寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話 ドイツ・ミュンヘンで エコ?(20140430)

2014年04月29日 10時12分46秒 | 日記・エッセイ・コラム

 ドイツ人は一般的に質実剛健主義のような気がする。地下鉄の車両の頑丈さを見てもわかるし、ホッホブロイハウスでのビールの飲み方でもわかる。前にも書いたと思うが、ハンガリーの友人がドイツ人の歩き方を見るとナチの軍人のようだと表現した。それほどメリハリのきいた歩き方をしていたのは事実である。
 ドイツではゴミ処理をどうやっているのだろうと興味を持った。ゴミの分別はかなり細かく指定されている。それとゴミを出さない工夫も進んでいるようだった。

    フランクフルトからミュンヘンへバス旅行したとき途中道路沿いの数カ所に小山が見えた。添乗員に何かの遺跡かと尋ねるとあれはゴミを埋めたところであるという返事が返ってきた。ドイツは平野部が多いので平地に深い穴を掘ってそこにゴミを埋め込むのだそうである。それで小山があちこちにあるのだという。
 町の景観にも相当な配慮をしているようである。

 私の友人(日本人)がミュンヘン工科大学へ留学したときの話をしてくれた。彼はミュンヘンでアパートを借りて住むことになった。ある日天気が良いので細君がベランダの手すりに毛布を掛けて天日干しを始めた。すると程なくして窓の下が騒がしくなったので下を見ると近所の人が数人集まって自分の方を指さしながら何か話し合っていた。直ぐに家主が部屋へ来てベランダの毛布を取り込むようにと言った。ミュンヘン(ドイツ)では干し物をベランダなど他人に見えるところへ干してはいけないんだと話してくれたという。
 ミュンヘンでの学会期間の休日を楽しんで市庁舎の付近を歩いたいると丁度正午になったようで市庁舎の塔の上の方でオルゴールのようなメロデイが聞こえた。見上げると塔の時計の周囲で人形がメロデイに合わせて踊りながらくるくる回っていた。これが観光案内に書いてあった名物だと納得した。
 近くの商店でお土産にボールペンを買うことにした。10本ほども買った。しかし、店員はそのままトレーに入れて渡そうとしたのでお土産にするから何か紙で包んで欲しいと頼むと店員は奥へ行って新聞紙を持って戻ってきた。新聞紙を適当な大きさに切ってボールペンを包みだした。1本3マルクもしたボールペンなのでもう少しましな紙に包んで欲しいと言った。すると店員は、どんな紙で包んでも使う人はその紙を捨ててしまうのだからこれで良いのではないかと言った。私は何となく納得してそのまま買ってきた。これがエコの基本かなと思う今日この頃である。


思い出話 音楽や映像世界では切り貼りは普通のこと(20140428)

2014年04月28日 12時37分30秒 | 日記・エッセイ・コラム

  切り貼り事件が社会を賑わしているが、切り貼りなんて作業は音楽のレコーデングや映画作りでは日常的に行われていることであるという話を聞いたのを思い出した。
  音楽録音は磁気テープが採用されるようになってから格段に改良されたという。ロウ盤を使っていた時代には、レコード制作は長時間がかかったという。こんな話を聞いたことがある。私の好きな歌手に近江俊郎という人がいた。彼が音楽学校を卒業して歌手になるとき、録音室で何回も何回も録音を繰り返し作曲家やデレクターのOKが出たのは最後のロウ盤でようやく録音が終了したときであったという。それがだめだったら歌手になれなかったと近江俊郎自身が何かの番組で語っていた。
 磁気テープが使用できるようになってからは繰り返し録音したテープを聞きながら瑕疵のある部分を発見すると他の録音テープの同じ箇所を切り取り入れ替えたという。その頃のアマチュアエアチェッカーは競って同型の装置を当時の金額で数十万円で買って使用していた。私の友人の一人もそんな趣味を持っていた。そしてしばしば自慢話を聞かされたものである。
 そのテープは毎秒38cmというスピードで録音したものなのでゆっくり再生すれば切り取る部分を正確に位置決めできたという。とはいえテープの切り貼り作業はかなり高度の技術であった。うっかりするとその部分が新しい瑕疵になってしまうので神経をすり減らす仕事だと聞いたことがある。私などは貧乏でその継ぎ接ぎテープを秋葉原の店で安く買ってきて使用したものである。自分でも試しにやったことがあるが中々上手くいかなかった。
 映画の撮影でも実際に映写される映画の数十倍もの長さの撮影フィルムを切り貼り編集して新しいフィルムに焼き直すのが普通だという。そのために記録係や編集者は大変な作業をするらしい。最新映像技術は知らないが、映画もデジタル化していて色合いやキズなどは例えばコンピュータ上で編集するという。
 このように切り貼りするのが当たり前の社会もある。それは作品を少しでも良くしたいという編集技術者の技である。


