机の上

我、机の上に散らかった日々雑多な趣味(イラスト・劇画・CG・模型・HP・生活)の更新記録です。

銃後(15)の春

2015-03-15 07:13:00 | 楽描き
 十五歳の少年から見れば昭和四十二年の時代というものは、戦後の焼け跡の風景の続きだった。確かに街は赤や青に彩られ、人々の身なりも綺麗だ。
 
 少年は薄らと幼き日々を思った。少年の父や母はごく普通の人だが、随分と不器用な人達だなぁと思っていた。母は漁師町出身であり余り世間との付き合いを好む人ではなかった。父は真逆の発展家で意見が合わないのか、いつも言い争いをしていた。 

 裕福でもなかったが、極貧でもなっかた。それでは普通かと言われれば、今にして思えば、やはり貧乏であったに違いない。微妙なところだ。父は付き合いで外で飲んでくる事もあり、一日に三十円の煙草を一箱吸う人であったが、少年が五円・十円の物を、たまにせがんても訝しがるのであった。母はいつも金に不自由をしていた。少年と妹を連れ立って貯木場の丸太の皮むきに行ったり、線路淵に落ちている、石炭を拾ったりしていた。季節になれば野草を採りにも行ったりした。

 父は腕の良い看板職人のようだ。人付き合いも良く仕事熱心だ。だが母に言わせるとお金には縁の無い人であった。確かに人が良く商売向きの人ではなかったのかもしれない。そういう父の導きで少年は勤めに出る事になった。父と同じ職業だ。

 少年は内気な性格で朝の挨拶も立派には出来なかった。結婚して乳飲み子が一人いる先輩がロッカーを説明してくれたが、使うのは最初だけであった。生来無精の少年は作業服のままで通勤するようになった。日々の仕事の忙しさも、そうさせるひとつだった。

 職場の人は事務の女性を入れても十人位である。先輩方は皆一様に口が重く、目くばせで仕事の指示をする。失態を晒すと「気が利かないなぁ」が口癖であった。
また何かにつけて戦中戦後の事を引き合いに出し「今の若い者は」と罵り、これが少年の耳にタコをつくり厄介なものになるのである。

 江戸時代の仇討ちの伝えで言うならば、父達の意趣返しでアメリカと戦わなければ、いけないのではないか。少年の年齢と体力は充分にそれは出来る。しかし世の中の流れはそういう方向ではないようだ。

 アメリカはベトナムでの戦争を激化していった。日本を戦争で撃ち負かし、次のステップに入っているのだ。小学生の時に見た少年雑誌の特集に図解入りでベトコンの事が出ていたので何となく少年は理解していた。

 今もこの空の下で、同世代の若者達が戦争で死んでいるのかと思うと、後ろめたい気がした。少年の置かれた状況は、毎日残業早出で、けっして楽なものではなかったが、命までは盗られない。少なくても鉄砲の弾や爆弾では、と、これまた先輩達の口癖だ。

 しかし、ひとたび新聞を見れば、年間ベトナムで命を落とす米兵の数より日本の交通事故の死者数の方が多い。公害で苦しむ人達がいる。高学歴を目指しても何を求めて生きていいのか判らぬ若者達がいる。

 季節は変わり仰ぎ見る空の青さは一層濃くなり、少年は人生を満喫していた。
風の噂ではクラスの四分の一以上の子が高校受験に失敗したと聞いた。予備校に行くという話も聞いた。「中学浪人」か、少年は心で呟き自分はこれで生きて行くと、随分前に決めていた事に確信をおぼえた。

 群青を背に真っ白な入道雲は筋肉を蓄えて少年を鼓舞していた。終戦の日もこんな空だったのか、母の昔話を思い出した。
終戦が過ぎても敵国の潜水艦が日本の樺太からの引き揚げ船を魚雷で沈めたというのだ。母達、村人はそれを目の当たりにしているのだ。

 どこからかフォーク・クルセィーダーズの唄が聞こえてきた。車のラジオから漏れてきた音だろうか。それはやがて消えた。

 

