きまぐれストロール

植物、風景などを主として

中山道(板橋宿~日本橋)

2011年11月11日 06時18分09秒 | Weblog

10月26日、中山道「完歩の旅」、特別例会の最終日です。 いつものようにできる限り、見られるところは見

て置きたいとの精神で頑張りました。 振り返ると、会として中山道をはじめて歩いたのが、H18年4月23日

近郊の「馬篭~妻籠」からでした。 それから数えると実に5年と6ヶ月かかったことになります。 長かっただけ

に、その強い思いが、日本橋に辿りついた時には、その達成感から、おもわず全会員から「万歳三唱」の合唱

となって、行き交う人達のなかに響き渡りました。

 

猿田彦大神庚申塚:この庚申塚はお猿さんが祀られ  高岩寺:巣鴨にある曹洞宗の寺院。 山号は萬頂山

ているといわれるが、これは巣鴨近辺の有志が、明治 本尊は地蔵菩薩。一般にはとげぬき地蔵の名称で 

初期に、千葉県銚子市にある猿田神社から猿田彦大  知られている。

神を分祀したという。

 

真性寺の地蔵尊:江戸六地蔵のひとつ。巣鴨にある   染井吉野碑:江戸末期から明治初期に、江戸の染井

真言宗豊山派の寺院。山号は医王山、院号は東光   村に集落を作っていた造園師や植木職人達によって

院。 本尊は薬師如来。                     育成され「吉野桜」として売りに出していた。

                                    藤野奇命(博物学者)の調査によりヤマサクラとは異

                                    なる桜であることがわかり、1900年「日本園芸雑誌」

                                    において染井吉野」と命名された。

 

徳川慶喜巣鴨屋敷跡:徳川幕府15代将軍【(天保8年 追分1里塚:ここは、日光御成道(旧岩槻街道)との

(1837)~大正2年(1913)】がこの巣鴨の地に住ん 分かれ道で、中山道の最初の一里塚があった。

だのは明治30年11月~34年12月までの4年間で  またその角に宝暦年間創業の高崎屋(酒屋)が

した。 その後小日向第六天町に移った。その理由は  ある。

巣鴨邸のすぐそばを鉄道が通ることが決まりその騒音

を嫌ってのことされている。

 

東大校舎の通り                          赤門:加賀前田藩上屋敷跡地に東京大学を設立。

                                    赤門は将軍家斉の姫が前田家に嫁いだ時に建て

                                    られた門。

 

樋口一葉ゆかりの桜木の宿:東大赤門前反対側の奥  本郷の薬師如来:かつてこの地は真光寺の境内であ

まった所に、法真寺がある。法真寺に接して樋口家が  った。伝えによれば、寛文10年(1670)ここに薬師

あり、明治9年(1876)4月、明治14年までの5年間  堂が建立された。当時町内に奇病がはやり、病に倒

(一葉4歳~9歳)を過ごしたところである。一家にとっ  おれる者数知れず出たためこの薬師様に祈願して

てもっとも豊かで安定した時代であった。          病気が治まったといわれている。  

 

かねやす:「本郷もかねやすまでは江戸の内」と川柳  神田明神随神門:昭和50年昭和天皇ご即位50年

に歌われている。                         の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。                          

                                    2階建て・屋根は銅版瓦棒葺。                                                          

 

神田神社境内;正面御社殿、昭和9年に竣功。当時と 江戸国学発祥地:荷田春満(1669~1736)により

しては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート・総朱漆塗の   江戸において始められた学問である。春満は伏見稲

社殿。ちなみに現社殿の前は天明2年(1782)に   荷大社神職の出。その春満に最初に入門したのが

江戸幕府によって造営。木造で権現造・総朱漆塗。   神田明神神主家の柴崎好高であり、邸宅を講義の場

江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であった   として提供するなど国学の普及・発展につとめた。

といわれている。

 