思い出話 図表の切り貼りをする目的?(20140425)

2014年04月25日 23時28分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 STAP細胞論文の切り貼りを問題にした理研調査委員長の井上俊輔上席研究員が過去の自分の論文でデータの切り貼りをしていたことが露見して委員長を辞任したという。理研理事長野依良治氏の苦悩が察せられる。井上氏は自分の論文で切り貼りしたことを認めたがデータに不正はないと主張している。それをどうやって証明するのだろうか。
  切り貼りでいろいろ思い出したことがある。私も図表に切り貼りをした経験があった。それは文章の中に誤字脱字を見つけたときのことである。誤字脱字や数字の書き間違いを見つけると文書全体を初めからタイプし直さなければならなかった。それが大変な作業だったので切り貼りをして訂正をした。
 半世紀も前のことであるが、昔はワープロとか図表作成ソフトなどはなかった。それで切り貼りした図表をコピーして使用したものであった。しかし明らかに切り貼りしたことが判別できるような”へま?”をすることはなかった。
 当時は切り貼りした図表をコピーすると台紙とコピーする用紙との境界に影が出来てしまい切り貼りしたことが歴然となってしまう。それを解消する技術?があった。その方法は簡単で2枚の用紙の境界線上にメンデングテープを貼るのである。そうするとコピーした用紙に影が映らなくなる。めでたしめでたしである。今はこのような方法を使わずにパソコンソフトで切り貼りをするのであるが注意しないと新しく貼った部分ともとの部分との間に色の濃淡が現れることがある。それをわからなくするためには少し違う技術が必要になる。それはここには書かないことにしよう。
 本題に戻ろう。井上氏の不正は無いということをどうやって証明するのだろうか。やはり調査委員会を作るのだろうか。それとも研究ノートを公開するのだろうか。
 なにごとでも一度信頼を失うとそれを回復することは大変である。日本の科学者の信頼が失墜したとは思いたくはないがこのような状況が続出する状態で科学者に不安を感じるのは私だけではないと思う。

 

医師の多忙を理解しているつもりですが.....(20140424)

