寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

アシナガバチ(20130830)

2013年08月31日 00時06分40秒 | 日記・エッセイ・コラム

 アシナガバチは別名便所蜂とも言う。何故かというと日陰の軒下《こういう所には大方便所がある》に巣を作ることが多いからである。身体は明るい茶色で、羽を広げると4cm、体長25mmほどの足の長い蜂である。この蜂の巣は普通は20くらいの巣穴を作りそこに卵を産んで繁殖する。その卵がふ化してさなぎになると甘く美味しいといわれていた。私の子供の頃は極端に甘みが無く、春にはツツジの花の蜜を吸ったり、木イチゴの実を食べたり、夏には自然に生えているグミの木のきれいな赤い実をたべたり、秋になるとアケビや栗をとって食べたりしたものである。中でも美味いのは蜂の子であった。地蜂の巣を見つけると枯れ葉をいぶして蜂を追い出し、腐葉土の下にある巣を掘り出して袋に入れて持ち帰る。家の外でみんなで蜂の子を分けて食べるのである。そのとき顔や手を蜂に刺されて腫らしている子もいた。その頃どこから風聞として蜂の巣をとるときは白い布を頭から被ると良いなどと言われ試してみたら少しは効果があったように思えた。
 私はわが家の軒に着いていたアシナガバチの巣を見つけ友人と2人でとった。そのとき親蜂を追い払ったのに左手の指を刺されたしまった。その後は今でも残っている。巣の中はまだ少し大きくなった卵の状態で食べることは出来なかった。
  最近の話では、蜂に刺されると2度目には気を付けている。何故かというとアナフィラキシーショックを起こすことがあると言うことを聞いたからである。真偽のほどは不明であるが、蜂の生活圏には近づかないに越したことは無い。


秋の気配が感じられるようになりました(20130829)

2013年08月29日 19時00分08秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ヒグラシはまだ鳴いているのですが、秋の気配を感じて虫が鳴き始めました。8月24日夜、今年めた初めてクツワムシがわが家の脇の草むらでガチャガチャと鳴き始めました。翌日鈴虫がなき、太陽が中天にかかる頃ミンミンゼミが鳴き、夜は多種類の虫たちが騒いでいます。けれどもまだ足りないことがあります。それはツクツクボウシがまだ鳴いていないことです。九月になれば鳴き始めるのかと楽しみにしています。この2,3日気温が下がり過ごしやすかったのですが、暑い日はさはまだまだ続くのでしょう。ツクツクボウシが鳴き始め、コオロギが鳴き始めると、本格的な秋を迎えることになります。
 そうするとありふれた表現ですが味覚の秋を迎えることになります。たのしみですね。食いしん坊の私は、巨峰ブドウ、栗、柿など秋が待ち遠しいです。


想い出話 笹木恒子(仮名)さんのこと(二)(20130826)

