寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

大きな虹が出ました

2012年03月31日 22時41分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

 3月31日(土)。午後3時50分頃当地で大きな虹が出ました。虹は二段重ねで出ていました。下の方は上から赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と重なり、この上の虹は逆に下から赤、上が紫となっていた。上段の虹は色合いが少し薄くなっていた。

 虹は10分間くらい出ていたが、雲の切れ間が見えるようになって、あるいは太陽の角度が変わって薄れていった。久しぶりに見た虹は、筆者の心をすがすがしいものにしてくれた。

20120331


爺ばか日記「孫の遊びと勉強」

2012年03月29日 23時22分22秒 | 日記・エッセイ・コラム

 久しぶりに2泊3日の予定で孫たちが遊びに来た。男児3人は居住地でキッズサッカークラブに所属して懸命にがんばっている。末っ子の女児は2歳を超えたばかりであるが、これがなかなか好奇心が強い。今遊んでいる道具は、ウルトラマンの人形3体である。それとミニカー数台である。3体のウルトラマン人形は赤、青、白(銀色)である。特にお気に入りは赤色のものである。一月ほど前から”じいじ”と呼んでくれるようになった。私には白色のものを待たせて、「シャーっていって」とせがむ。初め意味が分からなかったが、それは、ウルトラマンが飛び立つときに発する音だと分かった。そして手に持った人形をぐるぐる回したり、空中を飛ぶ様を見せる。じいさんとしては、もっとかわいい人形で遊んでもらいたいと思うが、これも時代の流れの変化なのかと思う。上の兄たちの影響かもしれないとも思う。

 夜になって父親から写メールが届いた。それを見た女児は何ともいえない喜びようを見せた。母親や兄たちといるときは普通にしていると思っても父親の存在は比類の無いものである。

 男児は、4月から6年生、4年生、1年生になる。今は3人ともサッカーとゲームに夢中である。6年生の子はパソコンのつりゲームが好きで、遊びの制限時間の半分を同じゲームに費やしている。それから、冒険ゲームが好きである。次々に変化する場面をクリアしていく様は見事というしか表現を知らない。

 下の2人の男児は、ゲーム機の方がパソコンより好きのようである。何かを話しかけても全く耳に声届かない。まあ、それはいいのだが、だんだん腕が縮み目が近くなっていく。これは困ったことになったので、しばしば注意することにした。しかし、繰り返し注意すると煙たがられるので、背筋を伸ばすようにした。細のためには背中に物差しを刺してあげることにした。これは筆者が子供の頃に本を読んでいると背が丸くなるのを母親が直してくれたのを思い出して孫に伝えたのである。

 3人とも本を読むのが好きのようで少し安心している。特に上の2人は自然に関わる本を好きのようで、隔世遺伝したのかななんてうぬぼれている爺さんである。

 

 女児は、非常に楽しみな子である。2歳を過ぎたばかりなのによく気がつくので面白い。散歩に連れていこうと靴べらを使って靴を履いていると、自分も靴べらを使って靴を履くと言い出す。靴べらを使うことは出来ないが、まねごとをすると、「どうじょ」いって私の方へ差し出す。言葉はまだ発達中なのではっきりしないこともあるが、一所懸命につたえようとするのが可愛い。少し前までは、母親が出かけると泣いて、あやすのが大変だったが、最近は泣かなくなった。しかし母親がいないことをちゃんと知っていて、時々家の中を見て回ったりする。母親が帰ってくると、にこにこ顔になって何かをしきりに伝えたくてしゃべり続ける。

