寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

男の手料理(といえるかな?) (2)

2011年05月23日 16時09分28秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者は料理屋とくに小さい料理屋で食事をするとき、調理場が見える席があるとそこに座るようにしている。何故かというと調理師の包丁さばきを見たいためである。調理師の包丁さばきは調理人の個性が表れるという。筆者の興味は特に刺身を切るときの包丁さばきである。刺身を切る刃物は、さばく相手によって使用する刃物も変わってくる。調理人の中にはやなぎ刃という細身の少し長い包丁を使用する人がかなりの割合でいるようだ。包丁に水をかけ柄本をとんとたたくと水がスーと刃もとから落ちる。そして刃元の方から魚に入れる。刃を引きながら切り終わったら右に持って行き、右の方に並べていく。リズムをもってさばいているようで、芸術性を感じる。

 筆者が、大学で調理学実習という授業を受けたとき、履修者は20人ほどいた。そのうち女性は一人しかいなかった。残りの男性の学部別割合では、理学部が17人、残りは工学部の学生であった。ちなみに文系学部の者は一人もいなかった。女子学生が一人ということに、教員も驚いていた。それで、何故この授業を受ける気になったのかと聞かれた。運動部の学生が多くいたが、筆者も含めて ‘合宿時に食事当番になったときに役に立つ‘とか、‘就職して一人住まいをするようになったときに何か簡単なものでも食事の用意が出来ればいいかなあ思っている‘ ということが答えだったと記憶している。

*[高齢者は昔のことをよく思い出すことがある、しかし正確でないこともあることを承知していただきたい]。 教員にいい心がけだといわれた。ここでこの授業の担当教員について一言述べておきたいと思う。

 教員の姓は蜂谷リンという定年近い女性助教授であった。この先生は、明治時代若い頃ヨーロッパを周遊したという。ヨーロッパの各地でレストランに入り、そこの料理が美味しいと調理場へ行き材料や調理法を聞くというほど熱心に調理の勉強をしてきたという。また日本においても、有名料亭は言うに及ばず、美味しいといわれる店があるとどんなに小さい店にでも行き、自分で味を体験してきたという。蜂谷先生は授業の合間にいろんな料理の特色や、味について体験談を語ってくれた。それについては機会を作って別に書くことにする。

 調理学実習の授業では実習の前に、調理器具の種類や使用法についての説明、材料についての説明、そして調理の順序については調理をする前と、実習している最中に適宜指示してくれた。

 材料を下拵えするときに、何はどの刃物を使い、切り方はこのようになどと懇切に教えてくれた。この授業を履修したのは昭和33年頃のことであった。その頃は、刺身は刺身包丁というのを使った。これはもうご承知のことと思うが、細身の角形で片刃のものであった。蜂谷先生は、刃物は出来るだけ良いものを手に入れましょうといっていた。それは、魚のようなきわめて柔らかい肉質はよく切れるものを使わないと切り口がぎざぎざになり見た目にも美味しく見えない。肉などを切るときは、現在の筆者はヘンケルの肉用の歯形がノコギリ状の刃物を使っている。ヘンケルの刃物は20年来研がずに使っているが、非常に良く切れる。切り口もきれいである。また、刺身用には刺身包丁はほとんど使用しないで、もっぱらやなぎ刃包丁を使っている。それとカツオなど中型の魚をさばくときには堺の○○鍛冶という方の鍛造した出刃包丁を使っている。

 蜂谷先生のいっていた、調理のはじめは材料を切ることから始まる。そのためには質の良い包丁を揃えると料理することが楽しくなるといっていたのは、筆者の素人経験ではあるが事実であった。


男の手料理(といえるかな?) (1)

