)の王都だった浦添市の浦添グスク跡に近い集落、仲間を歩いた。ここには、大きな仲間樋川(ナカマフィージャ)がある。このあたりは、沖縄戦の激戦地である。
 樋川は市内で最も大きい井泉の一つ。仲間集落の村カー(共同井戸)として大切にされてきた。樋から水が豊富に流れ出ている。
 昭和10年(1935)コンクリートの近代的な改修がされた。上部の水タンクに水を貯め、次に洗濯などする「平場」をへて、最後は農具や農作物を水洗いしたり、馬の水浴びなどする「ウマアミシ」にたまるように造られている。


この樋川は戦争で大きな被害を受けず、仲間の収容所に集められた数千人の人々の生活水をまかなった。


                      
上水道が整備される昭和40年代まで、水を利用する人たちでにぎわったという。
 いま見ても、とても規模が大きい。水量も豊富である。なかなか見事な樋川である。いま夏休みで子どもたち10人ほどが集まり、水遊びに熱中していた。
         


 グッピー(小さな魚)がいると言って、網ですくったり、水かけをしてはしゃいでいる。楽しくてたまらない様子。時間の立つのも忘れるだろう。中学生らしいニイニイが一人いて、しっかりリードしていた。子ども時代に、田舎の川で遊んだことを思い出す。いまではとても懐かしい光景だ。



 

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元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

タイトルを見ると、なんのことか意味不明だろう。元日といえば、届くのは年賀状が普通。それが、今年の元日は、なんと郵便局から年賀状とは別に、2回にわけて配達があった。こんなことは初めてなので、ビックリ。さっそく開いてみると、一つは「沖縄ジョン万次郎会」の『結成20周年記念誌』である。もう一つは、故郷の同級生が送ってくれた町発行のカレンダー。といっても、町出身の植物学者の牧野富太郎の植物画を各月に掲載したものだった。
 新年に届いたプレゼントに、元日から嬉しい気持ちになった。この二つの贈り物に共通するものは、「ジョン万と富太郎」という2人とも、高知県出身の誇るべき偉人であるということだ。長くなるので、今日はジョン万次郎記念誌を紹介したい。

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これを送ってくれたのは、沖縄ジョン万次郎会事務局長の名嘉真和彦氏。年末にある忘年会でたまたま一緒になり、名嘉真さんがジョン万会役員であることを知り、連れ合いが「夫は高知県出身です」と伝えたところ、「記念誌を送りますよ」と言ってくれたのだった。

 中浜万次郎は、漁船で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、10年間アメリカで過ごした後、1851年に琉球の大渡海岸に上陸し、取り調べのため半年間、琉球に滞在した。滞在したのが、豊見城村翁長(トミグスクソンオナガ)の高安家だった。万次郎は、幕末の日本に西洋の事情や民主主義の思想を伝え、開国の先駆者となった。その万次郎が、滞在したさいは、村の先代たちは、温情ある接遇をしたという。この史実や万次郎に関することを広く普及していこうと、1991年に発足したのが、この会である。

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記念誌は、A4版で154ページもある立派な装丁である。記念誌は、各界の人たちの祝辞から20周年の記念事業の経過報告、記念の座談会、会のあゆみ、講演会の模様、さらには市民劇「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」、ジョン万カップ少年野球交流大会、土佐清水ジョン万祭り、アメリカのジョン万祭り(フェアヘーブン)の様子まで盛り沢山の内容だ。上の写真の記念講演会には、前高知県知事の橋本大二郎氏の姿も見える。

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万次郎を助けたホイットフィールド船長の故郷、マサチューセッツ州フェアヘーブンの「ホイットフィールドー万次郎友好協会」のゲラルド・ルーニー会長や万次郎直系五代目の中浜京さんの祝辞も掲載されている。中浜京さんが、万次郎が滞在した高安家を訪ね、ここで過ごした日々、地元の人たちとの交流などを聞き、「万次郎の帰国の地が、琉球でよかったとつくづく感じております」とのべているのは、興味深い。

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2010年9月には、ジョン万次郎記念碑が建立された。ここには、記念碑ができたことを知り、すぐ訪ねたことがある。

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「歴史ロマン・ジョン万次郎物語・豊見城編」の上演は新聞でも大きく報道された。一度、観劇してみたい。沖縄ジョン万会が多彩な活動をしていることが、よくわかる。

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会の会則では、「国際交流及び青少年の健全育成に寄与する」ことを目的に掲げている。今後とも、会が発展することを期待したい。

 

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元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎、その2

2012-01-30 | 沢村さんの沖縄通信

元日に送られてきたプレゼントの二つ目は、わが郷里の町で発行した「町民カレンダー」である。町がカレンダーを出すなんて、他ではあまり聞かない。新潟にいる同級生が送ってくれた。
 大事なのは、毎月、世界的な植物学者だった牧野富太郎の植物図が使われていることである。

