寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話「エアロフロート機に乗って6」(20140818)

2014年08月18日 07時37分12秒 | インポート

 インターラーケンオストから再び列車に乗ってチューリッヒに向かった。発車して直ぐ右側に湖が見えてきた。これはブリエンツ湖という。湖に沿って北東方向に列車は進んでいった。スイスは湖の多い国のようだった。幾つかの湖を過ぎてしばらくするとルツエルン駅に停車した。ルツエルンは夜景が美しいというが今は昼間なので残念であった。また高名な交響楽団のある町だ。ルツエルン交響楽団の演奏したレコードを何枚も持っている。本当は下車して夜景を見たかったのだが、ミュンヘンまでの時間が少なくなってきたので通過することにした。夕方チューリッヒ駅に着いた。早速駅のインフォーメイションに行きホテルの予約をした。インフォメーションの年配の女性は私の条件を聞いて「あまり勧められないがあなたの条件を満たすホテルはここしか無い」とチューリッヒ湖北端から川になるところの一軒のホテルを紹介してくれた。そこへ歩いて行こうと駅を出ると2人の日本人の若い方がうろうろしていた。旅行者ではなさそうだったのでホテルへの行き方を聞いたところ時間があるので一緒に行きましょうと行って荷物を持ってくれた。目的地に近づくと川端にある柳の葉を風にゆだねているような風雅のあるところであった。ホテルへ着くと1階は何か飲み屋のようだった二階への階段を上がっていくと踊り場のような所に机に向かって本を読んでいる学生風の男がいた。彼にここが受付かと聞くとそうだという。3泊したいのでよろしくというと前金だというので宿泊代を払って、いわれた部屋へ行った。そこは5階の屋根裏部屋でベットが幾つもおいてあった。と言うことはここは日本風にいう布団部屋ということなのかもしれないと思った。荷物を置いて下へ降り若い方と食事に行った。

 食事をしながら話を聞くと2人はそれぞれ別のホテルの調理場で働いているという。日本のホテル協会からスイスのホテルで調理の修行をするようにと派遣されてきた。しかし調理場では毎日毎日ジャガイモの皮むきしかやらせて貰えないという。自分たちも日本では一応調理場で料理を作っているというのに。もう止めたくなってきたのだそうであった。食事を済ませて帰り道、明日は休暇を取ってチューリッヒを案内してくれるというので大丈夫かと聞いたが、問題ありませんというのでお願いした。ホテルの近くに来ると川端に植えてある柳の木の下にどぎつく化粧をし、着飾った女性が沢山いた。興味深そうに私の方を見たが仲間で話し合って無視した。アメリカ映画に出てくるシーンと似ているなと思った。そう、彼女たちは娼婦であのホテルは彼女たちが商売をするところだったのだと気がついた。これは変なところに宿泊することにしてしまったと思い受付の男性に今夜1泊だけにして後はキャンセルしたいというと、ジロッと私を見て「シュア」と言って2泊分の宿泊代を返してくれた。宿泊代を返してくれないと思っていたが案外正直なのかなと思った。翌朝荷物を持って1階へ降りると昨日の2人が待っていてくれた。事情を話すと、一人の方が私のホテルへ来て下さい親戚と言うことにして安くして貰えると思います。と言うので申し出を受けることにした。彼の働いているホテルは昨晩泊まった所とは雲泥の差であった。初めからこのようなホテルを頼めばよかったと思った。

 荷物を預けて町中にでると日本企業の看板がやたらと目についた。スイスの人はこれらの企業はスイスの会社だと思っていると言うことだった。まあ全員がそうとは思っていないのだろうが。2人のお陰でチューリッヒがよい想い出になった。感謝、感謝。お二人には「石の上にも三年」と言うことがあります。だから頑張ってください、と言葉を残してオーストリアのウィーンへ向かう。


思い出話「エアロフロート機に乗って5」(20140816)