 この子は何かで遊んでいると、さかんに私の手を引っ張って一緒に遊ぼうとする。その仕草がとっても可愛い。この子の爺さんでよかったと至福の時を過ごすことになる。

 まさに爺ばかであると自分で自分をおもしろがっている。


囲碁の話 「負け惜しみ」

2012年03月27日 17時05分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

  筆者の所属している町の囲碁愛好会には、いろんな人がいる。囲碁の対戦は一種の心理戦的なところがある。しかし、それだけではないしそれが必要でもある。心理戦的というのはそこんところである。
 囲碁では常に盤面の戦いであるから、盤面上での心理戦である。卑近な言い方をすれば「駆け引き」である。それをどう勘違いしたものか、言葉で相手を嘲るような言い方をする人がいる。
 その方は、筆者の前歴を気にしている節がそこここに見える。囲碁の対戦に前歴をどうのこうのいうこと自体が馬鹿ばかしいことなのに、口が先に出てしまう性格らしい。
 最近は特に口が悪くなって、人格問題まで口にするようになってきた。人権問題に発展する可能性のあることは口にしない方がよい。趣味を楽しんでいるのに余計なことを気にしないで欲しいと思う。負け惜しみの意味を考えて欲しいと期待する。
 それなのに私との対戦を待っている。それは将に傘碁の世界なのかもしれない。
 碁敵は憎さもにくし 懐かしし というところである。
 また、愛好会のメンバーの中には、新らしく入ってきた上段者である人と対戦をし、その人に勝つとあの人は弱いなどと言いふらす人がいる。これもよくないことである。
 入会時の段級位は自己申告であり、入会試験もないので申告時の段級位がそのままついてまわる。もちろん会には昇降段の基準がある。降段はともかく昇段は時々該当者が出る。
 ところで、25日に今まで勝ったことのない上段者の方と対戦して1勝1敗の戦績を残すことが出来た。その1勝は上段者の方の些細なミスを適切に対応したのがよかったらしい。2戦目は、8目負けになった。筆者のミスが2回も出てしまったことが原因である。筆者ももう一度勉強しようと思うが、その時間を作れないのが現状である。従って実践で勉強するしかない。次の機会にはがんばってみようと思う。


囲碁の話(7)「ライバル意識?」

2012年03月20日 11時15分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

 勝負事には、いつの間にか好敵手という相手が出来る。筆者がやっている素人囲碁でもそうである。土日に行っている町の囲碁愛好会には、通常25~30人ほどの囲碁愛好者が集う。その中で絶対にやりたくないという相手もいれば、目が合うといつの間にか対戦していて同人と何回もやってしまう相手もいる。

 筆者の場合は、同段者で何人かいる。そんな中の一人の方H1氏は、常に自分の方が上手だと思っている。それは勝手であるが、対戦すると初めは筆者の方が勝率がよく3回以上になると後は惰性で打つようになり、5分5分ほどで終了する。それでもH1氏は自分の方が上手と思っている。H1氏の特徴は、何しろ対戦中の口数が多いことである。それも相手をくさすような発言が多い。これはいけないことであると筆者は思う。

 先日は、筆者が上段者のO氏と打っていると、脇に来て、筆者の対戦相手にこんな弱い人とやるんですかなど口汚くいう。比喩を交えてやんわりといさめると、比喩の意味が伝わらず比喩に対してしつこく絡んでくる。

 ちなみにH1氏とO氏との対戦は圧倒的にO氏が優勢なのである。筆者とO氏との対戦成績は、記録をとっていないが恐らく5分以上に筆者の方に分があると思う。そのときの対戦では最後に逆転して筆者の勝利という結果になった。それを見てH1氏は、私にもこういう風に打って下さいなどという。これも失礼な言である。

 囲碁というのは智略を戦わすゲームだと筆者は考えているので、智に長けた方が勝利を収めるのは当然であろうと思う。智略を戦わすのはあくまで碁盤の上でのことであって口言ではない。といっても自分を反省するあるいは打った手を悔やむ発言は、プロの方でも口にすることがある。しかし対戦相手に関することは絶対にいわないのがマナーでもあろうと思う。

 ライバルというのは、相手と競い合うことによって自分を向上させることである。何が何でも勝つという相手をライバルということもあるらしいが、筆者はそのようなライバルを必要としない。

 


囲碁の話(6)