2011年05月21日 21時47分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 筆者は、料理と言うほどのものではないが、何か食べるものを作るのを趣味の一つとしている。とくと自分で得意分野と思っているのは、飛び魚とかイワシ、サンマ、アジなどのいわゆる青魚とか光り物とか呼ばれる魚を焼くことである。それと母親譲りの肉じゃがや天ぷらをあげることも得意料理といえるだろう。筆者の母親は江戸時代馬乗り武士のお姫様であったという。その人が明治維新でただの女性になってしまい、嫁入り前には料理の勉強をさせられたという。
 料理にはいろいろな諺がある。例えば餅は貧乏人の子に焼かせろとか、魚は金持ちの子に焼かせろと言うようにである。これにはなるほどという意味が含まれている。(今の世の中で、こんなことを言うと差別だとかなんだかんだと言われてしまうが、昔の人たちは子供に教えるときに卑近な例を使って教えたのである)。お金持ちの子は食べ物など無頓着なので魚がもう焼けたかどうかなど気にしない。しばらくしてみると皮が適当に焼けて網につかずにひっくり返せると言うことを言っているのだ。逆に餅の場合は、貧乏人の子はすぐにも食べたいのでもう焼けたかな、もう焼けたかなといってひっくり返す。それで、餅は焼けこげを作らずにこんがり焼けると言うことである。
 さて、筆者は、愛媛県の農家から季節ごとの柑橘類を購入している。5月のこの時期は文旦から晩柑へ移る時期である。この両者の甘みは、とてもスッキリしており、上品な味わいを楽しめる。ミカン、オレンジ系の甘みは少しきつい感じがするのと対照的である。愛媛の農家の方の話によると文旦などの甘み成分は果糖が中心であり、ミカン系はしょ糖が中心であることによるという。
 さて文旦は3Lサイズのものを購入すると、全体の大きさは、約15cmほどの扁平球になる。質量は5kgで8個位なので、1個ではほぼ600gである。しかしこの果物の特徴の一つは皮の厚さにある。厚いものでは、10~13mmほどもある。従って実の部分の大きさは12~13cmになってしまう。文旦の特徴は、新鮮なものより、少し皮が傷んで見えるようになると美味しさが増すとぴうことである。悲しいことに、その状態になるまで残っていることは少ない。時期の最中におおよそ20kgほどの文旦を妻と二人で食べてしまう。文旦の食べ過ぎで太ると言うことはなく、考えようによってはダイエット食品ということもできる。今、思いだしたのだが、若い頃に九州を旅行したときの思い出として、直径30cm位もある文旦を見てあまりおいしそうに感じなかった。ただし、文旦キャラメルというのはよく食べた。                 
  農家からのお知らせの紙に、文旦の皮を使ってママレードを作ってみませんかと書いてあったので、早速作ってみた。文旦の皮2個分に対してその質量の1.5倍くらいの砂糖を用意するとあった。皮の質量をはかったところ500g位あった。そうすると、砂糖は750gくらい用意することになる。これは少し多いと思って皮300g、砂糖400gで作ってみることにした。
 皮はよく流水で洗い、なますを作る要領で細削りにした。かなり柔らかくなるまで湯がいた。そして、3時間おきに3回ほど水を換えながら苦みを除き、弱火で煮込み始めた。皮がとろとろになったところで砂糖を入れ約1時間ほど豆火で煮つめて、火を止め。放冷後、適当な器に入れて冷蔵庫で冷やした。翌日、試食したところ、これがほんのりと苦みが残り、とても美味くできあがっていた。この量で1月くらいは楽しめそうである。料理というものは、おこがましいいいようではあるが、やってみるとそれなりにできることがわかる。娘に一瓶提供したら瞬く間になくなってしまったといってきた。
 今日知人に聞いたところ、砂糖はもっと少なくしても結構美味しいということだった.また砂糖は何回かに分けて入れると硬くならないということであった。後2個残っている文旦で再挑戦をしてみようと思う。


囲碁の話(5)

2011年05月12日 14時13分12秒 | 日記・エッセイ・コラム

 5月8日(日)に、囲碁愛好会の大会があった。48名の参加者が有り、参段以上のAクラス20名、弐段以下のBクラス28名に分かれて各人4回戦う棋戦である。1回戦は抽選で対戦相手が決まる。2回戦以降は勝者同士が対戦する。筆者は1回戦同段の方に中押し勝ち、2回戦同段の方に四目負け、3回戦同段の方に中押し勝ち、4回戦五段の方に2子置いて、筆者が序盤に勘違いしてそのまま中押し負け、結局2勝2敗に終わった。4回戦の対戦相手が4戦全勝だったけど同率の方がもう1人いて、スイス方式で計算した結果、2位になった。このスイス方式というのは、各回戦の対戦相手の最終勝ち数を合計して、その多少を比較する。こうして優勝者が決まる。2勝2敗の筆者は5位までには入らなかった。

 ところで、大会前日(土)とその前の日・土曜日には、全敗していた。というのは打ち込みの練習をしたために、無理をして打ち込みそれがことごとく失敗に終わっていたからである。何か新しいことに挑戦すると、新しいことに拘り周辺の石の配置に目が行き届かなくなる。その結果ちょっとしたミスが重なり石をとられてしまう。ここが筆者の未熟な所かもしれない。