2014年08月16日 08時07分23秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ロンドンから列車(ユーレイルパス:イギリス国内でも使用可のもの)でドーバーへ行き連絡船に乗ってフランスのカレーへ渡りパリ経由でバーゼルを通り越し、ユングフラウを見るためにインターラーケンオストで下車した。駅改札口をでると登山姿の日本人のグループがいてコッヘルなどを使って朝食の準備をしていた。登山鉄道?に乗り換えては景色のよいところを通ってグリンデルヴァルトに向かった。列車はかなりの勾配の線路を走っていた。高度が上がるにしたがって雪景色が見られるようになった。まだ9月の初めだというのに。列車を降りて雪でぬかる道を先ずは予約しておいたホテルに行った。受付に行くと女性が日本語で「よくお出でくださいました。ごゆっくりどうぞ」というので驚いた。その女性は日本語の勉強をしているという。私に日本語で話をして欲しいというのでえたりと日本語で話をした。

 通された部屋の窓を開けると目の前に氷河の先端部が窓いっぱいにどっと押し寄せてきた。少し休憩してから町中をへ出て行ってみた。歩いているといろんな人が話しかけてきた。身振りを交えた片言のドイツ語でも話が通じて面白かった。彼・彼女らはとても温かくもてなしてくれた。私はいっぺんにスイスが好きになってしまった。ホテルへ戻ってくるとホテルの屋上に日の丸の旗がたなびいていた。ホテルの心遣いが何とも嬉しかった。夕食にはマスの塩焼きを出してくれた。日本食に飢えていたのでよく味わって食べた。受付の女性はホテルのオーナーでフロウラインXXという方だった。私の予約を見て日本人の食べ物を調べて待っていてくれたという。何ともすばらしいもてなしを受けた。

 翌日晴れていたのでどうやってユングフラウへ行こうかと思っていると彼女が今日はとってもよい天気なので一番の電車で山へ行きなさいと行って切符を買いに行ってくれた。朝食を素早く済ませて登山電車に乗って出かけた。途中の牧草地帯には例の鐘をぶら下げた牛がたくさん草を食んでいた。スイッチバックがあったりケーブルで引っ張る部分があったり登山電車の旅を満喫している内に終点に着いた。終点は地下駅になっておりそこからエレベーターで地上へ通じる通路へでた。早く雪渓の見えるところへでようと急ぎ足になった。するとガンと頭に衝撃が走り息苦しくなった。通路脇で喘いでいると登山姿の人が駆け寄ってきて「ルフト、ルフト」と行って呼吸を速くするようにという格好をしたので真似をした。急いだので高山病様の症状になったらしい。すると呼吸が楽になり動けるようになった。彼にお礼を言って喫茶店?へいってコーヒーを頼んだ。出てきたコーヒーを飲むとこれが生ぬるくてまずかった。気圧の低下による沸点降下を実際に見た。しばらく休んでいたら回復したのでゆっくり歩いていろいろ見て回った。氷河をくり抜いて作ったスケートリンクがあり氷の通路を進んだ。氷の壁に相合い傘に名前を書いたづら書きがたくさんあった。ほとんどが日本人のもので恥ずかしくなってしまった。見晴台へ行くためにドアを開けると眩しいくらいまっ白な世界が広がっていた。ヨッホまで行き記念写真を写した。感動を胸の中で暖めながら戻ってきた(写真を探してみるとカビが生えており、掲載できるようなものでなくなっていた)。

 下界へ着いたのがまだ15時過ぎだったのでユングフラウの反対側のフィルフトと言う山にロープウェイで登った。頂上はいろんな花が咲ききれいなところだった。歩いていると急に雲が出てきた。他の観光客がロープウェイ駅の方へ急いでいたので私も戻った。駅に着くとものすごい吹雪になったしまった。ガタガタ震えていると駅員が厚手のコートを持ってきてこれを下の駅で返せばよいから着ていなさい言って貸してくれた。ロープウェイは風が強くしばらく動かないというので駅舎の中でストーブに暖を取りながら待った。しばらくすると青空が見えてきたのでロープウェイで下の駅に戻りコートを返した。さすが標高3000メートルというのは天候の急変に注意しなければいけないのだと実感した。翌日ゆっくり起きて食事をしてインターラーケンオストへ戻りチューリッヒに向かった。ここでもとんだハプニングが待っていた。

 初日にしてスイスはさすがに観光立国だと感心してしまった。


友よいずこに(20140812)