2014年04月24日 19時51分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

 病院勤務の臨床医師の多忙さは気の毒に思うほどです。筆者が6週間ごとに通院している病院のA医師は、おそらく30代半ばから40代前半の年齢だと思う。 A医師は盛んに人間ドックでの検診を促す。あまり頻繁に促すので筆者は
「胃と大腸の内視鏡検査を1回の人間ドック受診で可能ですか」と聞いたところ、
「そんな贅沢は許されるはずがないでしょう」と高飛車に返事をした。筆者は年甲斐もなくその言い方にむっとして
「そんな言い方をすると新聞に投書されますよ」といってしまった。すると
「こんなに一所懸命に診察しているのにそんなことを言われるのは心外だ」という。
 このやり取りがあってからA医師の態度は何故か挑戦的になっているように感じることがある。
 筆者は、本当に新聞に投書するなどとは考えていなかったし、ただもっと他の言い方があるでしょうと言いたかったのだが伝わらなかったみたいであった。
 筆者がまだ現役の頃に勤務先近くの病院で毎月1回定期検査を受けている際に頭痛がひどかったので担当医師に相談したところ、人間ドックでは高額になるので診察と言うことで脳の検査をしたらどうですかと言われたことがある。喜んで受診した。またその病院では1泊コースの人間ドックで胃と大腸の両方の内視鏡検査をしてくれた。
 まあ病院には病院の方針があるのだろうと思うが、贅沢は出来ませんという言い方はおかしいと思うし、一所懸命やっているなんて言うのもおかしいと思う。ちなみに3月の定期検診で胸が重いと話したところ、A医師は2年間で初めて聴診器をもって診察をした。その際にも驚いたことにA医師は自分の聴診器を持っていなかった。
 そして循環器内科のB医師は非常に丁寧に診察してくれるのだが、やはり不満がある。それは、筆者の診察時刻は大体15時過ぎになる。診察して説明してくれる最中にいつも欠伸をかみ殺すのである。B医師は600回以上の経験があると言って内視鏡検査を勧められるのだが、血管へ内視鏡の管を入れて検査の途中で欠伸がでたらどうなるのだろうかと不安になっていろんな家庭の事情を話して内視鏡検査を辞退している。その代わりB医師は運動負荷検査や血管造影剤を注入してCT検査などをして下さった。結果としてしばらく様子を見ましょうと言うことになった。しかしその画像を見るとやはり内視鏡検査を受けた方が良いかも知れないと思い悩んでいる近頃である。


STAP細胞変事(2)(20140417)

2014年04月17日 23時28分35秒 | 日記・エッセイ・コラム

 報道による理化学研究所S氏の記者会見での発言に大きな違和感を感じた。S氏は一方で論文作成に関わっていながら論文を否定するような発言をし、論文の表現の悪いところは小保方氏の責任にする。他方でSTAP細胞の存在に疑問の余地はないような発言をする。まるである種の人たちが都合の悪い?ところは秘書の責任にするというのに似ている。
 もしかしたら世界的な発見に関する部分には名前を連ねておき、関与を残しておく。つまり次のようなことを考えてのことかも知れない。今回発表のSTAP細胞に関する論文(これにも違和感を感じているし、複数回の実験結果がきわめて一致しているとしたら再現性が非常に良いということかも知れない?)を否定して撤回した後で、再実験の結果STAP細胞作成が可能になったと新たに論文を発表する。つまりいいとこ取りをしようとしていると勘ぐることも出来ないわけではない。
 論文作成に関わっていながら、何故論文の内容について深い議論をしなかったのだろうか。共同発表者に名を連ねるなら、実験ノートを見たいというのは当たり前ではないだろうか。
 余談になるが、半世紀も前の話を思い出した。学会が近づいたある日、一人の大学院生が学会で研究発表をすることを講座担当のN教授にいった。N教授は、研究内容を全く知らずに
「私の名前をトップにしなさい」と言ったという。
「先生は研究の中身をご存じですか」と大学院生は聞いた。
「全く知らない」とN教授は言った。
「それでは先生はこの発表に責任を持てますか」と大学院生がいうと、      
「私の名前をトップにしないのなら私の名前を外しなさい」とN教授が言った。
 大学院生はN教授の氏名を連名にしないで学会で発表した。
 筆者はこの話を聞いたとき、大学院生に尋ねた。
「この研究はどこでどの費用を使って行ったのですか」
「この講座のここの設備を使用して行いました」と大学院生。