湯島聖堂仰高門:一般見学者の入口になる門      孔子像:2500年ほど前、中国の魯の国(今の山東

                                    省曲阜市)昌平郷に生まれた人、その教え(儒教)は

                                    東洋の人々に大きな影響を与えた。儒学に傾倒した

                                    徳川5代将軍は綱吉は1690年(元禄3年)この地に

                                    湯島聖堂を創建。

 

大成殿:孔子を祀る。                       ニコライ堂:大成殿からニコイ道が目前に見えた。

昭和10年大林組により、寛政時代の旧制を模し    日本で最大の正教会の大聖堂であり、全日本の府主

鉄筋コンクリート造りで再建。                 教が管轄する首座宗教座教会である。

 

神田川:東京都を流れる一級河川。荒川水系の支流  三越:現在の建物は、昭和10年(1935)に寛政。

フォークグループかぐや姫の楽曲神田川になっている ルネッサンス式建築の威容をほこり、当時は「国会

ことでも有名である。                      議事堂」「丸ビル」に次ぐ大建築物でした。

                             日本橋掲示板

 

日本橋魚河岸跡:日本橋から江戸橋にかけての日本  日本橋から江戸橋方面へ

橋川沿いには幕府や江戸市中で消費される鮮魚や

塩干魚を荷揚げする魚河岸がありました。ここで開か

れた魚市は江戸時代初期に佃島の漁師達が将軍や

諸大名が調達した御膳御肴の残りを売り出したことに

始まりました。

 

 日本国道路元標:日本橋が初めて架けられたのは   道路元標(東京市道路元標):中央の日本国道路元

徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝え    標の後方柱に東京市道路元標と記されている。

られています。幕府は東海道をはじめとする五街道の

起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と

交差する点として江戸経済の中心となっていました。                             

                 

         (11.10.26)                雷門:現在の門は慶応元年(1865)12月の田原町の

東京スカイツリー :墨田川公園から撮影したスカイ  大火で炎上した門に変わり、昭和35年(1960)、95  

ツリーです。                           年ぶりに松下幸之助氏のご寄進により復興再建され

                                   浅草寺の総門として威容を誇っている。

 

仲見世:土産物ならココ。 菓子類から雑貨及び衣料  浅草寺宝蔵門:現在の門は山門として内部3層のうち

まで売られていて、大変な賑わいです。          2層に防災設備を施した収蔵室を設け宝物収蔵の宝

                                    蔵門として大谷重工業の寄進により復興再建された。                                                                    

 

五重の塔:徳川3代将軍家光により本堂・仁王門等と  浅草寺本堂:昭和33年(1958)、全国ご信徒の浄

共に建立された5重の塔は太平洋戦争の戦火により  財により再建された現本堂は鉄筋コンクリート、本瓦  

焼失。戦後、信徒各位の浄財を得て、五重塔を再建。 葺きであり、昭和20年(1945)3月戦災で焼失した

                                    旧本堂と同形態である。本尊は聖観世音菩薩である

浅草神社:観音像を拾いあげた桧前浜成命、桧前竹成命、

奉安した土師真中知命、を祭神とする。 今もなお、

「三社さま」として親しまれている。

 徳川将軍家光より、寄進された社殿は350年経った

現在も当時の面影をそのまま残しています。

 

 


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
☆おめでとう☆ (旅人A)
2011-11-26 07:28:39
お江戸ご到着
万歳の喜びが伝わってきますよ~
『奥の細道』へのご計画はないのでしょうか?
芭蕉さまの歩みを他力!?で楽しませていただけたら
。。。。と大いに期待しております。
返信する
Unknown (かす&むす)
2011-11-28 11:13:19
大変遅くなって申し訳ありません。
貴重なコメントを戴き大変有難く思います。
中山道は曲がりなりにも「完歩」致しましたが、
東海道の方は、今年度目標が浜松宿あたりです。
まだまだ駆け出したところです。当面は、残念ながら力不足で計画はございません。

今まで歩きました宿場では、数多く『芭蕉句碑』は眼にし、歩く旅を和ませていただいていました。
今後は、出来る限り『芭蕉句碑』にも目を向け期待に
添いたいと考えます。

返信する

コメントを投稿