2014年08月16日 06時48分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 親友のY君に連絡できなくなってからかなりの時間が過ぎました。最近私らも高齢になり一人暮らしのY君にきどきは電話で生きてるかなどと冗談を言い合ったものでした。近頃少し心配になり数日間時刻をいろいろ選んで電話をかけましたが電話にでることなく過ぎました。それが日曜日の朝かけた電話に反応がありおそらくは親類の方だと思うのですがいろいろ尋ねることができました。お話によるとY君は介護施設に入ったと言うことでした。そういえば彼は心臓血管のバイパス手術を受けていたのを思い出しました。施設で元気にしていることを期待しています。

 Y君と知り合ったのは大学入学後すぐ卓球部に入ったときでした。彼は身長が私より7cmほど高く、年齢は2,3才上のように見えました。彼は物理学科卒業後、一時企業に入ったのですが直ぐにT工業大学へ転職しました。昭和40年代後半には直立歩行ロボットの試作に取り組み5歩ほど歩けるようになったと話していました。その後、歩行ロボットは現在では転んでも立ち上がったり、ダンスをやるまでに発達しているのは衆目の通りです。そんなロボット研究の先駆者でした。趣味の面でも彼は私と同じような傾向があり、よくダンスや囲碁をともに楽しんだものでした。

 Y君のことを書き出したらいろいろ思い出しました。ダンスをやっていた頃のある土曜日の夜、その夜は雨で講習を受けている女性は1対3の割合で極端に少なく終了間際には数人になっていました。私たちは4人で練習パーテーに参加していて、最期の曲までにかわりがわり一人の女性と踊ってお茶に誘おうと試みましたがみんな失敗してしまい、私が最期に踊ってお茶に誘うことに成功しました。5人で喫茶店に入りコーヒーを飲み1時間ほど過ぎた頃、彼女が帰るというので家の方向が同じY君が送っていくことになりました。その翌日昼頃にY君から電話があり、変な声で「今誰といるかわかるか?」と問うのです。そんなこと解るわけがないし、私は見当もつかずにわからないと言うと、「昨日の女性と一緒だ」というのでびっくりしてしまいました。手が早いというか知り合った翌日にデートしてるなんて私には理解できませんでした。後で知ったのですが彼女は栄養士の資格を持っていてその関係の仕事をしているという話でした。

 Y君は彼女と同棲し始めたのですが、彼女の家庭の事情で結婚は出来なかったようです。それ以来ずーっと一人暮らしをしていました。それ程彼女を愛していたのですね。彼女の作ってくれたスパゲッテイミートソースがあまりの美味しさで私は2皿も食べてしまって笑われたことがありました。

 Y君は仕事でも歯車の設計やいろいろな形の歯車の構成組み合わせによって力がいろんな所に伝達することを詳しく研究し、厚さ8cmほどもある歯車の集大成の書籍を上梓しました。その他にも多数の要素実験に関する論文を書いています。

 


思い出話「台風と飛行機」(201408010)

2014年08月16日 06時47分14秒 | 日記・エッセイ・コラム

 台風11号が四国へ上陸して日本海へ抜けた。雨量が多いというのが11号の特色である。被害を受けた方々にはお見舞い申し上げます。

 また続いて13号が東海・関東を目指しているので心配である。

 もうかなり前まだ本州と四国を結ぶ橋がなかった時代の話で恐縮です。高知大学で学会が開催された時の話です。

 東京から新幹線で名古屋へ行き、そこで共同研究者と合流して中部空港から高知空港へ行く予定でした。しかし高知空港付近の天候が荒れているために、高松空港へ行きそこから列車またはバスで高知市へ方法しか無いということで高松まで飛行機に搭乗しました。まずは順調に飛行していたが着陸態勢に入り、車輪が接地したとき飛行機が強風にあおられて機体が傾き、右翼が地面に接触しそうになった。瞬間私は大変だと思いどうしたらよいかを考えた。しかし飛行機は体制を立て直し無事着陸した。やれやれと思った。 

 高松空港からバスにするか列車にするかと迷っていると、同機できた方4人と割り勘でタクシーに乗り高知まで行くことになった。途中大歩危小歩危に連なる川岸を通った。川水は濃い水色をしていて滔々(とうとう)と流れていた。数時間して高知駅前に着くと4人の人は割り勘分を払ってさっさと下車して行ってしまった。運転手は遠くまで来たのだからチップをくれると思っていたのに客がいなくなってしまったのでふくれ面をした。私は気の毒になって何か忘れてしまったが記念になるようなものをチップ代わりに渡して下車した。