 今回は、七、六段の方が優勝することはなかった。ここで思うのは、ハンデを付けて対戦するということである。プロの対戦は全て半でなしであるのがアマチュアの対戦と違う。プロ同士の対戦は、例え初段の人と九段の人の対戦でも、互い先で行うのが通常である。昭和時代には低段者が高段者と対戦することはほとんど無かったらしい。それは両者の間に大きな差が出来ていたからだという。現在は大手合いというのがあるかどうか不明であるが、昇段はタイトル戦に参加するか優勝することが条件になっているらしい。最近の対戦では高段者が常に勝利するとは限らない。それは若いプロの人は、碁の勉強法が変わったからといわれている。つまりコンピューターを利用する、あるいはグループで勉強会をするという勉強をしているという。アマチュアの囲碁好きな方、それが高段者(アマ)でも、プロの高段者に対してはもちろん低段者に対してもハンデの石を置いてもなかなか勝利することは難しい。この世界はプロとアマの間の差はなかなか縮小することはない。こんな逸話を聞いたことがある。八重洲口の囲碁会館でアマチュアに指導していたプロの方が、3面打ちをしていたという。アマチュアの方は中盤にさしかかって、それぞれ自分に分があると思っていた。そこへ受付の方が、プロの方に電話がかかっていると伝えた。その頃は今のように携帯電話はない時代であった。電話に出ると差し迫った用件が発生したので中断するとはいえず、どんどん碁を打ち進めて、3面ともアマがどうすることも出来ずに投了したという。これほどプロの実力が凄かったという話であった。

 筆者はまだまだ自分の未熟を知ることが出来たに過ぎないが、余暇を活用して囲碁の心を掴めるようになりたいと思うこの頃である。


東日本巨大地震(5)-福島原発関連-

2011年05月12日 12時15分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 福島原発事故は、巨大地震とそれによる津波の影響で発生した。ということを恐らく多くの人が認識していることだろう。そして被害が発生するかもしれない地震と津波の想定基準に甘さがあったことも認識していることだろう。このことに関しては残念でならない。筆者の最後に勤務していた団体の建物は、最高部分の高さが19.95メートルであった。その理由は、20メートルを超えると土台や構造部分の仕様ががらりと変わるという。そうなると建築費も相当増額になる。から限界ぎりぎりにしたという。

 ということで、福島原発の災害対策に関しても、恐らく似たような事情があったのではないだろうか。建設時の設計で、いろいろな災害対策の検討をしただろう。地震や津波のことも検討されたに違いない。そのとき想定される地震の大きさやそれに伴う津波の高さなども検討しただろう。そのとき過去の事例も種々引き合いに出されて検討したことであろう。建設地は突起部分のないほぼ直線状の海岸であることから津波はそれほど高く(5メートル以上に)なることはないと判断されたことだろう。地震についてもM8以上は滅多に発生しないと判断したかもしれない。これらが想定基準になったと想像する。

 このような検討がされて建設された(想像)。しかし、想定以上の事象が発生した.その結果、原発事故が発生した。その結果、放射性物質が拡散された。そのために付近住民が長年住み慣れてきた所から退去せざるを得ないことになった。住民は、大きな苦痛と将来への不安で心身に大きな影響を受けることになった。居住地から追われ避難生活を強いられることになった。そして住民のたっての願いで、5月11日2時間を限度に居住地へ一時立ち入ることが可能になった。この件についてまたまた行政というか政府というかいわゆる役所はヘマをやった。一時立ち入り者に、自分の意志で一時立ち入りするという承諾書?の提出を求めたという。これはどんな意味を持つのだろうか。悪意をもった解釈をすると、警戒地域への立ち入りはダメといったのに自分の意志で入ったのだから何が起きても自分の責任ですよ、と解釈するのだろうか。ここには人間としての優しさが微塵も感じられない。何故もっと人間らしさを表現できないのだろうか。例えば、警戒地域に入るのですから別書きの注意事項をよく読んで、行動には十分に気をつけて下さい。例えば放射性物質は目に見えないのでチリが積もっているようなものにはなるべく手を触れないようにして下さい。立ち入り後何か異常を感じたら直ちに申し出て下さい。出来る限りの対応をします。などという注意書きを手渡せば、立ち入り住民に役所の暖かさが伝わるのではないだろうか。いやこれも変かもしれない。

 ともあれ、自分たちの居住地を追われ避難生活を強いられている被災者への対応には、行政なり企業の心ある対応をお願いしたい。そして被災者の方々にはしばらく続くと考えられる避難生活で体調を崩さないように気を付けていただきたいと願っている。