2013年08月26日 17時49分34秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和30年2月下旬、私は卒業式にも出ないで上京した。そのとき両親は文京区西片町の一角にある家の一階部分を借りて住み、仕事をしていた。そこから東大へは東の方へ行く坂道を上れば直ぐだった。
 受験に失敗し、4月からお茶の水にあるS予備校へ通うことになった。西片町から予備校へ通うには春日町へ出て水道橋を渡り、中央線に沿って坂道を上れば約30分で行くことが出来た。他に本郷3丁目に出て医科歯科大の所にでて川を渡る道もある。予備校から南の方へ五分も歩いて行けば神保町の本屋街に出る。そこで私は恒子さんに何か欲しい本があったら書名と発行所を知らせて欲しいと手紙を書いた。しばらくして著者の氏名を忘れてしまったが詩集を欲しいという知らせが届いた。私は予備校の授業が終わってから神保町の書店へ行きその本を探したが見つけられなかった。店員に聞くと出版目録のようなものを取り出して探してくれた。全集の所を探して見つけてくれた。早速その書籍を買い店の方から送ってくれるように依頼して代金を払った。その後夏になるまで恒子さんからは音信が無かった。恒子さんも高校を卒業して、役場か農協に就職したとかで仕事に慣れるまで大変なんだろうと思っていた。
 暑中見舞をかねて本が届いたかどうかをやんわりとたずねた。しばらくして恒子さんから返事が来た。久しぶりに見る恒子さんの文字は細いペンで書いたきれいな文字だった。紙面にはお礼の言葉とお返ししなければねと書いてあった。私は早とちりで送った本が気に入らないので返すということと解釈してしまった。それで直ぐに返すのなら高校の一年後輩に大山という子が伊達神社の近くにいたはずだからその子にあげて欲しいと書いて送った。それから以後音信不通になった。今思うと身が細る想い出である。
  翌年春、私は何とか大学に入ることが出来た。それを伝える内容と恒子さんにも大学へ入るよう勧める手紙を書いた。もし東京へ出てこられないのなら中央大学など通信制の大学もあると募集案内を同封して送った。これも余計なことだったのかも知れないと後になって気がついた。
 私の住んでいた家と畑は家族全員が東京へ戻ることになって借金(大方肥料代金)と相殺でOOさんという方に譲ってしまったので私がS村へ行っても寄る辺が無くなってしまった。その少し前に、私の次兄がY製作所というところで仕事をしていた。その近くに父親が公務員の方の娘さんと結婚することになった。それでまた足掛かりが出来た。
 大学2年の夏休みにS村へ行った。何はともあれ恒子さんに会いたかったので、お宅を訪ねると農協に勤めているということだった。農協へ行くと恒子さんがいた。他に同級生の虎君と相君がいた。彼らと少し話をして、恒子さんの仕事が終わってから夜にまたたずねると行ってそのときは別れた。
 その夜7時頃に再び恒子さんの家を訪ねた。その辺を歩こうということになり、華川の河原へ行った。大きな石に腰掛けて東京でのいろいろな出来事を話したり、学生運動が激しくなったこと、授業の進行がとっても早いことなどを話した。その夜は晴れていて星が沢山見えた。河原に寝転がって流れ星も見た。2時間ほども話したので遅い時刻になっていた。恒子さんは翌日も勤めがあるので戻ることにした。途中、中学校へよって校舎に入ってみた。この頃は夜でも校舎へ入ることが出来るほど治安が良かった。そこでも少し話をして、恒子さんの家へ送っていった。別れ際に握手をしたが私は震えてしまった。
「あなたって真面目なのね」と言われたが、その意味は分からなかった。後に大学へ行ったときに仲の良い友人にそのことの意味はどういうことなのかなと聞いたら、友人は「お前ってどうしようも無いなー」と笑われてしまった。それでまたその意味が分からなく私にとってしばらく後まで謎として残ってしまった。
 その後数年して、恒子さんは中学の先輩と結婚したという噂が伝わってきた。2人のお子さんに恵まれたという話を同級生から伝えられた。
 私が大学を卒業して数年が過ぎた頃、後輩が児童研究会というのに所属していて、夏休みにどこか地方で合宿したいと行ってきた。それで恒子さんにその話をしたところ、山の分校を借りて合宿することが出来ると言ってくれた。その代わりに小学校で数回の公演をして欲しいという条件が付いた。そのことを後輩に話すと喜んで行きたいというので、恒子さんにお世話になることになった。帰ってきた後輩の話では、恒子さんのご主人が移動の世話をよくして下さったと言うことであった。私も心から感謝している旨をお伝えした。
 それから時が過ぎて、石巻の大学へ行く用事が出来たので、その後S町へよることにした。私は塩釜の魚市場で鰹を一本買って恒子さんの所をたずねた。恒子さんは私が久しぶりにS村へ行くことになったので同期生を集めて隣町の東外れのOOと言う店で宴会を開いてくれた。その席へ祖根さんや横川さん初め懐かしい友人たちが二十人以上も来て下さった。とっても楽しかった。
 その後は、鳴子で開かれた同窓会に出席したときに会うことが出来た。とてもお元気の様子だった。しかし長い話は出来なかった。
 しばらくして、ご主人が交通事故で残念なことになったと聞いた。盛岡で学会があった帰りにS村によって、御霊前にご焼香させていただいた。
 それからまた数年が過ぎて年賀状の文字がいつものきれいな文字ではなく、震えていることに気がついた。理由をお尋ねしたが、返事をいただけなかった。後で同級生からお子さんが事故に遭われたという話が伝えられた。勤めていた農協では財政部長?になって忙しくしていたのに、人生にはいろいろなことが起こるものだということをしみじみ感じた。
 昨年松島のホテルでの喜寿祝賀会が行われたが恒子さんは体調が思わしくなく出席されなかった。お会いしたかったのに残念だった。


想い出話 滝 勝君のこと(20130826)