 私はそれ以上のことは言わなかった。この話には幾つかの問題点がある。
 初めに、N教授の氏名をトップに書かなくとも連名になっていればN教授の指導の下で研究をしたことは自明である。したがってなんか問題が発生したら私が責任を持つので私の名前を付けるなら最後のところに付け加えておいても良い、と 言うくらいの度量がN教授にはなかったらしいことがひとつ。
 次に、若い人がこれから社会へ羽ばたくとき主著者となる論文が業績として認められ、その内容が良いものならN教授の指導が良かったのだと評価されるのではないだろうか。だからN教授の氏名をトップに付けなくとも良いだろうと言うことがひとつ。
 そして、大学院生は何故N教授に研究内容について議論をしてもらわなかったのだろうか。大学院生の言い分はN教授の性格にも依るので明確なことをいえないのだが・・・と。
 この度のSPAT細胞の研究報告はこの大学院生の場合と全く逆のことである。研究は議論を重ねることによって内容が良くなるし研究者も自身を磨くことになる。もっとフラットに議論を出来るような状態であったら良かったと思い残念な結果にならなければ良いと思うのは筆者一人ではないだろう。


春過ぎて夏きたるらし若葉かな(20140415)

2014年04月15日 20時15分21秒 | 日記・エッセイ・コラム

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朝起きると太陽がまぶしいほどに輝いていた。早速カメラを持って庭に出る。

ヒノキ林の北側に萌葱色の葉が太陽の光を浴びてキラキラと目にしみるようであった。

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逆に咲き誇っていた桜がもう少し見て欲しいと最後の力を振り絞って花を咲かせていた。山桃の花も蜂が来なくなり、寂しそうに花を閉じ始めた。

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木々の小さな葉が空を隠し始めた。もうすぐ夏の日差しに変わる季節が到来を告げ始めた。

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花粉をまき散らせていた杉も小さな実を沢山付けていたが、どこか申し訳なさそうに雑木の新葉に姿を隠そうとしていた。

 


STAP細胞への期待?(20140411)

2014年04月11日 15時56分03秒 | 日記・エッセイ・コラム

 過日STAP細胞論文に関する理化学研究所の判断に対する小保方氏の記者会見が行われた。小保方氏がどのように説明するのかと興味があったので視聴した。
 ここで思い出したことを初めに書くことにした。私の文系学部にいた知人は、勤務先の大学学部で大学院を設置することになり、彼は大学院の教授になるためには業績が少々不足であると設置委員から指摘された。そこで彼は過去の出版物を切り貼りして別の書名の書籍に仕上げた。その結果、メデタク大学院教授になることが出来た。何故そのようなことが私に知れたかというと、古い著書の文書ファイルを開けないと相談されたからである。数冊分のファイルを切り貼りして別の書籍に仕上げたものを提出して、審査員の目をごまかした。そのような人が大学院教授になったとして学問に貢献できるとは私には思えないし、学生にものごとの正しい判断能力を教えることなど出来るわけがないと思う。
 小保方氏の論文でも図の切り貼りがデータ捏造とか不正行為と判断された。切り貼りの図を使用することを否定するつもりはない。しかし、過去の研究データ(出典明記が必要)のどの部分を切り貼りして新しいデータと並べて示し、新しいデータとどう比較したのかをきちんと説明する必要があった。それを怠ったので不正行為と判断されたのだと推察する。こうした表現が諸処出現したところにいろいろな問題が出てきたのである。そういう意味で小保方氏は論文の書き方を勉強していなかったのだろ。問題が出た後で自分が未熟だったとなどと弁解にもならない発言をするなら、もっと研究仲間で議論しなければならなかったことを反省し、他人の書いた論文を沢山読んでデータの扱い方、議論の仕方等々勉強して欲しいと思う。才能の有無は不明であるが、きちんとしたことを身に付けて研究する場を獲得して、研究論文を発表する機会に恵まれたら、その結果を見せて欲しい。 
  SPAT細胞の存在を云々することは現段階では判断できないが、少なくとも専門家でない方々に、実験ノートを公開したり、実験内容を詳細に説明するのはどうだろうか。私はこの件に関しては大きな疑問を持つ。国の費用(≒税金?)を使うのだから国民は知る権利がある。おそらくそれも正しいだろう。しかしその前に専門家による議論を徹底的に行うべきなのではないだろうか。
 理系志向の若い人が増加してきた矢先に今度のようなことがブレーキにならなければ良いがと祈る気持ちである。別な考え方をすれば、理科学研究について見直す機会かも知れない。
  私は近い将来、STAP細胞の存在およびその制作方法が実証されることを願っている。


