家づくりでは、施主は自分が選んだプロのパートナーの影響を大きく受ける。
自分の家づくりで満足できた施主は、知らず知らずのうちに自分が組んだプロの「家づくり手法・哲学」の支持者になっている。
施主はいつのまにかプロから受け継いだ思想を振りまく。それはそれでいい。
しかし・・・
プロが「この手法、工法でなければ成功はしない」「この条件を満たしていなければいい家ではない」と主張するのはある意味しかたがないが、施主がそれと同様な「いい家」論を展開することはないのではないか。第三者からみたら、その施主にはその工法・そのスペックがあっていたという程度のもので、一般論的に「いい家」として語るのは何か変だ。自分にとっての「いい家」がこうやってできた、という流れなら納得できるが・・・。
最近できあがったにすぎないスペックを勝手に「基本」とか定義されるのにも面食らう。プロが自分のやり方では「これが基本」ということは言ってもいいが、施主全般が対峙する家の概念はもっと自由であって、そこでの普遍的な「基本」とはいえない。
施主の中には「屋根は必要か」「窓は必要か」というところから家というものを考えている人もいるのだ。そのくらい多様性があるのが家というものだと思う。私の家には屋根のない部屋と言える空間があるが、これはこれで存在意義はしっかりある。最初から、基本とか前提とかいう形で、「こうでなければならない」などという縛りに変にとらわれると、自分がほしいものを見逃すこともありうる。
プロは「いい家のスタンダードな姿」を追求する。その姿勢はいいし、文句はない。だけど、個々の施主にとっての「いい家」は決して「スタンダード」でなくともいいし、スタンダードであったとしても、スタンダードは一種類しかないということはない。
かくいう私もご多分に漏れず建築家の信奉者のようになっていると思う。同じ建て方をする施主は増えてほしいとも思う。だけど、それが誰にもあてはまるスタンダードな「いい家」であると、施主の立場から主張するつもりはない。
自分の家づくりで満足できた施主は、知らず知らずのうちに自分が組んだプロの「家づくり手法・哲学」の支持者になっている。
施主はいつのまにかプロから受け継いだ思想を振りまく。それはそれでいい。
しかし・・・
プロが「この手法、工法でなければ成功はしない」「この条件を満たしていなければいい家ではない」と主張するのはある意味しかたがないが、施主がそれと同様な「いい家」論を展開することはないのではないか。第三者からみたら、その施主にはその工法・そのスペックがあっていたという程度のもので、一般論的に「いい家」として語るのは何か変だ。自分にとっての「いい家」がこうやってできた、という流れなら納得できるが・・・。
最近できあがったにすぎないスペックを勝手に「基本」とか定義されるのにも面食らう。プロが自分のやり方では「これが基本」ということは言ってもいいが、施主全般が対峙する家の概念はもっと自由であって、そこでの普遍的な「基本」とはいえない。
施主の中には「屋根は必要か」「窓は必要か」というところから家というものを考えている人もいるのだ。そのくらい多様性があるのが家というものだと思う。私の家には屋根のない部屋と言える空間があるが、これはこれで存在意義はしっかりある。最初から、基本とか前提とかいう形で、「こうでなければならない」などという縛りに変にとらわれると、自分がほしいものを見逃すこともありうる。
プロは「いい家のスタンダードな姿」を追求する。その姿勢はいいし、文句はない。だけど、個々の施主にとっての「いい家」は決して「スタンダード」でなくともいいし、スタンダードであったとしても、スタンダードは一種類しかないということはない。
かくいう私もご多分に漏れず建築家の信奉者のようになっていると思う。同じ建て方をする施主は増えてほしいとも思う。だけど、それが誰にもあてはまるスタンダードな「いい家」であると、施主の立場から主張するつもりはない。