2013年08月26日 17時47分10秒 | 日記・エッセイ・コラム

 滝勝君は小学校五年生の時の同級生であった。色麻村(当時)一関という所に住んでいた。ちょうど河童神社へ入る道のあたりである。隣に竹荒商店というのがありここにも同級生がいた。道路向かいには横山さんという女子がいた。
  滝君の家は農家で家の西の方に畑があった。家の県道に面しているところには小川があり、そこへ降りる石段があった。そこで食べ終わった食器や野菜などいろいろなものを洗ったりするようだった。
  昭和22年になって希望者に学校給食が出されるようになった。それはアメリカ合衆国のMSA援助に基づく事業であるといわれていた。
 初めは脱脂粉乳の飲み物だった。食べ物は何がでたのかもう覚えていない。クラスで半数くらいの児童が申し込んでいた。私は家の都合で申し込めなかった。
 その頃わが家は、経済的に非常の困窮した状態だった。それで昼の弁当も持って行けない日が週のうち半分くらいあった。
 5月になって、河童神社、愛宕山、袋と村の東半分を巡る遠足があった。その日は朝のうちは雲があったが、雨の降る様子は無かった。そして昼近くになって青空が見えてきた。愛宕神社で昼の弁当になった。私は弁当を持っていなかった。一人でみんなと少し離れたところに座って学校の方を見ていた。お腹が空くし、泣きたい気持ちになっていた。
 そこへ勝君が近づいてきて私の横に座った。何か話しかけられるのかと思っていたら、勝君は大きなおにぎりを私の方へ差し出した。「これ食べてけろ。母ちゃんが今朝作ってくれた焼きめしだ。」
 おにぎりは周りに味噌が薄く塗ってあり焼いてあった。私は思わず手を出してそのおにぎりをもらった。
「どうもありがとう。勝君のはあるの」
「俺はもう食ったから食べてけさいん」
 勝君のくれた焼きめしはその時まで食べたことが無いほど美味しかった。私は勝君が神様のように見えた。その後遠足が終わり、花川のところで解散になるまでずーっと話をしながら歩いた。そのお陰で私は村の話し言葉を少し理解できるようになった。
 その後も学校でときどきお昼の時間に焼きめしを作ってきてくれた。私は何もお礼を出来ないうちに小学校を卒業し、中学校を卒業し、高校を卒業して東京へ出てきてしまった。そしてそのことをいつの間にか忘れてしまった。遅ればせながら、滝勝君本当にありがとうございました。


想い出話 父のこと(20130821)

