2008年に発行された社会福祉法人「全電通近畿社会福祉事業団」が編集・発行している『愛&ハート』(第160号、2008年12月10日発行)に掲載されている「愛の家施設長 阪口興」さんが書かれている「2008年の心のアルバムから」という記事のなかに、貴重な発言がある。それに関連して思い出したことを書いてみよう。
■ ほしい物が選べない理由
入所者たち(KさんとIさん)と阪口さんが一緒に出かけたときの様子が描かれている。お小遣いが多少あったので、お店に入って「本当に欲しい物を選んで決めよう」と話してから品選びをした。ところがIさんは、なかなかほしい物が決まらない。
阪口さんは「自分のほしい物が選べないのは、なぜだろう。彼には、自分で物を選びお金を払って手に入れるという経験が、これまでなかったのでしょう。家族の方が本人の意向を忖度した上で買い与えていたかも知れません」と書かれている。
これに関連して思い出した記述がある。それは大阪知的障害者雇用促進建物サービス事業協同組合編になる『エル・チャレンジ』である。本来は、この本は大阪府の総合評価一般競争入札制度を描いている本だ。本筋とはやや異なるが、多くの会社は本人の給料を口座振込みにしているが「多くの場合、その口座は保護者が管理し」ていると述べている。そのうえで、本人には保護者からこずかいを支給されている。もちろん「保護者からすれば、無駄遣いをしないようにという親心ですが、当人にとっては、働いて給料をもらっているという実感は乏しいのではないか」と書いている。
■ 給料も実感がないし、自分で選んで使えない環境
つまり、働いた実感がない報酬だろう。しかも、自分が好きな物を選ぶこともできない。そういう環境におかれているのが、障害者(とくに知的障害者)である。ここでは、親や保護者が、本人たちを実感が持てないようにしていると、読める。だが、教員や施設職員はどうだろうか。
これもやはり、私が矢野直子さんの本を読んだときに感じたことだ。それは「沖縄のモノレール(ゆいレール)」が開業した時のことである。乗り慣れていない乗客たちの中で「自動改札機」で切符を取り忘れる人がたくさんいたという光景を書いていらっしゃる。未経験なことでは誰しも戸惑うのは、当然だ。
やはり、交通について思い出したことがある。その方は10代末に精神病を発病されて、とある病院に30年間入院されていた(というか、閉じ込められていたというほうが正確だろう)。友人たちに社会に連れ戻されたときは、交通機関を利用できないと言われた。たしかに、彼が入院していた30年間には、とても大きな変化があった。
やはり、地域社会でいろいろな行動を経験することが大切だと、その人の話を聞いて思った。とくに、長期入院は社会から隔離する傾向が強い。といっても、先の例のように、保護者が無駄遣いをしないように本人の給料を管理する。あるいは、本人を自分で好きな物も選ぶことがない状況にする。そういう生活も、本当に地域生活を送っているといえないだろう。
■ 職員なども人生経験豊かな人が望ましい
多くの人たちが、そういう環境にあるとすると、そうした人たちに関わる介護職員などに求められる資質は、自から明確になるであろう。たしかに「自分で決める」というのは正解だろう。阪口さんが続いてお書きになっている「決められなければ、相談しようか」という一言が大切になる。まず、自分で決める(自己決定)がある。しかし、自分で決められないとすれば、いつでも相談していいよというメッセージを発することも大切だ。
とすると、職員たちは人生経験が豊かなほうが、いろいろと幅広く考える事ができる。自分でそんなに経験できないとしても、また、自分の経験が役に立ちそうもないと思うかもしれない。関わっている人も本人たちから相談を受けたときに、どれが果たしてよいのか的確な回答が出来ない場合もあるだろう。そのときには、身近に相談できる人が必要だ。
だれもが、買い物でも慣れていないときには、あるいは自分にふさわしい物が決まらないときには、多くの場合は、知人や友人に「一緒について行ってほしい」と頼むはずだ。自己決定というときには、全部自分で決める必要はない。信頼している友人・知人たちとともに決めるという、方法もあると思う。