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牧野博士は、1862年(文久2)4月24日、高知県佐川町の造り酒屋「岸屋」の一人息子として生れた。学歴は小学校中退だが、佐川には名教館(メイコウカン)という優れた私塾があり、そこで学んだ。といってもあとは、独学で植物を研究した。植物分類学を専攻した。「草を褥(シトネ)に木の根を枕 花と恋して90年」と自身が語ったように、土佐をはじめ全国の山野をかけ巡り、採取と標本作成に専念し、新種の発見命名は1000種、学名変更は約500種にのぼるそうだ。東京帝国大学の助手、講師となった。

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業績は書きだすと果てしない。「約一世紀の生涯を植物に捧げつづけた牧野富太郎博士は『日本の植物学の父』として敬愛されている」。カレンダーはこう記している。95歳で亡くなったが、死後に文化勲章を受けた。牧野博士の名前は鳴り響いていたのに、なぜ生前に授与しなかったのか、ここにも日本の学歴偏重の歪みがあるのかもしれない。

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牧野さんの著書『植物一日一題』が手元にあるが、これを読むと、われわれが今でもいわば常識と思っていることを「間違い」と正していることがとても多い。たとえば「ジャガイモは断じて馬鈴薯そのものではない」「キャベツを甘藍(カンラン)だというのは無学な行為」「アジサイは紫陽花ではない」という具合である。

 紫陽花という名の出典は中国の白楽天の詩が元であるが、「アジサイは日本固有産のガクアジサイを親としてそれから出た花で断じて中国の植物ではない」と言う。もう15年ほど前に読んだけれど、牧野さんの研究に裏打ちされたこうした明快な指摘が記憶に刻まれている。 

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 ところで、なぜカレンダーを紹介しようと思ったのかが、本題である。それは牧野さんの書かれた植物画が、とても繊細で美術としても観賞に値すると思うからである。

 カレンダーは、高知県立牧野植物園の協力で制作したものである。表紙とともに13枚の植物画が掲載されている。そのうち5枚をここでアップした。

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一番上の植物画は、「ガマズミの実」。ガマズミはスイカズラ科で、高知の方言では「ヨージメ」と言う。初夏に花をつけ、実は甘酸っぱく食べられるそうだ。

 2番目は「ワカキノサクラ」1892年に佐川町の旧尾川村で発見したサクラ。播種した翌年から花を咲かせるのでこう命名したそうだ。つまり若い木で花を咲かせるという意味である。このサクラは、子どもの頃から身近にあって知っていた。

 3番目は「ヒメキリンソウ」。四国固有の多年草である。キリンソウによく似ていて、小さいことからこう呼ばれているとのこと。

 4番目は「コオロギラン」。1889年に越知町の横倉山で発見された。和名は、円形で淡い紫色の唇弁が、コオロギの羽に似ていることによると言う。

 5番目は「ジョウロウホトトギス」。これも1887年に横倉山で発見された。和名は、花の美しさを上臈(ジョウロウ=宮中に仕える女官)の上品さにたとえたものだと言う。

 ここに上げた植物画は膨大な植物画のごくごく一部にすぎない。でも、今年一年、このカレンダーを掲げて、植物画を眺めたい。

 

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鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか①

2012-01-20 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか①

                                      情報プラットフォーム、No.290、11月号、2011、掲載




 四半世紀前に考えたこと(BOUNDARY、8月号(1987)、p64~p66.、コンパス社に
掲載)を3回に分けてを再禄する。今も色褪せ ていない様々な提案を楽しんで頂
きたい。
-------
 居間のソファーに座って、珈琲を飲みながら、テレビを見る。テレビの上には
フランス人形が、テレビは台の上に、テレビ台は床に置いてある。床 の上の
テーブルの上には珈琲の下皿やスプーンや夕刊が置いてある。本箱の桟の上に
乗った棚には本が置いてある。本箱のガラス戸は引き戸になってい る。壁には
ゴッホの絵のコピーやカレンダーが掛けてある。部屋の天井には照明器具が吊っ
てある。もちろん手に持ったカップの中には液体の珈琲が 入っている。


 このような情景は無重力下で実現することは不可能である。置く、掛ける、吊
る、乗る等の物の存在状態を示すために日常よく使う動詞は無重力下 では意味
をなくしてしまう。宇宙船の中はヨットのキャビンの中と似ている。すべてのも
のを置くのではなく、固定しなければならない。

置物・掛軸は ない。朝起きて歯を磨くとき、歯磨きのチューブとその蓋はそのあたりに仮に置く。定期券、財布、手帳、ハンカチ、鍵など出勤まえにテーブルの上に 置いて忘れ物の点検をする。日常、当り前にやっていることが宇宙船のなかでは大問題となる。搭乗科学者が試料をカプセルから取り出し、装置に挿入 するような実験操作はそれとして、空になったカプセルを、そこら辺に置くというわけにはいかない。


