寺田ヒロオ
その日、寺田は精一杯に御機嫌を装ったに違いない。
昔の仲間達五人が茅ヶ崎の自宅を訪ねてくれた。
男達の名前は藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、戦後を代表するマンガ、アニメの巨匠達だ。
寺田は1970年に筆を折ってから二十年になる。
井上一雄・福井英一の漫画「バットくん」に憧れて22歳の時に上京し東京都豊島区のトキワ荘に入居する。
その時の仲間達が久し振りに寺田を訪ねてくれたのだ。
男達は昔話に花が咲いた。寺田は当時は五人の先輩格で彼等の事をなにくれとなく面倒を見てきたのだから懐かしさは一入だ。
寺田が筆を折ったのには訳がある。児童漫画を心底追求していた寺田には暴力描写が横行する劇画の登場に我慢ができなかったのである。
こういう俗悪な漫画は載せない方が良いと編集者に進言した事もある。
その為もあり時流にも乗れなくなって寺田の漫画は世間から姿を消した。
宴を終え、寺田は遠ざかる五人の仲間達にいつまでも手を振り続けた。
「もう思い残すことは無い」と家族に話した。
翌日、藤子不二雄Aはお礼の電話をいれたが寺田はかたくなに電話に出ず、妻を通じて一切世俗とは関わらないと伝えた。
宴の様子を鈴木伸一はビデオに撮影して寺田に供している。
家族の話によると、寺田は、そのビデオを何度も見ていたという。
後年は一人で離れに住み家族とも接触がなかった。妻が三度の食事を届けるという生活を続けていたが、ある日朝食が残っているのをみて、不審に思い部屋に入ってみると亡くなっていた。
あの仲間達との宴から二年後の1992年の事である。
職業漫画家の意地なのだろうか、今は死語になってしまった「児童漫画」を貫きたかったのだろうが、生活が成りたっていたのなら例え趣味でも作品を残してもらいたかった。
商業誌最後の連載「暗闇五段」は当時大好きだった。
その日、寺田は精一杯に御機嫌を装ったに違いない。
昔の仲間達五人が茅ヶ崎の自宅を訪ねてくれた。
男達の名前は藤子不二雄A、藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、戦後を代表するマンガ、アニメの巨匠達だ。
寺田は1970年に筆を折ってから二十年になる。
井上一雄・福井英一の漫画「バットくん」に憧れて22歳の時に上京し東京都豊島区のトキワ荘に入居する。
その時の仲間達が久し振りに寺田を訪ねてくれたのだ。
男達は昔話に花が咲いた。寺田は当時は五人の先輩格で彼等の事をなにくれとなく面倒を見てきたのだから懐かしさは一入だ。
寺田が筆を折ったのには訳がある。児童漫画を心底追求していた寺田には暴力描写が横行する劇画の登場に我慢ができなかったのである。
こういう俗悪な漫画は載せない方が良いと編集者に進言した事もある。
その為もあり時流にも乗れなくなって寺田の漫画は世間から姿を消した。
宴を終え、寺田は遠ざかる五人の仲間達にいつまでも手を振り続けた。
「もう思い残すことは無い」と家族に話した。
翌日、藤子不二雄Aはお礼の電話をいれたが寺田はかたくなに電話に出ず、妻を通じて一切世俗とは関わらないと伝えた。
宴の様子を鈴木伸一はビデオに撮影して寺田に供している。
家族の話によると、寺田は、そのビデオを何度も見ていたという。
後年は一人で離れに住み家族とも接触がなかった。妻が三度の食事を届けるという生活を続けていたが、ある日朝食が残っているのをみて、不審に思い部屋に入ってみると亡くなっていた。
あの仲間達との宴から二年後の1992年の事である。
職業漫画家の意地なのだろうか、今は死語になってしまった「児童漫画」を貫きたかったのだろうが、生活が成りたっていたのなら例え趣味でも作品を残してもらいたかった。
商業誌最後の連載「暗闇五段」は当時大好きだった。
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