Y.Kさん、お元気ですか(20140405)

2014年04月05日 22時42分08秒 | 日記・エッセイ・コラム

 お元気ですか。このところやや肌寒い日が続いていますね。体調はいかがですか。昨年はお加減が思わしくなかったとメールをいただきました。病状を改善する薬がないというのはおつらいですね。それでも陶芸に打ち込んでいらっしゃるという話を伺って申し訳ありませんがホッとしました。あなたの作品を拝見したいのですが一人での遠出は控えるようにという家族と医師の意見を無視するわけに行かないのが残念です。可能でしたら立体写真に撮ってメールで送って下さると嬉しいですね。
 6年前にお会いしたとき、あなたが案内して下さった無言館の印象は私の心の奥深くに残っています。
 太平洋戦争に兵士として召集された若い画家達の無言の叫びが聞こえるようでしたね。
 ある人は母親を思い母親に申し訳ないという感情を愛情を込めて描いていました。
  別の画家は恋人との切実な別れを込めた作品を残していましたね。あの絵に描かれている女性の姿は私には眩しく輝いて見えました。しかしわずかに陰のようなものも表現していました。
 可愛い幼い妹を描いた作品もありましたね。
 無言館には風景画が少なかったのを思い出しました。あの画家達の何人が帰還したのでしょうか。
  私は美術作品を見るのが好きです。外国へ行った際には必ず休日には美術館や博物館に出かけました。初めてパリへ行ったとき、ルーブル美術館へ3日間も通いました。そこでは若い画家達が模写をして勉強している姿を多く観ることが出来ました。次の思い出話にはこれらの印象を描いていきますので是非ご覧下さい。


思い出話「再現性について」(20140403)

2014年04月03日 22時09分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

 思い出話というのはふとしたときに出てくるものである。例えば前回書いたSPAT細胞に関する文章の中で、実験の再現性について書いた。数十年も前の話であるが、ある学会で某国立大学の著名なX教授の所の大学院生が、ある物質Aの分析法について発表した。方法自体はそれほど有効とも思えなかったが、データの数がいかにも少ないのでその点について質問をした。
Q  「物質Aの分析法としては特に問題がないようですが、データの数がきわめて少ないのは何故でしょうか」
A 「この実験は1回しかやっていませんのでデータの数がこれだけになります」
Q 「それではこの方法の再現性は検討されていないのですか」 

 この質問をした瞬間、X教授が私の方をにらんだ。と私は感じた。
A 「はい、やっていません」
 私はそこで質問を終了した。X教授ににらまれたからではない。この大学院生が再現性の重要性に気がついてくれると思ったからである。
 その後、X教授とは別の学会で会長と副会長の関係になったがこの件には触れることはなかった。

  別の嫌な例を紹介しよう。これも年度が違うが同じ学会での話である。関西の方の有名私立大学のY教授が代表になって研究結果を発表した。
 結果の整理が不十分で学会で報告するような内容ではなかった。報告が終わると数人の方が質問したいと手を挙げてた。
Q 「この研究結果について教えて頂きたいのですが。何故このようにデータがばらばらなのでしょうか」
A 「申し訳ありませんが実験は学生(4年生の卒業研究)がやったので詳細はわかりかねます」
 Y教授のこの姿勢は会場の失笑を買ってしまった。実験を学生がやったにしろ誰がやったにしろ、指導教授としてY教授が代表者として発表したのだから、Y教授に責任がある。そのことをY教授は認識していなかったらしい。何ともお粗末な話であった。
 このような話にはしばしば遭遇することがある。
 結論を付けることではないが、あるグループで研究をしたならグループ全員に責任があり、あたかも私は議論に参加していなかったし、研究費を獲得するために名前をお貸ししただけですから結果については責任を持てませんというような方がいるようである。こういう事態になってしまうと今後日本の科学研究の報告は非常に厳しい目で見られるようになるのは仕方がないだろう。