 子供の頃、鉢の中の金魚を眺めながら、金魚に生まれなくて良かったと思っ
た。なぜならば自分の、また他人(他魚)のうんちの中を泳ぎ回ること になるか
らである。母にそう話したら「人間だって似たようなものよ。オナラはそれと同
じでしょ。それは平気なの。」と言われて返答に困ったことを 覚えている。

 宇宙飛行士の浮遊訓練のシミュレーションとして水中動作が利用されているよ
うに、無重力下では金魚と同じ状況になる。宇宙船内では実際にこの ようなひ
どい事にならないために、トイレやシャワーにさまざまな工夫がなされている。
カップの珈琲を宇宙船で飲むことはできない。固形物以外のす べての食料は
チューブ入りでなければならない。


 縄張りとは面の上に引かれた境界線に囲まれた範囲であり、平面的なイメージ
が強い。土地所有者には採掘権や地上権がその土地に付随して原則的 に認めら
れるが、地球の中心まで、宇宙の彼方までの権利はない。

牛や羊の放牧場は柵があるだけである。柵は動物が跳び越すことができない程度の高 さでよい。無重力下での囲い込みは線(2次元境界)ではなく、面(3次元境界)で行う必要がある。跳ぶ、飛ぶ、揚がる、乗り越える等のような、面 を離れた移動を記述する動詞はその本来の意味を失ってしまう。


 タイムトンネルが可能か否かはさておき、われわれは時間軸の行き来はできな
いが、ともかくも4次元の時空間に住んでいると信じている。本当に そうだろう
か。

結晶構造を立体感を持たせて紙の上に書くことは何とか出来るが、転位のま
わりの原子配列を画いて転位を理解しようとしても、労多く して役に立つとは
思えない。3元状態図(平面上に3つの組成を示す三角形、縦軸に温度を示す立体
表現の図)の講義ではもっぱら立体感を養ってもら うために時間が使われる。立
体感を持つことは大変むつかしい。(つづく)


ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。
 

鈴木朝夫(すずき ともお)
〒718-0054 
高知県香美市土佐山田町植718
0887-52-5154、携帯 090-3461-6571  
s-tomoo@diary.ocn.ne.jp   

  

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録


鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか②

2012-01-20 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか②
                                   情報プラットフォーム、No.291、12月号、2011、掲載




 立体の構造物を平面の上に記述するのが製図であるが、図面を見てその実物を
理解するには訓練が必要である。複雑に立体交差したインターチェンジでは方向
感覚を失うことが多い。

地図上では目的地は右でも、分岐点では左に行かなければならないこともある。残念ながら脳ミソの方は重力の影響を受けて2 次元的な状態にあるようである。

 
 宇宙船内では上下の概念は存在しないが、それでも上下の方向は仮にこうして置くとはっきり分かるような造作や景色になっていないと安心感が得ら れないという。

観念的な天井と床は作っておく必要がある。室内に空気の流れを作り、方向の基準とすることも必要かも知れない。宇宙船のキャビン内 のベッドの配置にもこの点を配慮する必要があるだろう。

脳ミソの活動にとっては基準となる垂直線、あるいは水平線の設定は必要であり、そのように 慣らされているのであろう。いったん慣らされた固定観念を取り除くことは大変むつかしい。

2次元でも同じような例を示す。普通は直交座標が脳ミソ に固定されているらしい。
放射状と円弧状の道路のアムステルダムで、勘違いをして道に迷ったことがある。


 ベットに寝る、横になるの動詞は宇宙船内では意味がない。ベルトで固定しなければならないからである。英語の”go to bed”は宇宙船内でもそのまま使えるだろう。

ところで、四十八手がどのようなものかはよく知らないので正確に数えてないが、上下がなければ少なくとも二 十四手に縮退するはずである。いくつに縮退するか、新しい手はないかは宇宙空間に将来出て行くであろう人類にとって重要な問題である。

スポーツも いろいろ考えておくとよい。テニスや卓球のようなネットのある球技、サッカーやラグビーのようなゴールのある球技、相撲やボクシングのような格闘 技、どのような用具とルールにすればよいか、壁に向かって球を打つスカッシュは無重力下のスポーツの原型かも知れない。

立体玉突きは面白くないだ ろう。押しや引きやマッセは存在せず、すべてカーブやシュートに縮退し、またフリクションが少なく、なかなか減速しないと思われる。


 さて、アメリカやECやロシヤではすでにかなりの宇宙実験が行われ、それらの結果の報告も出されている。チャレンジャーの事故で遅れてはいる が、我が国でもFMPT(第1回材料製造実験)として計画が進行中である。これらの材料実験を眺めてみたとき、気体・液体が関与するものが大部分 であることに気がつく。


固体での状態変化が少ないことは当然予想されることであろう。しかし、固体の中でも粉体の挙動を見ようという提案はないよ うに思う。これら内外の提案の中で本当にユニークな無重力下での材料実験はあるだろうか。