2013年08月21日 11時34分39秒 | 日記・エッセイ・コラム

 私の父は明治28年(1895)生まれである。私は父の子供の頃のことは何も知らなかったし、成人した後のこともあまり知っていることはない。私の記憶の中に出てくる父は私が5歳くらいの時からである。しかし、それも断片的なことから始まっている。
 例えば師走の大掃除の日には必ず上野動物園に連れて行ってくれた。12月の動物園は人影も少なく子供心にもさびしく思った。帰りには上野のどこかの食堂でお子様ランチを食べ、御徒町で自転車屋をやっていた父の弟の家に立ち寄るのが常だった。自転車屋の叔父さんはお前が大きくなったら特別な自転車を作ってやるからな、と言って私の期待をかき立てた。叔母さんはいつも甘酒を作って待っていてくれた。夕方になるまで叔父さんの家にいて、円タクで家へ帰った。
 父の仕事は飾り職人だった。したがって銭湯に行ったり、たまに映画を見入ったり寄席に行ったりの外出をする以外はほとんど家にいた。父の仕事の関係で、わが家の畳全部が盆・暮れの2回新しいものと取り替えられた。私は畳が新しくなるとお盆が近いことやお正月が近いことが分かった。何故畳が新しくなるかというと、飾り職人は鑢(ヤスリ) を使うことが多く金や白金の粉が多量に出る。目に見えるほどの粉は刷毛で集めて吹き替え業者に持って行き、塊にしてもらって再び使用する。細かい粉は膝掛けや畳に飛び散り、父が歩くと家中に衣服などについていた粉が畳に落ちる。それで家中の畳が取り替えられるのだった。さらに手や使った道具は小ぶりな瓶(カメ)の中で洗う。手や道具に着いている貴金属の粉がその水に洗い落とされる。それでその水も持はっていった。その上に幾ばくかの報酬がもらえるようだった。
 父の作るものは、色石(翡翠、オエメラルド、オパール、スターサファイア、スタールビーなど)を中心にして周りを小さいダイヤモンドで二重、三重にぐるりと取り巻いた指輪や帯留めなどが中心だった。帯留めは長さ50~60ミリメートル、幅12ミリメートルほどの大きさの自作の白金の針金で作った台座の上に色石を5、6個一列に並べその周辺にダイヤモンドを2重にちりばめたものである。それは私が見ても惚れぼれするほどのものであった。これほどのものを誰が使うのかと想像すると楽しくなった。
 私が学生の頃(昭和31年~36年)父の作った帯留めの報酬は、一個4万円ほどであった。加工期間は5~6日ほどかかった。それで月間15~20万円ほどの収入があった。当時の大学卒業生の初任給が1万円前後だったので相当な金額になった。
  太平洋戦争後半期、日本の敗勢が決定的になる前に、父は人形町末広という寄席や電車通りの向い側にあった映画館によく連れて行ってくれた。寄席に行ったとき、紙切りをやっていて出来上がった作品をもらったことがあった。
 父のこれらの趣味は、私が大人になっても続いていた。私は両親とよく映画を見に行った。たいていの場合はチャンバラ映画だった。落語、講談、浪曲、民謡などは仕事をしながらラジオでよく聞いていた。
  父は、尋常小学校4年で学校を卒業し、飾り職人のところで修行をした。その親方のお上さんが、社会に出たときに学校を出ていなくとも”読み書き算盤”を少しは知っていないといけないと言って教えてくれたという話を聞いた。父はいい親方の弟子になったのだろう。ここで父は、仕事の腕をめきめき上げたので他の兄弟子達よりも早く独立できたという。しかし生活は苦しかったようである。今風にいうと顧客がまだ無かったからだったらしい。それでもがんばって少しずつ普通の生活を送れるようになって御家人の家に婿入りした。父はもともと武家の出身だったのでそんな縁が出来たのだった。3人の子供をもうけて妻が病没した。それで武家出身の私の母と再婚した。その後の生活は安定し始めたという。

 そんな矢先に父は生涯の中で2度全財産を失う災難に遭遇した。初めは関東大震災である。そして2度目は太平洋戦争の東京大空襲のときである。前者では数人いた子供も小さく火災から逃げるのが大変だったと母から聞いたことがある。後者は私もありありと覚えている。(参照:「その日から 子供の戦争・戦後体験記(日本文学館20130501;430頁、¥1785)」)。

 終戦の翌年春に父は一家を引き連れて東京都と国で募集した開拓団員として宮城県色麻村の開拓地へ入植した。そこで過ごした7年間は父の心労と健康を回復させるのに十分な期間だった。

 年を重ねた父は、冬季の寒冷が厳しい色麻での生活を中止せざるをえなくなった。東京へ戻った父は昔の仕事を始め、顧客もついてある程度楽な生活を出来るようになった。
 父の嗜好物はタバコと甘みだった。タバコは終戦後のタバコ不足時代に大変苦労した。高齢になってそろそろ引退時期を迎える年になってもタバコを止めることはなかった。そんなある日、脳梗塞で医者の診断を受けることになった。父は、医師に今回は軽い脳梗塞であるがタバコを止めないと次は回復できないかも知れませんよといわれた。それで父はタバコをすぱっと止めてしまった。
 そのときから父は仕事も止めて私の家で庭いじりなどをして余生を過ごした。この時期が父の一番穏やかな時を過ごした期間だと思う。
  私は父に謝らなければならないことが一つある。それはここに記さないが、そのことを反省して私の生き方が変わったのは事実である。  私は、あるときは目に見えないやり方で、別の時は昔話を通して父からいろいろな形で教訓を得た。私はそんな父を尊敬しており、それ以上に感謝している。


想い出話 麻生 暉さんのこと(20130821)