2012年03月10日 16時51分44秒 | 日記・エッセイ・コラム

 囲碁というゲームは、実力の世界だと思っている方が多いような気がする。しかし、そう思っている人でも負けが混でくると、今日は体調が悪いとか、寝不足だとかいう理由を口にする。はては、今日は縁起の悪い日だとか、ついてないなどという人もいる。そういっていた人が何かのきっかけで勝ち始めると、やはり俺は実力があるんだと思うようだ。プロの碁打ちの人は、いろんな人の棋譜を並べて勉強するようである。ただ並べるだけではないことは言うまでもない。

 しかし、アマチュアの人にとっては、初めから並べるだけでも大変なものである。アマチュアの有段者になるためには、自分の打った碁を初めから並べることが出来るようにならなければいけない、と先輩たちにいわれたものである。それを出来るようになった人は、筆者の知る限りは、たいてい五段以上になっている。

 それは、一局の打ち碁に、少なくとも1時間以上かけることがある。ときには数時間以上の場合もある。それは、自分がこう石を置くと相手がこう来る、そこで自分はこう打つというように、行って打つたびにその対応を数手先まで読むのと何通りも考えて、自分で最善と思った手を打つ。従って、最善の手を打ったので覚えることになるのだという。

 筆者らが日常的に打っている打ち碁は、せいぜい一局にかかる時間は三十分くらいである。だからなかなか強くなれないでいる。

 もう一つ、筆者の行く囲碁会は、土・日曜日の9時から17時まで会場が開いている。普通は、24,5人の人がやってくる。最近定年になって囲碁を始めたという方から何十年も囲碁を趣味にしてきたという人まで、中には若いときにプロをめざしたと言う人もいるらしい(噂話)。そういう雑多な強さ・年齢の人たちが教え、教えられて碁を打っている。囲碁を打っていると、惚け?防止になるとかならないとか言われるが、楽しい時間を過ごすことが出来る。


梅が満開です

2012年03月04日 15時52分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者の住む地域では、今梅が満開を迎えています。

 菜の花祭りが済んで少し暖かくなったと思ったら雪が降り積もりました。しかし、当地の雪は雨になると直ぐ消えてしまうような淡雪のことが多いようです。寒い日が来ると朝夕2時間ほどエアコンをつけますが、昼間はほとんど暖房なしで過ごすことが出来る温暖の地です。

 今年の花咲きは少し遅いようです。庭の蝋梅(ろうばい)はまだ咲いています。香りが強く少し離れていてもかぎ分けることが出来るほどです。自宅からJRの駅に向かう線路沿いの道路沿いに梅並木があります。歩いているといい香りがします。梅の花は桜のように華やいだ様子はありませんが、香りは強いですね。桜の花の香りは淡く控えめですね。それでもたくさんの木があると付近一体がいい匂いに包まれます。

 昔の人は、桜の花の散り際を潔いと言って、武士道に手本にしたくらいです。戦争中「生きて敵の辱めを受けず」といって、捕虜になるのを恥としました。そして、いよいよと言うときには集団自殺をしたと記録にあるようです。しかし、映画で見る欧米の兵士は、捕虜となっても脱出の機会を求めて、チャンスをうかがう様子が見られます。脱出したら、つぎはもっとうまくやるという決心を持っていたようです。最後の最後まであきらめると言うことをしなかったようですね。

 これは、民族の精神構造が違うためでしょうか。それとも宗教的な教えが違うからなのでしょうか。その辺のところを深く掘り下げると面白いかもしれません。

 さて話が少し変わりますが、占いを信じるかどうかについて男女間に相違があるのでしょうか。どなたか調べたかったがいましたら教えて欲しいと思います。筆者の感じでは、女性の方が占いに頼る人が多いように思います。筆者の知人の間でもTVでやっている占いの番組を見ないとその日一日が落ち着かないという方が多数いました。また、筆者の従兄は商売がうまくいかなくなると、必ず易断を依頼すると言っていました。

 日本人の宗教観は、一般的に言って”無宗教派”が多く昔の人が言ったような”困ったときの神頼み”という人が多いようです。

 宗教についてどうこう言うつもりはありませんが、........