誰でも考えつくことばかり、というのが率直な感想である ことは否定できない。なるほど、これは面白いと皆が賛成してくれそうな、そういう提案は考えても考えても出てこない。残念である。自棄になり逆立 ちして考えるとどうなるか、などと考える。


 ここで各種の提案を並べてみよう。当然のことながら無重力下では比重差を感
じないことを利用した提案が多い。

比重の小さい物質とそれの大きい 物質が均質に混合した複合材料の製造研究、重力偏析のない状態での2液相分離傾向を持つ液体の挙動の研究、比重差によって生ずる熱対流のないこと を利用した欠陥の少ない単結晶の製造研究や液体間の拡散現象の研究等である。無静圧であり、自重で潰れたり変形したりしないことを利用した提案も 多い。(つづく)

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。
 

鈴木朝夫(すずき ともお)
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鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録


鈴木朝夫のぷらっとウオーク・・・無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか③

2012-01-20 | 鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

無重力下で脳ミソは何を考えるだろうか③
                                       情報プラットフォーム、No.292、1月号、2012、掲載



  無重力下では浮遊することを利用して、液体からの真球の結晶を得ようとするもの、容器なしの無接触溶融により汚染のない結晶を得ようとするも の、液滴や気泡の動的挙動の研究等がある。

無重力下では熱対流がないために別のマランゴニ対流と呼ばれる現象が顕在化してくる。濃度差や温度差に よって液体の表面張力が異なることから界面や表面と内部に対流が生ずるのである。実験の成否は容器の材質に大きく依存する。


  素人にわかりやすい提案は、どちらかというとライフサイエンス実験の方に多いように思える。生物の持っている体内時計が宇宙ではどうなるか、 細胞の電気泳動法による分離、などがある。蜘蛛がどんな巣を張るかという子供の提案はすでに試みられている。

宇宙酔いなど生理的な現象に対して人 間はすぐに適応して平常に戻るが、骨も中のカルシウムは減少しつづけるという。寝たきり老人と同じ状況と思われる。将来の宇宙旅行にとって解決し ておかなければならない問題である。


  無重力下の実験を考えるとき注意すべきことを2、3述べておきたい。できればon-off操作程度で実験操作がやさしく簡単であること、簡単 な操作でも所期の目的の通りに成功に導くための装置・サンプルアセンブリーに工夫すること、万一の場合でも人体に危険を及ぼす可能性の少ない物質 を選ぶこと、装置・試料の総重量をできるだけ軽くすること、エネルギー消費が少ないことなどである。


  いずれにしても巨額の費用を賄えるほど優れたものが現在つくれるとは思えないのだから、すぐに役に立つ材料の製造を目標にして無重力下の実験 を考えることは得策ではない。無重力下で生ずるさまざまな現象を正確に把握し、物理的・化学的な考察を可能にするような基礎的な地道な提案を尊重 することが、回り道ではあるが近道ではないだろうか。


  結論は、残念ながら、重力下に置いた2次元的思考が中心の脳ミソではあまり良い考えは出てこないだろうということである。日常我々がなにげな く使っている動詞は縮退することを念頭に置くことも役に立つだろう。逆立ちして考えるのも発想の転換の一方法かも知れない。望ましいことは、脳ミ ソを無重力下に置いて考え直すことではないだろうか。


  また、ゆとりと遊びの心がユニークな発想の助けになると思われる。俳人や歌人をスペーシシャトルに乗せて日本文学の代表的表現形態である俳句 や和歌を詠んでもらうのはどうだろう。宇宙と地上でやり取りする連歌はどうだろう。


「地球は青かった」よりも素晴らしい表現がでてくることが期待 できる。このとき季題はどうなるだろうか。どんな動詞を使うだろうか。また、秋の夜長に決められた時間に人工の流れ星をスペースシャトルからつく り、日本中で鍵屋・玉屋と楽しむのはどうだろうと、酒のさかなとして会う人ごとに話している。

もちろん、スポンサーを捜すことはそれほど困難では ないだろう。大部分の人は面白いと言ってくれるが、「それは難しいだろう」と現実的になる人が多い中で、あるグラフィックデザイナーの反応が最高 であった。彼の答は「それは打ち上げ花火ではなくて、打ち下ろし花火ですね」であった。(完)

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 これらの発想は高知県宇宙利用推進研究会(てんくろうの会)に引き継がれている。皆さんの頭が柔らかくなったところで、今年はさらに楽しい初夢を創り出せないものか。

 

ご感想、ご意見、耳寄りな情報をお聞かせ下さい。
 

鈴木朝夫(すずき ともお)
718-0054 
高知県香美市土佐山田町植718
0887-52-5154
、携帯 090-3461-6571  
s-tomoo@diary.ocn.ne.jp   

  

鈴木朝夫の「ぷらっとウオーク」

鈴木朝夫の講演・出版の記録


沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)

2012-01-14 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)