書棚に無い本

2015-03-14 05:21:00 | 楽描き
「倫敦塔」
 夏目漱石の短編である。


 二年の留学中ただ一度倫敦塔(ロンドンとう)を見物した事がある。その後(ご)再び行こうと思った日もあるがやめにした。人から誘われた事もあるが断(ことわ)った。一度で得た記憶を二返目(へんめ)に打壊(ぶちこ)わすのは惜しい、三(み)たび目に拭(ぬぐ)い去るのはもっとも残念だ。「塔」の見物は一度に限ると思う。

冒頭の部分。

 二十代の半ば頃まで釧路市に住んでいた。繁華街の一角に「倫敦塔」という喫茶店があった。その名を示す通り趣きのある店で、勿論入った事もある。

 その倫敦塔で映画「挽歌」のロケが行われた。当時、某喫茶店でバーテンダーをしていたのでよく憶えている。出演者の田中健と秋吉久美子が某喫茶店に突然入ってきたのだ。倫敦塔とは目と鼻の先である。おそらくはロケの野次馬から逃れて来たのであろう、関係者に促されて、すぐに出ていった。秋吉久美子の肌の白さとそれとは真逆に田中健の顔の黒さは印象的であった。

 原作に登場する喫茶店は「ダフネ」という名前だ。実在の喫茶店であったらしい。
むかし会社の先輩の御宅に御邪魔した時の事。部屋の壁一面にキャバレーやスナック、喫茶店のマッチがコレクションされていた。その中に喫茶「ダフネ」のマッチもあった。一緒に連れ立った事務員の女性との会話は誇らしげだ。

 会話の中で、今は無い「ダフネ」は「エデン」という喫茶店の辺りにあったという。エデンは承知していたから五十年前の記憶をまさぐると幣舞橋の近く釧路川沿いの北海道新聞社旧跡地の裏あたりだろうか。今は大きなホテルが建っているし廻りの様子も変わっている。勿論記憶はあてにはならない。間違っているかもしれない。

 夏目漱石に興味をもったのは友人の影響だ。それからというもの機会ある度に調べている。この雑文を書くきっかけはテレビで英国の作家スティーブンスンの一文が引用されていたからだ。なつかしくネットで検索していたら漱石に辿り着き「倫敦塔」となった次第だ。

 ガリバー旅行記や宝島、シャーロックホームズにアーサー王の竜退治と幼い頃より慣れ親しんだ英国の名作なのだが本は書棚にはない。ないがわかったつもりでいるから始末に悪い。少年の頃に裕福な友達の家に遊びに行った時に部屋の本棚の少年少女名作文庫を読み漁った思い出があるからだろうか。

 それでもうつらうつらと夜中に、当てにならない知識や記憶を頭の中で彷徨うのも、それはそれで一番の旅行かもしれない。ひがみではなく金もかからないし、忘れていた数十年前の思い出にも巡り会える。

 最後にロバート・ルイス・スティーブンスンの一文を、記憶に足りないが・・・

「若者よ、何を所有するかではなく何を欲するかの問題であり結果ではなく過程が大事なのである」

・・・・だったような。
 

 
  

 

黙祷

2015-03-10 06:15:00 | 日々是茶飲み話
「劇画」命名の漫画家、辰巳ヨシヒロさん死去
読売新聞 3月9日(月)20時5分配信

 大人向けのストーリー漫画「劇画」の命名者で国際的に評価された漫画家、辰巳ヨシヒロ(たつみ・よしひろ、本名・辰巳嘉裕)さんが7日、悪性リンパ腫のため死去した。

 79歳。告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く予定。

 1950年代にデビュー。大阪の貸本漫画でリアルな漫画手法を模索、57年に「劇画」と名付けた。上京後、59年にさいとう・たかをさんらと「劇画工房」を結成、「劇画」普及の基礎を作った。72年「人喰魚」で日本漫画家協会賞努力賞。

 2005年に仏アングレーム国際漫画祭特別賞を受賞するなど海外で注目され、日本でも再評価が進んだ。09年、自伝的作品「劇画漂流」で手塚治虫文化賞。14年、同作や短編を基にした映画「TATSUMI」が公開された。