2013年08月21日 07時58分23秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和36年、私が大学に就職したとき教養科目の実験を担当することになった。理工系学部の学生は数学科を除いてこの授業が必修科目となっており受講者数は400名に上った。50名収容の実験室だったので毎週9クラスを2人の同僚と3人で受け持った。そのため準備・指導が大変であった。そのために実権準備をしてくれる方がいた。それが麻生暉さんだった。私より3才ほど年上の方で色白の丸顔で丁寧な話し方をする方だった。当時、麻生さんは千葉県の柏の方から通勤していた。上野駅で山手線に乗り換えて渋谷から東横線で目的駅で降り徒歩で勤務先へ着くというのが日常的な行動パターンだった。
 大学ではその頃、学生生活協同組合というのが出来ることになった。小さな部屋に文房具や教科書などを並べたりと言う店舗が出来た。そこに販売員として二人の大変美しい女性が勤めることになった。一人は純和風な感じの方で優しい声の方だった。もう一人の方は逆に洋風が似合う活発な感じの方であった。
 麻生さんは、この二人のどちらかの方に恋をしてしまった。その女性は、麻生さんが渋谷駅から乗る東横線の同じ車両に乗ることがしばしばあったという。それで恋い心が芽生えたのかも知れない。麻生さんはそれが恥ずかしいと思い渋谷駅からバスで勤務先へ行くようにしたという。その当時でも普通の若い男性は逆に好ましい女性が乗る電車に時刻を合わせて乗るようにするものだが、麻生さんの場合は逆だった。それには幾つかの原因があったらしいと同研究室の先生が教えてくれた。その一つは、数回この大学の入学試験に失敗したということ。自分の顔に自信が無かったということ、そのために鼻の整形手術を受けたということであった。それから職種が大学にいて教員ではなかったということだったという。
 その二人の女性は相次いで卒業生と結婚してしまった。それは麻生さんにとって辛い失恋であった。その後先生方が麻生さんに縁談を持ちかけても、彼は有馬稲子か岡田茉莉子でなければ結婚しないと断っていたという。

 それで教授の紹介で最大手の製鉄会社の事務担当に転職することになった。そこは会社の研究所で、そこで使用する在庫管理を一手に任されるほど信任されていたということだった。数年して麻生さんに再会する機会が出来た。研究室で4泊5日の旅行(五色沼、白布高湯、蔵王青根温泉、松島、仙台へ往復夜行、宿で2泊という強行軍だった)に行くことになり麻生さんをお誘いした。久しぶりに会った麻生さんはずいぶん変わっていた。よく笑い、よくおしゃべりをし、よく飲みよく食べるようになった。最後の夜仙台で麻生さんは私を労うということでバーへ連れて行ってくれた。感じのよい中くらいの店だった。ウィスキーを一杯飲んでいるところへ30代の男が這入ってきた。その男は店のママと知り合いらしく親しげに話し始めた。何気なしに聞こえてきた会話の中に、
「今度は長かったのね」
「そう、一人やってしまったのでO年食らってしまった。」
 麻生さんと私はOO危険には近寄らず、と言って直ぐ店を出た。2軒目にいったのは仙台駅近くのトリスバーだった。そこには数人の女性客がいた。麻生さんはその一人を誘って狭い店内でダンスを始めた。
 私は、呆気にとられたと同時にあの生真面目で内向性格だった麻生さんがずいぶん変わったと思い、嬉しくなった。

 麻生さんは、事務能力を買われて本社長大建造物関係の部署に転勤し参与として活躍した。

 そんな麻生さんとはしばしば麻雀をやった。会社の同僚とやる麻雀はレートを高くするのが上手いという考えで雀鬼とあだ名されるようになっていた。私はこう言っては何だが麻雀を高レートでやるような腕前ではなかったと思ったものである。
 麻生さんには、いろいろな面で大変お世話になった。ここに感謝の意を表します。


想い出話 八月十五日の想い出 (20130818)