次に向かったのは宝口樋川(タカラグチフィージャー)。モノレールの儀保(ギボ)駅から少し下ると、標柱がある。この標柱だけでは場所がわからない。通りかかった若い女性に尋ねると、「谷川に沿って少し下るとありますよ」と教えてくれた。
 湧水はどこでもけっこう分かりにくい場所にある。近くにいる人でも、地元に住んでいる人でないと分からないことが多い。



宝口樋川は、この地によい水が湧くことは知られていたけれど、不便な場所であること、当時、住民がそんなに水に困っていなかったことから、顧みられなかったという。

宝口よりもう少し上に登ったところの当蔵(トウノクラ)村の宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)という人が、その湧水を惜しみ、賛同者をつのり24人が費用を出し合い、道を整え、樋川を設けた。宝口という地名に湧く樋川なので「宝樋」と名付けたという。

                         樋川は大雨にあって一度壊れて、修理しようとしたが、費用がかかり困っていた。ところが、赤田村に住む宮城筑登之の母親から費用負担の申し出があったので、無事工事を進めることができて、樋川はよみがえったという。
 ここには、とても立派な碑がある。右から「宝桶」と記され、この樋川の由来など記されている。

  

 


                                                                        

碑の表は1807年に記されたもの。とても由緒ある石碑である。この碑も、沖縄戦で失われた。それが1986年、下を流れる真嘉比(マカヒ)川の改修工事によって、川床から碑の大部分が発見された。現物は、かなり破壊され、摩耗が激しいため、新たに復元することになり、1995年に復元されたそうだ。

 この宝口樋川の近くに、紙漉所跡(カミスキジョアト)の案内板があった。琉球王国時代から昭和初期にかけて、紙漉が行われていたそうだ。琉球では、1694年に大見武憑武(オオミタケヒョウブ)が、薩摩から紙漉の技法を習得して帰り、首里で紙漉をするようになった。



1840年、儀保村の一角、宝口に家屋を建て、製紙区域として、製造が途絶えていた百田紙の製造を行わせたのが始まりだと言う。首里の山川町では、芭蕉紙、宝口では、百田紙が作られた。百田紙は、コウゾの樹皮でつくる和紙である。紙漉は、水がなければできない。宝口樋川があったので、この地で紙漉ができたのだろう。
 桃原本通りを南に行った山川の近くの急傾斜地を降りていくと、「さくの川」の樋川に出る(左)。急な崖下から湧き出る地下水を導き出した共同井戸だ。地下水は、崖の相当奥にあるようだ。

 



 巾30㌢、長さ80㌢に加工された琉球石灰岩を、なんと10個ほどもつないだ樋で水を導いている(右)。この水路の中も、内部が崩れないように、石垣を設けているという。まるでトンネルのようになっている。

 

この水は、村人の飲料水や生活用水として使われた。水汲み広場は、約1㍍ほど掘り下げ、樋口から外に向かって扇形に造られている。
 ここからあふれ出た水は、北西に流れをつくり、その谷間の南斜面には、王家御用の芭蕉園があった。ここの芭蕉を用いて、紙漉が行われていた。芭蕉紙が作られた。
 この辺りは「紙漉山川(カビシチヤマガー)」と呼ばれていたそうだ。この水は、飲料、生活用だけではなく、やはり紙漉という産業にも用いられていた。
 井戸や樋川を見ていると、琉球王国時代からの人々の暮らしや生業、湧水に込めた思いや願い、石積み技術など、さまざまなことが見えてくる。首里に石積みの井泉が多いのは、石積み工が多くいたこともあるそうだ。

 

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

2012-01-14 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

首里の桃原、儀保付近の湧水

 首里城の西側にあたる丘陵の斜面は、首里城の城下町のようになっている。いくつもの集落が密集している。首里金城町に続いて、首里の山川から儀保(ギボ)に抜ける桃原(トウバル)本通りの付近の湧水を訪ねた。
 こちらは、とても深い谷川が流れている。でも谷川は排水路のような感じだ。飲み水、生活用水はやはり井泉に頼る。狭い地域に人口が多いから、井泉の水も豊富でないと生活できなかっただろう。  

       


  最初に行ったのは、佐司笠樋川(サジカサヒージャー)だ(左)。ここは、琉球最後の国王、尚泰の四男、尚順の屋敷だった「松山御殿」(マツヤマ ウドゥン)のすぐ裏側にある。いまだに尚家の敷地内である。



  といっても、かつての桃原村の貴重な水源だった。湧水はどこでも、祈願の対象だから、敷地を囲っている金網に「拝みをなさる方へ ここからご自由にお入り下さい」との表示があった。右写真は、この桶川とは無関係である。花街のあった那覇市辻の「二十日正月」行事の際の井戸への祈願の模様である。  

  
佐司笠樋川に行くため金網の戸を開けて入ると、驚くほど立派な樋川だった(上左)。琉球の黄金時代を築いた尚真王の長女、佐司笠按司加那志(サシカサアジカナシー)が、フクギの大木にいつも鷺(サギ)が止まるのを見て、掘り当てたという由来のある樋川だ。ちなみに、沖縄の井泉は、犬が濡れて帰ってきたので、水が湧いているのがわかり、井泉が見つかった、など湧水発見に動物かかかわっていることがよくある。



