ゴエモンのつぶやき

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「義務感で障害者と生きるのは理想的社会とは言えない」

2019年05月27日 15時20分43秒 | 障害者の自立

「義務感で障害者と生きるのは理想的社会とは言えない」と問う学生に、私は答えた

徐正敏 明治学院大学教授(宗教史)、キリスト教研究所所長

ヘルプカード

 すでにご存じの読者もおられようが、筆者は幼い頃から車椅子や松葉杖を利用する重症の脚部障害をもっている。

 社会生活をしながら、時々思う。もしかしたら自然災害やその他の災害が発生したとき、動作が不自由な筆者のせいで家族や周囲の人たちがより大きな危険にさらされるかも知れない、そのときには、本来ならリスクを克服する確率が高いはずの彼らにだけは、なんとか無事でいてほしいものだ、と。

 東京での生活を開始してすぐのこと、居住地を管轄する区役所で特別な名札のようなものを支給された。「ヘルプカード」(help card)と呼ばれるそれを受けとるとき、このような説明を受けた。

 自然災害であれ、その他なんでも緊急事態がおこれば、このカードを胸につけて、誰にでも手を差し出して救いを求めてください。消防士、警察、その他の公務員、ボランティアだけじゃなく、周りの誰にでもそうしてください――。

 もちろん、大規模な災害のときは筆者を担当する公務員が駆けつけてくれるのだが、その前にでも無条件に社会の助けを求められるのだと教えられた。

 「私は独りではたいへんなので、助けてください」

 このカードは周囲にそのように話しかけてくれる。そうすればもちろん状況にもよるが、可能な限り優先的に支援を受けることができるという。

災害現場で生き残る確率

 いつか日本人の友人と話していたとき、地震の話がでた。その友人は冗談半分、真面目半分で筆者にこう言った。

 「実際のところ、その時には僕よりもあなたが生き残る確率がはるかに高い。この社会には最弱者が最優先されるという約束事があるからね。もしあなたを助けなければ、周囲の人間は他の十人が犠牲になったよりもずっと残酷な喪失感を覚悟しなければならない。そのことがもたらすコミュニティの傷は言葉にできないほどなのだよ」

 筆者の胸はビリビリと震え、キュンとしたが、せっかくのその話を否定しながら、「ちょっと、ちょっと、それはどうだか。差し迫った状況になってみなければわからない」と、友人の言葉をさえぎった。

 しかしもちろん、心のなかは温かくなった。うそいつわりなく、いつも筆者は、それがどのような災害の状況であれ、韓国でも日本でも、筆者のために他の人が困難な目に遭う必要はなく、自分で自分を救う能力が一番不足している筆者が最初に死ねばよいのだと堅く覚悟して生きてきたのだった。

セウォル号事件で忘れられた話

 韓国で数年前に起きたあの「セウォル号事件」で、すぐ忘れ去られたニュースがある。

 乗客を動けないようにしておいて、自分たちだけが先に緊密に連絡をとりあいながら船を捨てて出ていった乗組員、彼らは遠く離れた仲間とも通信して、自分たちだけの秘密の通路を利用して一糸乱れずに船から逃げた。

 ところが、その義理堅く、卓越した逃走劇のなかで、病気の仲間だけは捨てて逃げていったというのである。

 一瞬ある想像が頭をかすめた。

 障害を抱え生きる筆者がそこに乗っていたら…。

 乗客ではなく乗組員だったとして…。

 ゾッとする気分だった。

 しかし、そのような気分はすぐに葬り去ることができた。その船ではたくさんの明るい高校生たちが不当にも死を余儀なくされたわけだが、(不謹慎かもしれないが)そこでは障害もなにも関係なく、皆が海に、空に一緒に行くことができた、それがせめてもの救いだったように思えた。

国家の品格

 国家のレベル、いわば「国格」とは、なにをもって判断することができるのだろうか。

 GNPやGDPによってか? G7やOECD加盟国であることか? そもそも先進国という言葉が、経済や貿易の規模で測定できるといえるのだろうか?

 もちろん経済的に豊かな国の人権状況が相対的により良いのは事実である。

 しかし、真の「国格」は、その社会の中で最も弱い人々、すなわち「マイノリティ」たちがどのような待遇を受け、どのような状況に置かれているのかによって最終的に判断されることが正しいのかもしれない。

 民主主義への渇き、人権に重点を置き、生命と自然環境の改善を叫ぶこと、そして平和と反戦、独裁政権に対する抵抗といった正義に向けた行進は、そのすべてが、社会の強い階層、つまり自己の安全と幸福を自ら守り享受することができる人々のためだけのものではない。

 それはその社会の最弱者の立場を、人間らしい生き方ができるだけの状況に引き上げるための闘いであってほしい。歴史もまた、そのような基準で記録され、解析されなければならないだろう。

 その最弱者の最も具体的な一例が障害者である。

 一国の「国格」は決して政治家たちの作為的なジェスチャーや偽善めいた言葉、国際的な儀典の格式、勢いのある企業のロゴマークによってあらわされ、評価されるものではない。その国の社会が最も弱い層としての障害者たちへ、どのような配慮をみせるかという基準でみれば正確に測定されるのではないか。

 そして、韓国はいまだ残念極まりない状況だというのが現実である。いつかのこと、日本の友人が質問した。

 「韓国は経済も急成長して、先進国に加わったし、また特にアジアではキリスト教最強国だから、身体障害者に対する待遇も世界最高レベルなのでしょう?」

 そのとき筆者は、決してそうではない、と答えようとして、ついに声が出なかったことをいまも覚えている。

学生たちの問い

 大学の同僚教員のクラスの生徒が、課題として「障害者の生活の国別の違い」をテーマにグループで研究するということで、筆者にインタビューに来たことがある。学生四人と研究室で長時間にわたり真剣に話を交わした。

 障害者について調べようとする学生たちは、実際に障害者の教員に会ってインタビューをするということで、最初は非常に緊張した様子だった。なにを質問するのか、どのように丁寧に自分の意見を話せばいいのか、わかりかねているようだった。

 もちろん、それに気付いた筆者が、若い学生の緊張を解きほぐし、彼ら彼女らがなにを聞きたいかは察しが付いたので、質問を先取りして自問自答するように答えていった。だんだん学生たちの顔には安堵の色が浮かび、むしろ筆者と話をすることが楽しくなったようでさえあった。

 筆者は自分の体験から障害者に関する重要な考えや経験を話した。韓国と日本、アメリカなどで経験した実例を挙げ、現場で筆者が直接感じたことを詳細に説明した。学生たちにはすこし勇気がうまれたようだった。

 そして、インタビュー後半の質問が傑作だった。話のまとめとして、学生たちは筆者につぎのような印象的な言葉を発したのだ。

 「先生、日本でも韓国でも、どんな国であっても、私たちがいまの社会システムのなかで、ただ義務感のようなものだけにもとづいて障害者と生きていくのでは、根本的にともに幸せに生きていく理想的な社会であるとはいえないように思えるのですが、先生はどうお考えですか?」

 また、続けて、「私たちは障害者になにをしてあげることができるか、その人たちがなにをしてほしいかをたくさん考えたいと思います。だけど、そうしてたくさんのことをしてあげることがむしろ申し訳ないことのように、負担ではないかと思うことがあります。先生はどのように思われますか?」と。

 学生たちは彼らなりにいろいろと考えていたようだ。

 


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