 高知では鯨の尾のみや本物のカツオタタキを食べたり、懇親会の席で高知式酒の飲み方を教わったりした。それは杯の底が丸くなっていたり尖っていたりで置けないようになっているので杯を手に持ち続けなければならない。杯を手に持っているともっと酒を欲しいととられ酒を注いでどんどん飲ませる。何とも豪快な話である。

 ホテルの受付で高知城前の堀端の道路で朝市をやっているというので見に行った。そこでクコの実の黄色い粉を毎日少しずつ飲むと肝臓に良いと言われてツイ買ってしまったがいつの間にか忘れて全く飲まなかった。以上、台風にちなんで思い出したことを書き留めました。

 


8月15日敗戦後69年経って命の大切さを改めて思う(20140815)

2014年08月15日 07時30分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私は、1945年(昭和20年)8月15日ポッダム宣言受諾の玉音放送を、学童疎開先の新潟県直江津(現上越)市のあるお寺の本堂に正座してラジオで聞いた。

 小学校3年生の私には玉音放送の内容を理解することが出来なかったが、引率の先生方や大人の人たちの様子から戦争が終わった(戦争に負けた)ということを知った。ラジオから流れた天皇陛下(昭和天皇)の声は重々しく沈んだような声であった。

 玉音放送が終わると先生方は急ぎ足に本堂から出て行ってしまった。

 後になって、この戦争の犠牲者数が軍人民間人を含めて300万人以上に上ると知って愕然とした。こんなに多数の犠牲者を出した戦争とは何だろうか。

 69年経過した現在も世界の各所で紛争という名に代えた戦争が行われている。

それは人種の違いや宗教の違いに起因している。それから自国の利益を念頭に置いた場合もある。人種の違いはそんなに強調される問題ではないと思うし、宗教はもともと人々の幸せのために発生したものだから争いの原因になるはずはないのだと思うし、自国だけがよくなっても世界は成立しないのだが何故それを乗り越えられないのだろうか。

 命の大切さを知り、戦争を無くすことがいかに困難な問題であると考えるか、それ程困難のことでは無いと考えるか。そして自分だけではどうしようもないと思わないで欲しい。一人ひとりの力は小さくとも大勢の力を持ってすれば大きな力が得られる。その力を世界から戦争を無くす方向へ向けようではありませんか。


男の手料理といえるかな? 「孫の作ってくれたホットケーキ」

2014年08月14日 22時45分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに孫3人が泊まりがけでわが家に遊びに来た。それぞれ成長して少しずつ少年らしくなってきた。上の子(長男)は中学2年生になり、最近小説を読むのが好きになってきたという。学校の国語の教科書に出てきた小説に興味を持ったらしい。小学校6年生の次男は今のところ勉強よりもサッカーが好きで、地元プロクラブの少年のクラブに入って頑張っている。この子も読書が好きで特に戦国時代の人物伝に興味を持っておりいろんなことを知っている。それからサッカークラブの合宿に行くようになったせいか食べ物に特に興味を持って時々自宅でも簡単なものを作ると言うことである。三男は小学校3年生でまだ自立心が少し不足しているようであるが、芸術系?の学科に興味を持っているようである。最近H市の小学校の絵画コンクールで入賞して表彰されたという。一番下の孫娘は幼稚園で英語を習っているようで、先生の仕草を真似して私に英語の単語集を棒で指しながら後について読んでねと言って先生をしてくれた。この子はわが家へ来ると先ず初めに「じいじは2階にいるね」と妻に聞いて直ぐ2階の私の部屋へやってくる。

 折角遊びに来たのだけれども生憎の雨で外へ出ることが出来なかったが、家の中でわいわい騒ぎながら遊んでいた。3人をつれて本を買いに行き、好きな本を買ってよいというと喜々として書棚の前に走って行った。長男は芥川龍之介の文庫2冊と神奈川県の高校入試問題集のようなものと国語の辞書を買った。