見事な琉球石灰岩の円形の石垣が三段に積み上げられている。芸術的ともいえる円形の石積みだ。恐らく、これだけの樋川は、沖縄でも指折りだろう。
どんな干ばつにも水は枯れず住民を助けた。村の貴重な水源だった。

いまでも水量が多く、井戸拝み(カーオガミ)に訪れる人が後を絶たないという。降りて行くと、石垣の奥の水源から石造りの樋で水を流していた。水槽は半円形で、これも見事な石積みだ(右)。そばに奇妙な石があった。直径1㍍くらいはある(右下)。何のためだろうか。他の井戸では見ない。

 

 それにしても、よく固い石をこれほど丸い形に仕上げたものだ。丸い石の外側の敷石も、この円形に石に合うように、石を加工している。
 琉球王府時代の石積みの技術には、つくづく感心する。それに、この樋川は、沖縄戦で激戦の地なのに、破壊されずに残ったのだろうか。説明はないので、多分残ったのだろう。


  
同じ敷地内のすぐ側に、「昔石道」(ンカシイシミチ)があった。石畳の道を降りて行く。また湧水がある。

世果報御井小(ユガフウ ウカーグヮー)という井戸だ(下)。王朝時代より炊事、洗濯など生活用水として使われた泉である。水がわいているので樋はない。
 

 
沖縄戦で埋没したけれど、昭和61年(1986)に掘り出された。その際、古い鍋や食器類が出土し、戦争中にここで炊事をし、飢えをしのいだ悲惨な状況が偲ばれたという。
 説明を書いた案内板が、もう剥げてきて字がまともに読めない。推測を含めてこんな説明だった。




桃原大通りから、急坂を上がると、安谷川嶽(アタニガータキ)に出た。アーチ型の門がある(左)。といっても門はただの門ではない。琉球では、神聖な御嶽(ウタキ)の前に立つ門が拝殿になる。首里王府の高級女神官の一人、大阿母志良礼(オオアムシラレ)が司る御嶽の一つである。由緒ある拝所だ。門のなかが聖なる場所である。

 この近くに安谷川(アタニガー)がある。石段を降りていくと井泉があった(右下)。あまり大きな井泉ではない。ここはなぜか、川の名がついていた。

次に、桃原本通りを下に少し降りると、谷川のそばに加良川(カラガー)がある。谷川が流れているが、この川の岸に共同井戸がある。川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられている。
 加良川はなんと、大きなガジュマルの木の根のところにあたる(下)。


ただ、今は危ないから鉄板で蓋をしている。この井戸の上に橋がある。橋から井戸に降りてくる石畳の道が残っている。道幅を広くとり、川沿いに一段と高い道を設けて、水汲みに集まる人々が、順序よく出入りできるように工夫されているそうだ。すぐそばに石碑が建っている。この碑は、井戸とは関係ない。



 実は、琉球王府の時代、18世紀に初めて歌三線と台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」を創作した玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の生誕の地を示す碑である。
朝薫は、王府で踊奉行(ウドゥイブヂョウ)をつとめ、中国から琉球国王を任命するためにやってくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために、「組踊」を創作した。朝薫の創作した「執心鐘入」など「5番」と言われる「組踊」は、いまなお繰り返し上演される。

2010年、「組踊」はユネスコの無形文化遺産として認定された。

 

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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

2012-01-14 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

雨乞い御嶽



首里金城町からマルソウ通りを東に向かうと首里崎山町に出る。首里王府の別邸だった御茶屋御殿(ウチャヤ ウドゥン)の跡がある。由緒ある場所であり、歩いてみた。
 崎山町の公園の一角に、大きな石造獅子がデーンと鎮座していた。1677年に造られた王府の別邸、御茶屋御殿にあった石造りの獅子だ。
 とても大きく迫力がある。御殿を火災やその他災厄から守る獅子だった。御殿はいまはないので、公園に鎮座している。
 石獅子は水と関係ない。実は、このすぐ近くにある雨乞御嶽(アマグイウタキ)を紹介したい。雨乞いの祈願をする御嶽(ウタキ、拝所)は、複数あるらしいが、ここはとても由緒あるところだ。

 雨が降らず干ばつで凶作となれば、王府と民百姓にとっては一大事。死活問題だ。だから大干ばつに襲われたとき、国王みずからが神女を従えて、雨乞いの儀礼をおこなったという。低い石垣が円形にぐるっと築かれている。丸く囲んだ区域が聖域とされ、石敷きの壇に香炉が設けられている。こんな円形の御嶽は見たことがない。王府の雨乞い儀式をするのだから、さすがに立派である。

 

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沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2)

2012-01-05 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2) 