2013年08月19日 00時26分25秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和20年8月15日正午、私たちは全員本堂に集められて緊張して待っていた。正午の時報に続いて放送員(アナウンサー)のこれから重要な放送がありますという声に続いて、放送受信機から「君が代」の演奏が聞こえた。私たちは正座して姿勢を正した。立っていた先生方は気をつけの姿勢をとった。それから天皇陛下の玉音放送が始まった。
 私はこの放送を学童疎開先の新潟のあるお寺で聞いた。
 この日は、朝からからりと晴れわたったよい天気であった。そのために本堂の中はかなり熱かった。児童は全員短ズボンと袖無しシャツだった。それでも熱かったのに汗をかくことはなかった。それほど緊張していたのだ。
 玉音放送は天皇陛下の肉声だった。天皇陛下の声は震えているように聞こえたがそれはいつもの声であったらしい。国民学校の三年生の私たちにはお話の内容は理解の外であった。
 しばらくすると、先生方初め大人の人たちは大きな声を出して泣き始め庫裏の方へ走って行ってしまった。それで私たちは大変なことが持ち上がったと感じた。それきり先生たちは本堂へ戻ってこなかった。それで班長の上級生が指示を仰ぎに行った。しかし先生たちは、個室に入って庫裏には誰もいなかったという。
 一人の先生が出てきて、解散して各自責任ある行動をとるように指示した。私たちは何故か戸惑った感じになって、それぞれ自分の考えにしたがって本堂から出ていった。私はお寺の裏の方へいった。そこはいつも私が夜星空を見に行くところであった。やがて同級生が数人来て私の脇に座った。だけど誰も話をしようとしないで黙っていた。私と同じように事態を理解していなかったのだろう。やがて上級生がきた。その人たちに何が起きたのか聞いた。上級生の人も明確には理解していなかったが、戦争が終わったらしいと話してくれた。
 午後四時頃になって、双発の飛行機が低空で飛んできた。私たちはどうしようかと身構えた。飛行機が頭上に来ると飛行機から沢山の紙が撒かれたのが見えた。私たちは道に落ちているものを絶対に拾ってはいけないと教え込まれていたので地上に落ちたその紙を手に取らずに落ちた状態で読んだ
  そこには戦争が終わったと大きな文字で書かれていた。私たちはデマだと思って信用しなかった。しかし誰もが疑心暗鬼になっていた。その夜から灯火管制をしないでよいことになった。夕食後、夜になって裏山に行くと眼下に見える村の家々に電灯が灯っていた。こんなに家があったのを初めて見た。

 一部の子は戦争が終わったのならこれで東京へ帰ることが出来ると喜んでいた。しかし実際に東京へ帰るのは10月の末日になってしまった。それは学童疎開にきていた沢山の児童は、順番待ちになっていたからであった。

 学童疎開にきていた児童は、東京に帰っても家もなく家族もいない子たちが沢山いたのでそれをどうするかと言うことを優先的に考えていたことが後になって明らかになった。その子たちは東京へ帰っても引き取ってくれる人がいないので役所と学校で対応に苦慮したということを後になって父の話で知った。
 たしかにどこにいっても浮浪児(適切な言葉が出てこないので使いました)が大勢いた。特に人の集まる上野公園やいろんな駅の周辺に集まっていた。最近NHKの番組で関連した特集を放映していた。あれはほんの一部でしかなかったのだけれど。

 当時の私たちは、栄養的に飢餓状態にあったが一番飢えていたのは読む本がほとんど無いことだった。そして社会の様子が全く予想できなかったことであった。
 日本では68年前のポッタム宣言受諾以降戦争に関わることは少なくとも表面的には無かったが、未だに世界のどこかで多数の人命を失う争いが続いている。何故争いがなくならないのだろうか。この問題についていずれブログに書かなければならないだろう。


想い出話 親友横山茂樹君逝くの報に接して(20130815)