 次男は夕食にホットケーキを作ってくれるというのでスーパストアーで材料を買って帰った。家へ戻ってくると丁度正午を過ぎたところで、次男は早速ホットケーキを作り出した。ホットケーキミックスの箱の裏に書いてあるレシピを見ながら、先ずホットケーキミックスの粉をボールに入れ、卵と適当な量の水を入れかき混ぜ器でかき混ぜながらダマ(粉の塊)を消していった。大きなフライパンで作るというのでひっくり返せるのかと聞くと大丈夫だという。手元は少し心許なかったが、手伝わないで良いというので近くで見ていた。火加減に気を配りながら2本の返し器を使って上手にひっくり返していた。心配するほどのこともなく美味しそうに出来上がった。みんなで食べ始めると、お店で食べるものより美味しいねなどと言いながら瞬く間に全部食べてしまった。孫の作ってくれたものを初めて食べながらここまでよく育ってくれたものだと感心してしまった。


カマイタチとつむじ風(20140811)

2014年08月11日 10時28分44秒 | 子供のための科学のお話

 子供の頃私の住んでいた家の西側に羽後街道が通っていた。道はまだ舗装されていなかった。そのために道路は2列の牛車の車幅の轍跡(わだちあと)がついていた。それをたった一人でツルハシを持ってわだちあとの両側を崩してわだちあとを埋める仕事を黙々とやっている人がいた。

 中学校からの帰り道そこを通ると時々つむじ風が吹き土の細かいものが渦を巻いて舞い上がるのをみたことがある。それは学校の校庭でも起こりこちらはもう少し大きなものになることがあった。(著者注:つむじは頭髪が描く渦巻きを示す)

 友達はそれを見るとカマイタチが来た。逃げろと言って遠巻きにその渦を見守っていた。カマイタチの中に入ると皮膚がおいりっと避けることがあるという。私は東京にいたときにはそのようなことを見たことがなかったので不思議に思った。それで父親に聞いたり、理科の先生に聞いたりしたがその現象がどうして起きるかについてはわからなかった。

 ある日空きビンを洗っていると父がビンを回すと中の水が早く出るぞと教えてくれた。言われたとおりにするとなるほど中の水が勢いよく出るのだった。どうしてだろうとそれを何回も繰り返しているとビンの出口の所に穴が空いていることに気がついた。そして水はビンの中で激しく回っていて外へ引っ張り出されるように吹き出していた。激しく回っている水はまるでつむじ風のように見えた。それでつむじ風の起きる原因が理解出来たような気がした。普通に水の入ったビンを逆さまにすると少し水が出て空気がビンの中に入る。少しすると水は出なくなる。それでビンを振ると中の水が勢いよく出た。理科の先生に見たことを話したところ、先生は驚いたように私を見て説明してくれた。説明は難しかったがとても面白いと思った。

 この現象が海上で起きると大変なことになることがある。海面付近の水温が高くなると水蒸気が激しく上昇する。そこへ周囲から低温の大気が流れ込むとその大気の温度が上昇し同様に水蒸気を伴って回転しながら上昇する。水蒸気を含んだ大気が上昇すると中心部の気圧は周辺よりも低くなる。それが大きくなると熱帯低気圧になりさらに台風へと発達する。

 そんなある日、新聞の広告の雑誌の特集記事の中に「台風の眼」というのが載っていた。私は父に頼んでその雑誌を買って貰った。それは小説になっており一人の少年が父親の船に乗って釣りに出た。するとしばらくして一天にわかにかき曇り黒い雲がすごい早さで空いっぱいに広がった。父親は「これはどえらいことになるぞ」と言って嵐に備えた。やがてものすごい風が吹き荒れバケツの水をまけたような雨が突き刺さってきた。舟は木の葉のようにゆれた。しばらくすると突然風が止み波が小さくなった。空を見上げると星が見えた。嵐になったときにはまだ太陽が真上にあったのにと不思議に思っていると父親が今は台風の眼の中に入ったので風がなくなったのだと説明した。そしてこれからもう一暴れするから注意するようにと言った。そしてまた嵐の中に突入した。やがて風が弱くなり大きなうねりの中で舟がゆれていた。太陽は西方にかたむいていたがまだ空にあった。台風を無事やり過ごしたのだ。少年は台風を経験し台風の眼を初めて見た。

 私はこの小説を読んでますます気象について興味を持った。


男の手料理と言えるかな?「レトルトカレーを美味しく」(20140810)