首里金城町の湧水

 高地に位置する首里城の南斜面に、士族たちが住んでいた首里金城町がある。石畳道が伸びていて、首里王府の時代の面影を残す雰囲気がある。NHK連続テレビドラマ「ちゅらさん」のロケでも使われたので、すっかり有名になった。人気ある観光スポットになっている。500年もの間、風雨や戦乱にも絶えてきた歴史の道だ。首里城から南部に行く時の要路だった。

 ほとんどの人は、斜面の坂道を登り降りするだけで終わる。でも、石畳道は、いくつもの横道があり、縦横に石畳道が伸びている。横道を入って行くと、そこには昔からの湧水がたくさんある。



実は、首里金城町を歩いたのは、この付近がとても湧水が多い地域なので、古い井泉(カー)を見るためだ。この石畳の道は、人々が通行するだけではない意外な役割がある。それは、この地域に住む人々の生活に欠かせない水の確保にも貢献したという。石畳道が水の確保に欠かせないとは、どういうことだろうか?
この付近に降った雨は、石畳道から地下に浸み込み、井泉に流れていくという。
  
 
石畳道を下から登って行くと、すぐ左側に「新垣(アラカチ)ヌカー」が見えてくる。琉球王府時代の末期に、この屋敷の主である新垣恒俊氏が男子出産を祈り、私費を投じて造った井戸だという。

 でも私用ではなく、首里金城町の共同井戸の一つになっている。
 この日、七か所回ったが、同じ金城町の湧水でも、やはり「ガー(井戸)」と呼ぶ場所と「樋川(フィージャー)」と呼ぶ場所がある。「ガー」とは、文字通り井戸のように、その場所で水が湧き出ている。「樋川」とは、石垣より奥に水脈があり、そこから琉球石灰岩で造られた樋(トイ)で水を導き、半月形の貯水池に溜める。必ず、樋から水が出る仕掛けになっている。上の写真の新垣ヌカーは、カーだから樋がない。

新垣ヌカーから西にのびた道を進むと「金城大樋川(カナグシク ウフフィージャー)」に出る。こちらはとても規模が大きい。やはり住民の共同井戸だ。二つのかけ樋で地下の水を導き出している(下)。



 昔は、坂道を上下する人馬が、水で喉を潤し、一息入れた場所だった。 ここの少し東の方に、琉球を支配していた薩摩で和紙の作り方を学び、琉球で最初に和紙をすいた人の屋敷跡がある。17世紀末頃、この樋川の水で和紙が作られたという。
 由緒あるフィージャー(樋川)である。



 ここから斜めに少し上がると「仲之川(ナーカヌカー)」があった(右)。
 東には、金城大樋川、西には寒水川樋川(スンガーヒージャー)という大きな井泉があり、その中間にあるからこの名前がついた。

 水質や水量がとても優れていて、日照りでも水が枯れなかった。だから王府時代は、日照りの時は、首里城内の御用水になっていたそうだ。
見事な石積みのカーである。カーだから樋はない。石垣の右上に小さく見えているのは、このカーの拝所である。水は命の源であり、井戸、樋川は祈願の対象である。だから、かならず拝所がある。

 1883年6月の大雨の際に、壊れて王府の役職者、百姓ら45人が五万貫文を拠出し、王府に願い出て修理をしたことがある。その由来を刻んだ石碑がカーの入り口にあった。だが、沖縄戦で破壊され、いまその土台と碑の一部が残っている。

ここまでは、首里金城町の西側の井泉を回った。
 集落の中央部の石畳道のそばに 村屋(ムラヤー)がある。昔の集会所のようなところだ。今度は金城町の東半分の方面を回ってみた。



 


村屋から東に歩いて行くと、「上ヌ東門(ウィヌアガリジョウ)ガー」に出た(左下)。
 沖縄では、東はアガリ、西はイリという。これは太陽が東から上がり、西に入るからである。分かりやすい。門はジョーと読む。なぜ門がジョーなのかいまだによくわからない。

 このガーは、18世紀頃に造られた共同井戸である。やはり樋はない。文字通り井戸である。

 ただ、ここの井戸にはしっかりフタがしてあった。もう使われないのだろう。このガーは毎年、旧暦9月に行われる「ウマーチヌウグヮン」(祀りのときの御願)と呼ばれる防火防災の祈願で拝所の一つになっているそうだ。



ここから下がったところに「下ヌ東門(シチャヌアガリジョウ)ガー」がある。でも、どこから行けばよいのか、入る道がわからなかった。ウロウロしていると、ちょうど、そこへ人間一人がやっと通れるような細道から、おばあが降りてきた。早速、連れ合いが行き方を尋ねた。「この道を上がっていけば下ヌ東門ガーがあるよ」といま歩いてきた道を指して教えてくれた。

入って行くとあったあった。こちらは、フタはなく、半円形に石積みされている。やはり共同井戸の一つで、18世紀頃に造られた。

 前面に水汲み場の石敷広場が設けられている。上下二段に分けられ、下段の広場は水を溜めて、洗濯やイモ洗いなどできるようになっている。この井戸に上から降りてくる道は、石畳である。