STAP細胞変事(20140402)

2014年04月02日 14時34分09秒 | 日記・エッセイ・コラム

 理化学研究所の若い女性研究者がSTAP細胞をかなり簡単に作成することが出来たと発表した。そしてマスメデイアに大きく報道された。多くの人々がノーベル賞へつながるかも知れないと大きな期待を持った。もし将来ノーベル賞受賞と言うことになれば、日本の女性研究者にとってこんな朗報はないだろう。とかく冷遇されがちな我が国の女性研究者の未来に明るい光になると私も期待した。
  研究者にとって研究成果を発表することは大変重要なことであることは誰でも知っていることである。理工系の研究の大変さは並大抵ではない。その一例を示すと、
 はじめに、研究テーマを選ぶために膨大な過去のデータを調べます。内容が自分のテーマに抵触しないことの確認をするためです。

 次に研究計画を作成する。研究協力者を探してその方の業績や時間の余裕を調べる。
 研究遂行に必要な研究費を獲得する(スポンサー探し)。
 必要な器具装置を使えるように予定を組む。
 もちろんこの間にもデータ検索を継続します。
 研究者間での研究に関する議論、そして研究結果を得る。もちろん結果についても十分な議論をする。
 アメリカなどの研究者はここで特許申請をするのが常識のようです。
 研究結果について通常では再現性試験をします。ここで結果が確定したら論文にまとめます。引用した論文には必ず引用先の書誌を明確にします。

 適切な論文誌に投稿します。

 
 論文誌の編集者はデータの信憑性を確認するため等の目的で同分野の研究をしている数人の査読者を選び論文を雑誌(論文誌)に掲載する価値があるかどうかを検討してもらいます。不審な点が指摘されると著者に質問し、必要ならば訂正を要求される。論文誌の編集者との議論が行われます。これには長い時間がかかることがあります。
 こうして初めて論文として掲載され、業績に登録される。計画してから長い場合には5年以上かかることは常識です。
  以上はほんの一例であるが、口頭発表してから論文にする作業になる場合もある。
 今度のSTAP細胞作成に関する報道によると、上記の過程の幾つかが脱落していたように思える。研究の内容に関して云々するほどの知識がないが、共同研究者間の議論が徹底されなかったのがこの問題が大事になった最大の原因ではないかと思う。
 理化学研究所の対応も少し不満がある。表面的な(論文のデータ捏造と指摘した)調査ではなく内容に関する検討もして欲しいと思う。つまり再現性実験を是非やって欲しいと思う。
 そして小保方氏は、研究の基本についてもっと勉強して欲しいと思う。一度発表されたデータは、引用したことを明記しないで使用すれば盗作になる可能性がある。データを間違えて発表すれば、直ぐに訂正等の処理をしなければ発表者のデータと判断される。これらのことは基本問題であり、怠れば研究者として認められないことになる可能性がある。
 可能ならば速やかに訂正論文を発表して欲しいものである。 再現性実験は誰が実験しても大差のないデータがえられる。これがその方法が普遍性を持つという重要な証明であることを肝に銘じて欲しい。そうでなければそのデータはたまたま何かの偶然でえられたと考えられても仕方がないことになる。
   小保方氏は自己改善すべき所は改善し、今後も研究者として力量を発揮して欲しいものである。多くの女性研究者があなたに大きな期待を持っていると思いますよ。