2014年08月10日 23時27分47秒 | 日記・エッセイ・コラム

 わが家の家族はカレーライスが好きなので週に一回は作っている.大方はポークを使うがたまにビーフを使うこともある。どちらも美味しいのだが私はビーフカレーが好きだが、他のものはポークカレーが好みである。ルーはハウス食品のものを主として使用している。最近は息子が業務用のルーをネットの評判を見て買って使うが私には合わない。何故ならばあまりに一般的な味なので飽きてしまうのである。

 降雨などで買い物に行けなかったときにはレトルトパックのカレーを加工して食べることもある。例えば2人分の場合、ジャガイモ(中)1個を12分したものとタマネギ中1個を細切りにして油で炒めておく。それに肉を加えるが肉がないときはポークハムを適当な大きさに切って加える。水を200ml加えてジャガイモが柔らかくなるまで水煮をする。ジャガイモが柔らかくなったらレトルトパックのカレーを2個入れて良くかき混ぜながら小火で10分間ほど煮つめる。少しデミグラスルーを加えるとさらに味がよくなる。これで出来上がりである。レトルトカレーは好もあるが、わが家ではS&B食品のデナーカレー(マッシュルーム入り)かホテル仕様というのがお薦めである。

 ところでレトルトパックカレーの変わり種は「男の黒いカレー」というのあるが、これも美味しい。イカスミが入っているかと思ったらそうではないようである。初めは異様な感じがするがなれるとなかなかいける。


ついに犠牲者を出したSTAP細胞論文異変(20140806)

2014年08月06日 11時09分25秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日、理化学研究所の笹井芳樹氏が、STAP細胞の検証実験が進行している最中に自殺したという報道が流れた。こんなことにならなければ良いがと心配していたのに誠に残念なことでです。STAP細胞存在の検証実験の結果が出てから身の処し方を考えても良かったのではなかったのだろうか。と言っても自殺という想定は存在しないのだが。
 笹井氏の業績はネットで見ると輝かしいものである.将来その豊かな才能をさらに伸ばせる機会があったというのは想像に難くないと言われていた。外国報道によると我々は日本の否世界の希望の一人を失ったと伝えている。
 笹井氏が自殺という結末を選ぶまでには過酷な精神の葛藤があっただろう。そこには報道の執拗な追求もあったかもしれない。問題論文の処理についての希望と後悔の葛藤もあったのかもしれない。職務上の責任も考えたことだろう。その他研究の将来についても考えただろう。しかしこんな推測をしてもどうしようもないことだろう。
 今の私には笹井氏のご冥福をお祈りすることしか出来ない。


好奇心旺盛は良いけれど(20140805)

2014年08月05日 13時25分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

 最近の報道を見ていると生命に関する嫌な事件が連続している。例えば長崎県で発生した同級生の女子の命を奪った女子高生は生命に関して異常なほどの好奇心を持っていたという。好奇心を持つことを否定したら人間の発達はなくなるだろう。しかし人を殺してみたいというのは異常としか言えない。それを聞いた周囲の大人は何をしていたのだろうか。特に最も身近にいる親は精神科の医者に相談したという。それから何をしたのだろうか。相談された医師はどんな処置をしたのだろうか。精神科では理由は不明であるが入院を拒否したという。児童相談所には勤務時間外に電話をかけたので相談できなかった。また警察には相談しなかったという。人を殺したいという考えは極めて異常であり、警察に相談しなかったのは残念であった。
 さて、加害者である高校生の好奇心を生物を殺すと言うことから別の方向に変えられなかったのだろうか。そこには論理を尽くした説得も必要だったと考える。自分のことを言って恐縮だが私は子供の頃から好奇心旺盛であった。それでまだ知識を持っていない事柄については、近所の高校の先生や中学校の先生方に聞いてみた。その問題が理解の外にある場合には勉強していれば理解できるようになると先生方に教えられ、不思議帳(ノート)なるものを作っていつかきっとその謎を解いてやると書き留めたものだった。大学生になる頃にはそこに書き留めた事柄のほとんどの問題は解決した。こういう先生や大人が近くにいないということは子供たちにとって不幸なことであり、大人の社会的責任意識が低下している証拠なのかもしれない。これは我々自身の問題でもあるのではないだろうか。