■ ほしい物が選べない理由
入所者たち(KさんとIさん)と阪口さんが一緒に出かけたときの様子が描かれている。お小遣いが多少あったので、お店に入って「本当に欲しい物を選んで決めよう」と話してから品選びをした。ところがIさんは、なかなかほしい物が決まらない。
阪口さんは「自分のほしい物が選べないのは、なぜだろう。彼には、自分で物を選びお金を払って手に入れるという経験が、これまでなかったのでしょう。家族の方が本人の意向を忖度した上で買い与えていたかも知れません」と書かれている。
これに関連して思い出した記述がある。それは大阪知的障害者雇用促進建物サービス事業協同組合編になる『エル・チャレンジ』である。本来は、この本は大阪府の総合評価一般競争入札制度を描いている本だ。本筋とはやや異なるが、多くの会社は本人の給料を口座振込みにしているが「多くの場合、その口座は保護者が管理し」ていると述べている。そのうえで、本人には保護者からこずかいを支給されている。もちろん「保護者からすれば、無駄遣いをしないようにという親心ですが、当人にとっては、働いて給料をもらっているという実感は乏しいのではないか」と書いている。
■ 給料も実感がないし、自分で選んで使えない環境
つまり、働いた実感がない報酬だろう。しかも、自分が好きな物を選ぶこともできない。そういう環境におかれているのが、障害者(とくに知的障害者)である。ここでは、親や保護者が、本人たちを実感が持てないようにしていると、読める。だが、教員や施設職員はどうだろうか。
これもやはり、私が矢野直子さんの本を読んだときに感じたことだ。それは「沖縄のモノレール(ゆいレール)」が開業した時のことである。乗り慣れていない乗客たちの中で「自動改札機」で切符を取り忘れる人がたくさんいたという光景を書いていらっしゃる。未経験なことでは誰しも戸惑うのは、当然だ。
やはり、交通について思い出したことがある。その方は10代末に精神病を発病されて、とある病院に30年間入院されていた(というか、閉じ込められていたというほうが正確だろう)。友人たちに社会に連れ戻されたときは、交通機関を利用できないと言われた。たしかに、彼が入院していた30年間には、とても大きな変化があった。
やはり、地域社会でいろいろな行動を経験することが大切だと、その人の話を聞いて思った。とくに、長期入院は社会から隔離する傾向が強い。といっても、先の例のように、保護者が無駄遣いをしないように本人の給料を管理する。あるいは、本人を自分で好きな物も選ぶことがない状況にする。そういう生活も、本当に地域生活を送っているといえないだろう。
■ 職員なども人生経験豊かな人が望ましい
多くの人たちが、そういう環境にあるとすると、そうした人たちに関わる介護職員などに求められる資質は、自から明確になるであろう。たしかに「自分で決める」というのは正解だろう。阪口さんが続いてお書きになっている「決められなければ、相談しようか」という一言が大切になる。まず、自分で決める(自己決定)がある。しかし、自分で決められないとすれば、いつでも相談していいよというメッセージを発することも大切だ。
とすると、職員たちは人生経験が豊かなほうが、いろいろと幅広く考える事ができる。自分でそんなに経験できないとしても、また、自分の経験が役に立ちそうもないと思うかもしれない。関わっている人も本人たちから相談を受けたときに、どれが果たしてよいのか的確な回答が出来ない場合もあるだろう。そのときには、身近に相談できる人が必要だ。
だれもが、買い物でも慣れていないときには、あるいは自分にふさわしい物が決まらないときには、多くの場合は、知人や友人に「一緒について行ってほしい」と頼むはずだ。自己決定というときには、全部自分で決める必要はない。信頼している友人・知人たちとともに決めるという、方法もあると思う。
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