首里金城町の共同の井戸は、みんな18世紀頃に造られている。 なぜだろうか? 推測してみると、この時代は、天災地変が相次ぎ、琉球でも干ばつと凶作で飢餓が起きたと伝えられる。多分、日照り続きで水がなくて 困ったことがあり、水源を探して井戸、樋川を造ったのではないだろうか。



どのガー、樋川も、見事な半円形の石垣が築かれ、半月形の貯水池がある。そして広場は二段に分けられ、飲料に使った後、下の段では洗濯など出来る。さらに、排水溝があり、使用後の水は農業用水にも使うなど、とっても合理的な使い方をしている。水は人間の生存と生活に不可欠であり、かつ湧水だから、それほど多くはない。だから、とても貴重な水資源であり、みんな大切に使った事がよくわかる。
 
石畳道を少し離れ、上に登ると「マルソウ通り」という通りに出る。西に向かい歩くと首里寒川町になる。この通りを少し降りると「寒水川樋川(スンガーヒージャー)」があった(上)。

 折しも、おじいたちが、草刈り、清掃をしてくれていた。「ごくろうさまです」と声をかけると、湧水のことを聞かなくても「樋川はこの下にあるよ」と教えてくれた。それだけ名高いからなのだろう。

 こちらも18世紀頃に造られた村ガー(共同井戸)の一つ。上水道が普及するまで住民の大切な生活用水だった。
 樋口の奥にある水脈から琉球石灰岩で造られたかけ樋で水溜りに導かれている。あふれた水は、下手の水溜りに集められ、洗濯などしたあと、農業用水として活用された(右)。というわけで、たくさんの井泉を見た。



首里の湧水は、まだ他にもあるが、首里金城町にこれだけ集中してあるのはなぜだろうか。
 人々が井戸を使うのには、井戸に通う道が欠かせない。飲み水を桶に汲み、この石畳の道を運んだことだろう。洗濯や芋など担いで洗いに通ったことだろう。昔の暮らしに思いをはせた。

 

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沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

2012-01-05 | 沢村さんの沖縄通信

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

                                       沢村昭洋 

 

沖縄にはたくさんの湧水がある。沖縄本島は、北部は山が高く、谷川がある。でも中南部は、丘陵はあっても山らしい山はない。土地は琉球石灰岩が地表を被っているので、雨水が浸透して地下水が流れている。高台の下の崖の所や低い土地でも窪みになったところなど、水がわき出ている。

 湧水は、島の人々にとって命の源であった。集落のあるところ、かならず湧水がある。水の湧き出るところは、石積みで整備し、貯水池を設けて、住民が共同で使用してきた。

 

 

こんな湧水を、沖縄では「カー」と言う。井戸とも呼んでいるが、大和でいう井戸とはまるで異なる。大和では地下水のありそうなところに、縦穴を掘った。昔は、つるべで水を汲み上げた。その後は、手押しのポンプで汲み上げていた。こういう井戸も沖縄にないわけではない。でも少ない。多いのは、自然の湧水である。井泉と呼ぶのが適しているかもしれない。 


 

 井泉の名称としては、通常、地表に水が湧き出て、すぐそのまま利用できるところを「カー」。斜面の奥に水源があり、石や木で樋(トイ)をつくり、水を導きだしているところは「ヒージャー(樋川)」と呼ぶ。「カー」と区別している。

 「カー」は漢字を当てるとすれば「川」ではなく「井」である。首里王府で編纂した『琉球国旧記』では、「井(かあ)」と記している。ときには、「川」を使っている井泉もあるが、大和でいう川ではない。あくまで湧水である。

 本島だけでも、一つの集落にいくつかの井戸がある。しかも、その湧水のある場所の地形や水の出方、利用の仕方はさまざまである。井泉といってもその姿はすべて同じものはない。地域ごとに異なる。まるで城の城壁のように、半円形に高く見事な石積みがされているところもあれば、素朴な井泉もある。上水道が普及してもう使われなくて、そのまま放置していると危険なので、コンクリートで蓋をしたり、鉄柵で囲い鍵をしているところもある。いまの姿は変わっていても、長年にわたり、住民の命と暮らしを支えてきた水源にはかわりない。島に生きる人々の水への思いは、大和で考えるよりはるかに大きい。

 だからどこの井泉でも、必ず住民が祈願する拝所がある。そして、いまなお人々が日々、祈願に訪れる。そんな井泉の拝所を見ると、いかに島の人々にとって、井泉がかけがえのない役割を果たしてきたのか、そういう意味ではいまなお神聖な場所であることを、うかがい知ることができる。
 たくさんの湧水をすべて見て回ることは不可能だ。たいていは、地域回りなどをしていて、井泉に出会う。そんな、歩いて見た湧水を紹介したい。

 

 

 

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