2013年08月15日 16時32分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

 横山茂樹君、君も逝ってしまいましたね。もう一度お話をしたかったのに残念です。心残りのことも多かったでしょうに、民医連の医療機関を増やす基礎を作ったという大きな仕事を残したと聞いています。安らかにお休み下さい。
 古川高等学校に入って横山茂樹君に出会った。その頃の私はパスツールやコッホ、野口英世、北里柴三郎などの伝記をよんで医学を目指したいと考えていた。高校1年生の時生物学の授業が面白かった。そんな時横山茂樹君と出会ったのだった。横山君の父親は中新田町の外科医として周辺町村の中心的存在であった。
 2学期に入ったある日、私が医者になりたいと思っていると彼に話すとそれなら一度家に遊びに来ないかと誘ってくれた。学校帰りに彼の家へ寄ることになった。彼の家に着くとちょうどその直前に何かの手術が終わって父親は別室で休んでいたのか病室へ行っていたのか診察室には誰もいなかった。
 私はある種のあこがれのような思いでじろじろと見回していた。次に手術室へ案内された。ここでも私は感動しながら周囲を見ていた。そしてふと手術台の脇の床を見ると、血の付いたガーゼがトレーに山のようになっていた。私は身体がガタガタ震えだしてその場所から逃げ出したい気持ちになった。彼は平然と「後片付けがまだだったようだな」と言って次の回復室へ連れて行ってくれた。
 私は、東京空襲の時に数え切れないほどの人の死体を見てきたのに人の血を見るのは初めてだった。それで飛んだ醜態をさらしてしまったのだ。彼は彼の部屋へ案内して、「後片付けをしてないところを見せて悪かった」と言ってわびてくれた。しかしそれは意図的だったかも知れない。医者になると言うことはそれ相当な覚悟がいるんだぞと言外に教えてくれたのかも知れなかった。
 横山茂樹君は非常に小柄だったので朴歯の足駄をはいていた。当時の古川高校生は制服制帽に革靴というのが普通だったが、私は靴を買えないのでいつも下駄履きだった。
 彼の家を別の機会に訪ねたとき、きれいなお姉さんと妹さんがいた。ドキマギしながら彼の部屋に通されると、彼は勉強していた。私の顔を見ると「ちょうど休憩しようと思っていたところだったのでレコードを聞こうか」と言って蓄音機を見せてくれた。そこで初めて聞いたのがパテイ・ペイジの「テネシーワルツ」だった。私は感動してしまった。この前きたときには室内を見なかったが、室内には00全集とかその他いろんな本が沢山並んでいた。私の家の生活状態とは雲泥の差があると思い知らされた。
 彼は高校卒業後、東北大学医学部に入学し卒業後、民医連に加入して診療方法の改革に貢献したという。彼の論文を1編もらったことがある。確か胃の手術に関するものだったと思う。
 私は医学関係へ進むことにはならなかったが、私の研究で何人かの人の病気改善に貢献することが出来た。この話はいつか機会を作ってこのブログに書くことがあるかも知れない。
 横山茂樹君、君の名前は多くの人の心の中に生きています。どうぞ安らかに眠りを続けて下さい。


想い出話 K教授のこと(20130814)

2013年08月14日 10時33分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ある年、ベビーブーム世代の子供が大学入学時期になり、大学志願者の増加にともなって、文部省の指示により全国の大学で学生定員を増やし進学希望者の増加に対応することになった。

 筆者の友人のいた大学でも、初めに一般教育のための新講座を作ることになった。ところが学部内での新講座の取り合いになり、当時圧倒的に求人数の多かった化学系の学科に所属することが決まった。そこで、実験系の講座にすることが決定し、教授以下の人選に入ることになった。そこでまた学科内での勢力争いが始まった。結局口数の多いH教授の第2講座にすることになった。そして人選が始まった。その結果、某公立大学のKという方を招聘することになった。通常の教授選考では業績、学会での活性度、学生の指導能力、人柄、等々が調査され報告される。しかしこのKという方については緊急ということで推薦した教授に一任するということで人選が終わってしまった。
 数年が過ぎて、新任教授の講座の活性度を見るとほとんど論文が出ていないことに気がついた。それで活性度の高い助教授を入れようということになり人選が始まった。そしてMという方をある私立大学から迎えることになった。この方については前記の条件がすべて調査され、報告された。誰もが納得する報告書に期待が高くなった。M助教授がきてからうなぎ登りに論文が出るようになり、その講座の大学院進学希望者が増えた。
 これで話が終わればよいのだが、K教授については思わぬ落とし話が付いていた。噂では、教授になったときの論文は、卒業論文、修士論文、博士論文の3編しか無かったということや、前任大学では雀鬼といわれるほど麻雀に溺れていた。等々のことが話題に上った。しかし、運のよいことかどうかは不明であるが、学内の長の付く席に次々と座り、事務系の人は困っていたという。というのは会議があるというのにすっぽかして麻雀店に行ったり、学生と囲碁を打ったりして会議に出席しないことがたびたびあったという。
 友人はこんなことも言っていた。K教授は学問の最高会議の会員になって会議に出席している最中に電話で麻雀をやろうと呼び出されると急用が出来たといって途中で退出してしまうことが目に余るほどあったという。
 さらに、今風にいえばパワハラを思う存分使用していたという。それはM助教授の独立昇格問題が他の講座の教授たちから提案されるとまだ時期尚早といって拒否していたという。ちなみにM助教授の実力はどの程度だったかというと、着任して10年が過ぎたときその講座の発表論文は200編を越えたという。学会でも専門委員会の長を勤めるなど精力的に活躍していた。
 M助教授は、残念なことに昇格する前に突然事故で亡くなってしまった。するとK教授は、昇格人事は数ヶ月前に決定していたので遡って昇格させるという決定をした。これもまた暴挙というしかないと友人は嘆いていた。
 M教授のいなくなったK教授の講座の発表論文数は年間2編ほどにがたっと減少してしまったという。つまりいろいろなことがあったが、M助教授の功績は絶大であったということになる。その陰に隠れ、自分の無能さが表面に出るのが怖くて昇格人事を渋っていたともっぱらの評判になってしまったと言うことである。
 筆者はこのような内容のことを書くのは躊躇していたのだが、友人も亡くなり、これからの大学教授に、K氏のような方を選出しないようにという意味で書くことにした。
  この話を友人に聞いたときKを嫌いなための誹謗と思ったが、噂話として読んでいただければそれでよいとする。傍証を固めたわけではないが事実であったらしい。


想い出話 笹木恒子さんのこと(1)(20130814)

2013年08月13日 01時14分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

 笹木恒子さんと始めて出会ったのは小学校4年生の初めであった。その後意識の中には存在しない状態が5年間も続いた。意識の中に出てくるようになったのは中学3年生の頃である。高校入試の模擬テストで常に上位3位以内に入っている女子がいた。当時宮城県の普通高校は男子と女子は別の学校に入ることになっていた。つまり共学ではなかったのである。だから模擬試験の結果が高校入試に影響することはなかった。
 私はものごとの順位に関しては全く関心が無かった。当時のわが家は極度の貧困生活で高校へ行けるかどうかも知れない状態だったので、模擬試験を受けるのは担任の先生と数学の先生の勧めによるものだった。私の成績は恒子さんとどっこいどっこいだった。1位になるのがどちらかという状態だった。
 その頃家の近くに息子さんが隣町の農業高校へ行っており、その方もその高校の教員をやっている駒形さんという方がいた。駒形さんは私の親に高校進学をしきりに勧めてくれた。入学したら奨学金をもらえるように取りはからってくれるという条件も付けてくれた。両親は家族で特に私の意思を確認してから返事をすると言った。
 私は、家の近くにいた藁科さんという家の次男の方に勉強はやっておいて将来損することはないと、親に言われていると話してくれたのを思い出して、私は高校へ行きたいと強い意志を親に伝えた。
 親は何とかするので勉強するようにといってくれた。しかし家の手伝いは今まで通りにすることという条件が付いた。私はそれから真剣に勉強するようになった。
 勉強で競うことを意識するようになって初めて恒子さんが私の頭の中に入ってきた。それで初めて年賀状を出した。数日して返事をもらった。私は何故か有頂天になってしまった。その年賀状は何度も繰り返し読んで、二つ折りにしてすり切れてしまうほど上着のポケットにしまっていた。
 そしてともに同じ市の県立男子高校と女子高校へ進学した。私は村の自転車屋さんで廃棄された自転車の部品をもらい店主の指導で組み立てた自転車に乗って通学した。恒子さんは隣町の駅まで約3キロメートルほどの道のりを歩いて行きそこから汽車通学をしていた。高校の帰りに時々途中で出会うことがあったが、私は家の日課が待っているので長い時間話をすることが出来なかった。
  それでも意思は通じ合っていると後になって思ったものだった。一度、恒子さんの家を訪ねたことがあった。彼女の部屋に通されていろんな話をした。しかし女子と2人きりで話をしたのは初めてだったのでこれまでに読んだ本について話したこと以外、何を話したか覚えていない。長い時間いたので夕食の時間になっていた。恒子さんの母親が彼女に何かいい、しばらくしておじやが出された。私はしまったと思ったが遅かった。こんな時間まで長居をするべきではなかったのだ。せっかくの食事なのでご馳走になり早々に帰ることにした。
 恒子さんの部屋はよく覚えていないが割合簡素だったような気がした。恒子さんの家はタバコ屋さんをしていた。恒子さんは9人兄姉の末っ子ということが分かった。姉さんたちの何人かは学校の先生をしているようだった。私も9人兄姉の末っ子だったのでそれは同じだねといって笑ったのを覚えている。
 女子高校の文化祭に誘われて友人と行った。私は上がってしまい何があったのかよく覚えていない。と後になって恒子さんに言ったら笑われてしまった。
  高校の三年間があっという間に過ぎて、別れるときがきた。私は東京へ行くために村の中心部からバスに乗るときに「手紙を書くからね」と言ったのが別れの言葉だった。恒子さんは黙って頷いていた。